トリスタンは二十八才であった。あまり腕っぷしには自信がなかった、どちらかというと臆病であった。父親は武具商人である。十一代目の店を営んでいた。槍、短剣、長剣、斧、大刀、盾などを商っていた。弓や防具を扱っていたこともあるが、今は止(よ)していた。父親の名前はグレオス。五十二歳である。今日は仕事が終わって居酒屋《トーマシーの酒場》に二人で寄る。もちろんカリオンの話である。
「よお、どうだいグレオスさんよ、息子さん、なんか元気ないな」酒場の主人、アントニーが話しかけてきた。
「いつも恋に失敗してんのさ。また振られたそうだ。なぁ、何とか言えよ、トリスタン」
「僕はもうどうしようもない。死にたい」
「また始まりましたね、若様よ」
「どうしたらいいかな」
「旅にでも出たらどうですか」
「そうですね、旅か…」
「近々、戦争の噂もあるし、若手は徴集されるかもしれませんよ。あたしなんかも若い時は苦労したもんですよ。三王国が千々に乱れたゴレンド戦争。思い出すだすと辛くなりますね、グレオスさん、あんたは馬鹿なことに、付き合いを優先させて、劣勢だったドンバ王国についたんだね」
「でも結局、それが良かったんだよ。戦争には負けたが、義理がたいと評判になって商売が大きくなった」
「ほぉ、そいつは初耳だね。あんた、てっきり損ばかししてると思ってたがな…」
ここでゴレンド戦争について語ろう。もう二十年以上も昔の話である。エルフについてドラゴリス教の法王マンニが問題となる発言をした。なんとエルフは実在すると言い放ったのだ。ドラゴリス教は、創始より二千年この方、エルフの存在を否定してきた。この世界には、人間、ホビット、ドワーフ、オークがいる。大昔はエルフが高度な文明を持っていたという伝説がある。そしてエルフの首長は「神」であったとも言われた。エルフは伝説上の存在で、実在しないというのが、ドラゴリス教の見解である。ドラゴリス教は世界の終末に、空を無数のドラゴンが覆い、世界が全て焼き尽くされた後、世界の再創造が行われるという根本教理を持っている。しかも、世界の破壊と再生は、もうすでに何度も行われてきたという。ドラゴリス教の最高神は、古代伝承『エルド』にもある不滅にして最強の黒龍ドリスカルドである。ドラゴンの実在は証明されていない。しかし、畑や井戸をつくる際に、竜骨とおぼしきものがたまに発見されるため、一般には「存在するもの」と信じられている。もちろん、ここ百年で、生きたドラゴンを見た人はいないのだが。ドラゴリス教は、いくつかの修道会を持っていた。その中でも一番有名なのは、デマストス騎士修道会である。その名の通り、この修道会の修道僧は騎士でもある。修道僧全員が男性であり、童貞である。その騎士気質(きしかたぎ)には定評があり、世間的な評判もよい。軍人としての勇猛果敢さと、貴族的な教養を身につけた、いわゆる「永遠の男性」という自覚が、デマストス修道士には求められた。ドラゴリス教の法王、マンニの、エルフ実在発言は、マンニ個人のデマストス騎士修道会との軋轢(あつれき)が原因だった。いや、ドラゴリス教会自体の抱える根本問題にも触れてはいるのだが。つまり、エルフとドラゴンの切り離せない関係である。古代伝承『エルド』(これはドラゴリス教とは別個に存在する民間伝承なのだが)によると、世界は混沌(カオス)から光と闇に分かれる所より始まったという。ゆえに、全ての動植物、岩や砂や土に至るまで、また、水や光など、万物は光の要素と闇の要素を併せ持つという。そして、エルフは光と闇の調和の探求を行う学者集団であったという。このエルフの最大の敵は、エルフ自身が創り出した怪物であるドラゴンであるという。エルフは、お互いに戦争で物事の決着をつけることがあり、「生きた兵器」としてドラゴンを創り出したというのが、『エルド』の主張である。ドラゴンは巨大な身体を持ちながら、人間と同じように思い、感じ、考えることができたという。ドラゴン達は、はじめ、エルフの意思に従っていたが、一部がエルフの統制から離れ、勝手な振舞いをするようになった。このはぐれドラゴン達は、約三千年間、何世代も子を産み続け、数を増やした。