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思索とアートとヘアカット
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第八章

順一は本心状態だった。自分の受けた侮辱とも屈辱とも言える郁美の行為が一体何であったかも自分ではよくわからない有様だった。順一はいましめを解かれてから、その後どうやって家まで帰ったかよく覚えていない。ちょうど熱病にかかったように朦朧とした意識の中でいつのまにか自分の家の洗面所にいた。鏡の中には青々とした坊主頭の自分がいた。頭を手で触ってみるとザラッという独特の感触がした。それが自分の頭であるということが信じられなかった。タワシのようである。順一は小さいころから丸刈りにされることを極度に恐れていた。順一が中学から現在の私立の学校にいるのも丸刈りにされたくなかったからだった。順一が普通なら行くはずだった公立の中学校の男子は丸刈りと決まっていたわけではなかったが、順一には公立中学というと、男子が悪いことをすると体罰などで丸刈りにされるというイメージが頭にあったのだ。しかも、入学説明会で配られた説明には男子の髪型は丸刈りが望ましいとあったのだ。順一は小学校の四年ごろから塾に通って本気で勉強をし、見事、進学校である私立の中学校に入ることができたのだ。順一はなぜそのように丸刈りを恐れたのだろうか。それは次にあるような思い出のためかもしれない。

順一は小学校の低学年ぐらいまで当時四十代だった母方の祖母に髪を切ってもらっていた。母の妹である叔母は順一と十歳しか離れてはおらず当時は高校生だった。叔母さんというよりもお姉ちゃんのようだった。彼女はもちろん祖母と同じ家に住んでいた。順一はもともと髪を切られるのがどうも好きではなかった。だが、母に連れられて祖母の家に来ると、ときどき順一は祖母に髪を切られていた。その時、きまってこのお姉ちゃんは楽しそうに祖母の散髪の手伝いをするのである。祖母に髪を切られるときは、首にケープのようなものを巻くのではなく、チラシを切る髪の下のところにもっていって、落ちてくる髪の毛を受け止めるのである。祖母がぼくの髪を切っている間。順一の母やお姉ちゃんはこのチラシを持って落ちてくる順一の髪を受け止めていた。そのときにお姉ちゃんはよく順一に「順一くん、坊主にしたら?」と言ってきた。順一はそのたびに「いやだ」と言っていた。するとあるときお姉ちゃんは、順一の髪を切っている祖母に「ねえママ、坊主にするなら、やっぱりバリカンよね」と言い、「電動式のバリカンは吸うように髪が切れるんだって」とおねだりするようにつけ加えた。どうやらお姉ちゃんはどうしても順一をバリカンで坊主にしてみたかったらしい。幸いなことに順一は祖母に坊主にされることはなかったのだが、このときの体験の影響で、以後、順一は髪の毛を坊主にされることに対して普通の男の子が感じる以上の恐怖感を持つようになったのではないか。実はお姉ちゃんも小学生の頃までこの祖母、つまり彼女にとっての「ママ」に髪を切られていたそうである。順一が祖母に髪を切られていた当時、お姉ちゃんはもうすでに背中の真ん中ぐらいまであるきれいなストレートのロングヘアだったが、「ママ」に髪を切られていた頃のお姉ちゃんは、写真を見ると、前髪は眉の上で、横と後ろは耳たぶのあたりでまっすぐにすっぱりと切りそろえられたワカメちゃんのようなオカッパ頭だった。お姉ちゃんはそのワカメちゃんカットが恥ずかしくてとても嫌だったらしい。それで中学生になってからは、順一の母が祖母に「髪を伸ばさせてあげたら」と言ったこともあって、ロングヘアにするようになったという。

