トリスタンとロイスとナディの一行は、ドンバ王国の関所に到着した。秋口のことであった。関所に立ち寄った訳(わけ)は、ドンバ王国への通行証を得るためである。ドンバ王国について、いくらか説明を試みたい。
ドンバ王国の発祥(はっしょう)は、カリオン王国よりも二百年早い。ドンバ王国の成立と、ドラゴリス教の発生には関連がある。ドラゴリス教はドンバ王国の辺境、ベラストで創始されたという伝説がある。伝説と記した理由は、確(かく)とした根拠がないためである。ドラゴリス教は自然発生的な宗教で、創始者というものがない。ベラストには、《神の井戸》があり、この井戸の底から、ドラゴンたちが、天へと飛翔したと言われる。エルフとの最終戦争の際の出来事とされる。神の井戸の直径は、三十二メルト(約二十五メートル)である。この井戸は、パンジャブ石器時代からあるので、元は古代祭儀に使われたものであるらしい。ドンバ王国の主産業は鉄器生産である。ドンバ王国の王家ドマルト家の祖先は、鉄生産に関わる技術者集団と、ドラゴリス教の古代巫女たちの婚姻に遡(さかのぼ)る。鉄生産技術者は、巨岩を神として崇(あが)める集団であったが、ドラゴリス教の古代巫女との婚姻を通じて、次第に、元の信仰を捨て、ドラゴンを崇めるようになった。ドンバ王家は謎めいた伝説を数多く持つ家系である。一部、精神病の傾向を持つ親族もおり、その親族は特に呪術の力が強いという。ドンバの主食は、米である。稲作は、石器時代から続く農業であり、陸稲(りくとう)から水稲(すいとう)へと移ったのは、鉄生産技術集団が定着して以降のことである。この鉄生産技術者が何処(いずこ)より来たのかは、定かではない。一説にはエゴルディア大陸以外の所から来たとも言われる。また、ドンバ王国は、湿潤温暖(しつじゅんおんだん)な気候のため、農業生産が盛んである。野菜から穀類、果物に至るまで、エゴルディア大陸の畑と呼ばれるほどである。
トリスタンたちが通った関所は、名前を《ガリスの関所》という。通行証は、木製で、ドンバ王家の紋章が彫り込んであった。
「これで、ドンバのどこにでも行けますよ」
「そうなんだね。王都イスファまで、後どれくらいなのかな?」
「あと三日くらいでしょう。宿屋も充実していますよ」
ガリスの関所を通ってから、犬のナディの調子がすぐれなかった。ロイスが心配していた。ロイスは、山賊の気配がすると言っていた。ナディは、危険を察知する力を持っているという。果たして、山賊が三人現れたが、ロイスの活躍で撃退できた。トリスタンも応戦した。怪我はなかった。
王都イスファに到着した。イスファの街並みは、黒の屋根が続く風景であった。高い塔が二個立っていた。人々の髪は黒く、肌は褐色、目も黒かった。女性は、髪を結い上げていおり、男性は、首もとで髪を結んでいた。
「思っていたより面白い町だね。イスファは」
「そうですね、もうすぐ夜ですので、食事に行きましょう。遊郭(ゆうかく)も行きませんか?」
「行ってみようか」
二人と一匹は、赤い提灯(ちょうちん)が架かっている《ゴイマナト》という料理店に入った。食事は、定食で、生鯛(なまだい)の刺身、緑豆スープ、焼き魚、ご飯、梨(なし)であった。 酒は米で出来ていた。
「この酒、美味いな。初めてだ。ロイスはどう?」
「わたしも好きですね。パンクロイド(前述した三国合同の武術大会)の時は、いつも来るんで、だいぶ慣れてますがね」
「カリオンのボリジス家と、ドンバのドマルト家は、仲が悪いんだよね。どうして?」
「ドラゴリス教の宗教的実権を巡って、二百年前に争って以来ですよ。勉強しませんでしたか?ドラゴリス教の中心は、元々ドンバだったんです」
「あぁ、そうだったね」
トリスタンとロイスは、遊郭(ゆうかく)に行くことになった。ロイスの思い出を記してみよう。ロイスは、二十歳の頃から、パンクロイドで賭けをしだしたが、その時に、イスファの遊郭に通うようになった。イスファの《遊郭ルイツァ》は、トラント河の中洲に位置している。高級女郎のコムネート、並女郎のユイスマがいる。ロイスは、ユイスマしか識(し)らなかった。女郎たちは、押し並べて、苦労していた。幼女の頃から売られたのもいる。芸を仕込まれる女郎は、コムネート、単に男と寝るだけの女郎がユイスマである。食事だけ、コムネートと一緒にするのもいる。ロイスも、コムネートと一緒に食事をしたことが何度かある。数奇人(すきびと)と呼ばれる趣味人が最も尊ばれるのが、遊郭ルイツァである。 数奇人について、幾(いく)つか述べてみよう。数奇人の特長は、「いき」であることである、「いき」とは、女や男を酔わす魅力、俗世のカネや名声に対する潔さと執着しない心、人生に対する一種の諦(あきら)め、である。
