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宗教的真理と哲学的真理

真理とは、何をもってしても否定しえないもののことである。宗教的真理と哲学的真理がある。(主観的真理と客観的真理というのも考えられるが、いずれも「誰か」に否定される。主観的真理を否定するのは、その主観を持っている本人である。(:回心)客観的真理を否定するのは、他の社会集団である。(:カルチャーショック)宗教的真理は非合理的、哲学的真理は合理的である。例えば、宗教的真理では、「救いとは愛である」や「一切皆苦」などがある。救いとは怒りのこともあるし、全てが苦しいとは限らない。やはり、宗教的真理は非合理的である。例えば、哲学的真理は、「1+1=2」や「AはBである、BはCである、よってAはCである」などである。これは否定できない。やはり、哲学的真理は合理的である。では、ニーチェの哲学は、どうだろう。「神は死んだ」。しかし、神は常住不変なのではないだろうか。これはどういうことだろう。ニーチェの著作は多分に文学的である。文学は時に非合理的な表現を行う。すなわち、文学は多義的な言葉を使う。ニーチェの言う「神」とは、概念上の神ではなく、キリスト教の教会や信仰と言ったものを意味しているかもしれない。宮崎駿の『もののけ姫』でも「カミは死んだ」。これは民(たみ)から神的なものに対する畏(おそ)れの心がなくなったということであろう。ひるがえって、ニーチェのことを考えると、「善悪の彼岸」の問題が出てくる。ドストエフスキーの『罪と罰』において、主人公ラスコーリニコフが、第二のムハンマドとして既存の道徳を乗り越えようとする。(質屋の老婆殺しと窃盗(せっとう))それと似た構造が、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にある。ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖である。イエス生誕の折(おり)の東方の三博士は、ゾロアスター教の祭司(マギ)である。ニーチェによれば、イエスを神の子としたキリスト教の信仰を根本から壊し、新しい信仰を打ち立てるという意味で、神は死んだ、のだろう。

哲学的真理は、時に多義語で表れされる。しかし、大半の場合、さきのにニーチェのように、それは一意に限定できる。それゆえに、哲学的真理は合理的である。

宗教的真理は、多義的な重層構造になっている。文学性が宗教にあるからだ。人間の営為として自然なのは、宗教的真理なのではなかろうか。これはひとつの予想だが、宗教的真理から多義性をとって、一意の命題とすれば、哲学的真理になるのではなかろうか。言葉を変えれば、宗教的真理から文学性を取れば、哲学的真理になるわけである。

「人はパンのみにて生きるにあらず」という命題は、(それ自体、宗教的真理であるが)宗教的真理の多義性を表そうとしているのかもしれない。人間の心は、重層的であり、矛盾に満ちているという点で非合理的である。文学とは、人間の心の動きを描くものであるので、多分に宗教的真理に近くなる。ニーチェが自分の哲学を文学的表現で表したことは、ひとつの勇敢さである。哲学的真理に文学性を持たせると、宗教的真理になるわけである。ニーチェの哲学の「宗教的」真理のもとにあった「哲学的」真理は何だろうか。それは「善悪の彼岸」「この人を見よ」「アポロン的なものよりもディオニソス的なものを」といったニーチェの独特の思想になってくる。それらの思想に文学性を加味することで、「神は死んだ」と言う宗教的真理ができたのであろう。

結論は、こうである。宗教的真理:多義、哲学的真理:一意ということになろう。 そして、両者(宗教的真理と哲学的真理)を結ぶのは文学性である。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年05月07日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

通貨の廃止について

現行では紙幣と貨幣で経済が成り立っているが、それを一枚のカードで代用できないだろうか。カードに国民番号を付けていれば、銀行口座と連結できるので、決済ができる。スマートフォンを端末にすれば、屋外でも、スモールビジネスでも利用できる。家計簿の自動作成もできるだろう。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年04月18日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

無我について

どっちでもいいという境地では、「我」という生存の主体のことを考えると、最終的に無我の境地に達する。選択権の放棄というのが「どっちでもいい」ということの本質である。「どっちでもいい」は不自由なのか自由なのか。選択できないということであれば不自由だし、こだわらないということであれば自由である。仏教に「自在(じざい)」と言う言葉がある。「自在」は外界(他者)ではなく内面(自分)を変える。「どっちでもいい」は、「自在」であると思われる。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年04月18日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