そして、その頭(かしら)が、伝説の黒龍ドリスカルドであった。ドリスカルドを含め、ドラゴンは一部が、永遠の命、すなわち、不死であったという。エルフは、このはぐれドラゴン達に滅ぼされたのではないかとも言い伝えられているが、真相は定かではない。あくまで、エルフもドラゴンも伝説上の存在なのだ。しかし、ドラゴンは存在しているという人の多くは、エルフは、もとからいなかったのか、絶滅したと考えている。エルフの実在を主張したマンニは、エルフが人間に混じって今でもエゴルディア大陸にて生活している、という思想上の暴挙に出たのである。そのため、「エルフ探し」が始まり、ゴート、ドンバ、カリオンの三王国が互いに争い合うようになった。ドラゴリス教会の本山はカリオン王国そのものである。法王マンニによってエルフ探しの尖兵(せんぺい)として選ばれたのが、ゴート王国の兵士たちであった。そして、彼らによるエルフ探しが最もひどかったのがドンバ王国であり、この動きに大反発を起こしたのが、ドンバ王国の民衆と貴族と王であった。ドンバ王国は国を挙げてゴート王国に戦宣戦布告をし、これに呼応して、カリオン王国が、両者の戦争にゴート側で出兵するという形で始まったのが、このゴレンド戦争である。ゴレンドとは、最初の三国大会戦が行われた平原の名である。この状況下で、ゴート王国の兵士が、エルフ探しの実動部隊であるとしたら、デマストス騎士修道会は、民衆の影で、その動きを操る司令塔・諜報機関であった。実は法王マンニによるエルフ実在発言は、彼とデマストス騎士修道会の密約だったのだという噂もあるが、真相は明らかにはなっていない。カリオン王国の一青年トリスタンが生きる世界はおよそこのような時代であった。
「トリスタンさん、旅に出るなら、やっぱりドンバですよ。ねぇ、お父さん?」
「なんでだい?」トリスタンの父、グレオスが言った。
「決まっているじゃないか、オルロンの槍(やり)だよ」
「オルロンの槍って、伝説の?」
「伝説というより、ドンバ王家の家宝じゃないか」
「知ってはいるが、それがどうした?」
「あんた、本当に知らないのかい?盗まれたんだよ。オークの仕業っていうのが専(もっぱ)らの噂だよ」
「それでか、うちのカミさんが、今日、朝方、槍がどうのと言ってたな。王家は槍に懸賞金を掛けたのかい?」
「懸賞金どころか、ドンバ王国の姫君をもらうことができるそうだぜ」
「アメリ姫かい?あいつは苦手だな…」
「アメリ姫じゃなくて、妹のイゾルデ姫だ」
「イゾルデ姫は、お転婆で有名な男勝りだよな」
「そうさ、年の頃は二十一歳で、美しいそうだ」
「お前、挑戦してみるか?」
「オルロンの槍じゃなくて、トリマスの大斧を、僕らが、先祖代々、探すように言われてたじゃないか」
「トリマスの大斧は、無理だ。父さんも昔、頑張ったんだがな。オークやドワーフですら、手がかりの一つも持っていなかった」
「実は、僕もそう思う。お父さんで、この家は十一代だけど、一度もヒントすら見つけていないから。
それにしても、イゾルデ姫って、どんな娘(こ)なんだろう。元気の良さそうな女の子だね。挑戦してみる価値はあるね」
「挑戦して、成功して、振られる、なんてことないといいがね」父が言う。
「約束でしょ、王様との。はぁ。気が重い」
グレオスとトリスタンの父子(おやこ)は、酒場を後に、家に帰った。正味二時間ほど酒場にいたことになる。トリスタンは眠る前に、イゾルデ姫のことを考えた。イゾルデ姫と言うより、自分の恵まれない恋愛人生を振り返っていたのだ。トリスタンは恋多き男であったが、実際にお付き合いできた女の子は皆無である。もちろん童貞なのだ。トリスタンは、元気のいい女の子が好きだった。しかし、そういう娘に限って、トリスタンのことを良しとしてくれない。その懊悩(おうのう)と憔悴(しょうすい)ぶりは、時として病的ですらあった。自意識が過剰であった。小さな心配事が多すぎた。考えすぎである。色々なことが考えらえるが、畢竟(ひっきょう)、トリスタンが、行動よりも思考の人であるからである。その彼が旅に出る!とすれば、一大転機である。グレオスとしても、トリスタンには。人格上の問題を感じており、何とかしてやりたかった。イゾルデ姫のことを抜きにして考えるても、トリスタンに旅をさせるのは、いい薬になるのではないかと思うのだが。トリスタンは一人旅の経験は一度もない。グレオスとトリスタンは、同じ問題でも考えていることは違った。それから一週間が過ぎた。トリスタンの母親であるジェシカは、トリスタンの旅には、反対であった。