トリスタンとロイスは、夜半になって、遊郭ルイツァに来た。トリスタンはユイスマとは会うには会ったが、逢わなかった。トリスタンは童貞主義であった。結婚してからでないと、SEXしないと決めていたからだ。トリスタンの相手はコルマという名であった。(僕は全体に内気である)(美姫(びき)を前にして、いささか躊躇(ためら)い)(良香(りょうこう)は汝(な)が髪から)(汝が胸の膨らみが)(温かな身体の)(秘めたる汝が恥じらい)(接吻(せっぷん)の味は甘い)ロイスはというと、二人のユイスマを呼んで、三人で衾(ね)た。
翌朝、ルイツァの宿屋から二人と一匹は出立した、イスファの見物に行くことにした。ナデイはいつになく元気である。空は快晴であった。食料品の市場である《コムト市場》に向かった。コムト市場は、魚、肉、野菜、果物、穀物など、食品なら何でも売っている。りんごを手に取って、かじってみた。トリスタンの口の中で甘酸っぱい汁が広がる。豊かさというのは、結局、このようなものであると考えた。日の光を浴びて育つ植物、それを食す動物。豊かということは、多種多様ということに他ならぬ。美味(うま)そうな豚肉、新鮮な魚、太陽光で透(す)き通ったガラス瓶(びん)の中の黄金色のオリーブオイル。トリスタンは、昔読んだ農政書を思い出した。国の根本は食糧生産である、とあった。食料の価格が低ければ、物価全体が下がる。その意味で、ドンバは豊かな国であった。昼飯時になった。二人は《麺屋トス》に入り、鳥だしで作った汁そばを食べた。具として、海老や人参や白菜が、椎茸が入っていた。麺は米でできていた。茶は、茶色く濁(にご)っていた。
トリスタンとロイスとナディは、夕刻になってようやく、ドンバ王家の外来者受付《クリオスの館》に行った。オルロンの槍探し人員として、二人は、記帳簿に正式に登録された。受付けたのは、ドンバ王家近衛師団の書記官だった。記帳後、《ドラストの聖堂》に参って、成功を祈願した。ドラストの聖堂は敷地が正方形であり、ピラミッド型の屋根を持っていた。祭壇の奥にはステンドグラスがあり、日光が差し込むようになっている、石と木材で組み立てられた重厚な建物である。このような建築式を、ロスマ様式という。二人は入り口にナディを繋(つな)いで、聖堂の中に入っていた。ドラゴリス教の祭司は、黒い裳(も)を着ており、銀の冠(かんむり)を頭に載(の)せている。聖鈴(せいれい)を鳴らして、ドラゴンの霊を呼び出し、典礼に従って祈願を行う。モンス香が焚(た)かれ、あたりがローズマリーの香に包まれる。祈願は約半時ほどかかった。最後に、契約の徴(しるし)としてドラゴンの聖水を、トリスタンとロイスと祭司の三人とも口に入れて、飲み干した。
聖堂を出て、宿屋に泊まった。夜中にまた雨が降った。二人と一匹は寝所(ねどこ)で一つとなっている。ロイスは手持ちの地図を広げて、トリスタンの今後のことを説明している。ランプの灯火(ともしび)がゆらめく、黒輪の誉れとの接触が必要と判断された。黒輪の誉れについてはあまりにも無知であったので、手当たり次第に噂話を集めて見ようということになった。冬になる前に、ある程度の目度をつけたかった。ドンバ王家であるドマルト家に接点を持ってはどうかというのがトリスタンの意見であった。ロイスによると、それは正しいが、紹介が必要にあるということだった。ドマルト家は、イスファの中にある《ゴリアマ城》に居を構えていた。衛兵はざっと五十人は下(くだ)らない。他にも八千人の常備軍がいる。ロイスは、ドンバ王家に、トリスタンの親族はいないのか、と尋ねた。基本的なことだが、重要なことだった。トリスタンは父、グレオスに手紙を書くことにした。エゴルディア大陸の人間の居住する地域には、《ロンコイ逓信庁》という共通の手紙や小包みを運ぶための団体があるので、これを利用する。返事が返ってきたのは、二週間後であった。グレオスによると、イスファにあるデマストス騎士修道会の修道院に、グレオスとかつて仲の良かった修道士がいて、名をトルホンと言うらしい。仲がいい理由は、武器の受け渡しの際に、ちょっとした手違いがあったのがきっかけであった。グレオスは盾をサービスした。その当時、トルホンはカリオン王国にいたのだ。イスファにあるデマストス騎士修道会の修道院は、トラント河(かわ)の北東に位置していた。早速、訪ねてみると、一日目は留守だった。その三日後に、会うことができた。
