これから記す物語は、はるか遠い昔、まだ魔法が使えた時代のことである。法王、王、騎士、諸侯、その他、身分のある者が、国の統治を行う王政、貴族政が一般的であった、古風な世界であった。
物語の世界は、エゴルディアという大陸である。エゴルディアには人間が住んでいた。ゴート、ドンバ、カリオンという三つの国があった。エゴルディアの北のはずれには、ホビットという種族が住んでいた。また、西にはドワーフ、南にはオークがいた。まだ正解な地図というものがなく、人々は生活の知恵を出して、旅をしていた。
カリオン王国には、この世界、特に人間が信仰する宗教であるドラゴリス教の法王がおり、国を統治していた。そこでは法王が王であったのだ。法王はマンニという名であった。ドラゴリス教の暦で、二○五八年の秋。
トリスタンは二十八才であった。あまり腕っぷしには自信がなかった、どちらかというと臆病であった。父親は武具商人である。十一代目の店を営んでいた。槍、短剣、長剣、斧、大刀、盾などを商っていた。弓や防具を扱っていたこともあるが、今は止(よ)していた。父親の名前はグレオス。五十二歳である。今日は仕事が終わって居酒屋《トーマシーの酒場》に二人で寄る。もちろんカリオンの話である。
「よお、どうだいグレオスさんよ、息子さん、なんか元気ないな」酒場の主人、アントニーが話しかけてきた。
「いつも恋に失敗してんのさ。また振られたそうだ。なぁ、何とか言えよ、トリスタン」
「僕はもうどうしようもない。死にたい」
「また始まりましたね、若様よ」
「どうしたらいいかな」
「旅にでも出たらどうですか」
「そうですね、旅か…」
「近々、戦争の噂もあるし、若手は徴集されるかもしれませんよ。あたしなんかも若い時は苦労したもんですよ。三王国が千々に乱れたゴレンド戦争。思い出すだすと辛くなりますね、グレオスさん、あんたは馬鹿なことに、付き合いを優先させて、劣勢だったドンバ王国についたんだね」
「でも結局、それが良かったんだよ。戦争には負けたが、義理がたいと評判になって商売が大きくなった」
「ほぉ、そいつは初耳だね。あんた、てっきり損ばかししてると思ってたがな…」
ここでゴレンド戦争について語ろう。もう二十年以上も昔の話である。エルフについてドラゴリス教の法王マンニが問題となる発言をした。なんとエルフは実在すると言い放ったのだ。ドラゴリス教は、創始より二千年この方、エルフの存在を否定してきた。この世界には、人間、ホビット、ドワーフ、オークがいる。大昔はエルフが高度な文明を持っていたという伝説がある。そしてエルフの首長は「神」であったとも言われた。エルフは伝説上の存在で、実在しないというのが、ドラゴリス教の見解である。ドラゴリス教は世界の終末に、空を無数のドラゴンが覆い、世界が全て焼き尽くされた後、世界の再創造が行われるという根本教理を持っている。しかも、世界の破壊と再生は、もうすでに何度も行われてきたという。ドラゴリス教の最高神は、古代伝承『エルド』にもある不滅にして最強の黒龍ドリスカルドである。ドラゴンの実在は証明されていない。しかし、畑や井戸をつくる際に、竜骨とおぼしきものがたまに発見されるため、一般には「存在するもの」と信じられている。もちろん、ここ百年で、生きたドラゴンを見た人はいないのだが。ドラゴリス教は、いくつかの修道会を持っていた。その中でも一番有名なのは、デマストス騎士修道会である。その名の通り、この修道会の修道僧は騎士でもある。修道僧全員が男性であり、童貞である。その騎士気質(きしかたぎ)には定評があり、世間的な評判もよい。軍人としての勇猛果敢さと、貴族的な教養を身につけた、いわゆる「永遠の男性」という自覚が、デマストス修道士には求められた。ドラゴリス教の法王、マンニの、エルフ実在発言は、マンニ個人のデマストス騎士修道会との軋轢(あつれき)が原因だった。いや、ドラゴリス教会自体の抱える根本問題にも触れてはいるのだが。つまり、エルフとドラゴンの切り離せない関係である。古代伝承『エルド』(これはドラゴリス教とは別個に存在する民間伝承なのだが)によると、世界は混沌(カオス)から光と闇に分かれる所より始まったという。ゆえに、全ての動植物、岩や砂や土に至るまで、また、水や光など、万物は光の要素と闇の要素を併せ持つという。そして、エルフは光と闇の調和の探求を行う学者集団であったという。このエルフの最大の敵は、エルフ自身が創り出した怪物であるドラゴンであるという。エルフは、お互いに戦争で物事の決着をつけることがあり、「生きた兵器」としてドラゴンを創り出したというのが、『エルド』の主張である。ドラゴンは巨大な身体を持ちながら、人間と同じように思い、感じ、考えることができたという。ドラゴン達は、はじめ、エルフの意思に従っていたが、一部がエルフの統制から離れ、勝手な振舞いをするようになった。このはぐれドラゴン達は、約三千年間、何世代も子を産み続け、数を増やした。そして、その頭(かしら)が、伝説の黒龍ドリスカルドであった。ドリスカルドを含め、ドラゴンは一部が、永遠の命、すなわち、不死であったという。エルフは、このはぐれドラゴン達に滅ぼされたのではないかとも言い伝えられているが、真相は定かではない。あくまで、エルフもドラゴンも伝説上の存在なのだ。しかし、ドラゴンは存在しているという人の多くは、エルフは、もとからいなかったのか、絶滅したと考えている。エルフの実在を主張したマンニは、エルフが人間に混じって今でもエゴルディア大陸にて生活している、という思想上の暴挙に出たのである。そのため、「エルフ探し」が始まり、ゴート、ドンバ、カリオンの三王国が互いに争い合うようになった。ドラゴリス教会の本山はカリオン王国そのものである。法王マンニによってエルフ探しの尖兵(せんぺい)として選ばれたのが、ゴート王国の兵士たちであった。そして、彼らによるエルフ探しが最もひどかったのがドンバ王国であり、この動きに大反発を起こしたのが、ドンバ王国の民衆と貴族と王であった。ドンバ王国は国を挙げてゴート王国に戦宣戦布告をし、これに呼応して、カリオン王国が、両者の戦争にゴート側で出兵するという形で始まったのが、このゴレンド戦争である。ゴレンドとは、最初の三国大会戦が行われた平原の名である。この状況下で、ゴート王国の兵士が、エルフ探しの実動部隊であるとしたら、デマストス騎士修道会は、民衆の影で、その動きを操る司令塔・諜報機関であった。実は法王マンニによるエルフ実在発言は、彼とデマストス騎士修道会の密約だったのだという噂もあるが、真相は明らかにはなっていない。カリオン王国の一青年トリスタンが生きる世界はおよそこのような時代であった。
「トリスタンさん、旅に出るなら、やっぱりドンバですよ。ねぇ、お父さん?」
「なんでだい?」トリスタンの父、グレオスが言った。
「決まっているじゃないか、オルロンの槍(やり)だよ」
「オルロンの槍って、伝説の?」
「伝説というより、ドンバ王家の家宝じゃないか」
「知ってはいるが、それがどうした?」
「あんた、本当に知らないのかい?盗まれたんだよ。オークの仕業っていうのが専(もっぱ)らの噂だよ」
「それでか、うちのカミさんが、今日、朝方、槍がどうのと言ってたな。王家は槍に懸賞金を掛けたのかい?」
「懸賞金どころか、ドンバ王国の姫君をもらうことができるそうだぜ」
「アメリ姫かい?あいつは苦手だな…」
「アメリ姫じゃなくて、妹のイゾルデ姫だ」
「イゾルデ姫は、お転婆で有名な男勝りだよな」
「そうさ、年の頃は二十一歳で、美しいそうだ」
「お前、挑戦してみるか?」
「オルロンの槍じゃなくて、トリマスの大斧を、僕らが、先祖代々、探すように言われてたじゃないか」
「トリマスの大斧は、無理だ。父さんも昔、頑張ったんだがな。オークやドワーフですら、手がかりの一つも持っていなかった」
「実は、僕もそう思う。お父さんで、この家は十一代だけど、一度もヒントすら見つけていないから。
それにしても、イゾルデ姫って、どんな娘(こ)なんだろう。元気の良さそうな女の子だね。挑戦してみる価値はあるね」
「挑戦して、成功して、振られる、なんてことないといいがね」父が言う。
「約束でしょ、王様との。はぁ。気が重い」
グレオスとトリスタンの父子(おやこ)は、酒場を後に、家に帰った。正味二時間ほど酒場にいたことになる。トリスタンは眠る前に、イゾルデ姫のことを考えた。イゾルデ姫と言うより、自分の恵まれない恋愛人生を振り返っていたのだ。トリスタンは恋多き男であったが、実際にお付き合いできた女の子は皆無である。もちろん童貞なのだ。トリスタンは、元気のいい女の子が好きだった。しかし、そういう娘に限って、トリスタンのことを良しとしてくれない。その懊悩(おうのう)と憔悴(しょうすい)ぶりは、時として病的ですらあった。自意識が過剰であった。小さな心配事が多すぎた。考えすぎである。色々なことが考えらえるが、畢竟(ひっきょう)、トリスタンが、行動よりも思考の人であるからである。その彼が旅に出る!とすれば、一大転機である。グレオスとしても、トリスタンには。人格上の問題を感じており、何とかしてやりたかった。イゾルデ姫のことを抜きにして考えるても、トリスタンに旅をさせるのは、いい薬になるのではないかと思うのだが。トリスタンは一人旅の経験は一度もない。グレオスとトリスタンは、同じ問題でも考えていることは違った。それから一週間が過ぎた。トリスタンの母親であるジェシカは、トリスタンの旅には、反対であった。
「第一、最近は物騒で、山賊や夜盗が多いっていうじゃない。槍も剣も中途半端なトリスタンに、一人旅は危険すぎるわ」
「だがね、母さん、これは神様がくれたチャンスじゃないのかね?一人旅が危険なら、誰か人をつけてもいいじゃないか」
「一体、誰をつけるっていうの?」
「そうだな、トーマシーの酒場に行けば、それらしいのが居るんじゃないかな。魔法を使える奴じゃないと駄目だな。そうは思わないかい?」
結局、男の魔法使い(ウィザード)を一人つけることで、母、ジェシカは納得した。グレオスがトーマシーの酒場で探してくることになった。トリスタンは逡巡(しゅんじゅん)したが、旅には前向きな姿勢をとるようになった。
魔法使いは、なかなか見つからなかった。一週間が経ち、二週間が経った。ついに良い人が見つかった。四十八歳の黒人だった。黒人で魔法使いというのは珍しいと思うグレオスでったが、どうやらシャーマン上がりの魔法使いであるらしい。名前はロイス。笑った時に、独特のエクボが出来るところが特徴だ。ひげは生やしていない。ブスッとして機嫌が悪かったと思いきや、突然、笑い出すという素っ頓狂な男であった。白魔術師である。黒魔術について聞くと、決まって渋い顔をする。酒好きだが、大酒喰らいではない。人生哲学があるらしく、好きな言葉は、明日のことは明日に考えろ、気楽に行こう、である。グレオスは、魔法の技量と性格の明るさで、この男を選んだ。契約は三年間。前金で、ドラクメ金貨三百五十枚。後金で、同額だ。とにかく、トリスタンの人生が、もうちょっと華やかになればと思ってのことだった。経済的には恵まれた家庭だったので、それほど応える出費ではなかった。ロイスは魔法使いだが、剣も使えた。犬を連れて行くとしきりに言ったので、二人と一匹の旅が始まることになった。果たして三年で終わるかどうかもわからないが、とにかく帰郷はするようにとのことだった。トリスタンも実施にロイスに会ってみて、良い印象をもった。暗く考えに沈潜しがちなトリスタンには、底抜けに明るいロイスは、ウマが合った。
「僕、ロイスとなら大丈夫だと思うよ。父さん、槍を持っていくよ、ロイスが剣だから」
「そうだな、どの槍にするかい?基本は鉄製がいいだろうがね。だが、魔法は使わないから、青銅ってことはないだろ」「刃渡りが長いのお願い。あとナイフも」
「あんた、マントと靴も新調しないとね。革商ゴムラに、父さんと行っておいで」
《革商ゴムラ》は革細工を扱っている店で、革職人も抱えている。割りかし大きな店である。トリスタンの家からは、少々道が遠いが、朝出て、日が暮れるほどではない。グレオスとトリスタンは、昼ご飯を家で食べたあと、くだんの店に向かった。辻馬車に乗った。到着したのは夕暮れ時であった。
「よぉ、じいさん、元気だったかい?」グレオスは、店の主人で老人のタリスに話しかけた。
「よおよお、グレオスか、わしは元気じゃ。息子さんのトリスタン君かね。久しぶりじゃ。母さんによろしく言っといてくれよ。近々、隣村で結婚式があるんじゃ、その時、母さんに会えるじゃろて」