重力エネルギー装置

反重力装置のエネルギー源は、原子力と考えそうだが、原子炉はサイズが大きいので、反重力装置の中に入らない。では、どのようなエネルギー源がいいのか。そこで出てくるのが重力エネルギー装置である。

重力エネルギー装置は、重力をエネルギーにする装置である。物体を極限まで、低エネルギーにすると、小体積、大質量、(高密度)のブラックホールが出現する。ブラックホールの周囲から中心点に向かって(重力)が発生する。この重力をエネルギー化するのである。反重力装置が、物体を極限まで高エネルギーにし、物体の中心点から周囲に向かって反重力が発生するのに対し、重力エネルギー装置は逆の原理なのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年03月29日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

生命の本質

生命は、「分割」が本質である。非生命は「無分割」が本質である。生命は「自」と「他」を分ける。「自」=「細胞内」、「他」=「細胞外」である。さらに高等生物になって、神経系が出てくる。すると「認識」と、「非認識」が出てくる。「認識」=「バーチャル(記号)」、「非認識」=「現実(物理世界)」。記号は知的生命体のみが持ちうるものと考えられてきたが、「認識」した時点で分割が行われ、「有」と「無」と言う記号が出てくる。例えば、視覚では、「有(光)」「無(闇)」となる。記号は分割によって発生する。よって生命の本質とは記号である。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年03月29日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

フラット経済学

共産主義に続いて資本主義も崩壊を迎えた今日、社会主義だけが命脈を保っている状況である。中国やロシアは国家社会主義の様相を呈している。我々、資本主義諸国は新しい経済学的パラダイムを必要としている。資本主義は、二度の世界恐慌を通じて崩壊した。恐慌は、実際の金銭と帳簿上のお金の差が大きくなって起こる。

実際の銀行のお金(自己資本)は、百万円しかないのに、多くの人がお金の貸し借りを繰り返していく。例えば、Aさんが八十万円借りてローンでは十二回払いにした場合、銀行は、さらに九十万円をBさんに貸すことができ、それがローンとして支払われると言うことで、さらにCさんが八十万円を借りることができたりする。その結果、実際のお金は百万円なのに、帳簿上のお金は、80+90+80=250:二百五十万円にふくれる。

また額面五百円の株券が九百円で取引され、それが百枚ある場合、(900-500)×100=40000:四万円の実際のお金(上場会社に支払われた500×100=50000:五万円)に付く付加価値となる。九百円で取引された同株券、百枚を発行元株式会社に現金化を要請すると(900-500)×100=40000:四万円、足りなくなる。これも実質金銭と取引上の金額(帳簿上の金銭)に差が出る。

銀行の場合は取り付け騒ぎ、株式市場の場合は株の暴落を生む。こういった活動を俗にマネーゲームと言うが、新しい経済学的なパラダイムは、実質金銭と帳簿上の金銭の差をなくすために、マネーゲームを禁止する機構を持つ。これを私は、「フラット経済学」と銘打つ。あえて「フラット(平ら)」という言葉を選んだのは、社会の上層を占める経済的なエスタブリッシュメントだけが資本の無限増殖を繰り返し、所得格差の固定を生じている現状の資本主義に代わって、多様な所得階層がオープンで自由な経済市場で資本の増殖を行う経済的潜在能力の平板化(フラット化)を指向するからである。

インターネットやPCの普及により、映像、音楽、画像、出版などが熟練したプロでなくても、誰でも作成できるようになった。それと同様に資本の増殖に誰でも参加できる社会、経済体制、低資本でも商業を起こせるような、社会的インフラが、現代、整備されつつある。例えば1円起業と言ったものや、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)での物販といったものである。SOHO(スモール・オフィス・ホーム・オフィス)もその類である。小規模な商業の大量発生は、まさに経済のフラット化を意味している。人間が生活するために必要な最低限の衣食住が無料で提供される仕組みが整備される。例えば、コンビニエンスストアやスーパーでの売れ残りで、消費可能な食品が、集配トラックで順次集められ、無料の食堂として開放されるといったことも考えられる。また、衣類も売れ残りを一箇所に集めれば、無料提供が可能になるだろうし、住居も税金投入によって、最低限度の品質で、また住所付きで、無料提供が可能になる。