「あなたが、トリスタンさんですね。トルホンです。デマストス騎士修道会へようこそ。オルロンの槍をお探しとのこと。何か役に立てますかな?」
「ドマルト家に接点を持ちたいのですが」
「ドンバ王家ですね。この修道院の何人かはよくゴリアマ城に通っています。同行すると良いでしょう」
「黒輪の誉れについて何か知っていますか?」
トルホンの顔がビクリと動いた。
「えっ、何ですと?」
「プニウマの宿屋の主人が、オルロンの槍と関係があると行っていましたので」
「名前は知っていますが」
「プニウマの宿屋の主人の父親は、オルロンの槍の在(あ)りかを知っており、黒輪の誉れの一員(メンバー)である母親に殺されたのです。黒輪お誉れは、ゴルムント教系の秘密結社で、オークとの関係が深いようです」
「よくご存知ですね。しかし、それを私が知って何になりましょう」
「とにかく少しでも手がかりが欲しくて」
「お話はこれくらいにしませんか。忙しいので。ゴリアマ城に一緒に行ってくれる修道士を教えますから」
「そうですか。ではお願いします」
トルホンは、黒輪の誉れについて、もっと知っていそうだった。怪しいな、というのが二人の胸中(きょうちゅう)であった。トリスタンとロイスとナディは、ひとまず修道院を後にした。ドマルト家との面会は、明後日ということになった。トルホンの様子から、黒輪の誉れが、思っていたよりも重要であることがわかってきた。ドマルト家の居城、ゴリアマ城は、山城で、要塞城である。堅固な守りは、ドマルト家を何度も外敵から守ってきた。城の中庭には、《ドラゴンの磐座(ばんざ)》という巨岩がある。この場所に城があるのも、この巨岩が元からある場所だったからだ。一説によると、この巨岩には、かつて、黒龍ドリスカルドが降り立ったという。
ゴリアマ城の入口に朝方ついたトリスタンたちは、少し待っていると、デマストス騎士修道士に出会った。トルホンから話は聞いているということだったので、城の中へ案内してもらうことになった。城は石造りで、ひんやりとしていた。衛兵が四人、門付近で直立していた、王との面会もできるかもしれなかった。城の中は、一見簡素なようであったが、天井付近には、ガーゴイルの彫像が置かれていたり、吊るされた灯火がいくつも揺れていた。大広間を抜けると、玉座があった。玉座には王が不在であった。王は家族と、居室に控えているという。宰相が一人立っていた。誰何(すいか)されたので、名乗ると、丁寧に挨拶(あいさつ)された。宰相は名前がホミルで、宮廷魔術師を兼ねているということだった。王は朝方は機嫌が良くないので注意するように言われた。オルロンの槍や黒輪の誉れについて尋ねてみると、王とその家族と話したほうがいいと言われた。玉座の裏側に回ると、観音開きの戸口があり、衛兵が二人立っていた。宰相の許可があったので、通り抜けることができた。その際、トリスタンとロイスは、手持ちの武器を衛兵に預けた。身体も簡単ではあるが注意して調べられた。戸口を抜けると、階段があった。階段を登ると、左右にいくつかの部屋があった。一番奥の戸口は、中庭に通じていた。トリスタンは、ドラゴンの磐座(ばんざ)を見てみたかったので、進んで行こうとすると、ロイスが引き留めた。王とその家族に先に会おうということだった。衛兵に聞くと、王は食事中だという。トリスタンとロイスとナディは、外来者のための控えの間に通された。室内は、明かり窓からの光で、ぼんやりとしていた。しばらくすると、家老とおぼしき人が、呼びに来た。王は玉座で話がしたいとのことだった。二人と一匹は、玉座の間に戻った。
「名前はなんというのかな?わが名はプレシオス」
「トリスタンと申します。旅の仲間のロイスと犬のナディです」
「オルロンの槍についてかな」
「そうです。黒輪の誉れについても教えてください。槍はオークが創ったというのは本当ですか?」