「グレオスさん、何か企(たくら)んでいませんか」徒弟のジョナンがいささか不審そうに尋ねた。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「トーマシーの酒場の主人が、トリスタンさんが、オルロンの槍を取り返しに行くって、言ってたから、絶対やめたほうがいいと思いますよ。だいたい割りに合わない」
「うーん、事情がよくわかってないよ。トリスタンを『男』にしたいんだ。かわいい子には旅をさせろっていうだろ」
「どういうことですか」
「トリスタンは、物事をくよくよ考え過ぎるから、もうちょっと大胆になって欲しくて、旅に出たらいいと思ったんだ。姫君をもらうとかは、土台、あてにしてはいないよ」
「それならいいんじゃないですかね」
「わしもそう思うよ。ひと回り大きくなって帰ってくるとよいな」
トリスタンに合わせて、マントと靴を用意するため、素材選びと体の寸法を測った。マントは紺色、靴は黒色にすることにした。準備には四日かかるという。《革商ゴムラ》の商品は、長持ちすることで有名だった。
カリオンの商業や工業について少し語りたいと思う。カリオン王国の主産業は製紙業である。領域にマツの森があり、林業も盛んである。ドラゴリス教の本山がカリオン王国であるというのも。製紙業と関わりがあった。当然のことながら出版業が盛んであった。ドラゴリス教の聖典を『ウリドラ聖書』と言う。正式な聖書は羊皮紙で作ることになっているが、一般の書物類は木材を原料とした紙で作る。カリオン王国の王都がレマヌスという名であり、トリスタンはレマヌスに住んでいるのである。レマヌスで最も富裕なのがボリジス家である。ボリジス家は、製紙業始めたことで有名である。今や万巻にわたる書籍を世に送り出してきた。レマヌスには、法王立図書館マンツィがあり、誰でも来館出来る。マンツィの本は、館内での閲覧のみで持ち出しは出来ない。必要に応じて、写本業の職人が作業を行う。こういう環境であったから、トリスタンは幼い頃から書物に親しんでいた。父親のグレオスもトリスタンが本好きなので、よく買い与えていた。トリスタンが好きな本は、民俗宗教や歴史や戦記などであった。トリスタンが無上の喜びとしていたのは、本を読みながら、ハーブティーを飲むことだった。トリスタンの母親のジェシカはハーブや薬草に詳しかった。薬草学の専門家はストリガと呼ばれる女の魔術師であるが、ジェシカは親しくしているストリガから手ほどきを得ていたのである。
一週間ほど経ったある日、グレオスとジェシカは息子の門出を祝って、ささやかなパーティーを催した。参加者は、グレオスとジェシカ夫婦、トリスタンと妹のマリア、トリスタンの友達で、ジョーとロン、旅に同行する魔法使いのロイスと、その飼い犬のナディである。トリスタンは、新調したマントと靴が出来映えが良く、格好がいいので、上機嫌であった。メインディッシュは、ロンド牛の肉を使って作った肉パイである。鳥だしを使ったスープには、ジャガイモと椎茸が入っていて、黒胡椒が効いていた。キャベツとトマトとニンジンとキュウリのサラダには、オリーブオイル仕立ての酸味のある特製ソースがかかっている。トマトと魚介類のパスタもあった。デザートには、スモモのプディングや、チョコレートケーキ、山ブドウ。飲み物は、白ワインと、ウィスキー、ビールと、ハーブティーだ。そして何よりトリスタンの大好物であるスイートポテト。ただのスイートポテトではなく、サツマイモに、栗の実のペーストが混ぜてある。ジェシカのオリジナルレシピであり、その独特の香りと味は、隣近所で、ちょっとした評判になったこともある。トリスタンの友達のロンは歌がうまく、ジョーがギターで演奏したのに合わせて、「ヒバリの歌」を歌った。ロイスの飼い犬ナディーはコリー犬で、女の子だったのだが、目を細めて、うつらうつらしていた。パーティーは庭に椅子やテーブルを出してやっていた。夕暮れ時になってパーティーは三々五々終わりを告げた。トリスタンとロイスとナディは、あくる日の朝、グレオスの家から出発した。母親のジェシカは、出発するトリスタンに歩み寄り、大事にしていたウリドラ聖書を手渡した。お守りだという。ロイスはにっこりと笑った。昨日はうまい冗談が浮かばなかったけれど、ジェシカはいい人だ、とよく意味のわからない言葉をつぶやいた。父親のグレオスも堤から、短剣を取り出した。銀星の短剣「ロッド」である。そのピカピカ光る短剣をそっとトリスタンに手渡した。俺からも、お守りだ。自信作なんだ、気をつけてな、ということである。こうして、トリスタンの旅は始まった。朝日がまぶしかった。風が土の匂いを運んでいた。
「ところでロイス、ドンバってどうやって行くんだい?」トリスタンがきいた。
「そうですねぇ、とりあえず、この道をまっすぐ行きましょう。《プニウマの宿屋》に行けば、何か話が聞けると思います。旅のしおりによるとそなっています」
「旅のしおりって何?」
「冗談ですよ。そんなのあるわけないでしょ」
「《プニウマの宿屋》っどっかで聞いたことのある名前だな。何だっけな」
「殺人事件があっったんですよ」
「何か違う話になってきてない?」
「そうですねぇ、ここが運命の分かれ道です。わたしは誰でしょう?」
「ハハハ、笑わせるなぁ」
「殺人事件、本当にあったんですよ。俗もいう『プニウマ荘殺人事件』ですよ。あそこ、怪しいんですよ。情報屋がたむろしているんです」
「誰が死んだの?」
「殺人事件の方はどうでもいいんです。単に怒り狂ったカミさんが、宿屋のご主人を殺したんです。聞けば、昔から憎かったそうです。あの、情報屋の情報は、結構、当てになるもんですぜ」
「どんな情報?」
「もちろん、ドンバ王国についてですよ」
「プニウマって、どんな意味?」
「四人姉妹の名前の頭文字です」
「わかった、とにかく道を急ごう。いつ頃、到着するかな?」
「寿命が尽きる前には着くでしょう。だいたい、そんなもん、わからんですよ」
「ごめん、ごめん」
「わたしのこと好き?」
「えっ、そんな!?」
「そんな時はね、嘘でも、好きっていうのよ」
「わかったよ。もういいよ」
トリスタンがロイスと話すときは、だいたいこんな感じだった。ここでロイスについて、書いてみよう。あくまで噂であるが。ロイスの前職は、風俗店の男娼(ホスト)だったという。自称No.1の男娼(ホスト)である。どうやら手っ取り早く、カネを集めたかったらしい。四年に一度、必ず、金欠になるという特徴がある。なぜか?三王国合同の武術大会の賭けに出るからだ。ロイスの出身はゴート王国である。ゴート王国の正規軍に属していたこともあったという噂もある。何故、噂なのかというと、ロイスは過去を語りたがらないからだ。結婚は人生の墓場だ、という座右の銘も。ロイスにはある。セックスは大好きだが、結婚は真っ平ご免らしい。子供は好きらしい。武術大会の賭けは、女子レスリングと決めている。好きな白魔術は、体力回復呪文、コスパ。他にもあるが、また、別の機会にしよう。
《プニウマの宿屋》には、意外と早く着いた。日が暮れる前でよかった。宿屋は、岩壁を刳り貫いて出来ていた。
「こんな所に宿屋があるんだね…」
「いやいやいや、いー宿屋だねぇ」
「何それ?」
「さぁ、独り言ですよ。あのねえ、いちいち…。あっ、もういいです」
二人は夕食を採(と)ることにした。メニューは、「盛り沢山」「並み」「スズメの涙」である。誰も「スズメの涙」は選ばないのではないかと思うが、実はそれは子供用のメニューなのだ。盛り沢山を二人前、頼んだ。飲み物は、ビールだった。まず出て来たのが、羊のレバーペーストと、クレソンと三つ葉、カリフラワー、マッシュルーム、トマトのオリーブオイル仕立てである。黒胡椒(くろこしょう)と塩とビネガーとレモン汁が、オリーブオイルに入っている。メインディッシュは魚だったので、二人ともがっかりしたが、非常に美味かった。スズキのパン粉の香草焼きである。バターと白ワインが下味になている。卵と酢も入っていた。デザートは、アップルパイだった。ハーブティーも良かった。外は、漆黒の夜空に満点の星々が輝いていた。風が冷たかった。カエデの葉が、外でそよいでいた。ドギーフードで残しておいた長パンを齧りながら、二人はベッドで話している。
「あいにく客が誰もいないなんて、予想外だったね。残念だね」
「シーズンオフだからしょうがないですね」
「なんで、わかってるのに」
「そういうもんですよ。人生ってのは。あなたの恋愛もそうです。期待している時は、あまり出会えないものです。わたしも人のこと言えないけれどね」
「そうかなあ…」
「葉巻が欲しいな」
「パイプ、持ってるじゃない」
「今は葉巻の方がいいな」
「ふーん」
「ちょっと外に出て来ます」
一時間が経ち、二時間が経った。遅いな…。トリスタンは、酒は活(い)ける口である。しかし、飲み過ぎると気分が悪くなる。今日は飲み過ぎた。ロイスって軍人なのかな。正規軍兵士だったのかな。そうだな。言ってたから。俺も軍人になったら、恋人できるかな。ロイスってモテるもんな。ああいうふうになればいいんだな。俺、魔法やらんもんな。魔法やったらモテないと言われたから。なんで、ロイス、やってんだろう。そういうのは考え過ぎだな。ロイスが戻って来たら、聞いてみよう。雨が降ってきたかな。恋愛というのが何なのか、トリスタンはよくわかっていなかった。恋愛とは何か。誤解である。勘違いである。思い込みである。総じて、自己愛である。愛とは何か。愛とは、正反対の事象(もの)が互いに引き合うことである。すなわち、男と女、+(プラス)と−(マイナス)、過去と未来。
オークにも愛がある。オークの良さは悪さなのである。邪悪なほうがモテるのである。確かに悪くて強いオークは美しい。貴方のその憎悪が美しい。オークは独特の哲学を持っている。死の哲学と言える哲学である。彼らの宗教、ゴルムント教である。生死不分、愛憎一致、厭離執着(おんりしゅうじゃく)が教理である。始祖ゴルムントを神として崇めている。オークには階級がある。神官階級のヴァストラ。軍人階級のケイマン。庶民階級のラロット。奴隷階級のシャーティー。ゴルムントはヴァストラの父親とシャーティーの母親という身分違いの許されざる恋の落とし子だった。オークの身分は厳格で、同身分しか結婚が許されない。オークには、水と火を対立項にした二元論の宗教であるベーメン教があり、身分制度はベーメン教に由来する。ゴルムントはベーメン教に飽き足らず、新しい宗教を作った。不潔不浄を愛する水の要素と、清潔清浄を愛する火の要素の対立に疑問を抱いていた若きゴルムントの伝承は、ゴルムントの経典群『ラマストラ』にある。ベーメン教の最高神は二体もしくは一体。二体とは。水神ナーガと火神マーアである。一体は秘密である。ナーガとマーアは夫婦である。一体は二体の親である。これは、ベーメン教の奥義である。ゴルムントは、奥義の達成者として、完成者(プートリ)となったが、自分を神と僭称(せんしょう)したために、被差別民(ガーマ)へと堕(お)とされた。初めての弟子は被差別民のうちの一人、ヨーギナであった。ヨーギナは踊り子であった。ヨーギナの妹はタマラであり、ゴルムントに、未来予知の原術(ゴシック)を教えた。原術(ゴシック)とはベーメン今日の呪術体系であり、浄不浄を問わず、水による生命不壊(せいめいふえ)の儀式を執り行う。もうひとつの呪術体系である華術(ロムス)は、帰滅殺生(きめつせっしょう)の、火による生命崩壊(しょうみょうほうかい)の儀式を執り行う。原術(ゴシック)も華術(ロムス)も高度完成の域に達すると、合一行である金剛術(バクトラ)に収斂(しゅうれん)される。金剛術(バクトラ)は、神官階級(ヴァストラ)のみ保持(ハーフィズ)できる。ベーメン教では、成人式に自分の墓を建立することになっているが、ゴルムントは、自分の墓を成人式から十二年後に破壊した。永生のためである。オークは、専制君主の帝政であり、マラキ帝が皇帝となっている。マラキ治政下に、ベーメン教は最も大きな勢力を持ち、ゴルムント教は、その分派として存在していた。
「ちょっとお話が。宿屋の主人です」
「どうしました?」
「ドンバについて知りたいんですよね」
「そうです」
「オルロンの槍についてですが、わたしの父は、その関係で殺されているんです」
「どういうことですか?」
「わたしの母は、ある秘密結社の一員何です。知ってますか?」
「知りません」
「人呼んで《黒輪(こくりん)の誉(ほま)れ》です」
「…」
「これはヤバくなってきたな…」ロイスは頭を掻いた。
「この宿屋には幽霊が出るんです。父の霊ではありません。わたしの父が、この宿屋を譲り受けてから出るようになったんです。母はそれを『召命(ラタス)』と呼んでいました」
