「あらゆる存在は空である」という、いわゆる「空観」の帰結。
不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去(ふこ)
『華厳経』の一番の核心。三界は虚妄である。世界は迷妄である。それはみんな心の所産によるのである。この場合の三界とはわたしたちの生死の世界、苦悩の世界、凡夫の世界のことである。
物質のみが存在する神々の世界と淫欲などで垢れた神々の世界の下に、須弥山を中心にして日月がめぐり、七山八海があって、鉄囲山(てっちせん)がとり囲んでいる世界を「一小世界」とし、それが一千集まっているのを「小千世界」、小千世界が一千集まっているのを「中千世界」、中千世界がさらに一千集まっているのを「大千世界」とする。このように小中大三種の千よりなっている一つの大千世界を、「三千大千世界」と呼ぶ。これが仏の教化の及ぶ範囲である。
修行の道を進む者が「見道」にはいったとき「から、「貴い人(聖者)」と呼ばれるのは上述のとおりではあるが、その聖者は四つの段階に分かれる。預流(はじめて法の流れにはいった者)、一来(一度だけこの世に還ってくる者)・不還(もはや二度と欲界に還らない者)・阿羅漢(供養を受けるにふさわしい者)である。これをふつう四果と呼ぶ。
布施(完全な慈善)・持戒(完全な戒律)・忍辱(完全な忍耐)・精進(完全な努力)・禅定(完全な瞑想)・智慧(完全な知恵)
経や律が「何を為すべきか」という問いに対する直接の答えを用意するのにたいして、論は、そうした問いにたいする仏教哲学とでもいうべき性格をもっているのである。
経:スートラ、すなわちアーガマ
律:ヴィヤナ
論:アビダルマ
声聞:僧院の出家者・ブッダの教えを聞く弟子
独覚:ひとりきりで瞑想して悟る、孤独な聖者
縁覚:ブッダに直接に師事はしないが、十に縁起を観ずることによって悟りを開くこと
老・死の原因を次第に追及することによって認められる十二項の因果系列。
1.無明(迷い)
2.行(生成のはたらき)
3.識(認知)
4.名色(個体存在)
5.六入(六つの知覚の場)
6.触(知覚経験)
7.受(感受)
8.愛(欲望)
9.取(執着)
10.有(生存)
11.生(誕生)
12.老死(老いと死)
地下の世界には(1)「地獄」の生活がある、地表の世界には(2)「餓鬼」と(3)「畜生」と(4)「人間」の生活がある。天界には(5)(天人・天女、すなわち天の神々)の生活がある。
「四生」とはそのように有情が輪廻して色々な境涯に生まれ出る、その生まれ方の種類を分けたのである。胎生、卵生、湿生、化生の四をいう。
欲界・色界・無色界→「欲」とは生物の本能的欲望のことを考えて良いであろう。そこで、欲界は、そのような本能的な欲望が盛んで強力な世界という意味に理解される。「色」はいろではなく、いろ、かたちを持った物質的存在の意味であるから、色界とは物質の世界に相違ない。ひとしく物質的世界ではあるが、その中で、ことに本能的欲望が盛んで強力である所を欲界と呼び、それほどに欲望が盛んでない所を単に色界と呼ぶわけである。無色界とは、文字どおり「色」の無い世界、物質の存在しない世界である。
外界の存在も心も生じた瞬間に滅するという刹那滅論を主張した。知識の発生する瞬間には、外界の対象はすでに滅してしまっている。したがって、外界の対照そのものが知覚されることはない。知覚されるのは、外界の対象が知識の中に生ぜしめる形象である。知識はこうして自らの内部にある対象を知るのであるから、その認識は知識に他ならない。
さとりの境地に至った羅漢(らかん)が肉体を持って生存しているかぎり、彼は「有余依涅槃」にあるといい、肉体が死滅したとき「無余依涅槃」に入ったといって区別する。
「渇愛(もとはのどの渇き)」があるにより苦があるのであり、「渇愛」が生ずれば苦が生ずるのだという。それが、「こは苦なり」(集諦)という「第二の命題の内容をなすものであった。
三界・五(六)趣・四生という有情の輪廻的生存の種々相対は何によって生ずるか。アビダルマ論師たちは明言するーそれはその有情の行為(カルマン、「業」)のいかんによるのである。いわゆる因果応報である「善因善果、悪因悪果」ということである。アビダルマ的に厳密に言えば「善因楽果」「悪因苦果」と言う。
「すべては無常である。無常なものは苦である。苦であるものは無我である」
(一)すべては時と共に変転し隆替(りゅうたい)し常のないものである。
(二)それを正しくそうと理解せず、いつまでも変わらぬものと考えて、そのことに執着するところに感受されるゆえんがある。
(三)そのように全てが無常であり苦であるところに常住不変なわれという生存の主体を考えうるはずがない。
色(物質)受(感覚)想(表象)行(意思)識(意識)
五蘊:色・受・想・行・識
十二処:眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法
十八界:眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
煩悩とは、本来は文字どおり「[心を]煩(わずら)わすもの、[心を]悩ますもの」の意味であるが、「[心の]けがれ、よごれ」の意味にも理解されている。
無知は煩悩の代表である。期待すべきでないものを期待し、意識すべきでないものを意識するところに煩悩による業(ごう)がある。その結果は苦である。無知を離れて無常を無常と知り無我を無我と知る正しい知恵を得ることによって、人間は煩悩の拘束から解放される。それは凡夫の平常底を打破してさとりの領域に入ることである。
正見:人間の基本的立場に関する所見の正しさを意味する
正思惟・正語・正業:人間の身・口・意におけるいとなみの正しかるべきことを意味する
正命:命とはなりわいを意味する。正しい生業(なりわい)に従事することの要求である
正精進・正念・正定:修行のしかたに関する項目である。努力と憶念と集中の正しかるべき要求である
正しさのその第一の条件は、「妄見を離れる」ということである。妄見とは、あるがままに対象を見ていないことである。覆われてあり、あるいは掻き乱されてあり、あるいは先入見に捉われてあるがゆえに、事物の真相をあるがままに見ることだできない。それが妄見であって、それを離れないかぎりは「正見」は成立しない。「正見」のない所には「正道」もあり得ないのである。その第二の条件は「顛倒を離れる」と言うことである。顛倒とは、大小、本末、美醜、苦楽などの関係をとり違えることである。第三の条件は「極端を離れる」ということである。
正見:正しい見解
正思惟:正しい決意
正語:正しいことば
正業:正しい行為
正命:正しい生活
正精進:正しい努力
正念:正しい思念
正定:正しい瞑想
苦諦:こは苦なり「人生のすべては苦である」
集諦:こは苦の生起なり「その苦は煩悩に由来する」
滅諦:こは苦の滅尽なり「煩悩の止滅が苦の止滅」
道諦:こは苦の滅尽に至る道なり「それに至るは道の実践による」