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第八章 イゾルデ

イスファに到着したのは薄暮の刻であった。季節は桜咲く春。トリスタンのオルロンの槍探しが始まってから丁度一年が経とうとしていた。ドンバ王国首府イスファの街並にトリスタンは旅情を感じた。旅情というのは、「死」と関係のある感情であることをトリスタンは知っていた。ゆえに幼少期に人が旅情を感じることはない。

トリスタンとロイスとルキアとナディとトルホンは、デマストス騎士修道会の専用馬車で、ドンバ国王プレシオスの居城ゴリアマ城の城門をくぐった。ウルクハイ製造のために厩舎が拡張されていた。こやしのにおいが少しした。石畳(いしだたみ)に馬車の車輪と馬の蹄鉄(あしあと)が響いた。トリスタンたちが馬車から降りると、数名の衛兵が出迎えた。早速、プレシオス王が会いたがっているようだった。王座の間で、トリスタンたちはプレシオス王に謁見(えっけん)した。
「旅の首尾(しゅび)はいかがなものかな?」プレシオス王は顎(あご)ひげをひねった。
「ケイロンの角笛と『ケイロンの秘儀』を手に入れました。こちらです」トリスタンはトルホンから二品を受け取り、プレシオス王に渡した。
「大儀であった。ホミルをこれへ」ホミルはドンバ王家の宰相であり、宮廷魔術師である。ホミルは奥の間から現れ、プレシオス王としばらく相談していた。
「ケイロンの角笛と『ケイロンの秘儀』、たしかに受け取った。深く礼を申す、トリスタン」
「恐悦至極に存じます」トリスタンは頭を下げた。プレシオス王はホミルにケイロンの鉄製飾りの試作品を製造するように命令を出した。ホミルは『ケイロンの秘儀』を受け取って退出した。
「トリスタンとその仲間たち、ゴート王国はいかがであったかな?ルキアと申したか、確か」
「生まれて初めてゴート王国の首府メンファに参りましたので、とても貴重な思い出となりました。珍しい物産(ぶっさん)が色々とあり、またいつか行きたいと思いました」
「ロイス、貴殿(きでん)はどうであったか?」
「わたくしはかつてゴート陸軍に居(お)りましたので、ゴート陸軍の軍営に寄りたかったのですが、トルホンに制止されました。戦争準備のためです」
「それは残念であったな。ゴート陸軍には友人が居るのであろう? ドンバ兵としてゴート軍と戦うことは、ロイスの考えにはないのであろう?」
「わたくしは、トリスタンさんともうしばらく共に日を重ねたいと思っております。トリスタンさんがドンバ軍に参加するのであれば、わたくしのドンバ軍への従軍も検討しなければなりません」
「ロイス、ロイスは自分の道を進めばいいんだよ。ロイスは僕の従者というわけではないのだから」トリスタンが応えた。
「トリスタンさんが結婚するまでは、なんだか心配で。せめて彼女くらい出来ないと。オルロンの槍探しが思ったより早く終わったんで、懐(ふところ)具合もいいんですよ。わたしを一緒に置いていただけませんか?トリスタンさん」
「もちろんいいけれど、本当に大丈夫?」
「あと一年か二年かは路銀(ろぎん)がもつと思います。それでも間に合わなかったらゴランザ武器商の下働きでもさせてください」
「おカネの問題じゃなくて、ロイスの人生の問題だよ。僕のために、ロイスの大事な時間を使っていいのかな」
「わたしはトリスタンさんに『つき』を感じるんです。トリスタンさんはホビディアも使えるようになったし、オルロンの槍も手に入れました。わたしはトリスタンさんといると運気が上がる気がするんです」
「ありがとう。嬉しいよ。じゃあお願いします、ロイス」
「ルキア、きみはどうするんだ?」とロイス。
「わたしはゴルムント僧官バラリア様の意向に従います。トリスタンさんとはおそらく別れないといけないと思います」
「ルキア、きみはトリスタンさんと結婚するんじゃないのか?」ロイスが詰め寄る。
「トリスタンさんのことは好きですが、恐らく結婚は難しいのではないかと思うんです」
「ゴルムント僧官バラリアが許可したら?」
「そしたら結婚できます」
「じゃあ、今日というわけにはいかないが、そのうち一緒にフリードラ寺院のバラリアに会いに行くことはできるか?」とロイス。