「意味がわかりませんが…」
「つまり、スカウトされたわけです。そう、なんというか…、黒輪の誉れに」
「それはどういう意味なんですか?」
「それを教えて欲しいなら。ドラクメ金貨を七枚いただきます」
「トリスタンさん、止(や)めたほうがいいですよ」
「どうして?」
「黒輪の誉れは、相当、ヤバい団体ですよ。童貞好きのオバさんの団体という噂もありますが、そうじゃないんです。永遠の命を得るために、《快楽としての殺人》を行っていると聞きます」
「どうやら、わたしの方が支払いをしないといけないようです」宿屋の主人は、ポケットから、ドラクメ金貨を七枚取り出した。
「ちょっと、待った!受け取らないで!ハメようとしています!」
「それでは仕方がありませんね。ひとまず、事情を説明いたしましょう。オルロンの槍は元々、オークの創(つく)ったものだったのです。つまり、オークは、取り返したわけです。奪ったわけではないのです」
「それと、お父様の死とどういう関係が?」
「ゴルムント教を知っていますか?」
「聞いたことがあります」
「黒輪の誉れは、ゴルムント教系の秘密結社なのです。オルロンの槍は、ベーメン教の秘密祭儀の道具であり、ゴルムント教徒が、力を得るために、槍を欲しがったわけです。わたしの父は、オルロンの槍の所在を知っていたようです。母は、ゴルムント教徒の依頼で、黒輪の誉れの活動の一つとして、父を殺しました」
「なるほど、事情がわかりました。これだけ聞いて、まだ、ドンバ王国に行く必要があるでしょうか?」トリスタンが尋ねた。
「さぁ、それはご自由にと言いたいところですが、ひとまず、ドンバ王国の国王から、槍探しの人員として、登録してもらう必要がありますよ」
「そうだった。わかりました」
「少しヒントがわかりましたね。槍は、オークのゴルムント教徒が持っているらしいこと。人間なら、黒輪の誉れに接触すればよいこと、といったことろか」
翌朝になった。雨上がりの朝は、湿気を含み、いくぶん気だるかった。二人は、朝食を食べながら、話し合った。このまま道を急ぐと、約五日で、ドンバに到着することがわかった。イッピ街道を北上すればよかった。イッピ街道は、カリオン王国とドンバ王国を結ぶ幹線道であり、特産品の交易路として使われていた。途中、グリア湖の瀑布(ばくふ)を見物して行くことになった。このゴリトの滝は、黒龍ドリスカルドと由緒のある滝で、竜の霊力が水に宿るとされていた。また、この湖の近くには、ボーミンの森があり、龍と人間の娘が恋をしたという伝説が残っていた。ここも名所であり、いくつかの土産物屋が並んでいる。ドンバとカリオンの間には、このように、龍に関する名所が多くあり、ドラゴリス教の聖地として知られている、ゴーミンの泉もあった。ゴーミンの泉は、トリスタンたちの旅程にはなかったが、ゴーミンの泉は、生命体に永遠の命を吹き込む力があるとされていた。そのため、一般には開かれておらず、特別な許可がなければ、入れなかった。途中、野宿三回と、宿屋に二回泊まって、ドンバ王国に到着した。
トリスタンとロイスとナディの一行は、ドンバ王国の関所に到着した。秋口のことであった。関所に立ち寄った訳(わけ)は、ドンバ王国への通行証を得るためである。ドンバ王国について、いくらか説明を試みたい。
ドンバ王国の発祥(はっしょう)は、カリオン王国よりも二百年早い。ドンバ王国の成立と、ドラゴリス教の発生には関連がある。ドラゴリス教はドンバ王国の辺境、ベラストで創始されたという伝説がある。伝説と記した理由は、確(かく)とした根拠がないためである。ドラゴリス教は自然発生的な宗教で、創始者というものがない。ベラストには、《神の井戸》があり、この井戸の底から、ドラゴンたちが、天へと飛翔したと言われる。エルフとの最終戦争の際の出来事とされる。神の井戸の直径は、三十二メルト(約二十五メートル)である。この井戸は、パンジャブ石器時代からあるので、元は古代祭儀に使われたものであるらしい。ドンバ王国の主産業は鉄器生産である。ドンバ王国の王家ドマルト家の祖先は、鉄生産に関わる技術者集団と、ドラゴリス教の古代巫女たちの婚姻に遡(さかのぼ)る。鉄生産技術者は、巨岩を神として崇(あが)める集団であったが、ドラゴリス教の古代巫女との婚姻を通じて、次第に、元の信仰を捨て、ドラゴンを崇めるようになった。ドンバ王家は謎めいた伝説を数多く持つ家系である。一部、精神病の傾向を持つ親族もおり、その親族は特に呪術の力が強いという。ドンバの主食は、米である。稲作は、石器時代から続く農業であり、陸稲(りくとう)から水稲(すいとう)へと移ったのは、鉄生産技術集団が定着して以降のことである。この鉄生産技術者が何処(いずこ)より来たのかは、定かではない。一説にはエゴルディア大陸以外の所から来たとも言われる。また、ドンバ王国は、湿潤温暖(しつじゅんおんだん)な気候のため、農業生産が盛んである。野菜から穀類、果物に至るまで、エゴルディア大陸の畑と呼ばれるほどである。
トリスタンたちが通った関所は、名前を《ガリスの関所》という。通行証は、木製で、ドンバ王家の紋章が彫り込んであった。
「これで、ドンバのどこにでも行けますよ」
「そうなんだね。王都イスファまで、後どれくらいなのかな?」
「あと三日くらいでしょう。宿屋も充実していますよ」
ガリスの関所を通ってから、犬のナディの調子がすぐれなかった。ロイスが心配していた。ロイスは、山賊の気配がすると言っていた。ナディは、危険を察知する力を持っているという。果たして、山賊が三人現れたが、ロイスの活躍で撃退できた。トリスタンも応戦した。怪我はなかった。
王都イスファに到着した。イスファの街並みは、黒の屋根が続く風景であった。高い塔が二個立っていた。人々の髪は黒く、肌は褐色、目も黒かった。女性は、髪を結い上げていおり、男性は、首もとで髪を結んでいた。
「思っていたより面白い町だね。イスファは」
「そうですね、もうすぐ夜ですので、食事に行きましょう。遊郭(ゆうかく)も行きませんか?」
「行ってみようか」
二人と一匹は、赤い提灯(ちょうちん)が架かっている《ゴイマナト》という料理店に入った。食事は、定食で、生鯛(なまだい)の刺身、緑豆スープ、焼き魚、ご飯、梨(なし)であった。 酒は米で出来ていた。
「この酒、美味いな。初めてだ。ロイスはどう?」
「わたしも好きですね。パンクロイド(前述した三国合同の武術大会)の時は、いつも来るんで、だいぶ慣れてますがね」
「カリオンのボリジス家と、ドンバのドマルト家は、仲が悪いんだよね。どうして?」
「ドラゴリス教の宗教的実権を巡って、二百年前に争って以来ですよ。勉強しませんでしたか?ドラゴリス教の中心は、元々ドンバだったんです」
「あぁ、そうだったね」
トリスタンとロイスは、遊郭(ゆうかく)に行くことになった。ロイスの思い出を記してみよう。ロイスは、二十歳の頃から、パンクロイドで賭けをしだしたが、その時に、イスファの遊郭に通うようになった。イスファの《遊郭ルイツァ》は、トラント河の中洲に位置している。高級女郎のコムネート、並女郎のユイスマがいる。ロイスは、ユイスマしか識(し)らなかった。女郎たちは、押し並べて、苦労していた。幼女の頃から売られたのもいる。芸を仕込まれる女郎は、コムネート、単に男と寝るだけの女郎がユイスマである。食事だけ、コムネートと一緒にするのもいる。ロイスも、コムネートと一緒に食事をしたことが何度かある。数奇人(すきびと)と呼ばれる趣味人が最も尊ばれるのが、遊郭ルイツァである。 数奇人について、幾(いく)つか述べてみよう。数奇人の特長は、「いき」であることである、「いき」とは、女や男を酔わす魅力、俗世のカネや名声に対する潔さと執着しない心、人生に対する一種の諦(あきら)め、である。
トリスタンとロイスは、夜半になって、遊郭ルイツァに来た。トリスタンはユイスマとは会うには会ったが、逢わなかった。トリスタンは童貞主義であった。結婚してからでないと、SEXしないと決めていたからだ。トリスタンの相手はコルマという名であった。(僕は全体に内気である)(美姫(びき)を前にして、いささか躊躇(ためら)い)(良香(りょうこう)は汝(な)が髪から)(汝が胸の膨らみが)(温かな身体の)(秘めたる汝が恥じらい)(接吻(せっぷん)の味は甘い)ロイスはというと、二人のユイスマを呼んで、三人で衾(ね)た。
翌朝、ルイツァの宿屋から二人と一匹は出立した、イスファの見物に行くことにした。ナデイはいつになく元気である。空は快晴であった。食料品の市場である《コムト市場》に向かった。コムト市場は、魚、肉、野菜、果物、穀物など、食品なら何でも売っている。りんごを手に取って、かじってみた。トリスタンの口の中で甘酸っぱい汁が広がる。豊かさというのは、結局、このようなものであると考えた。日の光を浴びて育つ植物、それを食す動物。豊かということは、多種多様ということに他ならぬ。美味(うま)そうな豚肉、新鮮な魚、太陽光で透(す)き通ったガラス瓶(びん)の中の黄金色のオリーブオイル。トリスタンは、昔読んだ農政書を思い出した。国の根本は食糧生産である、とあった。食料の価格が低ければ、物価全体が下がる。その意味で、ドンバは豊かな国であった。昼飯時になった。二人は《麺屋トス》に入り、鳥だしで作った汁そばを食べた。具として、海老や人参や白菜が、椎茸が入っていた。麺は米でできていた。茶は、茶色く濁(にご)っていた。
トリスタンとロイスとナディは、夕刻になってようやく、ドンバ王家の外来者受付《クリオスの館》に行った。オルロンの槍探し人員として、二人は、記帳簿に正式に登録された。受付けたのは、ドンバ王家近衛師団の書記官だった。記帳後、《ドラストの聖堂》に参って、成功を祈願した。ドラストの聖堂は敷地が正方形であり、ピラミッド型の屋根を持っていた。祭壇の奥にはステンドグラスがあり、日光が差し込むようになっている、石と木材で組み立てられた重厚な建物である。このような建築式を、ロスマ様式という。二人は入り口にナディを繋(つな)いで、聖堂の中に入っていた。ドラゴリス教の祭司は、黒い裳(も)を着ており、銀の冠(かんむり)を頭に載(の)せている。聖鈴(せいれい)を鳴らして、ドラゴンの霊を呼び出し、典礼に従って祈願を行う。モンス香が焚(た)かれ、あたりがローズマリーの香に包まれる。祈願は約半時ほどかかった。最後に、契約の徴(しるし)としてドラゴンの聖水を、トリスタンとロイスと祭司の三人とも口に入れて、飲み干した。
聖堂を出て、宿屋に泊まった。夜中にまた雨が降った。二人と一匹は寝所(ねどこ)で一つとなっている。ロイスは手持ちの地図を広げて、トリスタンの今後のことを説明している。ランプの灯火(ともしび)がゆらめく、黒輪の誉れとの接触が必要と判断された。黒輪の誉れについてはあまりにも無知であったので、手当たり次第に噂話を集めて見ようということになった。冬になる前に、ある程度の目度をつけたかった。ドンバ王家であるドマルト家に接点を持ってはどうかというのがトリスタンの意見であった。ロイスによると、それは正しいが、紹介が必要にあるということだった。ドマルト家は、イスファの中にある《ゴリアマ城》に居を構えていた。衛兵はざっと五十人は下(くだ)らない。他にも八千人の常備軍がいる。ロイスは、ドンバ王家に、トリスタンの親族はいないのか、と尋ねた。基本的なことだが、重要なことだった。トリスタンは父、グレオスに手紙を書くことにした。エゴルディア大陸の人間の居住する地域には、《ロンコイ逓信庁》という共通の手紙や小包みを運ぶための団体があるので、これを利用する。返事が返ってきたのは、二週間後であった。グレオスによると、イスファにあるデマストス騎士修道会の修道院に、グレオスとかつて仲の良かった修道士がいて、名をトルホンと言うらしい。仲がいい理由は、武器の受け渡しの際に、ちょっとした手違いがあったのがきっかけであった。グレオスは盾をサービスした。その当時、トルホンはカリオン王国にいたのだ。イスファにあるデマストス騎士修道会の修道院は、トラント河(かわ)の北東に位置していた。早速、訪ねてみると、一日目は留守だった。その三日後に、会うことができた。
「あなたが、トリスタンさんですね。トルホンです。デマストス騎士修道会へようこそ。オルロンの槍をお探しとのこと。何か役に立てますかな?」
「ドマルト家に接点を持ちたいのですが」
「ドンバ王家ですね。この修道院の何人かはよくゴリアマ城に通っています。同行すると良いでしょう」
「黒輪の誉れについて何か知っていますか?」
トルホンの顔がビクリと動いた。
「えっ、何ですと?」