「第一、最近は物騒で、山賊や夜盗が多いっていうじゃない。槍も剣も中途半端なトリスタンに、一人旅は危険すぎるわ」
「だがね、母さん、これは神様がくれたチャンスじゃないのかね?一人旅が危険なら、誰か人をつけてもいいじゃないか」
「一体、誰をつけるっていうの?」
「そうだな、トーマシーの酒場に行けば、それらしいのが居るんじゃないかな。魔法を使える奴じゃないと駄目だな。そうは思わないかい?」
結局、男の魔法使い(ウィザード)を一人つけることで、母、ジェシカは納得した。グレオスがトーマシーの酒場で探してくることになった。トリスタンは逡巡(しゅんじゅん)したが、旅には前向きな姿勢をとるようになった。
魔法使いは、なかなか見つからなかった。一週間が経ち、二週間が経った。ついに良い人が見つかった。四十八歳の黒人だった。黒人で魔法使いというのは珍しいと思うグレオスでったが、どうやらシャーマン上がりの魔法使いであるらしい。名前はロイス。笑った時に、独特のエクボが出来るところが特徴だ。ひげは生やしていない。ブスッとして機嫌が悪かったと思いきや、突然、笑い出すという素っ頓狂な男であった。白魔術師である。黒魔術について聞くと、決まって渋い顔をする。酒好きだが、大酒喰らいではない。人生哲学があるらしく、好きな言葉は、明日のことは明日に考えろ、気楽に行こう、である。グレオスは、魔法の技量と性格の明るさで、この男を選んだ。契約は三年間。前金で、ドラクメ金貨三百五十枚。後金で、同額だ。とにかく、トリスタンの人生が、もうちょっと華やかになればと思ってのことだった。経済的には恵まれた家庭だったので、それほど応える出費ではなかった。ロイスは魔法使いだが、剣も使えた。犬を連れて行くとしきりに言ったので、二人と一匹の旅が始まることになった。果たして三年で終わるかどうかもわからないが、とにかく帰郷はするようにとのことだった。トリスタンも実施にロイスに会ってみて、良い印象をもった。暗く考えに沈潜しがちなトリスタンには、底抜けに明るいロイスは、ウマが合った。
「僕、ロイスとなら大丈夫だと思うよ。父さん、槍を持っていくよ、ロイスが剣だから」
「そうだな、どの槍にするかい?基本は鉄製がいいだろうがね。だが、魔法は使わないから、青銅ってことはないだろ」「刃渡りが長いのお願い。あとナイフも」
「あんた、マントと靴も新調しないとね。革商ゴムラに、父さんと行っておいで」
《革商ゴムラ》は革細工を扱っている店で、革職人も抱えている。割りかし大きな店である。トリスタンの家からは、少々道が遠いが、朝出て、日が暮れるほどではない。グレオスとトリスタンは、昼ご飯を家で食べたあと、くだんの店に向かった。辻馬車に乗った。到着したのは夕暮れ時であった。
「よぉ、じいさん、元気だったかい?」グレオスは、店の主人で老人のタリスに話しかけた。
「よおよお、グレオスか、わしは元気じゃ。息子さんのトリスタン君かね。久しぶりじゃ。母さんによろしく言っといてくれよ。近々、隣村で結婚式があるんじゃ、その時、母さんに会えるじゃろて」
「グレオスさん、何か企(たくら)んでいませんか」徒弟のジョナンがいささか不審そうに尋ねた。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「トーマシーの酒場の主人が、トリスタンさんが、オルロンの槍を取り返しに行くって、言ってたから、絶対やめたほうがいいと思いますよ。だいたい割りに合わない」
「うーん、事情がよくわかってないよ。トリスタンを『男』にしたいんだ。かわいい子には旅をさせろっていうだろ」