またこんなこともあった。順一は小学校低学年、つまり小学校一年生から三年生までの間、光岡先生という女の先生が担任をするクラスにいた。順一の小学校は二年ごとにクラスと担任が変わるようになっていて、普通なら一年生と二年生は同じ先生で、三年生になると別の先生に変わるはずだったのだが、偶然、順一は三年生も光岡先生が担任をするクラスに入ったのである。そして、光岡先生は順一が四年生になるとの小学校へ転勤となった。だから順一は一年生から三年生まで光岡先生のクラスにいたことになる。光岡先生は当時、二十六、七才であった。肩まである髪にソバージュパーマをかけていてつむじのあたりにバレッタをつけて髪をまとめていた。くっきりとした二重まぶたで目が大きかった。そして先生用の呼び笛を首にかけていてジャージを着ていることが多かった。光安先生は男の子の丸刈りが大好きだった。よくクラスの男の子が自分の髪の毛をハサミで切ったり、女の子の髪をひっぱったりしていたずらをすると、きまって光安先生はその男の子に「そんなことするんだったら、先生がバリカンで坊主にしてあげるわよ!」と言ったものである。またそれまで普通に髪を伸ばしていた男の子が青々とした丸刈りにして恥ずかしそうに学校にやってくると、光岡先生はとても喜んで「あらっ、さっぱりしたわねー。かっこいいじゃない!」と言って、手でその男の子の刈りたての青々した丸刈りをぐりぐりとなでまわしてにこにこ笑っていた。また、休み時間に教卓とは別に教室の隅にある先生の机に何人かの生徒たちが集まっておしゃべりをしていたときに、忘れ物をした人に何か罰を与えないといけないという話になったのだが、そのとき光岡先生は「忘れ物をしたひとは、頭を丸くする!」と笑って言った。順一たちがまだ「頭を丸くする」という意味がよくわからないと知って、光岡先生はちゃんと説明してくれた。「頭を丸くするっていうのはね、丸坊主にするってことよ。バリカンでウィーンって」と、手でバリカンを持つ真似をして、楽しそうに話していた。順一は本当にそうなるのではないかと内心、心配していたが、忘れ物をしたのが女の子だったらできないということで実現されなかった。それからこういうこともあった。田山くんというスポーツの得意な男らしい男の子がいた。彼はいつもスポーツ刈りにしていたのだが、そのときはずいぶん散髪に行かずに髪を長く伸ばしていた。すると、光岡先生は「田山くん、髪、伸ばしているでしょ。光ゲンジの諸星くんのまねしているの?」と田山くんに言った。田山くんが髪を伸ばしていると返事をすると、光安先生は「ダメ、坊主!」と言い放った。光安先生は本当に男の子の丸刈りが好きだったのだろう。順一はもうこの頃すでに丸刈りにされるということを極端に恐れていたので、光岡先生が丸刈りについて話す時にはドキドキさせられた。

これらは順一にとって断片的な記憶で、なぜ丸刈りを順一が極度に恐れたのかいまひとつわかりにくいかもしれない。もっと深く探っていけばこういうことなのではないだろうか。順一は、小学校五、六年ごろから女の子を性的に要求するようになった。もちろん頭の中だけでの話しだったが。ちょうどその頃、それまで髪を背中や腰まで伸ばしていた女子たちが何人か、ちらほらとバッサリと首筋までのおかっぱにカットして学校にやって来ていた。また、一年上の上級生の女の子が、卒業式の日に、それまで腰近くまであった長い髪を、襟足を少し刈り上げたようなショートカットにしてきていた。これは順一たちが普通なら行くはずだった公立中学校の校則が、女子は襟につかない程度の髪に切っておくことというものがあったためだろう。また、小学校五年生の時には、隣の髪が肩くらいまであった女の子が、耳の真ん中を通るラインで横と後ろを切りそろえ、ラインより下の襟足の髪をすべて短く刈り上げたワカメちゃんのようなおかっぱにしてやってきた。ちなみにその女の子が順一の初恋の相手だった。その女の子の話によると、お母さんが、あなたは髪が多いからそうしたほうがいいと言われたからだそうだ。しかし、これもどうやら中学の髪型校則を意識した母親の親心によるものだったようだ。順一はそれまで長かった髪を女子たちがバッサリと短くカットしてきたことにその頃、不思議な魅力を感じたものだ。順一はそれまで長かった自慢の髪を短くカットしなければならない彼女たちを可哀想だと思うと同時に、髪を切られる時の彼女たちの複雑な心理を想像して、性的に興奮していた。この性的興奮が逆になったところに、順一が丸刈りにされるのをひどく恐れる原因があるように思う。例えば、順一たち男の子が行かなければならない中学が、男子は全員丸刈りにしなければならなかったとする。するとちょうどさっきのとは逆のことが起こるわけである。小学校五、六年生ごろから、男の子たちは中学の校則を意識して、親に説得されるか、自分の意思で、ちらほらと丸刈りにして学校にやってくるにちがいない。あるいは中学校に入学式に、初めて丸刈りにしてやってくるかもしれない。その男の子たちの丸刈りになった頭を見て、女子たちは半ば馬鹿にしたように面白がって大笑いするだろう。実際にそういう話はよく聞く。その場合、男子にとって丸刈りは屈辱のヘアスタイルとなるわけである。順一は、女子たちが髪を短くするのを面白がっていたが、順一自身が丸刈りにされれば、逆に順一のほうが女の子たちから面白がられる対象になるわけである。女の子はショートカットかおかっぱとはいえまだ髪が長いのに、男の子だけ丸刈りになってしまうという不合理も、順一にとっては耐え難いことだったようだ。


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