「プニウマの宿屋の主人が、オルロンの槍と関係があると行っていましたので」
「名前は知っていますが」
「プニウマの宿屋の主人の父親は、オルロンの槍の在(あ)りかを知っており、黒輪の誉れの一員(メンバー)である母親に殺されたのです。黒輪お誉れは、ゴルムント教系の秘密結社で、オークとの関係が深いようです」
「よくご存知ですね。しかし、それを私が知って何になりましょう」
「とにかく少しでも手がかりが欲しくて」
「お話はこれくらいにしませんか。忙しいので。ゴリアマ城に一緒に行ってくれる修道士を教えますから」
「そうですか。ではお願いします」
トルホンは、黒輪の誉れについて、もっと知っていそうだった。怪しいな、というのが二人の胸中(きょうちゅう)であった。トリスタンとロイスとナディは、ひとまず修道院を後にした。ドマルト家との面会は、明後日ということになった。トルホンの様子から、黒輪の誉れが、思っていたよりも重要であることがわかってきた。ドマルト家の居城、ゴリアマ城は、山城で、要塞城である。堅固な守りは、ドマルト家を何度も外敵から守ってきた。城の中庭には、《ドラゴンの磐座(ばんざ)》という巨岩がある。この場所に城があるのも、この巨岩が元からある場所だったからだ。一説によると、この巨岩には、かつて、黒龍ドリスカルドが降り立ったという。
ゴリアマ城の入口に朝方ついたトリスタンたちは、少し待っていると、デマストス騎士修道士に出会った。トルホンから話は聞いているということだったので、城の中へ案内してもらうことになった。城は石造りで、ひんやりとしていた。衛兵が四人、門付近で直立していた、王との面会もできるかもしれなかった。城の中は、一見簡素なようであったが、天井付近には、ガーゴイルの彫像が置かれていたり、吊るされた灯火がいくつも揺れていた。大広間を抜けると、玉座があった。玉座には王が不在であった。王は家族と、居室に控えているという。宰相が一人立っていた。誰何(すいか)されたので、名乗ると、丁寧に挨拶(あいさつ)された。宰相は名前がホミルで、宮廷魔術師を兼ねているということだった。王は朝方は機嫌が良くないので注意するように言われた。オルロンの槍や黒輪の誉れについて尋ねてみると、王とその家族と話したほうがいいと言われた。玉座の裏側に回ると、観音開きの戸口があり、衛兵が二人立っていた。宰相の許可があったので、通り抜けることができた。その際、トリスタンとロイスは、手持ちの武器を衛兵に預けた。身体も簡単ではあるが注意して調べられた。戸口を抜けると、階段があった。階段を登ると、左右にいくつかの部屋があった。一番奥の戸口は、中庭に通じていた。トリスタンは、ドラゴンの磐座(ばんざ)を見てみたかったので、進んで行こうとすると、ロイスが引き留めた。王とその家族に先に会おうということだった。衛兵に聞くと、王は食事中だという。トリスタンとロイスとナディは、外来者のための控えの間に通された。室内は、明かり窓からの光で、ぼんやりとしていた。しばらくすると、家老とおぼしき人が、呼びに来た。王は玉座で話がしたいとのことだった。二人と一匹は、玉座の間に戻った。
「名前はなんというのかな?わが名はプレシオス」
「トリスタンと申します。旅の仲間のロイスと犬のナディです」
「オルロンの槍についてかな」
「そうです。黒輪の誉れについても教えてください。槍はオークが創ったというのは本当ですか?」
「左様、オルロンの槍は元々オークが鍛しもの。ベーメン教の祭具だった。かつて、オークとの戦いの折に戦利品として持ち帰ったのだ。黒輪の誉れについてだが、わしはよく知らん。ゴルムント教徒が、槍を奪ったという話も聞くが、はっきりしたことは分からん。黒輪の誉れの本拠地というのはない。しかし、ホビットの地域にゴルムント教の寺院が、最近、建てられたという。我が国でも注意しているのだが。ドンバ国内にも幾つか寺院がある。これくらいしか教えることないが」
「そうですね。ありがとうございます。ゴルムント教徒と接触してみます。辞去しますが、最後に、ドラゴンの磐座をみることはかないませんでしょうか」
「よろしい。ゆっくりと見ていくが良いぞ」
ドンバ国王の印象であるが、王らしい重厚さを漂わせつつも、どこか心休まる愛嬌を備えている。口ひげをたくわえたその顔は、見た所、中年を過ぎ、老境へと入ろうとする五十代に見えた。右手の人差し指にエメラルドの指輪をはめていた。
ドラゴンの磐座は、かなり巨大であった。二十八メルテありそうであった。周囲は樹木で囲まれており、荘厳な雰囲気が漂っていた。確かに、黒龍ドリスカルドが降り立つにふさわしい岩であった。一行は、ゴリアマ城を出ると、昼食を食べた。鶏肉を串で刺して焼いたものと焼き飯であった。ナディも豚肉を食べた。二人と一匹は、イスファのゴルムント教の寺院、フリードラ寺院に行くことにした。雲が多くなってきており、太陽も少し陰っていた。フリードラ寺院は、イスファの町の中では南西に位置していた。少し遠いので、乗合い馬車で行くことにした。夕刻に近くなった頃に、寺院に到着した。寺院は、お椀をひっくりかえしたような形をしており、丸い窓がいくつもついていた。屋根の中に尖塔が立っており、その周りのに三本の槍が立っている。壁面は淡い茶色である。カリオンにもゴルムント教の寺院があったはずだが、トリスタンは訪れたことはなかった。フリードラ寺院の周囲に、オークの気配はなかった。オークの宗教が、なぜ人間の地域まだ広がってきているかということは一つの謎だった。おそらく、その教えが普遍性を持っているからというよりは、オークが支配地域を増やそうとしているのではないかということが考えられた。二人と一匹は、フリードラ寺院の門をくぐり、堂内に入った。
「ようこそ、何かお役に立てますかな?」初老の人間の男が声をかけてきた。
「ちょっと聞きたいことがありまして、教えていいただけますか?」
「どのようなことでしょう」
「オルロンの槍を探しているのですが、ドンバ王家からオルロンの槍を奪ったのはオークでしょうか?」
「たしかに、そのような話が信じられていますが、同時に、オルロンの槍がもともと、オークの手によって鍛造されたという事実も否定できないのです。オークは、その意味で、槍を奪還したとも言えましょう。詳しい話は、オークの長上からお聞きになりませんか?」
「オークが、この寺院に?よろしければ、会わせてください」
「わかりました。こちらへどうぞ」
案内の人間の男性は、手招きした。二人と一匹は、ついて行った。岩の祭壇の裏側に、地下へと続く階段があった。階段を降りると松明(たいまつ)の光が辺りを照らしていた。遠くから奇妙な声が聞こえた。男性の声と女性の声がする。案内人に聞くと、瞑想中であるという。見てよかと尋ねると、良いということだったので、地下堂内に入ってみた。中央に、焚き火があり、その周りに人間が十人ずつ車座になって座っていた。その形が五個あった。堂の奥には、オークが一人座っており、左右に人間の男と女が、交互に、「アー」と声を出していた。トリスタンは今まで、オークをまじまじと見たことがなかった。そのオークが男なのか女なのか、分からなかった。黒い肌で、瞳は黄色く、髪は長く垂らされていた。全体に痩せてはいるが、筋肉質だった。案内の男がそっと声を掛けた。男は合掌して礼拝(らいはい)した。
「ヅラース・バティー、姉妹兄弟よ」
「ヅラース・バティー、兄弟姉妹よ」
オークも合掌礼拝した。
「人間で、オルロンの槍を求める者達が話があるそうです」
「なるほど、あなたがたが地下堂に入ってくる時に、既にわかっていました。さぁ、お話しください」
「失礼ですが、あなたは男ですか、女ですか」
「わたくしですか。女のオークです。名をバラリアというゴルムント僧官です」
「ありがとうございます。実は、お察しの通り、オルロンの槍を探しているのですが、ゴルムント教系の秘密結社である黒輪の誉れが重大な手掛かりであると推察しております。何かご存知ではないでしょうか?」
「黒輪の誉れですか。ふーむ、中々、良い所に着眼されましたな。では逆に問いましょう。オルロンの槍と黒輪の誉れは、どのような関係があるとお思いか、グラース、すなわち、人間の若者よ」
「とある宿屋の主人の父親が、オルロンの槍の所在を知っていたのですが、黒輪の誉れの一因であった母親に、殺されたのです」
「その宿屋の名前は?」
「プニウマの宿屋です」
「ほぉ、それは確かでしょうね。わたくしは、その名前までは存じませんが、そのような話は、他のオークより聞きました。その宿屋の主人は、オークを憎んでいましたかな?」
「そのようには、見えませんでした。ただ、ドラクメ金貨七枚を要求した後、今度は、ドラクメ金貨七枚を差し出してきました」
「ふむ、それでは、その主人も、ゴルムント教と関わりがあると見えますな。ドラクメ金貨七枚の意味がお分かりか?」
「わかりません」
「ドラ久米金貨七枚の目方は、オークの目方で、金一キカルです。ゴルムント教徒では、教友(サラート)となる前提で、金一キカルを差し出すか、受け取るかします。すなわち、その宿屋の主人もゴルムント教徒だということです」
「教友(サラート)とは?」
「教友とは、ゴルムント教徒になる最初の位階です。教友が、礼明(れいみょう)灌頂(かんじょう)を受けると、正式にゴルムント教徒となります」
「なるほど、しかし、黒輪の誉れについて、もっと教えてもらえませんか?」
「ゴルムント僧官は、黒輪の誉れの一員にはなれません。黒輪の誉れは、秘密結社であり、わたくしも多くを知りません。ましては、ゴルムント教徒でない、あなたに、オークの秘密を教えるわけにはいきません」
「ゴルムント教徒になれば、もっと教えてもらえるのですか?」
「ゴルムント教徒になることは、オークとの親交を深めること、オークの習俗を始め、いろいろなことをお教えできるようになります」
「いっそのこと、ゴルムント教徒になっちゃいます?」ロイスが真顔で言った。
「ドラゴリス教はどうなるんだよ?」
「ゴルムント教は、ドラゴリス教と並存できますよ。それが、ゴルムント今日が広がっている一つの理由です」バラリアが答えた。
「母さんに相談してからじゃないと、いけないな」トリスタンは、旅行用鞄(かばん)からウリドラ聖書を手で取り出した。
「ゴルムント教を辞めるにはどうすればいいのですかね?」ロイスが言った。
「棄教する前提で、入信するのはお勧めできません。ただ、どうしても、棄教する必要がある場合には、ゴルムント僧官に相談すればよいことになっています」
「郷里(くに)に手紙を書いたら、どうですか?」ロイスが提案した。
「そうだね。そうさせてもらうよ」
「他に何か、知りたいことはありますか?」
「ドンバ王家のドマルト家についてなら、教えてもらってもいいですよね?」
「ゴレンド戦争より一時、カリオンに負けていたドマルト家が、ドンバで覇権を握り続けることがだきたのは、オルロンの槍のおかげです」
「というと?」
「オルロンの槍は、それゆえに古来より争いの元になってきました。ドマルト家は、元々エゴルディア大陸の豪族の中でも有数の強さでしたが、オークの勢力に接近したドマルト家の三代前の長(おさ)が、オークから特別に譲り受けたのです」
「ドンバ国王プレシオスは、戦利品だったと言っていましたがね、オルロンの槍は」
「わたしか、ドンバ王か、どちらかが、嘘をついていることになりますね。しかしながら、誓っていいますが、オルロンの槍は、戦利品ではありません。正当に受け渡されたものです」
「証拠はありますか?」ロイスは怪訝(けげん)な表情を浮かべている。
「証拠ですね。オルロンの槍は、特別な呪力を持っており、ある呪言(マントラ)を唱えて安置する、すなわち大地に突き差すと、権威あるベーメン教の祭官が、別の特定の呪言(マントラ)を唱えてからでないと引き抜けないことになっています。すなわち、このたび、ドンバ王家から、槍が持ち出されということは、ベーメン教の祭官がドンバにやって来ていた、ということになりましょう」
「こっそりやって来て、引き抜いたのでは?」ロイスは承服できない顔である。
「オルロンの槍が安置されていた場所を知っていますか?」バラリアは目をつぶっている。
「教えて下さい」
「ドラゴンの磐座の真下にある地下洞穴です」
「そんな話、聞いたことないぞ」ロイスは、激昂して言った。
「ドラゴンの磐座の下にある地下洞穴への入口は、ドマルト家しか知らない呪文でしか開けることのできない魔法錠(ウンシル)で閉ざされています。つまり、プレシオス王自らが、槍の国外への持ち出しに同意したことになるわけです」