話が前後するが、マネーゲームを禁止するため、銀行の自己資本のみの営業、為替レートの永年固定化、株式はすベて発行時の額面でのみ取引されるようにする。(株式の株価固定化)また、会社給与のフラット化も推進される。例えば、会社社員の基本給与が、平社員から社長まで、一律、二十万円になり、後は社員の個別出費(育児費、学費、交際費など)が計上されて別に支給される。すなわち基本給与:二十万円+(プラス)必要経費(付加給与)。それに加えて「おねだり制度」を導入する。「車欲しい」「家が欲しい」などの高額な買い物は、勤務年数や業績により、社長が社員の申請を承認する形で購入し贈与する。社長のおねだりは、社員全員の投票により、例えば過半数で決定する。「おねだり制度」は、全社員から、蓄財(貯金)のチャンスを除外し、富の死蔵(アダム・スミス)を防止し、会社資産を大幅に増加させ、黒字化することができる。これは余談になるが、退職金の支払いが困難になって久しい今日、退職金に代わって退職後給付金をわたしは検討している。退職後給付金とは、勤務一年につき一枚退職後給付金券がもらう制度であるる。前年度の収益の一定割合を退職後給付金枠とし、退職者個人の退職後給付金券の枚数÷生存している退職者全員の退職後苦給付金券の枚数×退職後給付金対象枠金額を退職者個人に給付する。これは勤務手段が多いほど給付金が増えるので、社員の会社への定着率が増加するはずである。それに加えて社員の福利厚生として、十万円を超える社員の医療費は全額会社負担とするのも一案である。

既存の経済的エスタブリッシュメントは、地主として土地を広げ、地代収入を増やすと言う方向性で進むといいだろう。

記事作者:加来典誉
公開日:2023年03月27日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

すべてのこたえ

すべてのこたえ

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月02日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

反重力装置について

SFの映像では、地表から浮いた乗り物が走り回るのを見る機会がある。それは反重力装置をつけた乗り物で、垂直離着陸機(VTOL機、Vertical Take-Off and Landing、ブイトール機、ヴィトール機)とは異なる。反重力は夢の技術で遠い未来のものと考えられている。しかし、真偽の程はさておいて、われわれが見る宇宙人の乗り物(例えばUFO)は、動きから見て、どう見ても、反重力としか思えない。まず、後ろや前や左右という発想がない、多くは円盤型をしており、前、後ろ、上、下、右、左と、自由に移動できる。それ比べて、人間の飛行機は、右に行くためには、前に進みながら右にカーブしないといけない、下に行くためには、前に進みながら下に降りないといけない。ヘリコプターやVTOL機では、上下は自由に行くが、右、左には、直接移動できない。例えば、人工衛星では、燃料を噴射することで、スラスト(thrust)して、上下、左右、に動くことができる。しかし、宇宙人の乗り物には、燃料を噴射する機構が見られない。では、どうやって、UFOは、推進力を生み出しているのだろうか。それは重力の問題を解決することではなかろうか。

映画『キングスマン』(2015年)では、人がぶらさがった気球で成層圏まで達して、そこからミサイルを発射して、人工衛星を撃ち落とすシーンが出てくる。われわれは宇宙というと、スペースシャトルのように莫大な燃料を使って、地球の重力に逆らって、宇宙に達するイメージがある。距離で考えると、日本からアメリカ合衆国に行くよりも、日本から宇宙に行くほうが、ずっと近いのである。しかし、飛行機の乗客になるのは簡単だが、宇宙飛行士になるのは困難である。気球という低エネルギーの道具で宇宙近くまで行くことは現実に可能であるが、地球の重力を振り切ることはできない。あくまで成層圏までが限度である。密度が大気よりも低い気体を気球の中に入れることで、上昇するが、宇宙空間に行くと、大気が存在しないため、とたんに重くなり、地表に向かう力が気球に働く。この重力の問題が、われわれをして宇宙に行くことをはばんでいるのである。