「できます」
そこでプレシオス王が身を乗り出してきて言った。
「実はわたしの娘、イゾルデがトリスタンに会いたがっているんだ。トリスタン、イゾルデに会ってみないか?」
「会ってみてもいいですが…。ロイス、どう思う?」トリスタンが寂しく言った。
「ルキアはルキアの事情があるでしょうから、トリスタンさんがイゾルデ姫に会うのは間違いじゃないと思いますよ。トリスタンさんの相手はルキアだけではないですよ。トリスタンさんがルキアのことを好きなのは、わかりますが…」
「プレシオス王、わたくし、トリスタンは、好きになった女性と恋仲になれないという宿命を持っています。それでも、イゾルデ姫に会ってもいいでしょうか?」
「案ずるより産むが易し。トリスタン、まずはイゾルデに会ってみなさい」
「わかりました」
「旅から戻ったばかりで少々、疲れているであろうが、客間(ゲストルーム)で、しばらく休んだら、夕食を共にしよう。その宴席に、イゾルデを呼んでおくつもりだ。今晩はゴリアマ城に泊まっていきなさい。トルホン、話がある。残ってくれ」
衛兵二人が、トリスタン、ロイス、ルキア、ナディを先導した。一行は客間(ゲストルーム)へと連れていかれた。客間(ゲストルーム)には、タンス、クローゼット、ベッドなど簡単な家具が備えてあった。近くに温泉が出る浴場があるので、使ってよいと衛兵に言われた。浴場にはルキアが先に入り、後でトリスタンとロイスが入ることにした。

ルキアの胸中は複雑であった。血の提供者とは一緒になってはならないという暗黙のルールが黒輪の誉れにはあったのだ。しかし、ゴルムント僧官バラリアは黒輪の誉れの真相をルキアがトリスタンたちに語ったことに対してさしたる注意を払わなかった。死を覚悟していたルキアは意外だった。したがって、ひょっとするとトリスタンと付き合い、結婚してもいいと、バラリアから許可されるのではないかとルキアは静かに期待していた。ルキアはトリスタンのどこを好きになったのか。ホビディアを使えるようになったとか、オルロンの槍を手に入れたとかは、あまり重大ではなかった。当然すぎるかもしれないが、トリスタンの優しさにルキアあ惹(ひ)かれていた。恵まれない少女期を過ごしたルキアには、家庭での愛情を十分に受けて育ったトリスタンは、まぶしく映った。

ルキアが浴場から戻ってきて、トリスタンとロイスが共に浴場に出向いた。
「ロイス、ルキアって本当に僕のことを好きだと思う?」
「それは好きでしょう。本人もそう言っていることだし、でも、結婚となると別ですよ。どんなに好きでも結婚できないことはよくあります。トリスタンさんは恋愛と結婚を一緒に考えるから。確かに男と違って女は、恋愛をする時に同時に結婚のことを考えることが多いですけどね」
「ロイスは結婚したいと思ったことはないの?」
「うーん、あまり人には言わないのですが、トリスタンさんだから言いますけど、一度だけ本当に結婚を考えたことがあります。その相手の女の人は死にました」
「僕にそのことを言った理由は?」
「トリスタンさんが真面目(まじめ)に結婚を考えているからでしょうね」
「どうして人にあまり言わないの?」
「誤解されるからですよ、特に女の人には言わないようにしています」
「詳しくは聞かない方がいい?」
「ルキアがいないから話しますよ。風呂に入りながらでも」
浴場にはトリスタンとロイス以外は誰もいなかった。ロイスは湯船に浸(つ)かりながら、ゆっくりとトリスタンに話し始めた。ロイスが三十六歳の頃、つまり十年ほど前になるが、相手はパンクロイド(三王国合同の武術大会)の女子レスリングの選手だったという。出会いのきっかけは、酒場での軟派(なんぱ)だった。ドンバ人のその女が女子レスリングの選手と聞いて驚いた。たしかに体格は良いが、かなりの美人だった。ゴート陸軍の正規兵として働いていたロイスは休暇でドンバに来ていた。女は名をクオリアと言った。クオリアは、ロイスにとっては、いわゆる「ドンピシャ」であった。最初に声をかけた時からクオリアは特別だった。ロイスは今でもその胸の高まりを忘れていないという。少し話しただけで、二人は驚くほど気があった。