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思索とアートとヘアカット
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第四章

順一はその日、家に帰って、絵を描いた。無論、平岡郁美の絵である。順一は幼少の頃から、自分の欲しいものを絵に描いてみるという癖があった。平岡郁美の絵はこれまで何枚か描いた。しかし、実物の平岡郁美には到底、及びのつかないものであった。しかし、その日、描いた平岡郁美の顔はいつになく現実味を帯びていた。順一は絵の中の平岡郁美に、自分への求愛のポーズを取らせた。それというのは左手をふくらんだ胸にあて、右手を差し出して、「私はあなたのものよ」と言わんばかりのものであった。順一は、その絵を見て一人、赤面した。これが事実であったならと思った。しかし、その絵を描いてから、順一には不思議な自信が湧いてきた。もしかすると、この絵は現実のものになるかもしれないという自信である。その自信の根拠といえば、このように現実味の帯びた平岡郁美の絵を描けたというただそれだけのことだった。したがって、自信といってもたいしたものではなく、順一にとって、平岡郁美は依然としていと高いところにある存在であった。

翌日の授業中も、小平順一は授業に真剣に取り組む一方で片方だけ、精神を平岡郁美に傾けていた。郁美は相変わらず、机にうつ伏せになっていた。彼女は授業を聞いていないわりに、テストではまあまあの成績を取っていた。おそらく友人にノートを借りているのだろう。順一は自分のノートを借りてくれればと願ったが、それは無理なことだとわかっていた。郁美にとって順一は、単なるクラスメイト以上の存在ではなかったからだ。

事件はそのさらにその翌日に起きた。これは小平順一の人生の転機だったのである。

木曜日のことだった。順一はいつものようにグラウンドの高台へと向かった。そして、極力、ゆっくりとグラウンドを通り過ぎようとした。すると、平岡郁美がずんずんと順一のほうに向かってきた。順一は思わず逃げ出そうとしたが、身体がすくんで言うことをきかない。そうこうしているうちに順一は郁美と対面していた。

「小平くん、いつも私たちの練習を見に来ているのね。バレー部に好きな女の子がいるの?」

郁美らしい単刀直入な言い方であった。順一はしどろもどろになりながらもそれを表にださないようにして言った。

「い、いや、そういうわけではないんだ」
「そんなはずはないでしょう。私たちにはわかっているのよ。いつもいつもじろじろ見られていたら気持ち悪いじゃない。今まで黙っていたけれど、そろそろ決着をつけなくちゃと思ったの。好きなのは香織?それとも由佳里?」
「ちがうよ」
「ふーん、それなら誰かしらね」
「気持ち悪いと思われているなんて知らなかった。もうやめにするよ」順一は急に弱気になってそう言った。
「明日、私たちの部室に来てみない?小平くんの好きな子が誰だか私、とても知りたいな」
 郁美は相変わらず能天気であった。順一は本心を打ち明けるわけにもいかず大層、困り果てた。しかし、女の園である女子バレー部の部室に入れることは順一にとってとても興味のあることだった。
「それなら行こう」
順一はようやくただそれだけ言った。


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