「左様、オルロンの槍は元々オークが鍛しもの。ベーメン教の祭具だった。かつて、オークとの戦いの折に戦利品として持ち帰ったのだ。黒輪の誉れについてだが、わしはよく知らん。ゴルムント教徒が、槍を奪ったという話も聞くが、はっきりしたことは分からん。黒輪の誉れの本拠地というのはない。しかし、ホビットの地域にゴルムント教の寺院が、最近、建てられたという。我が国でも注意しているのだが。ドンバ国内にも幾つか寺院がある。これくらいしか教えることないが」
「そうですね。ありがとうございます。ゴルムント教徒と接触してみます。辞去しますが、最後に、ドラゴンの磐座をみることはかないませんでしょうか」
「よろしい。ゆっくりと見ていくが良いぞ」
ドンバ国王の印象であるが、王らしい重厚さを漂わせつつも、どこか心休まる愛嬌を備えている。口ひげをたくわえたその顔は、見た所、中年を過ぎ、老境へと入ろうとする五十代に見えた。右手の人差し指にエメラルドの指輪をはめていた。
ドラゴンの磐座は、かなり巨大であった。二十八メルテありそうであった。周囲は樹木で囲まれており、荘厳な雰囲気が漂っていた。確かに、黒龍ドリスカルドが降り立つにふさわしい岩であった。一行は、ゴリアマ城を出ると、昼食を食べた。鶏肉を串で刺して焼いたものと焼き飯であった。ナディも豚肉を食べた。二人と一匹は、イスファのゴルムント教の寺院、フリードラ寺院に行くことにした。雲が多くなってきており、太陽も少し陰っていた。フリードラ寺院は、イスファの町の中では南西に位置していた。少し遠いので、乗合い馬車で行くことにした。夕刻に近くなった頃に、寺院に到着した。寺院は、お椀をひっくりかえしたような形をしており、丸い窓がいくつもついていた。屋根の中に尖塔が立っており、その周りのに三本の槍が立っている。壁面は淡い茶色である。カリオンにもゴルムント教の寺院があったはずだが、トリスタンは訪れたことはなかった。フリードラ寺院の周囲に、オークの気配はなかった。オークの宗教が、なぜ人間の地域まだ広がってきているかということは一つの謎だった。おそらく、その教えが普遍性を持っているからというよりは、オークが支配地域を増やそうとしているのではないかということが考えられた。二人と一匹は、フリードラ寺院の門をくぐり、堂内に入った。
「ようこそ、何かお役に立てますかな?」初老の人間の男が声をかけてきた。
「ちょっと聞きたいことがありまして、教えていいただけますか?」
「どのようなことでしょう」
「オルロンの槍を探しているのですが、ドンバ王家からオルロンの槍を奪ったのはオークでしょうか?」
「たしかに、そのような話が信じられていますが、同時に、オルロンの槍がもともと、オークの手によって鍛造されたという事実も否定できないのです。オークは、その意味で、槍を奪還したとも言えましょう。詳しい話は、オークの長上からお聞きになりませんか?」
「オークが、この寺院に?よろしければ、会わせてください」
「わかりました。こちらへどうぞ」
案内の人間の男性は、手招きした。二人と一匹は、ついて行った。岩の祭壇の裏側に、地下へと続く階段があった。階段を降りると松明(たいまつ)の光が辺りを照らしていた。遠くから奇妙な声が聞こえた。男性の声と女性の声がする。案内人に聞くと、瞑想中であるという。見てよかと尋ねると、良いということだったので、地下堂内に入ってみた。中央に、焚き火があり、その周りに人間が十人ずつ車座になって座っていた。その形が五個あった。堂の奥には、オークが一人座っており、左右に人間の男と女が、交互に、「アー」と声を出していた。トリスタンは今まで、オークをまじまじと見たことがなかった。そのオークが男なのか女なのか、分からなかった。黒い肌で、瞳は黄色く、髪は長く垂らされていた。全体に痩せてはいるが、筋肉質だった。案内の男がそっと声を掛けた。男は合掌して礼拝(らいはい)した。
「ヅラース・バティー、姉妹兄弟よ」
「ヅラース・バティー、兄弟姉妹よ」
オークも合掌礼拝した。
「人間で、オルロンの槍を求める者達が話があるそうです」
「なるほど、あなたがたが地下堂に入ってくる時に、既にわかっていました。さぁ、お話しください」
「失礼ですが、あなたは男ですか、女ですか」
「わたくしですか。女のオークです。名をバラリアというゴルムント僧官です」
「ありがとうございます。実は、お察しの通り、オルロンの槍を探しているのですが、ゴルムント教系の秘密結社である黒輪の誉れが重大な手掛かりであると推察しております。何かご存知ではないでしょうか?」