女の常として、その時のクオリアは、あからさまに好意をロイスには見せなかったが。顔のつくりだけでなく、体つきも、クオリアは、ロイスにはグッとくるいい女であった。ロイスは心の中に「焦り」を感じた。そんな風になった相手は、ロイスはクオリアが最初で最後だった。とにかく最初の出会いはあっという間に終わった。一時間か二時間だったはずだが、ロイスにとっては十五分ぐらいに感じられたという。ロイスはゴート陸軍の軍営の住所とドンバ王国の宿屋の住所をクオリアに教えた。クオリアはロイスには自分の住所を教えなかった。しかし、ロイスは満足していた。いわゆる「脈」はあったのだ。今度のパンクロイドの女子レスリングの試合を見に行くとロイスはクオリアに約束した。試合の結果、クオリアは準優勝であった。二回目に二人が会ったのも同じ居酒屋だった。ロイスが居酒屋の主人に聞くと、クオリアが店に来るだいたいのパターンがわかったので、二人は造作なく再開した。ロイスは偶然、再開したように見せかけたが、クオリアは真相をすぐに見抜いた。今度は、クオリアはロイスに自分の住所を教えた。休暇中、ロイスは合計で五回くらいクオリアにあった。居酒屋だけでなく、劇場や軽食屋や料理店のこともあった。ゴート王国に戻ったロイスは、クオリアに手紙を書いた。ロンコイ逓信庁を介した文通は月に一度くらいの頻度で一年ほど続いた。その後、一度、クオリアはゴート王国首府メンファのゴート陸軍の軍営にロイスを訪ねたことがあった。そこまで話してロイスは深く溜め息をついた。ロイスはこの最後のクオリアとの出会いを深く後悔しているようだった。ロイスはゴート王国正規兵の友人から勧められた通り、メンファの高名な呪術師に、クオリアと一緒に会いに行った。二人は必ず結婚できるという秘技を受けた。その呪術師は男性で黒魔術師だった。その後、クオリアはドンバに戻ったが、三ヶ月後に死んだ。死因は自殺だった。クオリアの友人がロイスに手紙を寄こした。それ以来、ロイスは黒魔術を止めた。ロイスは結婚はしないことにした。そして、罪滅ぼしのため、四年に一度の三王国合同の武術大会パンクロイドの女子レスリングで賭けをして全財産を処分することにしていた。
「来年、パンクロイドがあるけど、やっぱり賭けをするの?トリスタンが尋ねた。
「この罪滅ぼしを、いつまで続けるかですが、体が丈夫なうちは続けたいですね」
「ロイスって純愛をしていたんだね。意外に思われることも多いんじゃない?」
「だから人にはこの話は普通はしないんですよ。クオリアは本当に良(い)い娘(こ)でした。忘れられないんです」
「トリスタンさんのご両親は、どうやって結婚したんですか?」
「お見合いだよ」
「そうですか」
風呂上がりのトリスタンとロイスは、客間(ゲストルーム)に戻った。
「お風呂、随分、長かったじゃない。何か話し込んでたの?」ルキアが尋ねた。
「男同士の野暮話(やぼばなし)だよ」ロイスが答えた。
「夕食、アメリ姫も来るらしいわよ」
「そうなんだ。ルキア、アメリ姫について何か知ってる?」とトリスタン。
「綺麗な人だけど、精神病で、時々しか話さないみたい。知能は正常みたいよ」とルキア。
「イゾルデ姫については?」とトリスタン。
「トリスタンの方がよく知っているんじゃない?」
「僕が知っているのは、イゾルデ姫が、男優(おとこまさ)りの美人だったっていうことだけだよ」
「とりあえず今はそれだけ知っていたら、十分だと思うよ」
「わかった」
夕食は、ゴリアマ城の食堂《グールマートの間》で行われた。夕食の参加者は、プレシオス王、カナルディア王妃、アメリ姫、イゾルデ姫、宰相ホミル、トリスタン、ロイス、ルキア、犬のナディ、デマストス騎士修道会士トルホンであった。料理は、オリーブオイルと酢と黒胡椒(くろこしょう)仕立てのキュウリとキャベツとトマトとカシューナッツとエリンギ(キノコ)のサラダと、カツオだしに味噌(みそ)を溶いた鯛(たい)の汁物、みりんと醤油で炒めた鶏肉の手羽先とニンジン、精米した白ご飯であった。ナディには鶏肉の胸肉が与えられた。箸(はし)で食べた料理は大変、美味であった。アメリ姫は始終、無表情であったが、ルキアと目が合うと、にっこりと笑った。アメリ姫が笑うのは珍しかった。