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思索とアートとヘアカット
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第十章

家に帰った郁美は、カバンを放り出し、テレビをつけて、畳のうえにゴロンと横になった。郁美は、バレーの部活が六時半に終わって、七時半に帰ってきた所である。今日の練習を振り返ってみると、みんなサーブのレシーブの正確さがまだ足りないと思った。郁美が入部した当時より、ハードな練習で部員たちの体力はかなり上がったと思うのだけど。郁美は置きっぱなしになっていた先月買ったファッション誌を拾い上げて、ぱらぱらとめくった。郁美は高校に入ってからファッション誌を買うようになった。中学時代は部活が忙しすぎて、そういったことに気が回らなかった。ファッション誌は、郁美がそれまで置き忘れてしまっていた女の子の雰囲気でいっぱいだった。そんな雑誌に載っているような服を、郁美は少ないが何着か持っていた。それとお気に入りのブーツを一足。どれもお小遣いをためて買ったものだ。それから趣味でシルバーアクセサリを作っている中学時代の友達からもらった、ネックレスと、ピアスをいくつか。それらをうまくくみあわせて部活のない休みの日に友達と街を出歩くのが高校生になってからの郁美の楽しみだった。髪もヘア雑誌を見るようになったし、小さいころから中学校を出るまでずっと通っていた床屋をやめて、友達に紹介してもらった美容室に通うようになった。そんなふうに「変身」した郁美を見て、父親の良治は「郁美は母さんに似てきたな」と言った。郁美の母親の一枝は郁美が八歳のときに白血病で死んだ。郁美の記憶に残っている母親は若々しくて綺麗な人だった。家に残っている写真を見ると、郁美の母は少しウェーブをかけたロングヘアをひとつに束ねて胸にたらしている。今の郁美とは髪型が違うが、言われてみれば、なるほど郁美と顔つきが似ている。特に目元と鼻の形がよく似ていた。

郁美はテレビを見るともなし見ながら、小平順一のことを考えた。男の子から愛の告白をされたことはこれで二度目だ。一度目は、中学二年生の時だった。最初に告白された時の相手の男の子とはもともと一年の頃から同じクラスで仲の良かった友達で、短い期間ではあったが付き合ったこともある。しかし、郁美の部活が忙しすぎてあまり相手にできなかった。その男の子は郁美の初体験の相手でもあった。その男の子と初めてキスをした同じ週に郁美はその男の子と親たちが出払って誰もいない男の子の家で昼間に交わった。郁美はその男の子が好きだったが、その男の子は、郁美があまりに部活に忙しくて相手にしてくれないのを見かねて、付き合い始めて四ヵ月後に郁美に別れようと言ってきた。郁美にとっては部活をとるか恋愛をとるかの境目だったが、郁美は涙を飲んで部活を選んだ。全国大会に参加できるほどのバレー部で有望視されていた郁美は部活を選ばざるをえなかった。それに郁美はバレーボールが好きだった。しかし、よりによって小平くんが郁美のことを好きだとは。郁美は意外だった。小平くんは郁美と同じクラスでも、どちらかというと存在感のない生徒だった。郁美のことを好きだと思わせるような素振りを、小平くんはクラスで一度も見せたことがない。だって、今まで郁美は小平くんとほとんど話をしたこともなかったのだ。バレー部の部活の様子をこっそり見に来ていたのは、一ヶ月前から知っていたが、小平くんのお目当ては、てっきり、郁美の学年で特に男子から人気のある山口香織だろうと思っていた。たしかに高校に入って、お洒落に気を使うようになったけれど、郁美は自分がもてる女だとは一度も思ったことがない。性格だって男っぽいし、顔にもあまり自信がない。高校に入ってできた郁美の親友の原里藍利からも、郁美の顔はカワイイけどちょっと男っぽい顔をしていると言われたことがある。郁美は自分にある男っぽいところを気にしていた。もっと女らしくなりたい。郁美はそう思っていた。それは郁美が小さい頃、お母さんのことが大好きだったことと繋がっているようだ。大きくなったらわたしもお母さんみたいになりたい。それが郁美の夢だった。しかし、二人の兄の影響で、郁美は小さい頃から男の子と一緒にドッジボールとかサッカーとかそういう男の子っぽい遊びばかりしていた。お母さんみたいになりたいと思う反面、男の子らしい遊びが好きだった郁美は、自然と男の子のような性格になっていた。郁美は何事もさっぱりと割り切って考えるほうだった。ねちねちと考えるのは苦手だった。小平くんが好きな人を言わない時のことを考えて、ちょっと意地悪だけど、ふたつ年上のお兄ちゃんが野球部の時に使っていたバリカンを持っていったのも別に深い考えがあったわけではない。郁美は去年までお兄ちゃんに頼まれて、お兄ちゃんを月に一度はバリカンで坊主にしていた。慣れないうちは面倒だったけど、慣れてくるとバリカンをかけるのが好きになった。刈った髪がバサバサ床に落ちていくのがすっきりして気持ちいい。だけど、小平くんを坊主にしようと思っていたわけではない。ただ、たいていの男の子は坊主にするというと嫌がるということを知っていたから、半ば遊び心で持っていっただけだ。使うつもりはなかった。小平くんを坊主にしたのは成り行き上そうなってしまったわけで、悪いことをしたかなあと郁美はちょっと反省した。小平くん傷ついてないかなあ。女子たちに押さえつけられて、無理やり坊主にされちゃったから。まあ、バレー部のメンバーには今日のことは誰にも言わないようにと言っておいたし、小平くんも郁美のことが好きだって言うから親や先生には何も言わないと思うけれど。明日、小平くんに会ったら、一応、あやまっておこうかな。そう思って、郁美は立ち上がった。そろそろお父さんが帰ってくるから、夕食を作っておいてあげよう。郁美の兄たちが高校を卒業してひとり立ちして家を出て行ってから、郁美は父親の誠一と二人で生活していた。誠一は早く帰ってきた時や、休みの日になると夕食を作ってくれたが、それ以外の日の夕食は郁美が作っていた。今日は豚の生姜焼きだ。昨日、豚肉を買っていたので、料理するだけだ。後はキャベツの千切りに味噌汁でもつけておけばいいだろう。ご飯はタイマーでセットしてもう炊き上がっている。


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