「黒輪の誉れですか。ふーむ、中々、良い所に着眼されましたな。では逆に問いましょう。オルロンの槍と黒輪の誉れは、どのような関係があるとお思いか、グラース、すなわち、人間の若者よ」
「とある宿屋の主人の父親が、オルロンの槍の所在を知っていたのですが、黒輪の誉れの一因であった母親に、殺されたのです」
「その宿屋の名前は?」
「プニウマの宿屋です」
「ほぉ、それは確かでしょうね。わたくしは、その名前までは存じませんが、そのような話は、他のオークより聞きました。その宿屋の主人は、オークを憎んでいましたかな?」
「そのようには、見えませんでした。ただ、ドラクメ金貨七枚を要求した後、今度は、ドラクメ金貨七枚を差し出してきました」
「ふむ、それでは、その主人も、ゴルムント教と関わりがあると見えますな。ドラクメ金貨七枚の意味がお分かりか?」
「わかりません」
「ドラ久米金貨七枚の目方は、オークの目方で、金一キカルです。ゴルムント教徒では、教友(サラート)となる前提で、金一キカルを差し出すか、受け取るかします。すなわち、その宿屋の主人もゴルムント教徒だということです」
「教友(サラート)とは?」
「教友とは、ゴルムント教徒になる最初の位階です。教友が、礼明(れいみょう)灌頂(かんじょう)を受けると、正式にゴルムント教徒となります」
「なるほど、しかし、黒輪の誉れについて、もっと教えてもらえませんか?」
「ゴルムント僧官は、黒輪の誉れの一員にはなれません。黒輪の誉れは、秘密結社であり、わたくしも多くを知りません。ましては、ゴルムント教徒でない、あなたに、オークの秘密を教えるわけにはいきません」
「ゴルムント教徒になれば、もっと教えてもらえるのですか?」
「ゴルムント教徒になることは、オークとの親交を深めること、オークの習俗を始め、いろいろなことをお教えできるようになります」
「いっそのこと、ゴルムント教徒になっちゃいます?」ロイスが真顔で言った。
「ドラゴリス教はどうなるんだよ?」
「ゴルムント教は、ドラゴリス教と並存できますよ。それが、ゴルムント今日が広がっている一つの理由です」バラリアが答えた。
「母さんに相談してからじゃないと、いけないな」トリスタンは、旅行用鞄(かばん)からウリドラ聖書を手で取り出した。
「ゴルムント教を辞めるにはどうすればいいのですかね?」ロイスが言った。
「棄教する前提で、入信するのはお勧めできません。ただ、どうしても、棄教する必要がある場合には、ゴルムント僧官に相談すればよいことになっています」
「郷里(くに)に手紙を書いたら、どうですか?」ロイスが提案した。
「そうだね。そうさせてもらうよ」
「他に何か、知りたいことはありますか?」
「ドンバ王家のドマルト家についてなら、教えてもらってもいいですよね?」
「ゴレンド戦争より一時、カリオンに負けていたドマルト家が、ドンバで覇権を握り続けることがだきたのは、オルロンの槍のおかげです」
「というと?」
「オルロンの槍は、それゆえに古来より争いの元になってきました。ドマルト家は、元々エゴルディア大陸の豪族の中でも有数の強さでしたが、オークの勢力に接近したドマルト家の三代前の長(おさ)が、オークから特別に譲り受けたのです」
「ドンバ国王プレシオスは、戦利品だったと言っていましたがね、オルロンの槍は」
「わたしか、ドンバ王か、どちらかが、嘘をついていることになりますね。しかしながら、誓っていいますが、オルロンの槍は、戦利品ではありません。正当に受け渡されたものです」
「証拠はありますか?」ロイスは怪訝(けげん)な表情を浮かべている。
「証拠ですね。オルロンの槍は、特別な呪力を持っており、ある呪言(マントラ)を唱えて安置する、すなわち大地に突き差すと、権威あるベーメン教の祭官が、別の特定の呪言(マントラ)を唱えてからでないと引き抜けないことになっています。すなわち、このたび、ドンバ王家から、槍が持ち出されということは、ベーメン教の祭官がドンバにやって来ていた、ということになりましょう」
「こっそりやって来て、引き抜いたのでは?」ロイスは承服できない顔である。
「オルロンの槍が安置されていた場所を知っていますか?」バラリアは目をつぶっている。
「教えて下さい」
「ドラゴンの磐座の真下にある地下洞穴です」
「そんな話、聞いたことないぞ」ロイスは、激昂して言った。