カナルディア王妃は年齢は五十代くらいに見え、ブルーの夜会服(イブニングドレス)を着た美人だった。イゾルデ姫は、髪をポニーテールにしてシュシュでまとめていた。トリスタンは、イゾルデを見て、ドキッとした。イゾルデはトリスタンの好みのタイプだった。ルキアと結婚したいと考えていたトリスタンには大きな心の動揺だった。ルキアとイゾルデは、席が近かったので、親しく話していた。トリスタンはイゾルデと話をしたいと思っていたが、ホミルが話しかけてきて、タイミングを失っていた。ホミルは、トリスタンに、人を殺したことがあるか、と尋ねた。トリスタンは、ない、と答えた。ホミルは、強いるつもりはないが、トリスタンは武器商人となるわけだし、武の道を知るためには、人を殺すということも大事だと説いた。父、グレオスが人を殺したことがあるのを、トリスタンは知っていた。グレオスが殺したのは山賊だったのだが、エゴルディア大陸では、経験として、人を殺すということは、普通とまではいかないが、やや一般的なことであった。ホミルから、人を殺せるか、と聞かれたトリスタンは、母ジェシカは反対するかもしれないが、やろうと思えばできるはずだ、と答えた。その時、イゾルデがトリスタンに話しかけてきた。
「トリスタンさん、ルキアと結婚したいんですか?」
「できれば結婚したいけれど、無理なら仕方ないですね」
「ルキア、無理なの?」
「ゴルムンと僧官バラリア様次第だけど、多分、難しいと思います」
「オルロンの槍を持ち帰ったトリスタンさんには、わたし、イゾルデをもらう権利がありますよ。どうですか、トリスタンさん?」
「ルキアが無理だったら、考えさせて下さい」
「なかなか律儀(りちぎ)ですね、トリスタンさん」イゾルデ姫が言った。
「わたし、イゾルデは、見た目も性格も男っぽいけど、大丈夫ですか?」
「僕は、ボーイッシュな女の人は、もともと好きなんです」
「あんまり大した女じゃないけど、よろしくお願いしますね」イゾルデが微笑(ほほえ)んだ。
夕食が終わり、トリスタンたちは一泊して、ゴリアマ城から退出した、一行は、フリードら寺院のゴルムント僧官バラリアに会いに行ったが、トリスタンとルキアの結婚は無理だと言われた。トリスタンは覚悟はしていたが、やはり元気を失った。トルホンとルキアと別れたトリスタンとロイスは、トリスタンの両親の新しい家であるゴランザ邸に戻った。
「ルキアとキスぐらいできればよかったですね、トリスタンさん」ロイスが言った。
「ルキアはいい娘(こ)だったよ。思い出を作れただけでもよかった」
「一応、相思相愛でしたしね、トリスタンさんとルキアは。結婚は、やはり色々と条件があって難しいですね」
「ロイスはイゾルデのこと、どう思う?」
「イゾルデとは、ほとんど話ができなかったので、自信を持っては言えませんが、容姿からすると、なかなか気骨のありそうな女の人ですね。トリスタンさんはイゾルデのことをどう思っているんですか?」
「実は、見かけも性格も、ドンピシャなんだよ」
「それはよかったですね。オルロンの槍のこともあるし、おめでとうございます」
「なんとなくルキアに申し訳ないような気がしてね」
「そんなのは気にしなくていいですよ。ルキアはルキアで割り切っていると思いますよ」
「そうかな」
トリスタンはルキアとイゾルデのことを考えた。顔のつくりからするとルキアの方が美人かもしれない。しかし、イゾルデも顔と体つきの全体が性的なエロティシズムの感をトリスタンに与えていた。ルキアに対するトリスタンの愛情が人間的とすれば、イゾルデに対するトリスタンの愛情は動物的であった。動物的とは、意識的というより本能的という表現が合うであろう。黒輪の誉れに代表されるようなルキアの苦しい生い立ちと、ドンバ王家であるドマルト家の豊かな境遇であるイゾルデの恵まれた生い立ちは、対照的であった。トリスタンは、女に対する義侠心(ぎきょうしん)から、イゾルデよりルキアと結ばれたいという自身の心理的傾向に気づいていたが、ゴルムント僧官バラリアの意向には逆らえなかった。トリスタンは、イゾルデと接してからまだ間もないため、トリスタンとの恋愛や結婚は確とした形を持っていなかった。オルロンの槍の獲得者であるトリスタンの権利は、イゾルデとの結婚について一定の保証を与えていたが、トリスタンは、それでも安心できずにいた。