「ということは、槍探しは、茶番だということになるじゃないか。そんな馬鹿な」
「この事実は、オークでは当たり前のことです。しかしながら、人間には、あまり知られていません」
「じゃあ、どうして、俺たちに教えたんですか?」トリスタンが尋ねた。
「あなたの持ち物に興味を持ちました。グラース、人間の若者よ」
「なんですか?」
「そのウリドラ聖書です」
「これですか?」トリスタンは、母から託された、紺色のウリドラ聖書を、右手で宙にかざした。
「そうです。それには、特殊な呪力がかかっているようです。あなたが袋から取り出してから、その力をわたしは感じています。ささやかながら、伝言があるようです。わたしには、静かな田園風景が見えます。しかし、それが何なのかはわかりません」
「意味がわかりません」
「そうでしょうね。明後日に、もう一度、ここを訪れてくれませんか?」
「なぜですか?」
「今は、ちょっと言えません。あなたが、ゴルムント教徒になるかどうかとは無関係です。どうですか?」
「ロイス、どうする?」
「少々どころか、だいぶ怪しいですが、面白くなってきましたね」ロイスは、眼光を光らせている。
「というと?」
「もちろん、答えは、はい、でしょう」
「わかった」
トリスタンとロイスとナディは、フリードラ寺院を後にした。宿屋への帰り途(みち)、トリスタンは、ゴルムント教に入るかどか、ロイスと話し合った。結論は、もう少し待ってみるということになった。トリスタンは、母親のことを考えた。母、ジェシカが、何故(なぜ)、このウリドラ聖書を、トリスタンに託したのか。特に何も考えていなかった。母、ジェシカは、ごく普通のドラゴリス教の信仰を持っている。このウリドラ聖書には、ごく普通の、ドラゴンを型取った紋章が、表紙に付けられているだけである。ドラゴリス教のシンボルである。ジェシカは、今、どうしているだろうか。秋の収穫祭ルツアは、もう終わっただろう。トリスタンの脳裏(のうり)には、優しい母の微笑が浮かんだ。ジェシカは酒の醸造をする家庭に生まれた。家は裕福だった。ジェシカは、豊かさと贅沢(ぜいたく)を知っていた。ジェシカは、料理が上手く、ものの目利きもできた良妻である。グレオス、つまり、トリスタンの父親は、ジェシカに、とても感謝していた。グレオスの商売が、成功しているのも、ジェシカの協力のお陰とも言える。明後日まで、時間があった。
翌日は、武器商と防具商を見に行った。武器商は三件、防具商は二件まわった。珍らしい武器として、青銅と銀で出来た、魔法弓があった。価格は、ドラクメ金貨六百三十枚。普通に買えるものではなかったが、良い物と出会えた。雷電が付呪されており、射られた相手が感電するようなものである。雷帝ジークの強弓(ごうきゅう)という名である。防具で珍しいものだったのは、耐火付呪された鉄の鎧(よろい)であった。鋼鉄で覆われた部分とくさり帷(かたびら)の部分で出来ている。すなわち、肩と腕と胴が鋼鉄で、あとはくさりである。高熱地帯でも。体が熱くならない魔法の鎧、その名を、ヤマの鉄鎧である。価格は、ドラクメ金貨九百五十枚。他にも、薬草屋にも行った。傷薬であるオレンジ草の軟膏(サルベ)が、一個、デノリ銀貨十五枚。百デノリ銀貨が、一ドラクメ金貨である。解毒作用のあるツルクサブドウの飲み薬が、一個、デノリ銀貨二十五枚。それぞれ、五つずつ買った。おまけに、「ただ美味いだけの地ビール」を、トリスタンとロイス、各一本、デノリ銀貨二枚で買った。付呪を知っているなら、ゴルムの黄金のリンゴはどうか、と尋ねられたが、使い方が分からないので、要らないと言った。しかし、強く勧められたし、価格もドラクメ金貨一枚であったので、つい買ってしまったロイスであった。イスファに女友達の魔法使いがいるので、贈り物(プレゼント)にしようと思ったらしい。女友達は、先日、行ったコムト一あの近くにある住居街に住んでいたので、日が暮れる前に行くことになった。ビールを、もう一本、買って外へ出た。ロイスの女友達は名前をベアリスと言った。五十六歳であった。ベアリスは、作り置きのシチューを振る舞ってくれた。「ただ美味いだけ地ビール」と、とても相性が良かった。ゴルムの黄金のリンゴを渡すと、付呪には、オスの猿の頭蓋骨(されこうべ)が必要だ、という。どんな付呪なのか、と聞くと、解毒作用のある服をつくる場合に使うそうだった。オルロンの槍について、トリスタンが、ゴルムント僧官バラリアから聞いた話を、ベアリスにしようとすると、ロイスが目配せして、制止した。ロイスが代わりに、オークについて何か知らないか、噂でもいいから、と聞いた。ベアリスは、ベーメン教の秘密祭儀について、話があると応えた。オルロンの槍は、ベーメン教の秘密祭儀の道具である話は、プニウマの宿屋の主人から聞いていた。その秘密祭儀は、一体、何なのか。ベアリスによると、人間とオークの交配種であるウルクハイを馬の胎内に生じさせる儀式であるかもしれないという。それか、死者の復活か。これは嘘っぽい。古代、ウルクハイの軍団は地上最強と言われた。ウルクハイ一人で、人間十人の働きを戦闘でするという。ウリドラ聖書にも、凶暴戦士(ベルセルク)と互角の戦いをしたウルクハイについて記述がある。凶暴戦士(ベルセルク)は、戦闘の後、死ぬ。しかし、ウルクハイは死なない。従順な性質であるウルクハイは、その反面、知能が低い。知能を低くすることで、兵士として使いやすくしているのだそうである。ベアリスが説明した。いくつか文献を読んで、彼女は、今、研究しているのだという。ウルクハイは男のみである。オルロンの槍が、ドマルト家の所有になたことと、ウルクハイはどう繋(つな)がるのか。ロイスによれば、ドマルト家が、ドンバの実権を握ったのは、槍でウルクハイの軍団を作ったためはなかろうか、という仮説を立てることができるという。しかし、具体的に、どうやって槍でウルクハイを馬の膣(ちつ)に生じさせるのかは分からない。そして、再度、槍がオークに返されたことは、ウルクハイの生産と、どういう関連があるというのか。これらが今、ベアリスが研究していることだという。オルロンの槍を探す人員として登録しているのか、というロイスの問いには、そうだ、というベアリスの答えだった。ただ、実際には槍を探すためではなく、槍に関する情報を集めるためだという。ロイスは深く満足した表情であり、ベアリスに敬意を示すために、頭を下げ、礼を言った。
翌日、トリスタンとロイスとナディは、再び、フリードラ寺院に赴(おもむ)いた。雨が降っていた。イスファの街路樹から落ちた葉が道に溜(た)まっていた。冬の前ぶれを感じさせる日だった。地下ではなく、地上の御堂(みどう)で、ゴルムント僧官バラリアと面会した。バラリアの隣には、若い人間の女性が立っていた。
「ご紹介しましょう。千里眼の持ちぬである、われらが友人、ルキアです。この前、見せていただいた、あなたのウリドラ聖書を出していただけませんか?」バラリアが言った。
「なぜですか?」トリスタンが返した。
「あなたのウリドラ聖書は、何らかの伝言を持っているようです。ルキアなら、何かわかるかもしれません」
「わかりました。どうぞ」トリスタンは、旅行用鞄(かばん)から、母ジェシカより託されたウリドラ聖書を取り出した。
「そのままで結構ですよ。ルキア、分かりますか?」
「わたしにも見えます。田舎の風景です。どこでしょうか」
「それが知りたいのです」
「おそらく、ホビットの村では、ないでしょうか」
「どうして、そう思うのですか?」
「ホビットの村の、穴蔵式の住居があるように思います」
「確かに存在する風景なのでしょうか?」バラリアが尋ねた。
「ホビットの村は、似たりよったりなので、場所を特定するには、住んでいるホビットに聞いてみるしかないと思います」
「トリスタンさん、ルキアを旅の仲間にしては見ませんか?」
「というと?」
「あなたがたが探そうそうとしているオルロンの槍のこと以上に、重大な使命が、あなたにあるようです。それは、私たちゴルムント教徒の未来とも関わっています」
「意味がよく、わかりませんが」
「ルキアは、遠く離れた場所や、遠い未来を見ることができます。ルキアは、あなたがたがドリゴラス教においても重要な意味を持っていると予測しています」
「旅費はあるんですか?」ロイスは、わざと聞いたようだ。
「おいくら必要でしょう?」
「ざっとドラクメ金貨四百枚と言った所です」
「承知しました。持たせます」
ルキアは、色白で髪の黒い美しい娘だった。意志の強そうな目は、時折、伏し目がち出あった。トリスタンは、恋をしてしまいそうだったが、同時に諦めていた。トリスタンにとって、女は、謎であり、心痛の種であった。遊郭ルイツァでだいた女とは、また違った女であった。ロイスが隣で、仏頂面をしていた。
「トリスタンさん、どうします?」
「旅の仲間が増えるのは、いいことかもしれないけれど、旅の目的が変わるのは良くないかもしれないね」
「そう思います」
「黒輪の誉れについて、もっと教えてもらうのはどうだろう?」
「実は、わたしは、黒輪の誉れについて、多くを知りません。ルキアが、その都度、教えてくれるでしょう」
「その都度とは?」
「必要に応じて、ということです」
「槍探しが、ドンバ王家の茶番だとして、果たして、槍を探す意味があるんだろうか」
「オルロンの槍は、あなたがたが思っている以上に重要な役割を持っています」
「われわれが、次になすべきことは何でしょう?」ロイスが、わざと聞いた。
「ホビットの村に行くとよいでしょう」
「なぜ?」
「そのウリドラ聖書は、誘導書(ガイウス)の可能性が高いです。次の行先(いきさき)を決めてくれます」
「しかし、何のために、ホビットの村に?」
「サナウス庄という、ホビットの村があります。そこには、ゴルムント教の寺院があるので、そこを訪ねるとよいでしょう。予(あらかじ)め、わたくしから、手紙で通達しておきます。寺院の名前は何でしたかね、ルキア?」
「ボンペイ寺院です」
「ありがとう。それでは、頼みましたよ。くれぐれも言っておきますが、この件は、オルロンの槍と深い関係があるはず。損はさせませんから、是非、協力してください」
「キレイなお姉ちゃんゆえに、うさん臭い物を感じますがね、トリスタンさん」
「何とも言えないな」
「われわれの行動を密偵(スパイ)するつもりなのではないのですか?」
「疑われるののなら仕方がありませんね。ゴールと、報酬を決めましょう。その聖書が、誘導書(ガイウス)であるとして、どういう意味と使命を持っているかを明らかにして下さい。これがゴール。そして、報酬は、今、与えましょう。オークの地域への通行証です」バラリアは、微笑した。
「??」
「お二人、グラースよ、自分の胸を見て下さい。シャツを開けて」
トリスタンは、シャツのボタンを外し、胸を見た。胸には、「△」が浮き出ていた。ロイスは驚いて、自分の胸を見ると、同じように「△」があった。ルキアは笑っている。
「わたしにもありますが、今は、お見せしませんからね」
「ご心配は無用、印を見えなくする呪言(マントラ)を教えます。同じ呪言(マントラ)で、出すも消すも出来ます」
「なるほど」ロイスである。
「印に手を当てて、”テラウス”と唱えて下さい」バラリアが言った。
トリスタンとロイスは、胸の印に手を当て、「テラウス」と唱えた。印は痛みなく消えた。
「出したい時は、同じことをして下さい」
二人は指示に従った。「△」の印が出た。
「これは面白いね」トリスタンは驚いていた。
「何となく、これから面倒なことが始まりそうな予感がしますよ」とロイス。
バラリアから、ルキアは、ドラクメ金貨四百枚を受け取ったので、三人と一匹は、フリードラ寺院を辞去した。ルキアは、簡単に自己紹介をした。イスファ生まれのイスファ育ちの二十歳(はたち)であるという。白魔術と黒魔術の両方の基礎を学習しているという。武器は弓。バラリアが話していた通り、生まれつき、千里眼の才能があるという。長い黒髪を結い上げていた。身体つきは、どちらかというと、大きかった。目元涼しげな美人だった。ロイスは機嫌が悪かった。トリスタンは何となく気まずかった。ナディは元気よく吠えていた。三人は、ルキアの家に一緒に行くことになった。母親と二人暮らしだという。父親は五年前に他界。ルキアの家は、デマストス騎士修道会の修道院がある地区にあった。小雨がパラついていた。家に入ると、ルキアの母親が出迎えた。今から夕食を作るという。ルキアが旅に出るという旨を伝えると、母親は、少し涙ぐんだ。三人は、夕食の準備を手伝った。夕食の準備には、それほど時間がかからなかった。豚肉の塩焼きと、アスパラの酢漬け(ピクルス)、ご飯と、鰹だしのスープには、人参とサクラダイコンが入っており、米の酒が出た。客用のベッドは、ひとつしかなかったので、ロイスは床に寝た。ナディも床に寝た。
