SMAPの曲、「世界に一つだけの花」を聴いて、いろいろ考えた。かなりヒットした曲なので、知っている人は多いと思う。知らない人は、メロディーがないと、無味乾燥な感じがするので、やっぱり実際に聴いてみてくれると嬉しい。書き終えてみると、ずいぶん長くなった。これでも、まだ述べ足りないいことがあるのだけれど・・・。長くなってすいません。
人と自分を比べたがる僕としては、この曲には、心に響くものがあった。別に僕は、No1.になりたいんなんて思ってはいないけれど、人よりも自分のほうが優れていたいとは思っている。自分よりも優れた人に出会うと、尊敬の気持ちとともに、僕には軽い嫉妬の気持ちが起こる。でも、あらためて、「なぜ、人と自分を比べたがるの?」と聞かれると、たしかに、なんでだろう、と思う。人よりもカッコよかったり、運動ができたり、仕事や勉強ができたりすることがそんなに大事なことか、とあらためて問われると、「だって、人よりも優れているのはいいことじゃないか」と、答えにもなっていない答えをしてしまいそうだ。
自分よりもダメな人を見て、優越感を感じるなんて、最悪だと僕は自分では思っているけれど、僕自身そういうことが過去にあったし、今でもあると思う。また、自分が劣っていることを意識している時は、周りの人たちが僕に対して、優越感を感じているんじゃないかと疑ったりもする。そんなことは、本当は、ばかばかしいことなのかもしれない。だが、なかなかやめられない。
人の幸せとは、人と比較して決まるものではない、という人はいると思う。だが、医者や弁護士のほうが、タクシーの運転手や食堂のおばちゃんよりも、偉くて金持ちで幸せだ、と一般に人が思ってしまうのは、なぜだろう。「俺はそんなふうには思わん」という人は、なかなか人間の出来た人だろうと思う。
僕は、人には、持って生まれた能力の差というのがあるんじゃないかと思う。ちょっとコツを覚えるだけで、すぐにそのスポーツができるようになる人、ちょっと勉強しただけで、良い成績をとる人、異性にモテる顔立ちやスタイルをしている人、挙げればたくさんある。もちろん、努力に優る天才なしで、たとえ、素質があっても、努力して磨かなければ、結果的に、能力は発揮できないだろう。だが、素質のあるなしは、努力するという場合においても、努力のしがいのあるなしということや、やる気、に影響すると思う。素質があり、努力すればするだけ、能力や結果にどんどん反映するんだったら、努力のしがいがあり、やる気もますます出てくるだろう。反対に、素質のない人が、いくら努力しても、素質のある人には絶対に勝てないと自覚した時の落胆は大きいものだし、努力のしがいということでは、しだいに、ない、ということを感じ始める。そして、中には、やる気を失い、努力することをやめる人もいるはずだ。
僕は、バレーボール部に中学・高校時代6年間所属していたけれど、小さい頃から運動音痴の僕は、1回しかレギュラーになれなかった。一方、運動神経のいい僕の友達は、特に自主トレーニングをしているわけでもないのに、高いジャンプ力と鋭いアタックの技術を身に付け、常にレギュラーだった。同じ時間だけ練習しているのだから、これは不公平ではないだろうか。いくら、努力しろと、言われても、となりの人が軽々と結果を出しているのを見れば、自分が劣っていることを感じてしまうばかりである。ここで、もし、自分は人よりも劣っているのだから、人のやっていないところで、人の2倍3倍、練習やトレーニングをしなければいけないと思い、それを実行する人がいるとしたら、その人は、とても偉いと僕は思う。少なくとも、僕にはそれができなかった。
たしかにバレーボールを全くやったことがない人よりは、僕は少しはバレーボールはできるかもしれない。(とても自慢できるものではないけれど。)そういう意味で、努力することは、どんな場合にも決して無駄にはならないということは、ここでたしかに言えると思う。だが、僕は、大学に入ってから、またバレーボール部に入ろうとは思わなかったのだ。それは、やっぱり自分の素質のなさを自覚していたからだと思う。もし、中学高校時代に、バレーボールがもっと上手にできていたら、僕はバレーがもっと好きだったと思うし、大学に入ってからも、バレーボールをやったかもしれない。
素質以上に努力が大事だということはわかるけれど、素質もやっぱり大事だと思う。ややもすると、素質があってこそ、努力ができるということも言えると思う。そして、素質というのは、誰もが平等に持っているものではなくて、素質や生まれ持った能力はみんな不平等だと思う。
僕の場合は、スポーツよりも勉強のほうに素質があった。たいした素質じゃないけれど、人よりも勉強が苦にならなかった所が少しある。勉強と遊びとどっちが好きかと言われたら、遊びと間違いなく答えるけれど、勉強が大の苦手というわけではない。その点で、僕は恵まれていた。