「ドラゴンの磐座の下にある地下洞穴への入口は、ドマルト家しか知らない呪文でしか開けることのできない魔法錠(ウンシル)で閉ざされています。つまり、プレシオス王自らが、槍の国外への持ち出しに同意したことになるわけです」
「ということは、槍探しは、茶番だということになるじゃないか。そんな馬鹿な」
「この事実は、オークでは当たり前のことです。しかしながら、人間には、あまり知られていません」
「じゃあ、どうして、俺たちに教えたんですか?」トリスタンが尋ねた。
「あなたの持ち物に興味を持ちました。グラース、人間の若者よ」
「なんですか?」
「そのウリドラ聖書です」
「これですか?」トリスタンは、母から託された、紺色のウリドラ聖書を、右手で宙にかざした。
「そうです。それには、特殊な呪力がかかっているようです。あなたが袋から取り出してから、その力をわたしは感じています。ささやかながら、伝言があるようです。わたしには、静かな田園風景が見えます。しかし、それが何なのかはわかりません」
「意味がわかりません」
「そうでしょうね。明後日に、もう一度、ここを訪れてくれませんか?」
「なぜですか?」
「今は、ちょっと言えません。あなたが、ゴルムント教徒になるかどうかとは無関係です。どうですか?」
「ロイス、どうする?」
「少々どころか、だいぶ怪しいですが、面白くなってきましたね」ロイスは、眼光を光らせている。
「というと?」
「もちろん、答えは、はい、でしょう」
「わかった」
トリスタンとロイスとナディは、フリードラ寺院を後にした。宿屋への帰り途(みち)、トリスタンは、ゴルムント教に入るかどか、ロイスと話し合った。結論は、もう少し待ってみるということになった。トリスタンは、母親のことを考えた。母、ジェシカが、何故(なぜ)、このウリドラ聖書を、トリスタンに託したのか。特に何も考えていなかった。母、ジェシカは、ごく普通のドラゴリス教の信仰を持っている。このウリドラ聖書には、ごく普通の、ドラゴンを型取った紋章が、表紙に付けられているだけである。ドラゴリス教のシンボルである。ジェシカは、今、どうしているだろうか。秋の収穫祭ルツアは、もう終わっただろう。トリスタンの脳裏(のうり)には、優しい母の微笑が浮かんだ。ジェシカは酒の醸造をする家庭に生まれた。家は裕福だった。ジェシカは、豊かさと贅沢(ぜいたく)を知っていた。ジェシカは、料理が上手く、ものの目利きもできた良妻である。グレオス、つまり、トリスタンの父親は、ジェシカに、とても感謝していた。グレオスの商売が、成功しているのも、ジェシカの協力のお陰とも言える。明後日まで、時間があった。
翌日は、武器商と防具商を見に行った。武器商は三件、防具商は二件まわった。珍らしい武器として、青銅と銀で出来た、魔法弓があった。価格は、ドラクメ金貨六百三十枚。普通に買えるものではなかったが、良い物と出会えた。雷電が付呪されており、射られた相手が感電するようなものである。雷帝ジークの強弓(ごうきゅう)という名である。防具で珍しいものだったのは、耐火付呪された鉄の鎧(よろい)であった。鋼鉄で覆われた部分とくさり帷(かたびら)の部分で出来ている。すなわち、肩と腕と胴が鋼鉄で、あとはくさりである。高熱地帯でも。体が熱くならない魔法の鎧、その名を、ヤマの鉄鎧である。価格は、ドラクメ金貨九百五十枚。他にも、薬草屋にも行った。傷薬であるオレンジ草の軟膏(サルベ)が、一個、デノリ銀貨十五枚。百デノリ銀貨が、一ドラクメ金貨である。解毒作用のあるツルクサブドウの飲み薬が、一個、デノリ銀貨二十五枚。それぞれ、五つずつ買った。おまけに、「ただ美味いだけの地ビール」を、トリスタンとロイス、各一本、デノリ銀貨二枚で買った。付呪を知っているなら、ゴルムの黄金のリンゴはどうか、と尋ねられたが、使い方が分からないので、要らないと言った。しかし、強く勧められたし、価格もドラクメ金貨一枚であったので、つい買ってしまったロイスであった。イスファに女友達の魔法使いがいるので、贈り物(プレゼント)にしようと思ったらしい。女友達は、先日、行ったコムト一あの近くにある住居街に住んでいたので、日が暮れる前に行くことになった。ビールを、もう一本、買って外へ出た。ロイスの女友達は名前をベアリスと言った。五十六歳であった。ベアリスは、作り置きのシチューを振る舞ってくれた。「ただ美味いだけ地ビール」と、とても相性が良かった。