ドンバ王国の首都イスファの東門を出て、ホビットの国に向かったのは、その翌日の朝のことだった
トリスタンとロイスとルキアとナディの一行は、ホビットの国へと向かったのだが、ここでホビットについて、記しておきたい。
ホビットは、ドワーフと同じくらいの背丈をしている。人間というと、十歳の子供くらいの背丈である。ドワーフが、ずんぐりした筋肉質なのに比べて、ホビットは、ひょろっとした体型である。たまに、ぽっちゃりしたホビットもいる。足には毛が生えており、靴を履く必要がない。動きが敏捷(びんしょう)で、物影に隠れるのが得意である。ホビットは、多くても五百人くらいの集団でしか暮らさない。村もしくは庄(しょう)である。中心となる町はない。街道の密集地店が、域内に五ヶ所あり、定期的に市(マーケット)が開かれる。近くで市が立った時は、ホビットは、不要品や余った農作物や売りたいものを持って市に赴く。市には、近隣のホビットたちが集まってくる。市は、七日日間開催される。ホビットは平和と農業を愛している温和な種族である。「戦争」というものを知らない。人間が戦争をする話を聞くと、決まって不思議そうな話をする。ホビットは喧嘩をすることがある。しかし、個人的な争いは、あっても、集団に分かれて争うことはない。ホビットは土の中に横穴を掘って暮らしている。家具は、木製の温かみのある物を好む。すべてが一目盛(スケール)、人間より小さい。ホビットの恋愛は、人間とさして変わりがない。時に、恋敵(こいがたき)となって争うこともある。ホビットの髪は、茶色か金色である。ホビットの魅力的な女性は、乳房が大きいとされる。ピンク色の頬(ほほ)が健康的で良いとされる。寿命は最長で二百年で、人間より長い。ドラゴリス教徒のホビットはいない。民間信仰として、ホビティアと呼ばれるものがある。アニミズム的宗教であるホビティアでは、竈(かまど)の神や、厠(かわや)の神、倉の神、井戸の神などの場所に関する神を始めとして、剣(つるぎ)の神、槍の神、弓の神、金槌(かなづち)の神、包丁の神、小刀(ナイフ)の神などの道具に関する神、出産の神や、料理の神、農業の神、釣りの神などの行為の神、春の神、夏の神、秋の神、冬の神などの季節の神といった具合に多種多様、森羅万象、全てに神を見る。ホビティアには、呪術師であるホルムスと呼ばれるホビットの職業以外、聖職者や宗教家はいない。ホルムスは、女性であり、人間のストリガに似て、薬草に詳しく、産婆をやり、呪術や占いをする。十年ほど前から、ゴルムント教が、ホビットの地域(くに)で、布教をしている。ゴルムント教の布教は、ゆっくりと、ホビットの信者を集めている。
トリスタンの一行は、ドンバ王国の首都イスファを出ると、駅馬車にに乗った。駅馬車を乗り換えること四回、五日で、ホビットの地域に到達した。ホビットの地域には、通行証は必要ない。関所もない。一番近いホビットの村は、セラニア庄であった。一行は、少々疲れており、ちゃんとした宿屋に泊まろうと思っていた。駅馬車の昇降場(しょうこうば)から、歩いて五時間、ようやくセラニア庄に到着した。一行の疲労は頂点に達していた。転がり込むようにして、《バインズ荘》という宿屋に入って、すぐに、眠りについた。翌朝、目が覚めると、宿屋のおかみさんが、心配そうに、牛乳(ミルク)を持って、やってきた。三人と一匹は、感謝して牛乳を飲み干した。
「しかし、疲れたねぇ」とロイス。苦笑(にがわら)いをするトリスタンとルキア。ナディは、元気よく吠えた。朝食が出た。卵を溶(と)いて炒(いた)めたもの、くん製肉の切れ端、キャベツを茹(ゆ)でたもの、砂糖ミルクが出た。ルキア、何か話てくれよ、というのがロイスとトリスタンの考えであった。ルキアは、弓をもっとうまくなりたいと言った。刀(ブレード)が、一番したかったけれど、両親が反対してできなかった、という。魔法は、と聞くと、白魔術の回復魔法はコスパ、呪いを解くゲラス、単純消毒のポントができる。黒魔術は、相手の動きを鈍くするラーホイ、相手に弱い呪いをかけるグラヨン、相手の眠気を誘うホンラができるという。それだけできれば十分だ、とロイスが言った。あなたは?とルキアが聞くと、白魔術しかできないとロイスが答えた。てっきり黒魔術師と思った、とルキアは疑い深い目でロイスを見た。トリスタンは、槍と剣の使い手だが、山賊には、一度しか、遭(あ)わなかった、と言った。ルキアは、槍を教えて欲しいと、トリスタンに言った。いいよ、とトリスタンが応えた。一行は、この宿屋で、三日ほど休むことにした。バインズ荘のおかみさんと、手伝いの二人以外のホビットは、トリスタンたちに、よそよそしかった。ホビットは人間に対して警戒心が強い。ホビットは、人間よりも野生動物と親しくする。不思議と、野生動物は、ホビットを襲わない、ホビットは、手づかみで、川魚を漁(と)ることができるほどであるが、武術は特にしない。ロイスは、あえて、ホビットの友達をつくりたいと言った。ちょっとした自慢になるからだ。ロイスは宿屋で出会ったホビットに話しかけた。ホビットは打ち解けなかったが、トリスタンに興味を示した。トリスタンは以前から犬のナディと仲良くしていた、ホビットたちはウサギを連れて来た。トリスタンはウサギに興味を示し、仲良くなった。
「やっぱり、君はちがうね」ホビットの一人が言った。「君は、動物と話ができる。動物の気持ちがわかるね」
「あなたの名前は?」
「トリクだよ。僕らの長(おさ)に、君を会わせたい。君はホビティアを使う資格がある。つまり、ホビットと友達になれる」
「トリスタンさん、やったじゃないですか。ホビットと友達になると、ホビティアを使えるんですね」
トリクは、トリスタンだけを連れていくと言い張った。ロイスは、ぜひ自分たちも連れて行ってくれと言った。トリスタンは、ロイスと、ルキアと、ナディが旅の仲間であることを説明した。トリスタンが、ホビットの長(おさ)はどこに居(い)るのか尋ねると、サナウス庄だと言う。サナウス庄と言えば、ゴルムント僧官のバラリアが語っていたボンペイ寺院というゴルムント教寺院があるホビットの村出会った。ロイスは、ちょうど良かったと言った。ホビットの長の名は何かと聞くと、トリクは、ケイレン・バキンズだと言った。サナウス庄までは、駅馬車で三日であった。サナウス庄に着いた。
「トリスタンともうされるか。ホビティアを使うことの出来る人間の若者が出てくると、風に聞いていました」ケイレンは言った。
「風に?」
「ホビティアは、風で未来を知ることができるのです」
「ここの風景は、誘導書(ガイウス)が見せる風景と似ています」とルキアが言った。
「ボンペイ寺院と言うのがあるんでしょう?」
「ある。最近、出来たのだよ。ゴルムント教の寺だ。そこの娘さんは、オークと何か関係があるんじゃないかね?」
「ゴルムント僧官の導きで、ここに来ましたルキアと申します」ルキアは頭を下げた。
「誘導書(ガイウス)は何を意味していたのだろう?」
「われわれは、オルロンの槍を求めて旅をしています。途中出会ったオークのゴルムント僧官から、わたしの主人であるトリスタンの持っているウリドラ聖書が誘導書(ガイウス)であると告げられ、導かれてここまで来ました。ここにはゴルムント教のボンペイ寺院もありますし旅の指針を求めています。何かお言葉をいただければ幸いなのですが」ロイスが言った。
「ホビティアを使うことのできる人間が稀有(けう)であることは確かだとして、何らかの役割でここに来ていることになる。私の知己(ちき)にホビティアの呪術師ホルムスがいるから、まず会ってくれ。今から呼ぶから」ケイレンは下働きのホビットに使いを頼んだ。二時間ほどして、使いは、一人のホルムスを連れて来た。
「ホルムスをやっているグノロです。よろしく」
「ホビティアを教えてくれるんですか?」
「ホビティアには三つの基礎があります。神々の名前と、儀式と、瞑想です。この基礎を知れば、後は応用で対応できます」
「習得には時間がかかりますか?」
「それはあなた次第です」
ホビティアの修行は二週間続いた。風の気持ちを知るという課題が最も難しかった。トリスタンは、風によって未来を知った。黒輪の誉れに接触するには、ドワーフに、《怒号の石》を見つけてもらわないといけないという。トリスタンは、ケイレンにドワーフについて聞くと、ボンペイ寺院に出入りしているドワーフがいるから会ってみるといいと告げられた。トリスタンたち一行は、ボンペイ寺院に行った。寺に出入りしているドワーフの名前は、ゴマイトであった。ゴマイトは、そんな石は知らないと言った。自分たちで、ドワーフの所に行って探すといいと言った。丁度、ドワーフのところへ行く予定のホビットがいたので、一緒に行くことになった。ホビットは三人いた。ドラクメ金貨を五十枚くれれば、馬車を専有できるということだ。トリスタンは、気前よく払った。馬車は幌馬車(ほろばしゃ)だった。ルキアは、ホビティアを習得したトリスタンを少し尊敬すると言った。心なしか、その時、顔を少し赤らめたようだった。
「あなたたちは夫婦じゃないの?」ホビットの女が尋ねた。
「ルキアと僕は旅の仲間だよ」
「わたしは、今度、結婚するの。結婚の準備と、主人になるこの人、トンスの仕事の関係で、ドワーフの所に行くんですよ」
「あなたの名前は?」
「わたしの名前はロマヌよ」
「ドワーフの所まで何日かかるかな?」
「一週間はかかるだろうね」トンスが言った。
「行くのは大変?」
「馬車で行くから、大丈夫だよ。山に向かうからね」
トリスタンたちは、その翌日、ドワーフの元へと出発した。
ドワーフについて記しておこう。ドワーフは、人間とよく似た性格をしているが、ただし、ドワーフは、ホビットと同じくらいの背丈で、ずんぐりしている。寿命もホビットと同じく二百年余りである。ひげは濃い。ドワーフは、古くから、鉱山地帯に住むのを常としている、石炭と鉄鉱石を主に採掘している。小柄な体は、狭い坑道に適している。ドワーフの宗教は、ユンマートである。ユンマートとは、「神の教え」と言う意味である。ユンマートは、イルヒーを唯一神とする宗教である。ユンマートは、男女の平等を説く。ドワーフは、女も鉱山で働くし、男でも子育てをする。ユンマートの聖典は、『ケルマー』であり、預言者、イブラスが、天啓を受けて記した書である。そして、第二聖典を『マナトース』と言い、イブラスの言行録である。これは、イブラスの近親者が記した書である。日に二回の礼拝(シャーイ)が、ユンマート信者(ユンシル)に課せられている。また、喜捨(コイマ)(寄付)も定めらており、収入の十分の一を喜捨することになっている。ユンマートは祭政一致の宗教であり、月に一回の喜捨が税金を兼ねる。ドワーフは、鉱石を、人間に売って、生業(なりわい)にしている。ユンマートの礼拝所をマンスルと言う。礼拝は、日の出と日の入りに行われる。『ケルマー』の詠唱が、マンスルに響く時が、ユンシルの大事な時なのである。ユンマートは純粋に、ドワーフのための宗教である。ユンマートの法律を、ハダージャと言う。ハダージャの実効力は、ユンシルの属するマンスルごとの共同体であるコンナスに依存する。ユンマートの首長が、ドワーフの首長である。ユンマートの首長を、導師ランスと呼ぶ。ランスは宗教そして政治の頭である。ユンマートには神秘主義学派(ヘクナー)というのがあり、ユンマートの真理への最短の道は、ヘクナーとも言われている。ヘクナーの徒のことを、ヘクセンと言う。ユンマートは完成度の高い宗教だが、理論面では、オークのベーメン教には優(まさ)りはしないだろう。
ドワーフは西方の山岳地帯に住んでいる。トリスタンの一行は、幌馬車に乗って、ドマン街道を西進した。途中、再び、ドンバを通り、約一週間で、ドワーフが住んでいる、ウンヘイ山岳地帯に到着した、ウンヘイ山岳地帯は、ドワーフ居住地の入口にあたる。ウンヘイ山岳地帯には、ドンバ王国へ、鉄鉱石と石炭を供給する市場(マーケット)がある。
「随分、にぎやかだね。鉄と石炭しか売っていないのかと思ったら、とんだ間違いだったね」これがトリスタンの感想だった。事実、そこは、ひとつの都市であった。ドワーフ、人間に限らずオークやホビットに至るまで、雑多な人々が、雑多に集合して出来上がった感のある街(集落)であった。市場(マーケット)の名は、最も偉大なるドワーフの立法者、シャイマンの名に因(ちな)んで、シャイマング市場と呼ばれている。シャイマング市場こそ、ドワーフの中心地にあたるのである。ルキアもロイスも、その壮大さに圧倒されていた。ホビット三人だけが、平然としていた。前に何度が来たことがあるという。