トリスタンが、ロイスと母ジェシカと父グレオスとともにドンバのゴランザ邸で過ごしてから一週間ほどが経ったある日、ドンバ王家のゴリアマ城から、ドンバ軍の百人隊長(センチュリオン)をしているというゴードンという男が訪ねてきた。ドンバ王家宰相ホミルの使いだという。用向きは、トリスタンによる殺人であった。ゴリアマ城での夕食会の折にホミルがトリスタンに、人を殺せるか、という問いに、トリスタンは、できる、と答えていたが、果たして、丁度、処刑が必要な罪人が出たという。トリスタンは、父グレオスと母ジェシカに相談した。グレオスは殺人に賛成したが、ジェシカは殺人に反対した。しかし、ゴードンの強い勧めで、トリスタンは生まれて初めて人を殺すことになった。明後日の夕方にゴリアマ城の裏門に来るように、ゴードンはトリスタンに告げた。処刑の道具であるが、オルロンの槍探しの際にグレオスがトリスタンに渡した銀製の短剣「ロッド」が選ばれた。グレオスに人を殺すのは恐(こわ)くないかと聞かれたトリスタンは、苦しめて殺すのは忍びないので、頸動脈を切って楽に死なせるつもりであると答えた。トリスタンらしいなとグレオスは溜(た)め息をついた。ジェシカはトリスタンに、処刑の際には、黒龍ドリスカルドに祈りを捧げるようにと約束してほしいと頼んだ。トリスタンはジェシカの母らしい気遣いに感謝して両手を合わせて合掌(がっしょう)した。ロイスは、その場に居合わせなかった。

後でその話を聞いたロイスは驚いた。人を殺す経験は武人には必要であるが、武器商人には必ずしも必要ないのではないかというのがロイスの考えであった。百人隊長ゴードンのことなら知っているとロイスは言った。ゴードンの年齢は七十歳近くらしい。ゴードンは信用できない男ではないらしい。ロイスはトリスタンの武術を高く評価していた。しかし、トリスタンには何となく自信が足りない所がある。それはもしかすると、人を殺したことがないためかもしれないとロイスは言った。ロイス自身には人殺しの経験はあるという。ゴート王国の正規軍兵士として勤務中、付近の山賊討伐作戦の際のことであるという。殺しをするかしないかはトリスタン次第であるが、殺しというのは、あまり気持ちの良いものではない、というのがロイスの考えであった。

百人隊長ゴードンとの約束の日の夕方、トリスタンとロイスはゴリアマ城の裏門へと向かった。裏門にはゴードンとホミルが待っていた。頭に麻の袋を被せられた囚人と思しき人物の姿もあった。
「覚悟はできましたかな、トリスタン?」宰相ホミルがトリスタンに訪ねた。
「できるだけ酷にならず、短時間で済ませようと思うのですが、よろしいですか?」
「殺し方はお任せする。納得のいく殺しをしてください」ホミルが答えた。
「こちらへ」ゴードンが、階段下の刑場へと案内した。囚人はゴードンに突き動かされて、ひざまずいた。「どうぞ、トリスタン」ゴードンが言った。トリスタンは銀製の短剣「ロッド」を取り出した。トリスタンは囚人の頭に被せられた麻袋を動かし、囚人の首をむき出しにした。首の感じからして、囚人は女性のようだった。トリスタンが一応「囚人は女ですか?」と聞くと、ホミルは「そうです」と答えた。トリスタンは囚人の頸動脈を手で探り当て、短剣「ロッド」の剣先を突き刺した。血液がどっとほとばしり、囚人はしばらくして事切れた。ホミルが囚人の顔を見せたいといい、囚人の頭に被せられた麻の袋を取りのけた。囚人の顔はトリスタンの見覚えのあるものだった。なんと死刑囚はイゾルデだった。
「この人はイゾルデですよね?」トリスタンがホミルに訪ねた。ロイスも仰天している。
「さよう。この女はエルフでした。イゾルデは死なないといけなかったのです。ゴレンド戦争の原因です。あなたは立派なことをしました。イゾルデ自身もあなたトリスタンに殺されることを希望していました。ドンバ王国としては正式に貴君に感謝します」
「ロイス、僕は自分の宿命の重さを感じるよ。僕は絶対に手に入らないものを求め続ける愚か者だと思う。僕は自分の宿命を変えることができないのだろうか」