ゴルムの黄金のリンゴを渡すと、付呪には、オスの猿の頭蓋骨(されこうべ)が必要だ、という。どんな付呪なのか、と聞くと、解毒作用のある服をつくる場合に使うそうだった。オルロンの槍について、トリスタンが、ゴルムント僧官バラリアから聞いた話を、ベアリスにしようとすると、ロイスが目配せして、制止した。ロイスが代わりに、オークについて何か知らないか、噂でもいいから、と聞いた。ベアリスは、ベーメン教の秘密祭儀について、話があると応えた。オルロンの槍は、ベーメン教の秘密祭儀の道具である話は、プニウマの宿屋の主人から聞いていた。その秘密祭儀は、一体、何なのか。ベアリスによると、人間とオークの交配種であるウルクハイを馬の胎内に生じさせる儀式であるかもしれないという。それか、死者の復活か。これは嘘っぽい。古代、ウルクハイの軍団は地上最強と言われた。ウルクハイ一人で、人間十人の働きを戦闘でするという。ウリドラ聖書にも、凶暴戦士(ベルセルク)と互角の戦いをしたウルクハイについて記述がある。凶暴戦士(ベルセルク)は、戦闘の後、死ぬ。しかし、ウルクハイは死なない。従順な性質であるウルクハイは、その反面、知能が低い。知能を低くすることで、兵士として使いやすくしているのだそうである。ベアリスが説明した。いくつか文献を読んで、彼女は、今、研究しているのだという。ウルクハイは男のみである。オルロンの槍が、ドマルト家の所有になたことと、ウルクハイはどう繋(つな)がるのか。ロイスによれば、ドマルト家が、ドンバの実権を握ったのは、槍でウルクハイの軍団を作ったためはなかろうか、という仮説を立てることができるという。しかし、具体的に、どうやって槍でウルクハイを馬の膣(ちつ)に生じさせるのかは分からない。そして、再度、槍がオークに返されたことは、ウルクハイの生産と、どういう関連があるというのか。これらが今、ベアリスが研究していることだという。オルロンの槍を探す人員として登録しているのか、というロイスの問いには、そうだ、というベアリスの答えだった。ただ、実際には槍を探すためではなく、槍に関する情報を集めるためだという。ロイスは深く満足した表情であり、ベアリスに敬意を示すために、頭を下げ、礼を言った。
翌日、トリスタンとロイスとナディは、再び、フリードラ寺院に赴(おもむ)いた。雨が降っていた。イスファの街路樹から落ちた葉が道に溜(た)まっていた。冬の前ぶれを感じさせる日だった。地下ではなく、地上の御堂(みどう)で、ゴルムント僧官バラリアと面会した。バラリアの隣には、若い人間の女性が立っていた。
「ご紹介しましょう。千里眼の持ちぬである、われらが友人、ルキアです。この前、見せていただいた、あなたのウリドラ聖書を出していただけませんか?」バラリアが言った。
「なぜですか?」トリスタンが返した。
「あなたのウリドラ聖書は、何らかの伝言を持っているようです。ルキアなら、何かわかるかもしれません」
「わかりました。どうぞ」トリスタンは、旅行用鞄(かばん)から、母ジェシカより託されたウリドラ聖書を取り出した。
「そのままで結構ですよ。ルキア、分かりますか?」
「わたしにも見えます。田舎の風景です。どこでしょうか」
「それが知りたいのです」
「おそらく、ホビットの村では、ないでしょうか」
「どうして、そう思うのですか?」
「ホビットの村の、穴蔵式の住居があるように思います」
「確かに存在する風景なのでしょうか?」バラリアが尋ねた。
「ホビットの村は、似たりよったりなので、場所を特定するには、住んでいるホビットに聞いてみるしかないと思います」
「トリスタンさん、ルキアを旅の仲間にしては見ませんか?」
「というと?」
「あなたがたが探そうそうとしているオルロンの槍のこと以上に、重大な使命が、あなたにあるようです。それは、私たちゴルムント教徒の未来とも関わっています」
「意味がよく、わかりませんが」
「ルキアは、遠く離れた場所や、遠い未来を見ることができます。ルキアは、あなたがたがドリゴラス教においても重要な意味を持っていると予測しています」
「旅費はあるんですか?」ロイスは、わざと聞いたようだ。
「おいくら必要でしょう?」
「ざっとドラクメ金貨四百枚と言った所です」
「承知しました。持たせます」