「ここの名物、シャイマングうどんを食べた方がいいよ」とホビットのトンスが言った。
「何だって?」ロイスが首をかしげた。
「シャイマングうどんを知らないなんてね」
トンスの妻となる予定のロマヌは、くすくす笑っている。
「早速(さっそく)、食べてみようじゃありませんか」ロイスは、トリスタンの肩をたたいた。ルキアも、ニッコリと笑っている。シャイマングうどんの店は、すぐに見つかったが、ロマヌが勧めた店に入った。《ダトニスうどん》という店だった。店はこじんまりしていたが、客で一杯だった。注文して、すぐにうどんが来た。「シャイマングうどん下さい」と注文するわけだが、何種類かあるうどんのうち、シャイマングうどんは、別格という扱いであった。魚の乾物で取ったダシ汁に、小麦で作ったうどんが入っており、たっぷりと脂(あぶら)の乗った大き目の豚肉が入っていた。実に美味(うま)そうな匂いがした。トリスタンと、ロイスと、ルキアと、トンスと、ロマヌ、そして、名前は、ハギアと言うホビットは、旅の疲れも吹き飛ぶようであった。
「あっしが、初めてこのうどんを食べたのは、ガキの頃でした」ハギアが言った。「かかあと一緒にここで食べたんですぜ。随分(ずいぶん)、古い店なんです」ハギアはトンスの従僕である、「あら、そうだったお。気付かずに入ったけれど、この店、有名だからね」とロマヌ。
六人は、むしゃぶるように、うどんをたいらげた。ナディも豚肉の切れはしを食べた。もちろんロイスが買ったわけだが。
「君たち、これからどうするの?」トリスタンが、ホビット三人に聞いた。
「結婚の準備の品物を買ったら、帰ります」
「そうかい。《怒号の石》ってすぐに見付かるかな?」トリスタンが尋ねた。
「そんな石、聞いたこともないですよ」トンスが応えた。
「ホビティアって確かなんですか?」とロイス。
「風は、そう言っているんだ」
「ナディにでも、聞いてみたらどうです?」
「ホビティアって、結構、色んな事がわかるんだよ。僕も使ってみるよ」トンスは、じっと目を閉じて、風を感じようとしている。しばらく経(た)って、トンスが言った。
「トリスタン、あんた、好きな人と、両想いになるよ」トンスが言った。
「好きな人って誰?」トリスタンが聞いた。
「それは、わからない」
「トリスタンさんと、ルキアに決まっているじゃないか。よかったですね、ご主人様?」
「ルキア、あなたはどうなの?」ロマヌが言った。
「わたし?わたしは、よくわからない。ただトリスタンには、わたしより、もっといい相手がいるんじゃないのかと思うだけ」
「そんなこと言わなくてもいいじゃないか。素直に好きだって言えばいいんだよ」とロイス。
「無茶言うなよ、ロイス。僕のことは心配しなくていいから。僕は、恋愛だけは、うまくいかないって、わかっているんだ」
「あら、どうしてなの?」とロマヌ。
「昔からなんだ。好きな人とは一緒になれないんだ。どうしてかわからいけど」
「ルキアのこと好き?」
「ルキアは、とても綺麗だね。いい娘(こ)だ。だけど、僕には無理だと思うよ」
「そんなこと言わないで、風に聞いてごらんなさいよ」
「わかった。でもねって言いたいとこだけど、人から忠告されたら、素直に聞くように、この前、ルキアに言われたから」トリスタンは、目を閉じた。トリスタンは風を感じようとしている。頬(頬)に温かい微風を感じた。なんとはなしに暖かい風であった。トリスタンは、少し笑って黙っている。
「どうだった?」ロマヌが言った。
「僕は嬉しい」とだけトリスタンは言った。
「あんまり、追及しない方がよさそうだよ。そっとしときなよ」とハギア。
「うふふ、初心(うぶ)なのね」
一行は、うどん屋を出た。しかし、ホビットが道具を揃えるのに、ドンバ王国でなく、シャイマング市場を選んだのはなぜかというと、道具のサイズだが、人間とホビットは違うし、ドワーフとホビットは同じだからという、単純な理由だった。ドラクメ金貨と、デノリ銀貨は、シャイマング市場でも使うことができる。この金と銀の貨幣は、エゴルディア大陸のどこででも使うことができる、エゴルディアの経済について、少し記しておこう。元来、通貨は、種族ごとに分かれていた。しかし、通貨統一の一番の理由は、ゴルムント教の伝播であった。ゴルムント教徒の活発な活動が、この通貨を一元化する原動力となった。ただし、かつての貨幣も、依然通用する。経済力が最も優れているのは、ドンバ王国である。鉄の生産は、どの種族にとっても重要である。そして、このシャイマング市場も例外ではない。エゴルディアでは、水上運送は、あまり発展していない。街道の整備が重要だったのであり、そこで主要な役割を果たしたのが、人間という種族である。人間が、オークやホビットやドワーフと比べて優位に立っているのは街道の整備を人間が行ってきたからに他ならない。
トンスとロマヌとハギア、彼らホビット三人は、調理器具を買いに行くという。よかったら一緒に行かないかとロマヌがトリスタンを誘った。《怒号の石》に関する情報がほとんどない今、トリスタンは、ホビットの提案に素直に従うことにした。調理器具は、北東のデンヌ地区で売っているという。一行は、徒歩でデンヌ地区に向かった。ルキアは少し嬉しそうだった。ルキアは、あまり幸福な生い立ちではないようだった。トリスタンが聞き出そうとしても黙って答えない。トリスタンは、ルキアの一見、冷たそうに見える素振りの奥に、何か暖かいもの、家庭生活への憧れが、見え隠れしているの見た。彼は、女性というものを知らないようで、知っていた。女は、自分の気持ちを、自分では決めない。好きな人から、あなたは嬉しいんだと言われれば、嬉しいし、あなたは悲しいいんだと言われれば、悲しい。特に泣いている女は、そうである。トリスタンはロマンチストだった。女は、皆、王子様を夢見ている。トリスタンは、王子としては割合良い方だ。少なくとも破天荒なロイスよりは。しかし、実際に恋愛をするのはロイスであり、奥手なのはトリスタンである。両者は興味深い双璧を成していた。ルキアは、美しい娘であったからこそ、トリスタンは辛かった。やがてくる別離の予感を彼は感じているのがトリスタンの内実だった。
調理器具選びに、ホビットたちはかなり時間をかけた。なかなか来れないからだという。鍋やらフライパンやら、色々なものを見ていたホビットたちだが、最も時間をかけたのは、包丁だった。包丁で一番良いものはドワーフの手によるものだ、と言われるくらい、ドワーフの包丁は有名である。トンスとロマヌは記念に、二人の名前を、包丁に彫り込んでもらった。トリスタンたちは《怒号の石》についての情報を集めていた。すると、ドワーフの鉱山の中心地であるカイサリア盆地に行くといいという話を聞いた。カイサリア盆地はシャイマング市場についで第二のドワーフの要所である。しかし、確とした情報は集まらなかった。ホビットたちは、カイサリア盆地には、一緒には行けないと言った。帰郷するのである。シャイマング市場にある《ペニーの宿屋》で二晩明かした後、ホビットたちは、馬車で帰って行った。トリスタンたち一行は、別離を惜しんだ。カイサリア盆地までは、徒歩で三日か馬車で一日だった。トリスタンたちは路銀の節約のために、徒歩で行くことにした。途中に宿屋もあるようだった。シャイマング市場では、「何でも屋」のドワーフが、一日あたりドラクメ金貨七枚で雇えた。名をヘシオスと言った。途中、山賊や夜盗に襲われることなく、カイサリア盆地に到着した。ヘシオスは哲学書を読むのが趣味だという。ユンマートだけではなく、ゴルムント教にも詳しいヘシオスは、皆を驚かせた。聞けば、ドワーフは案外、思索するのが好きなのだという。なぜ、「何でも屋」をしているのかと聞くと、人間やホビットとの出会いが面白いからだという。鉄器生産はドンバ王国のお家芸なのに、どうして、ドワーフの包丁が有名だと思う?との問いをヘシオスはした。皆わからなかった。鉄鉱石を鉄のインゴットにするのは、ドンバ王国で行われる。そのインゴットが逆戻りして、シャイマング市場で包丁や調理器具に変わる。どういう意味だと思う?ちヘシオスが言う。理由は簡単だという。ドワーフが使うものは、ドワーフが作るのがよいという哲学である。人間と、ドワーフ、ホビットではサイズが違うからだ。ヘシオスは大笑いした。意外とみんなわからないんだと言う。肝心の《怒号の石》については何も知らなかった。年寄りにでも聞いてみるといいんじゃないかと言うのがヘシオスの提案だった。裸で樽(たる)の中に入って暮らしている変人のドワーフがいるという。彼が最長老だという。早速(さっそく)、会ってみることになった。ロイスは苦笑いしていた。噂には聞いたことがあったという。ルキアは、ニッコリ笑っていた。知らないのはトリスタンだけだった。樽(たる)の住人は、名前を、キュクレという。かなりの変人なので、会ってくれるかどうか、とヘシオスは心配していた。カサリア盆地には公衆の広場であるストラムがあるが、そこに住んでいるがキュクレであった。トリスタンは自分がホビットと友達になれることを言えば会ってくれるのではないかと思った。一行は公衆広場ストラムに着いた。キュクレは、労せずして見つかった。
「キュクレよ、話をしてもらえますかな?人間が知りたいことがあるそうですが」とヘシオスが言った。
「トリスタンと申します。《怒号の石》と言うものを探しています。何かご存知ではありませか?」
「ふーむ、その言葉を聞いたのは、何年ぶりになるであろうか。かなり昔のことじゃ」
「どのようなものですか?」
「ものではない」
「というと」
「わしのことじゃ。《怒号の石》は、このわしじゃ」
「どういうことでしょう?」
「おぬしら、オークとひともんちゃくあったじゃろ」
「ホビティアで知りました。《怒号の石》については」
「そうなる前じゃ」
「旅立つ時に母から渡されたウリドラ聖書が誘導書(ガイウス)だったんです。それを教えてくれたのが、ゴルムント僧官のバラリアという人物でした。その時以来、この娘、ルキアが旅の仲間になりました」
「旅の目的は?」
「オルロンの槍探しです」
「オルロンの槍か。オークゆかりの品じゃな」
「何かご存知ですか?」
「オルロンの槍が、どんな力を持っているか知っているか?」
「一説によると、ウルクハイを生産できると聞きました」
「そこまで、知っておるか。ならよかろう。わし、《怒号の石》が、ウルクハイ生産の秘技を知っている数少ない一人なんじゃよ。わしがいないと、槍があってもウルクハイの生産は無理じゃろて」
キュクレは、自らの生い立ちを話し始めた。キュクレは齢(よわい)八十二歳であるという。カイサリア盆地からそれ程遠くない山奥の村で生まれた彼は利発であった。ドワーフであるキュクレは、幼少より鉱山労働をしていたが、同時に本を愛した。キュクレは、一生の間で、二つの大戦争を経験した。ひとつがドワーフとドンバ王国の戦争、もうひとつが、ゴート、カリオン、ドンバの三国大会戦、ゴレンド戦争である。ゴレンド戦争は、直接、関わったわけではないが、この時、ウルクハイ生産の秘技に接したという。ゴレンド戦争では、あまり知られてはいないが、少数のウルクハイが作られたのだという。三百体のウルクハイである。これにより、ドンバ王国のドマルト家は滅亡をまぬがれたのだという。これが真相である。ウルクハイによる反撃で、カリオン、ゴートとの講和が成立し、戦争が終結したのである。ウルクハイ生産の秘技は、通例四人しか知らないという。オークのベーメン教の祭官と、ドワーフ一人と、ホビット一人と人間一人である。そのホビットというのは他ならぬ、あのケイレン・バギンズであるという。ケイレンは、わざと真相を隠していたようだ。このように秘技を知る者が、種族ごとに分かれているのは、機密保持のためであるという。それで、どうしたらいいのか、ということであるが、トリスタンは答えに詰(つ)まった。考えられるのは、オークの存在感の大きさだった。ウルクハイを生産しようとしているオークの意図が見え隠れする。誘導書(ガイウス)の目的が明白になってきた。しかし、なぜ、オークは、ウルクハイを生産するのか。考えられるのは、戦争準備である。ドンバにあったオルロンの槍は、何らかの理由と方法でオークが持ち去った。それは強奪という形ではなく、合意の上で、ベーメン教の祭官が呪言(マントラ)を唱えて槍を引き抜いて持って行ったと思われる。ドラゴンの磐座の下にある、オルロンの槍が安置されていた地下洞穴への入り口は、ドマルト家特有の呪文で開ける魔法錠(ウンシル)で閉ざされていたわけだから、プレシオス王が同意しないと、持ち出しは不可能なのだ。ドンバ国王・プレシオスは、オークと結び、再び、ウルクハイを生産しようとしている。その過程(プロセス)の一翼をトリスタンたちが担っていることになる。何か途方もなく大きな流れが、トリスタンたちを呑(の)み込んでいる。プレシオスが主なのか、ベーメン教祭官が主なのか、ゴルムントが主なのか、判然としない。暗く大きな陰謀が見える。カリオン王国への、ドンバ王国による復讐だろうかともロイスは考えた。トリスタンもルキアもそれに近い考えだった。