人それぞれ、才能や素質が違うから、それぞれの人がそれぞれの素質を伸ばせばいい、ということを、この「世界に一つだけの花」という曲は、言おうとしているのかもしれない。しかし、だったら、世の中から全然、認められないところにしか才能がない人は、どうなるのだろう。誰もが、容姿や性格、スポーツや勉強や音楽、絵画、料理といった社会的に認められるところに才能があるとは限らない。そういった所には、全く才能がありませんという人はどうなるのだろう。容姿が悪く、性格も悪く、運動音痴で、勉強が全くできない、音楽も絵も料理も下手である。そういうふうに全てにわたって、社会的に不利な特徴を持った人は、どうなるのだろう。ドラえもんの「のびた君」なんてのは、その代表例だ。では、そういう人は、社会の中でつねに徹底的に不幸なのだろうか。だが、のびた君は幸せなように思う。ドラえもんという親友がいるし、のびた君のことを愛してくれているパパとママがいる。のびた君の先天的な能力のなさは、ドラえもんという友達や両親の存在によって、見事にカバーされている。もし、のびた君に、周囲に両親やドラえもんや友達といった人たちが全くいなかったら、かなり不幸だろう。そして、実際の世の中には、そういう人がいるのかもしれない。そういう人にはみんななりたくないのだ。
なぜ、人は、社会的に認められる高い才能を望んだり、高い能力を身に付けるために、努力するのだろうか。その理由には、百人いたら、百人の理由があるかもしれないが、共通して言えることは、周囲の人々から愛されたい、大事にされたいという欲求があるから、ということではないだろうか。性格や容姿が良ければ、友達や恋人から愛され、大事にされる。スポーツができたら、部活のみんなから頼りにされる。仕事がよく出来れば、会社から大事にされ、良い待遇を受けることができる。つまり、人よりも自分のほうが優れていれば、周囲の人々から自分が愛されやすくなる、ということを経験上、僕らは知っているのではなかろうか。
僕らは、人よりも高い才能や高い能力を持つこと自体を目指しているわけではなくて、その結果、人から優れていると認められたり、愛されたり、大事にされることを、望んでいると思う。もし仮に、運動神経が抜群に良くて、オリンピックに出れば必ず金メダルを取れるまでにトレーニングを積んだ人がいるとする。彼がもし、国家権力によって、差別され、「お前は、オリンピックに出場してはならない」という圧力がかかったとする。事実上、彼は、世界一の実力を持っているのである。ただ、彼は、そのことを社会において全く認められないのである。彼は、自分は世界一だと自覚するだけで人から全く認めらなくても満足だろうか。そんなことは考えにくい。やはり彼は自分の能力についてたくさんの人々の賞賛を得たいだろう。また、ある人が、超難関と言われる司法試験に合格し、弁護士になったとする。だが、悪い噂が流れて、全くお客がつかない、国も国選弁護人として雇うことを避け、全然、弁護士としての仕事ができないとする。それで、彼女が満足しているとは考えられない。いくら能力が高くても、人から必要とされず、愛されなかったり、嫌われたりすれば、意味はないだろう。それだったら、むしろ、全くの無能であるのに、自分を愛してくれる人たちに囲まれて生活する「のびた君」のほうが幸せかもしれない。
人から愛されるために、自分に高い能力を求め、他の人と自分を比較して自分が優れていることを確認して安心するのも一つの生き方だ。そして、実際、僕も含めて、そういう生き方をしている人は多いと思う。しかし、それは、なんというか、非常にギスギスした生き方のように思う。常に人より優れていなければならない、できれば一番であるにこしたことはない、さらには、絶対に常に一番でなければならないと思いながら生活するのは、とても疲れると思う。みんな、自分と人を比較しながらも、そのギスギス感を感じて生きているのではないだろうか。SMAPの「世界で一つだけの花」がヒットしたのも、そこら辺に理由があるのかもしれない。
では、人と自分を比べることをやめて、どうすればいいのか。「世界の一つだけの花」は、自分のことを「もともと特別なOnly one」と考えてみてはどうかと訴えている。世界に同じ人は一人としておらず、自分というのは、世界に一人だけしかいない、かけがいのない人間だから、もともと非常に価値が高いんだよと言っている。たしかに、そう言われてみれば、その通りのように思う。けれども、だったら、社会から見放されたようなホームレスの人たちに、「あなたも、世界に一人だけしかいないかけがいのない人間だから、とても価値が高いのだよ」と言ったとして、果たして彼らは、素直に納得して幸せになってくれるだろうか。僕はなれないだろうと思う。たしかに、自分という人間は世界に一人だけしかいないということは、彼らも納得するかもしれない。だが、彼らは、自分のことを価値の高い人間だと考えることはできないだろう。もし、自分の価値が高かったら、こんなホームレスの暮らしはしておらず、ちゃんと恵まれた環境で暮らしているはずだと思うのが自然だ。彼らは、人から大事にされていない、愛されていない。病気になろうが、怪我をしようが、誰も心配してくれない。いくら自分が世界でただ一人の人間だとしても、誰からも愛されなければ、不幸だし、自分を価値ある人間だと考えることは難しいと思う。