ルキアは、色白で髪の黒い美しい娘だった。意志の強そうな目は、時折、伏し目がち出あった。トリスタンは、恋をしてしまいそうだったが、同時に諦めていた。トリスタンにとって、女は、謎であり、心痛の種であった。遊郭ルイツァでだいた女とは、また違った女であった。ロイスが隣で、仏頂面をしていた。
「トリスタンさん、どうします?」
「旅の仲間が増えるのは、いいことかもしれないけれど、旅の目的が変わるのは良くないかもしれないね」
「そう思います」
「黒輪の誉れについて、もっと教えてもらうのはどうだろう?」
「実は、わたしは、黒輪の誉れについて、多くを知りません。ルキアが、その都度、教えてくれるでしょう」
「その都度とは?」
「必要に応じて、ということです」
「槍探しが、ドンバ王家の茶番だとして、果たして、槍を探す意味があるんだろうか」
「オルロンの槍は、あなたがたが思っている以上に重要な役割を持っています」
「われわれが、次になすべきことは何でしょう?」ロイスが、わざと聞いた。
「ホビットの村に行くとよいでしょう」
「なぜ?」
「そのウリドラ聖書は、誘導書(ガイウス)の可能性が高いです。次の行先(いきさき)を決めてくれます」
「しかし、何のために、ホビットの村に?」
「サナウス庄という、ホビットの村があります。そこには、ゴルムント教の寺院があるので、そこを訪ねるとよいでしょう。予(あらかじ)め、わたくしから、手紙で通達しておきます。寺院の名前は何でしたかね、ルキア?」
「ボンペイ寺院です」
「ありがとう。それでは、頼みましたよ。くれぐれも言っておきますが、この件は、オルロンの槍と深い関係があるはず。損はさせませんから、是非、協力してください」
「キレイなお姉ちゃんゆえに、うさん臭い物を感じますがね、トリスタンさん」
「何とも言えないな」
「われわれの行動を密偵(スパイ)するつもりなのではないのですか?」
「疑われるののなら仕方がありませんね。ゴールと、報酬を決めましょう。その聖書が、誘導書(ガイウス)であるとして、どういう意味と使命を持っているかを明らかにして下さい。これがゴール。そして、報酬は、今、与えましょう。オークの地域への通行証です」バラリアは、微笑した。
「??」
「お二人、グラースよ、自分の胸を見て下さい。シャツを開けて」
トリスタンは、シャツのボタンを外し、胸を見た。胸には、「△」が浮き出ていた。ロイスは驚いて、自分の胸を見ると、同じように「△」があった。ルキアは笑っている。
「わたしにもありますが、今は、お見せしませんからね」
「ご心配は無用、印を見えなくする呪言(マントラ)を教えます。同じ呪言(マントラ)で、出すも消すも出来ます」
「なるほど」ロイスである。
「印に手を当てて、”テラウス”と唱えて下さい」バラリアが言った。
トリスタンとロイスは、胸の印に手を当て、「テラウス」と唱えた。印は痛みなく消えた。
「出したい時は、同じことをして下さい」
二人は指示に従った。「△」の印が出た。
「これは面白いね」トリスタンは驚いていた。
「何となく、これから面倒なことが始まりそうな予感がしますよ」とロイス。
バラリアから、ルキアは、ドラクメ金貨四百枚を受け取ったので、三人と一匹は、フリードラ寺院を辞去した。ルキアは、簡単に自己紹介をした。イスファ生まれのイスファ育ちの二十歳(はたち)であるという。白魔術と黒魔術の両方の基礎を学習しているという。武器は弓。バラリアが話していた通り、生まれつき、千里眼の才能があるという。長い黒髪を結い上げていた。身体つきは、どちらかというと、大きかった。目元涼しげな美人だった。ロイスは機嫌が悪かった。トリスタンは何となく気まずかった。ナディは元気よく吠えていた。三人は、ルキアの家に一緒に行くことになった。母親と二人暮らしだという。父親は五年前に他界。ルキアの家は、デマストス騎士修道会の修道院がある地区にあった。小雨がパラついていた。家に入ると、ルキアの母親が出迎えた。今から夕食を作るという。ルキアが旅に出るという旨を伝えると、母親は、少し涙ぐんだ。三人は、夕食の準備を手伝った。夕食の準備には、それほど時間がかからなかった。豚肉の塩焼きと、アスパラの酢漬け(ピクルス)、ご飯と、鰹だしのスープには、人参とサクラダイコンが入っており、米の酒が出た。客用のベッドは、ひとつしかなかったので、ロイスは床に寝た。ナディも床に寝た。
ドンバ王国の首都イスファの東門を出て、ホビットの国に向かったのは、その翌日の朝のことだった