「おい、ルキア、あんた、何か隠しているだろう?」とロイスがルキアに詰め寄った
「わかっています。わたしの使命なんです。今まで黙っていてご免なさい」
「正直に話してくれないかな?」トリスタンは気の毒そうに言った。
「今のわたしが言えることは、ドワーフのキュクレさん、ホビットのケイレンさん、人間のトリスタンさんを、もう一度、ゴルムント僧官バラリア様の所に連れて行かないといけないということです」
「隠していることが、他にもあるだろう、はっきり言え」
「それは…。難しいんです」
「言え!わたしの主人の重大事だ」
「トリスタン、あなたは良い人、だから、わたしが死にます」
「何だって?」
「候補者は何人かいます…。本当のことを言って、この使命を失敗させたら、わたしには死が待っています、でも、それもいいかもしれません」
「おぬしが、この若者を助けたいと思っているなら、本当のことを話したらどうだね。わしにはわかっておる。避けられないということが」キュクレが優しく諭(さと)すように
ルキアに言った。しばらく沈黙があたりを包んだ。
「わたしは、黒輪の誉れの一員(メンバー)です。ウルクハイの生産には、人間の生き血が必要です。童貞で善人の生き血が最も適しているのです。ホビティアを使えるトリスタンさんは、最も良い候補です。生き血を提供する量によっては、トリスタンさんは死んでしまいます。ここで、わたしが、真相を言ってしまったので、わたしは、バラリアに殺されるでしょう。それでいいんです」
「ルキア、ありがとう。でも、僕のために、死ぬ必要はないよ。なんとかしよう。死なないでいい生き血の提供もあるんだろうから」
「あなたは優しい人ですね。あなたの生き血で優秀なウルクハイができるでしょう。提供者が優しい人であると、ウルクハイも優秀になると言われています」
「ルキア、あんたが本当のことを言ってくれたおかげで、僕たちは、あんたを守る義務が出来たと思う。ちがいますかね、トリスタンさん」ロイスが言った。
「そうだ。僕らで、ルキア、きみを守るよ。それは、僕が君と恋仲になるためではなく、純粋に友情のためだよ。心配しなくていい」
「トリスタンさん、恋愛ってものが分かってきましたね。恋愛ができる人は、恋愛は必要ないと思っている人だから。わたしも嬉しいですよ」ロイスが言った。
「ところで、ルキアとやら、なぜドワーフとホビットとオークと人間の秘儀が必要なのか、わかっているのかね?」キュクレが言った。
「わたしが知っているのは、人間の若者の生き血が必要だということだけです」
「ウルクハイの生産には、男の人間の若者の血と、男のオークの若者の血が必要じゃ。オークの血は誰の血でもよいが、人間の血は、適切な血と適切でない血がある。ドワーフとホビットとオークの秘儀は、オルロンの槍の覚醒に必要なのだよ。覚醒した槍でなければ、ウルクハイは生産できない。先代から資格を受け継いだ、ドワーフとホビットと人間が、オークのベーメン教祭官と共に、祈祷し、各々の血液を微量採取し、混ぜ合わせ、それにオルロンの槍の刃先を浸(ひた)すと、槍は覚醒する、刃先が乾くまで覚醒は続く。人間とオークの血を混ぜ合わせたものにオルロンの槍の台尻を浸し、雌馬の膣に、オルロンの槍を台尻から突っ込む。すると馬は、ウルクハイを身ごもる。約十二ヶ月で、馬はウルクハイを出産する。というわけじゃ」キュクレは静かに目を閉じた。
「ルキア、ウルクハイの生産に必要な人間の血は、何人分なの?」
「もうすでに血液の提供者が集められているみたいです。でも何人かはわかりません。十分な数、提供者が多ければ、もしくは、生産するウルクハイの数が少なければ、血液の提供者は死なずに済むでしょう」
「それが全貌だね。オルロンの槍の謎は、解けたわけだ。結局、黒輪の誉れは、オルロンの槍のための秘密結社だったのかい?」トリスタンが聞いた。
「男の人間の若者の血液を集めるための秘密結社といっていいと思います。黒輪の誉れの活動は、それを軸にして、複数ありますが、主に殺人です」ルキアが答えた。
「ルキア、これからどうするの?」トリスタンが再び尋ねた。
「オルロンの槍を覚醒させる秘儀に関わる人間は誰かわかるかい?」キュクレが口をはさんだ。
「ドンバ国王、プレシオスでは?」ロイスが言った。
「その通りじゃ。これでわかったであろう」
「戦争は、オークと結んだドンバ王国が、カリオン王国と、ゴート王国に対して起こすことになるのでしょうか?」とトリスタン。
「そうじゃろうな。ただ、何のための戦争なのかは、よくわからない」キュクレが答えた。
「死ななくていののなら、僕は血を提供しても構わないよ。ルキア、どう思う?」
「本当に助かります。そういう人は殺されずに済むんです」ルキアは泣き出した。
「わしからもお祝いさせてくれ」キュクレは、樽の中をまさぐると一声、「ほれ、オルロンの槍じゃ」一同はあっけにとられた。キュクレが取り出したのは、短剣ほどの大きさの祭具のようなものだった。
「わしがオークから預かっておったのじゃ。真相を話そう。オルロンの槍探しは、効率的に、血の提供者を集めるために仕組まれておったのじゃ。そして、実際はオルロンの槍を手に入れた志願者が、最も価値のある提供者、すなわち、おぬしのことじゃ。わかったかの?」キュクレは、にっこりと笑った。
ロイスは感心したように深く、うなずいた。
「これで謎が晴れたな。トリスタンさん、オルロンの槍探し、成功おめでとうございます。約束通り、イゾルデ姫は、トリスタンさんのものになるでしょう」
トリスタンの胸中は、複雑であった。トリスタンはルキアに心惹かれていた。
「もしよかったら、プレシオス王に、イゾルデ姫のことを辞退することにしようと思うんだけど」
「ルキアですか?原因は?」ロイスはが尋ねた。
「ルキアが僕のことをどう思っているかは、わからない。でも、この旅は、妻探しのためではなく、僕自身の成長のためにあったと思っている。ひとまず、プレシオス王に報告に行くことにしよう」
「ルキア、あなたはどう思っているのか?」
「わたしは、定めに従います。プレシオス王が決めてくれるでしょう」
「そうじゃない、君の気持ちだよ」ロイスがつめ寄った。
「わたしは、本当のことは言いません」
「どうして?」
「失うのが怖いから…」ルキアは下を向いた。
「女はこれだからいけない。ルキアはトリスタンさんに惚れていますよ。女とは自分勝手な生き物だから」ロイスは首をすくめた、ルキアは、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「めでたいな。こういうふうになるとは思わんかったわい」キュクレもにこにこしている。季節は、秋が終わり、冬になろうとしていた。
トリスタン、ロイス、ルキア、キュクレ、そして犬のナディは、ドンバ王国に戻った。「何でも屋」のドワーフのヘシオスとは別れた。キュクレは、ロンコイ逓信庁の郵便で、ホビットのケイレン・バギンズを、ドンバに呼び寄せていた。ルキアは、ゴルムント僧官バラリアに会わなければならないと言ったが、ロイスが許さなかった。一行は、イスファのゴルムント寺院、フリードラ寺院の前でまった。ほどなくして、ルキアはバラリアと一緒に姿を現した。バラリアはひどく落ち着いていた。これからゴリアマ城へ、プレスオス王に会いに行く所である。ケイレンは、すでにゴリアマ城に着いているようであった。
「とにかく、我が主、トリスタンさんに何かあったら私が承知しないからな」ロイスが念を押した。
「大丈夫です。トリスタンさんは、見事、試され、そして認められました。すなわち、ご自分の血を提供されることに同意いただいたわけですから」バラリアが言った。
「信用できない」
「トリスタンさんには、多大なる功績があります。トリスタンさんの決断は、他の血の提供者の命を救うことになりました。本来、ウルクハイ生産のための血の提供者は犠牲にされる予定でしたが、古くからの定めに従い、今回は、血の提供者全員が、生きたまま解放されます。しかし、ウルクハイの生産上限数が減少したので、ドンバ国王プレシオスが難をつける可能性があります。ゴルムント僧官であるわたくしとしては、このたびのドンバ王家との取引には満足しているということを告げさせていただいます」バラリアはゆっくりと目を閉じた。
プレシオス王の元には、すでに、ケイレンと、ベーメン教の祭官が到着していた。
「トリスタン、そしてその旅の仲間よ。このたびのこと、深く感謝する。あなたは、賢明にも自らの血を提供することとを厭(いと)わなかった。よって、他の地の提供者も生きたまま解放することになった。察しておるかもしれないが、ウルクハイの生産は、戦争準備のためである。心して聞いてほしい。勝利を確実なものにするため、もうひとつ頼みがある。ゴート王国にある、ケイロンの角笛を持ってきてほしい。それから、ケイロンの鉄製首飾りの鍛造法の写しを、カリオンの法王立図書館マンツィから取ってきてほしいのだ。娘のイゾルデ姫の辞退は相わかった。娘の代わりに、トリスタン、そなたに、ドンバ王国の貴族の称号を与えるものとする。どうかな?」
「戦争は、カリオン王国に対するものですか?お教えください、王よ」
「さよう、カリオン王国に対する戦じゃ。トリスタン、そちの故郷であるな、カリオン王国は。どうする?父上は、ゴレンド戦争で、ドンバについた。その功績も併せて認めたい。父上と相談してはどうかな?」プレシオス王はあごひげをひねった。
「父と相談するために、一度、カリオンに戻ってもよいでしょうか?」
「よいが、一つ提案がある。トルホンというデマストス騎士修道士を知っておるな。彼を頼り、一旦、デマストス騎士修道会の見習い修道士の身分になってもらいたい。というのは、カリオンに対して戦端を開くことは、極秘事項であるし、ケイロンの鉄製首飾りの鍛造法の写しを、マンツィで手に入れるのにも好都合であるからだ。また、それに続いて、ゴート王国から、ケイロンの角笛を取ってくる時も、デマストス騎士修道会の身分は役に立つはずじゃ」
「わたくしは、結婚を志す者です。デマストス騎士修道会は、会士に童貞であることを求めます。ご意向には添いかねますが」
「あくまで見習い修道士じゃ。結婚を志す貴族の子弟として、見習い修道士になることは自然なこと。そちには、貴族の称号を授ける。これは正式な貴族の称号であり、正式なあなた方の家名ともなる。ホミルよ、トリスタンの貴族家名は、どうする?」ホミルは、宰相であり、宮廷魔術師でもある。
「ゴランザはどうでしょうか?」
「ゴランザか、その理由(わけ)は?」
「ゴランザとは、古代ドンバの豪族の名前です。カリオンからのドラゴリス法王座奪還の記念としてはいかがでしょう?」
「トリスタン、そちに言っておく。この戦争は、ドラゴリス法王座を巡るものなのだ。古来、ドラゴリス教は、ドンバ王国にて創始されたもの。あるべきものが本来の主(あるじ)の元へと戻るわけである」
「トリスタンさん、本気でデマストス騎士修道会の見習の修道士になるつもりですか?」
「父と相談してみないとわからないな」
「父上に相談する前に、デマストス騎士修道会に入ってもらう必要がある。すまんが、事態は切迫している。わかってくれ」
「わかりました。父とドンバは近い関係にあります。わたくしは、結婚を志す者でありますゆえ、あくまで見習い修道士としてしか活動しなくてよい条件でお引き受けしましょう。たしか、ケイロンの…」
「ケイロンの角笛と、ケイロンの鉄製首飾りの鍛造法じゃ。ケイロンの角笛とケイロンの鉄製首飾りの使用法は、すでに知っておるからよしとする」
「ルキア、これでお別れだね。ルキア、ロイス、これからどうするの?」
「そんなに簡単に女の子に別れを告げていいんですか?見た所、相思相愛のようですね」ロイスがうそぶいた。
「ルキアにもルキアの事情があると思って」
「プレシオス王よ、わたくし、ロイスと、ルキアを、トリスタンさんの従者として、側に置かせていただくこと、叶いませんでしょうか?」
「それは、我々が決めることでなく、おぬしらで決めること。口出しはすまい」
つづく