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最高善について

ギリシャ哲学では、万物の始まりをアルケーといい、万物の終局をテロスという。また、徳(良いこと)のことをアレテーという。プラトンはイデアという概念で万物を解釈しようとした。イデアのうちで最も価値のある者を「善のイデア」と言った。その教えはアリストテレスに受け継がれ、その著作『ニコマコス倫理学』では「最高善」が主要テーマになっている。端緒(アルケー)より発し、終局(テロス)へと至るということは、人間の一生もそうだと言うことができる。人が踏み行うべき道を倫理(道徳)というならば、人間は最高善(=幸福)というテロス(終局)へと至るべきだと言う結論に至る。仏教では最高善を「人格の完成」「知恵の完成」「涅槃寂静」と説く。アリストテレスは最高善を「快楽」と「愛(フィリア)」に求めた。わたしはこれら全ての善に「神」というものを付け加えようと思う。仏教による前述の三つの善は不可分のものであり、概略を示せば、「悟り」ということになる。これについては拙論文『解脱と悟りについて』を参照していただくとして、アリストテレスの「快楽」と「愛(フィリア)」について論述する。快楽主義で有名な人にはエピクロスという人がいる。その論とは異なる論をアリステレスは述べていたが、私なりに整理すると、快と苦はともに不可分になっているということである。欲求は5つあり、「食欲」「睡眠欲」「排泄欲」「衛生欲」「性欲」がある。これらの欲求の欠乏状態を満たすのが快楽である。これらの欲求は充足過多になると、苦しみへと変わる。例えば、「食べ過ぎ」「寝過ぎ」「排泄し過ぎ」「衛生し過ぎ」「性欲の満たし過ぎ」というものである。これらは有限界(有限)の快楽である。これに知的快楽および感性的快楽がある。学術や芸術がそうである。学術や芸術は無限界(無限)の快楽と言えるだろう。次に「愛(フィリア)」とは、相手を自分にとって必要だと見なし、同格であると能力を認め合うことである。社会(集住と分業を基礎とする集団)的動物である人間は自己同一性(アイデンティティ:自分が自分であると確認し、証拠立てること)を得るために他者から必要とされるように欲する子供は父や母から必要と欲され、この愛の形をアガペーとという。男は女を、女は男と好きになり、お互いに必要とし、愛するようになり、この愛の形をエロスという。これから「神」について論証しようと思う。わたしは、神を「大なる神」と「小なる神」、「外なる神」と「内なる神」という規定において考察しようと試みている。「大なる神」「外なる神」とは全知全能にして創造主の神、「小なる神」「内なる神」とは、自分自身および弱き小さき者に対する慈悲(愛:アガペー)である。「大なる神」「外なる神」とは一種の妄想であって、実際に存在を確証することはできない。しいていえば、拙論文の『正義について』で述べたタイムトラベルが可能な存在というしかない。(因果律を壊すことができる:原因と結果を変えることができる)「小なる神」と「内なる神」とは、神経という言葉から考えると、神経とは神の経路という意味であり、脳を中枢とする神経系の活動が自分なのであるから(拙論文の『自分とは何か?』で論証した)、自分=神=世界(宇宙)なのである。(自分が消えれば世界が消える)ここに「大なる宇宙」「外なる宇宙」と「小なる宇宙」「内なる宇宙」の一致を見ることができるのである。この「神」をわたくしは最高善の一つとして付け加えたいのである。