「どういうことですか」
「トリスタンは、物事をくよくよ考え過ぎるから、もうちょっと大胆になって欲しくて、旅に出たらいいと思ったんだ。姫君をもらうとかは、土台、あてにしてはいないよ」
「それならいいんじゃないですかね」
「わしもそう思うよ。ひと回り大きくなって帰ってくるとよいな」
トリスタンに合わせて、マントと靴を用意するため、素材選びと体の寸法を測った。マントは紺色、靴は黒色にすることにした。準備には四日かかるという。《革商ゴムラ》の商品は、長持ちすることで有名だった。
カリオンの商業や工業について少し語りたいと思う。カリオン王国の主産業は製紙業である。領域にマツの森があり、林業も盛んである。ドラゴリス教の本山がカリオン王国であるというのも。製紙業と関わりがあった。当然のことながら出版業が盛んであった。ドラゴリス教の聖典を『ウリドラ聖書』と言う。正式な聖書は羊皮紙で作ることになっているが、一般の書物類は木材を原料とした紙で作る。カリオン王国の王都がレマヌスという名であり、トリスタンはレマヌスに住んでいるのである。レマヌスで最も富裕なのがボリジス家である。ボリジス家は、製紙業始めたことで有名である。今や万巻にわたる書籍を世に送り出してきた。レマヌスには、法王立図書館マンツィがあり、誰でも来館出来る。マンツィの本は、館内での閲覧のみで持ち出しは出来ない。必要に応じて、写本業の職人が作業を行う。こういう環境であったから、トリスタンは幼い頃から書物に親しんでいた。父親のグレオスもトリスタンが本好きなので、よく買い与えていた。トリスタンが好きな本は、民俗宗教や歴史や戦記などであった。トリスタンが無上の喜びとしていたのは、本を読みながら、ハーブティーを飲むことだった。トリスタンの母親のジェシカはハーブや薬草に詳しかった。薬草学の専門家はストリガと呼ばれる女の魔術師であるが、ジェシカは親しくしているストリガから手ほどきを得ていたのである。
一週間ほど経ったある日、グレオスとジェシカは息子の門出を祝って、ささやかなパーティーを催した。参加者は、グレオスとジェシカ夫婦、トリスタンと妹のマリア、トリスタンの友達で、ジョーとロン、旅に同行する魔法使いのロイスと、その飼い犬のナディである。トリスタンは、新調したマントと靴が出来映えが良く、格好がいいので、上機嫌であった。メインディッシュは、ロンド牛の肉を使って作った肉パイである。鳥だしを使ったスープには、ジャガイモと椎茸が入っていて、黒胡椒が効いていた。キャベツとトマトとニンジンとキュウリのサラダには、オリーブオイル仕立ての酸味のある特製ソースがかかっている。トマトと魚介類のパスタもあった。デザートには、スモモのプディングや、チョコレートケーキ、山ブドウ。飲み物は、白ワインと、ウィスキー、ビールと、ハーブティーだ。そして何よりトリスタンの大好物であるスイートポテト。ただのスイートポテトではなく、サツマイモに、栗の実のペーストが混ぜてある。ジェシカのオリジナルレシピであり、その独特の香りと味は、隣近所で、ちょっとした評判になったこともある。トリスタンの友達のロンは歌がうまく、ジョーがギターで演奏したのに合わせて、「ヒバリの歌」を歌った。ロイスの飼い犬ナディーはコリー犬で、女の子だったのだが、目を細めて、うつらうつらしていた。パーティーは庭に椅子やテーブルを出してやっていた。夕暮れ時になってパーティーは三々五々終わりを告げた。トリスタンとロイスとナディは、あくる日の朝、グレオスの家から出発した。母親のジェシカは、出発するトリスタンに歩み寄り、大事にしていたウリドラ聖書を手渡した。お守りだという。ロイスはにっこりと笑った。昨日はうまい冗談が浮かばなかったけれど、ジェシカはいい人だ、とよく意味のわからない言葉をつぶやいた。父親のグレオスも堤から、短剣を取り出した。銀星の短剣「ロッド」である。そのピカピカ光る短剣をそっとトリスタンに手渡した。俺からも、お守りだ。自信作なんだ、気をつけてな、ということである。こうして、トリスタンの旅は始まった。朝日がまぶしかった。風が土の匂いを運んでいた。