ヒントは、ブラックホールや中性子星にある。密度の非常に高い物質は、周囲の物質を、時には光までも、吸い寄せてしまう。それは強い重力を発しているからである。例えば、半径たった10キロメートルのブラックホールがあることも確認されている。体積に対して、重ければ重いほど、中心に向かって大きな重力がかかることになる。では、その逆は考えられないだろうか。太陽のサイズで、重さは1グラムといった密度の極めて小さな物体があれば、逆に中心から周囲に対して重力が発生するのではなかろうか。例えば、物質が存在しない世界で、ある方向に重力が出たとする。そうすると、その重力の目的地(方向)に対して、球形に重力が発生するのではなかろうか。その結果、球形に働いた重力の中心に、物質が発生するのではなかろうか。物質が存在しうるということは、外側から中心に向かって、重力が働いていると同時に、中心から外側に向かって、反対方向の力(仮に反重力)が働いている。そうでなければ、最終的には中心に向かう重力は、消滅して、エネルギーになってしまう。中心に向かって働く重力が存在するためには、中心から外側に向かって働く反重力が必要なのである。したがって、太陽の体積で、1グラムの物質では、物質という形を取るためには、中心から強い力で外側に向かって力(反重力)が働かなければならなくなる。そうでければ、その物質は中央に向かう重力に押しつぶされて、消えてエネルギーになってしまうからである。

例えば、水素原子1個の重さで、バレーボールの体積の物体を作ってみてはどうだろうか。そのためには、その物体に莫大なエネルギーを与えないといけない。物体はエネルギーを与えると、高温になり、光りだす。それは、原子の核である陽子の周りを回っている電子が、より早い速度で、より遠くまで動くからである。その結果、密度の極めて小さな物質ができる。逆に言うと、ブラックホールや中性子星は、エネルギーが極めて少ない物体ということになる。エネルギーが高い物体は、低密度になるのである。もし仮に、水素原子1個の重さで、バレーボールの体積の物体を作ることができれば、中心から外側に向けて重力が発生する物体を作ったことになる。それをどうやって制御するのか。それは、おそらく高密度の物体(例えばゴールド)を、その物体の中心の周りに配置することで、その部分の外側への重力を吸収することができるのではないか。例えば、そのバレーボールをある方向に移動させたいとする。その場合、その方向の反対方向以外を、高密度の物体で覆ってしまうのである。そうすることで、後ろから前へ、推進力が生じる。外側への重力が高密度の物質で吸収されるからである。その高密度の覆いを動かせば、物体は365度どんな方向にも移動できる。UFOで光るものがあるのは、おそらく、UFOの中心に物体の核があり、UFOの船外にその物体の外側があるのだろう。UFOの船内は生物が住める状態にしなくてはならないからである。船外が高温となり、光を発している状態になっているのである。宇宙人の特集の番組で、観たのだが、アメリカのエドワード空軍基地では、宇宙人の空飛ぶ円盤の研究をしているとあって、プラズマが関係していると言われていたが、プラズマというのは、おそらく宇宙人がついた嘘なのではないだろうか。反重力装置を完成させると、宇宙はぐっと近くなる。もちろん、最初の反重力装置は、莫大なエネルギーを使用することになるだろうが、次第に、エネルギー量を減らした反重力装置が出てくるはずである。この反重力装置は、燃料を噴射する機構ではないので、音や物質による、環境への影響が少ない。スペースシャトルのようにロケットエンジンで宇宙に移動する乗り物が多数あれば、地球環境に大きな影響があるが、反重力装置があれば、現在よりも簡単に宇宙空間に行けるに違いない。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月02日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

人文科学と自然科学

核兵器、工場汚染といった負の要素があるにもかかわらず、いまだ科学という言葉には、無条件の賛美がある。人文科学なるものがあるのは、自然科学への憧れがあるからではないだろうか。しかし、人文科学は、科学としては、二流、もしくは、三流の地位に甘んじている。社会学とか、心理学とかがあるけれど、どれも「いかがわしい」印象を拭い去ることができない。物理学や化学のような明確さ、正確さが、人文科学にはない。それはなぜだろうか。

答えは、言葉の一意性と、多意性(多義性という意味の造語)にある。自然科学を記述するのは、数学そして、それに準ずる記号である。対する人文科学を記述するのは、その国の一般的な国語である。数学、それに準ずる記号は、一つしか意味がない。例えば、「1」という数字には、「1」以外の意味はない。「+」という記号には、「+」以外の意味がない。対して、「男性」という言葉には、「オス」という意味もあれば、「ペニス」という意味もある。記号の一意性が、自然科学の明確さ、正確さを保証しているのに対し、記号の多意性が、人文科学の不明確さ、不確かさを生み出している。一方、芸術では、多意であることが、豊かさを生む。