人から大事にされたり、愛されたり、自分の価値を認めてもらうことは、人が生きていく上で、その人が幸せになれるかどうかということを決定的に左右すると思う。誰からも愛されない人は不幸だし、誰からも必要とされない人も不幸だろう。自分の価値は、自分だけで決定することはできないと思う。自分以外の人から愛されたり、大事にされたり、尊敬されたりした時、僕らは誇らしげで安心した幸せな気分になる。自分の大好きな人から告白されたとき、僕らは幸せの絶頂にいるし、全国大会で一番になったとき、試験で満点を取ったとき、自分のことを誇らしく思わない人はいないだろう。
全くひとり、無人島や山で孤独に生きて、自分に誇りを持って生きている人もひょっとするといるかもしれない。その人は、とても強い精神を持っている人だろう。だが、そういう人はしばしば動物を飼っている。自分のことを好きでいてくれる動物たちがそばにいてくれるから、彼らはそれができるのかもしれない。もし、飼育しているペットも全くなしに、自分だけで生活して、自分に誇りを持っているとしたら、その人はとんでもなく強い人間だ。そんな強い人間だったら、苦労はしない。そんな強い人間を目指すことも、ひとつの方法だろうが、それはほとんど不可能に近いことではないだろうか。その人は、人間を超えていると思う。
普通の人が、普通に幸せになるためには、自分のことを愛してくれる家族や、友だちや、恋人、自分に居場所を提供してくれる職場や学校などが必要だと思う。そういった自分を愛してくれる人や、自分を保護してくれる場所は、何も努力しないで、もとから持っていることもあるし、努力しないと、手に入らない場合もある。努力して手に入れないといけないとき、僕らは、自分の能力を磨いて、時にはそれを人の能力と比較したりする。また、自分を愛してくれる人たちや、自分を保護してくれる場所そのものを、人のそれと比較することもある。「私はあの人よりも魅力的な彼氏と付き合っている」とか「俺はあいつより社会的な評価がある給料の高い職場で働いている」などは、その例だ。でも、所詮、そういう人との比較による優越感、幸福感はむなしいものかもしれない。そういうのにこだわっている人は、僕も含めて、人間的に幼い人ではないかと思ったりする。自分に自信がなく、人と比較することでしか、自分の幸福を感じられないのだから。
「世界で一つだけの花」の曲中に、「この中で誰が一番だなんて、争う事もしないで、バケツの中誇らしげに、しゃんと胸を張っている」という歌詞がある。「バケツ」という言葉から、想像するのは、ごくつまらないもの、ということではないだろうか。ごくつまらないバケツの中で、自慢のきれいな花を誇らしげに咲かせているわけである。そこからさらに連想していくと、ごくつまらないと言われてしまうような社会的地位にいるのに、自分自身や自分の仕事に自信と誇りを持って、日々の生活をしている人たちのことが思い浮かぶ。そういうお兄さんたちやお姉さんたちのほうが、社会でエリート呼ばれていても、自分の地位や名誉や世間体にこだわって、人と自分を比較することでしか自分の幸福を測れないような人たちよりも、実は、ずっと、さっぱりしていて、大人びており、美しいのではないかと僕は思ったりもする。僕らは、社会的なエリートに憧れるけれど、彼らが成熟した人間であるとは限らない。もちろん、エリートには成熟した立派な人がいる。だが、世間知らずの幼い人間である中途半端なエリートもしばしばいると思う。そういう幼いエリートよりも、社会的には評価の高くない仕事をしていても、人の痛みや、苦しみや、弱さを知っており、思いやりをもって、人と接することができる人のほうが、本当は、ずっと魅力的で美しく、ずっと一緒にいたいと感じる人だと思う。
人と自分を比べずに、自分に自信を持って生きていくことは、今の僕には、なかなか難しいことだけれども、将来的にはそれができるようになりたい。もちろん、僕は、エリートに憧れるし、エリートになりたいとも思っている。だが、それが本当は、それほど重要なことではないということを、いつか心と身体で理解できるようになれればいいなあと思う。しかも、それが、エリートになれない人のひがみとして理解することではなく、自分と人に偽りのない正直な気持ちとして理解することになるように。「世界に一つだけの花」から、ずいぶんいろんなことを考えさせられた。