魔術を利己的、宗教を滅私的であるとベルクソンが評していた。言葉を変えれば、魔術は私的、宗教は公的であるということになると思う。日蓮宗の経文に「家門繁栄」「万民安楽」といった文言が入っているが、いわば「宗教」の段階になってもなお、俗人は、宗教に魔術的な要素を求めることの表れであろう。仏教は英語で「buddhism」であり、宗教(religion)ではなく「主義(ism)」という扱いを受けているが、日本では、阿弥陀如来、大日如来というように、信仰という宗教(religion)の形になっている。原始仏教が、魔術・信仰のたぐいを否定していたことはあまりし知られていないが事実である。仏教が大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)に分かれ、日本の大乗仏教は、空海の真言宗を代表とした呪術的な要素が大きな宗教となってしまった。ここに主義(ism)ではなく信仰宗教(religion)としての仏教ができてしまったのである。真言密教はヒンドゥー教の呪術的な傾向を仏教が取り入れた結果できた宗派であり、当時としては最先端の仏教であったという。
魔術(呪術)の奥にひそむものは、個人もしくは一定集団の欲望(怨恨を含む)である。救いとしての宗教として、キリスト教と仏教は、欲望を否定的に扱っている。キリスト教では、愛は欲望ではないとしている。アリストテレスの分類に寄れば、フィリア(友愛)、エロス(性欲)、アガベー(無償の愛)のうちの、アガペーがキリスト教における愛であり、親が子に注ぐような愛の形である。個人的な欲望がなぜよい結果をもたらさないかということについては、キリスト教、仏教ともに雄弁である。キリスト教は、愛を与えること、仏教は欲望をコントロールする、もしくは正しく認識することに重点を置いている。であるから、足が動かない人を、動けるようにしたり、死人を復活させたりするキリスト教は多分に魔術(呪術)的である。(そのかわりキリスト教の奇跡は良い「魔術(呪術)」に限定される)仏教における欲望のコントロールと欲望の認識は、欲望を動物的なレベル、すなわち、今のこの一瞬の必要な欲に還元して考え直すことから始まっているのである。