前著、『解脱と悟りについて』で、述べた内容をもう一度、考えてみたい。仏教の修行の目標は、解脱と悟りである。死んだ後の世界がないとしても、死ぬのが怖くないと思えることが仏教の悟り最終段階である。仏道では、自我を離れる(解脱)ことが重要とされる。自我とは、自分が生きているということである。自分が生きていることに対する執着が消えると、自由が現れる。これが無明が破れるということである。無明が破れるということは、真っ暗な場所が、ロウソク一本の火でパッと明るくなる様子に例えれられる。死んでもいいと思えるためには、苦労をする必要がある。十分に苦労をすると、もう死んでいいという気持ちになる。悟れないというのは、単純に苦労が足りないということである。仏教の理想は、人格の完成、すなわち人格者になることである。苦労が多いと、人格が向上する。楽ばかりしていたら、人格は低いままである。苦労は、自分のための苦労(:精進)と、他者のための苦労(:布施)に分けられる。精進と布施を行うことで、神経系を高負担にすることが、人格向上には必要である。人格が高い人は、他者から好かれるが、人格が低い人は、他者から嫌われる。人格が高い人は、他者の役に立つが、人格が低い人は、他者の役に立たない。人格が高い人は、生きていくの容易だが、人格が低い人は、生きていくのが困難だ。万物は移り変わり、一定の形を持たない。このことを諸行無常という。こうあってほしい、こうあるべきだ、というのは、自分が生きている、すなわち、自我があるということから生じる。こうあってほしい、こうあるべきだ、というのは固定観念であり、執着である。この固定観念から自由になるためには、今を大切に生きる必要がある。過去の原因が今の結果である。今の原因が未来の結果である。こうあってほしい、こうあるべきだ、というのは、過去や未来に想いを馳せている状態である。自分がなんとかすることができるのは今だけである。今を生きることが、自我から離れる方法である。例えば、恋人から別れを告げられて、深い不幸を感じている人に、今のこの瞬間に、生きていて困ることは何か問えば、空腹や睡魔ということもある。今の瞬間に困っていることは、容易に解決することができることばかりである。食べればいいし、眠ればいい。しかし、似たような多く人が、食べもせず、眠りもせず、精神を病んでしまう。今から離れて、過去と未来のことをなんとかしようとしており、その心配は堂々巡りで無意味である。自我というのは、過去や未来に属し、今に属していないのではないか。自我というものは、実在ではなく、空想の産物ではないかという仮説を仏教は持つ。唯識という仏教の理論がある。世界は、あなたの脳を中枢とする神経系が外界との接触による活動によって生じた認識である。あなたの神経系の活動がなければ、世界は存在できない。あなたという観測者が、世界という観測対象を持つことが、あなたが生きているということである。あなたがなければ、世界はないし、世界がなければ、あなたはない。こうあってほしい、こうあるべきだ、と考えているのが自我であるとすれば、本当のあなた自身を自我と区別しないといけない。こうあるべきだ、こうあってほしいという自我は世界(外界)との接触なしに存在する空想上の虚偽の自分である。逃げ水を見て水たまりだと思うようなものだ。世界(外界)と共にあるありのままの自分が、真実の自分である。世界(外界)と共にある真実の自分は、今、この瞬間のものである。死んだ後の世界の自分は、未来の空想上の産物である。世界(外界)なしに存在する虚偽の自分は、過去や未来のものである。過去や未来に対する願望が、自我そのものである。知的生命である人間は、未来や過去に虚構の自分である自我を持ち、それによって、不幸が起こる。死んだ後のことは、未来に属する。未来のことを心配する自分は、世界なしに存在する虚偽の自分である自我である。幼少期の子供には、自我がない。彼らは今を生きている。テレビに映る難民キャンプなどで元気に走り回る子供たちには、自我がない。大人になると自我ができ、悩みなしにはしゃぐ子供達を苦々しく思う。今この瞬間を大切に生きることが、自我から離れることである。今、この瞬間の真実の自分を知るためには、自分のための苦労(:精進)と、他者のための苦労(:布施)が必要である。苦労によって磨かれた人格が、今、この瞬間の真実の自分という認識をすることができるのだ。これが悟りである。