小平順一は今日も、グラウンドを高いところから見下ろしていた。順一は自尊心が高いわりに、劣等感も激しく、その矛盾した性格に、日々、悩まされていた。順一にとって平岡郁美は多大な存在であった。その郁美がグラウンドで練習をしているのだ。順一は、郁美の運動神経の良さに憧憬(あこがれ)を持っていた。順一自身の運動神経は貧弱で、彼自身も中学の時は二年間バレー部にいたのだが、活躍できず、いつもベンチに座るか、応援席に立っているだけであった。女子バレー部は、月、水、金は体育館が使用できるが、他の曜日は主に外のグラウンドで基礎体力作りをしていた。「主に」と書いたのは、日曜日に他校との練習試合で体育館を使うからである。体育館まで見に行く勇気のない順一は、グラウンドでの郁美に熱を上げているのであった。順一自身、グラウンドの平岡郁美をこっそりと眺めていることが女子バレー部員たちに明らかになった場合の羞恥心は大きなものであろうことは予測していた。しかし、その危険性を冒してもグラウンドに行くのは、ひとえに郁美の美しさゆえであった。
以前、体育の授業中にこんなことがあった。その時、男女に分かれて整列して授業を待っていた。順一は女子側に面する場に腰を降ろしており、郁美も男子側に面する場に腰を落ち着けていた。順一は郁美と隣り合っており、胸の高まりを抑えるのが難しいくらいだった。ふと、そのとき、順一は、郁美の髪の毛に糸くずのようなものがついているのに気付いた。順一はどうしようか迷ったが、思い切って郁美に声をかけた。
「平岡さん、髪の毛に何かついているよ」
「え、そうなの?取ってくれる?」
順一は胸に激しい動揺を感じながら指を伸ばし、郁美の髪の毛に触った。糸くずは難なく取れた。
「ありがとう、小平くん」
そう言って、郁美は笑った。しかし、これが順一の郁美の身体を、といっても一部分だが、触った最初であった。その後、そのこと、そして郁美の笑顔を順一は何度も何度も胸の中で思い出すのだった。そのときの郁美はもうかつての刈り上げショートカットではなく、お洒落でフェミニンな感じのショートヘアになっていた。
一体、順一は郁美の何にそれまで入れ込んでいるのかと、自分でも考えることがあった。それは順一にないものを郁美に求めているのだという結論だった。顔の整った郁美は、不細工な顔の順一に対していたし、運動神経の良い郁美は、運動神経の悪い順一に対していた。ただし、一方的に郁美のほうが優れているともいえないこともわかっていた。勉強面では順一のほうが郁美に優っていた。多くのドラマや小説では、主にこれと逆のパターンが見られる。すなわち、運動神経では彼女に優り、勉強では彼女に劣るといった男子の形式である。しかし、小平順一は正反対であった。したがって、彼は相変わらずもてない男であった。順一に欠如しているのは多分に男らしさといったものであろう。
グラウンドに来た順一の話に戻そう。女子バレー部がグラウンドで練習している火、木、土に、順一は帰りがけに自転車を転がしながらグラウンドを見下ろす高台に行く。そこをできるだけゆっくりと歩いて通り過ぎるのである。視力のいい順一には遠くからでも郁美の姿を判別することができた。彼が歩きながら通って、立ち止まらないのは、女子たちに自分の郁美への恋慕がばれないようにするためである。
彼女の機敏な動きと長い肢体には、順一は大いにそそられるものがあった。順一は、郁美の男らしさにほれこんでいるのだろうかとも思う。しかし、順一はゲイではなかった。男ではなく女を性的に愛していた。しかし、繰り返し言うように、順一は郁美に自分にはない美点を見出していたのだ。それは遺伝子の命じるところであったのだろうか。より優れた遺伝子を残すために自分の足りないところを異性に求めるというわけである。たしかに郁美は「男顔」であった。しかし、無骨なそれではなく、美少年のようなそれであった。彼女は異性からも同性からももてるタイプの女子であった。
グラウンドで練習をしている平岡郁美の姿は、いつも順一に歓喜をもたらした。自分の愛している郁美の美点がそこではあらわになり、汗をかく郁美の姿すら、彼には愛しく、美しく思われるのだった。太陽の下での練習のため、郁美たち女子バレー部員の身体はこんがりと日に焼けていた。しかし、郁美の美しさは損なわれていなかった。