katabami.org

katabami.org

どっちでもいいということ

シェイクスピアの悲劇に『ハムレット』がある。この劇が悲劇となり、最後に関係者全員が死ぬことになる原因はハムレットはあの次のセリフに集約されていると思う。"To be or not to be.That is a question."これを福田恆存(ふくだつねあり)氏は「生きるか死ぬか。それが問題だ。」と訳している。僕はこの訳には不服である。僕ならば「そうであるか、そうでないか。それが問題だ。」と訳すだろう。『ハムレット』は主人公ハムレットが王である父を叔父(おじ)に殺されたのではないかということで苦悩するのである。つまり、ハムレットにとって「叔父が父親を殺したのか、そうでないのか。それが問題なのである。この二者択一が戯曲『ハムレット』を悲劇(トラジェディ)にしているのである。ハムレットが」「叔父が父を殺そうが殺すまいが、どちらでもいいや」と思えたならば戯曲『ハムレット』は一変して喜劇(コメディ)になってしまい、死人は一人も出ないはずである。英語で言えば、"To be or not to be.That is not a question."となるのである。簡単に言えば、現象や物体を"Yes・No"「1・0」に分けないのである。

僕は最近、講談社現代新書の紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読んで仏教の思想に少しだけ触れることができた。もしかしたら僕の思い違いかもしれないが、"Yes・No"、"1・0"に分割すること、もっと言えば、現象や物体を言葉として表した瞬間にそれはもとの現象や物体と異なるものとなり、不幸が始まるということらしい。言葉とは分割(グループ分け)なのである。僕たちは鉛筆(えんぴつ)と消しゴムというグループ分けをしている。そして、鉛筆と消しゴムと、それが置いてある机とを僕らは切り離して考えている。このように僕たちは言葉を使うことによってそれぞれの現象や物体を分割して切り離して考えているのである。仏教は言葉によって切り離して考える以前のものを見ようとしている。新約聖書のヨハネに福音書の冒頭は仏教とは正反対で、言葉を重視している。引用してみよう。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものはなったものは何一つなかった。」

するとこの世の現象や物体、人間の精神までもが全て言(ことば)で表すことができる。もっと言えば全ての現象・物体・精神がに還元され、コンピュータで処理できることになる。人間の精神を「1」と「0」に変換してしまえば、ハードディスクなどの媒体でも人間の精神が保存可能になり、人間は永遠に生きられる。この思想は映画「マトリックス」に通じている。映画「マトリックス」は現実世界とほとんど違いがない仮想現実である。ヨハネによる福音書の冒頭が正しければ「マトリックス」の世界や永遠の生命(いのち)が可能になるだろう。しかし、仏教、とくに『般若心経』の世界では言葉は否定的に扱われている。そこでは言葉は不幸の原因とされていたと思う。つまり、ハムレットは「1:叔父が父を殺した」「0:叔父は父を殺していない」の二者択一に陥(おちい)っているのである。まさに「1」か「0」である。仏教では「1」も「0」も超越しているようである。(あるいは「1」と「0」に分割される以前の世界を仏教は見ようとすると言ってもいいかもしれない。)だから仏教では「1」でも「0」でもどちらでもいいんじゃないかと思えるのではなかろうか。

しかしながら、このように「どちらでもいい」と思える世界は恵まれた世界であるのかもしれないとも思う。もしも右に行くか左に行くかの選択が「生」と「死」を意味するのであれば、動物である僕ら人間は本能的に「生」を取ろうとするだろう。ユダヤ教やキリスト教に属する民族が「正義」と「悪」をはっきり分別し、言葉による秩序の世界を構築しようとするのは、ユダヤ人やヨーロッパ人たちが苛酷(かこく)な自然環境で生きるために他の民族を殺害しながら生きてきた歴史と関係があるのではなかろうか。中東やヨーロッパに比べれば、インドや中国や日本は豊かな自然に恵まれてきたため、仏教のように「どちらでもいい」という寛容(かんよう)な思想が生まれたのかもしれない。戦国時代の日本で一時的にキリスト教が大いに流行したのも、危険と隣り合わせの当時、「生」と「死」というものがとても身近にあったためかもしれない。明治維新でキリスト教が解禁になったにもかかわらず、韓国でキリスト教やそれに類する新興宗教が流行(はや)ったのに比べて、キリスト教徒が日本で増えなかったのは、江戸時代三百年間の平和があったからではないかと思う。しかし、それで一概(いちがい)に仏教がキリスト教よりも優(すぐ)れているとか、劣っているとかというように考えるのは偏見であると思う。宗教は優劣よりはその民族に「合う・合わない」の問題だと僕は思う。

#宗教
#仏教
#同じ