では、人文科学を記述する言葉(あるいは記号)の一意性を保証するにはどうするのか。まず、人文科学で使う言葉すべての辞書を作る。そして、一つ一つの言葉を結びつけている関係性を明らかに辞書に記述する。例えば、「人生」という言葉は、「人間」や「寿命」や「誕生」といった言葉とつながっている。そして、その言葉が複数の意味を持っている場合は、人文科学の論文を書く際に、どの意味なのか、その辞書で指定する。これによって、コンピュータによる論文の自動解析が可能になり、例えば、論文Aと論文Bの内容を掛けあわせて、コンピュータによって、論文Cが生成されるといったことが起きてくるはずである。これが実現すれば、人文科学は飛躍的に発展するものと思われる。影響は、人文科学だけにとどまらず、哲学や法学や経済学といった他の文系の分野にまで波及していくだろう。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月02日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

あるとない

ベルクソンの『創造的進化』によると、ないといういことは、あるものを他のもので置き換えるということであるということであった。例えば、コップの水がなくなるとする、すると、そこには水の代わりに空気があるわけである。だから究極的、絶対的な意味での「ない」は存在し得ない。

例を挙げて、わかりやすく考えると、右と左と真ん中という言葉がある。目の前を右と左に分けてみて、真ん中はあるだろうか。真ん中をどんどん拡大していっても、正確な意味での真ん中は存在しない。なぜなら、どの場所も、必ず、右か左に属しているからだ。それは数学上の線が、自然界に存在しないということでもある。数学上の線は、太さのない線だから。

右は左を前提としており、左は右を前提としている。上は下を前提としており、下は上を前提としている。光は闇を前提としており、闇は光を前提としている。男は女を前提としており、女は男を前提としている。言葉は、あるものを2つに分けるところから始まる。だからすべての事象は、互いに前提とし合いながら存在していることになる。

では、「ある」と「ない」ということは、すべての事象の上に立つ、前提条件ではないだろうか。いわばこの言葉の分野での形而上学(ものの見方・パラダイム)である。究極的な「ある」や究極的な「ない」は、存在するのか。「ある」と「ない」の中間は存在するのか。冒頭で、究極的な「ない」は存在しないと、わたしは述べたが、こういうことを考えること自体、言葉のトリックとの格闘でしかないように思う。例えば、仏教では、究極的、絶対的な「ない」を「空(くう)」と表現している。しかし、それ(空)は同時に究極的、絶対的な「ある」を表現しているのである。なぜなら、空は、現象を「ある」と「ない」に分けないで、直視するところに存在するからである。「空」は真ん中であり、全体である。あることはないことを前提とし、ないことはあることを前提しているのではないか。

話を広げていくと、肯定と否定の問題にもなってくる。「はい」と「いいえ」の構造である。ベルクソンによると、否定は肯定を前提として存在している。「この机は黒い」ということに対して、否定は、「この机は黒くない」ということになる。それは決して「この机は白い」ということではない。一方、肯定は、「はい(この机は黒いです)」ということであり、同語反復である。「この机が黒い」というテーゼ(命題)があるからこそ、「そうではない」というアンチテーゼ(反命題)は存在する。否定は肯定を前提としていると、ベルクソンは言っているが、わたしは、ないことがあることを前提としているというベルクソンの見解に加えて、その逆もしかりだと付け加えておきたい。否定は肯定を前提とするように、肯定は否定を前提とするのである。また、ないということはあるということを前提としていると同時に、あるということはないということを前提にしているのである。冒頭で、コップの水が空気と置き換わったことを、水がなくなったと表現したが、それは、水がなくなった状態が存在するからこそ、水が存在するという状況が存在するということである。たとえば、水があるところとないところがある。コップのガラスは水がないところである。コップのガラスの内側にしか、水は存在できない。もちろん、水がこぼれれば、コップのガラスの外側に水が存在する。その場合は、水はテーブルとの関係になっていくだろう。世界全体がすべて水なら、水は存在しなくなってしまう。宇宙の始まりは、水素だと言う説があるが、水素だけでは、それを水素と呼ぶことができない。宇宙最初の物質は水素ではない。仮に水素であったとしても、それは水素と規定できないのであるから。陽子や電子の数で考えても、それは他との比較が不可能である以上、特徴を区分することができない。

何かがあるということは、何かがないということがあって初めて存在する。闇がないから、光が存在するわけであり、光がないから闇が存在するのだ。もちろん、同時に、闇があるから、光が存在しないわけであり、光があるから闇が存在しないわけである。われわれはまぶしすぎると、何も見えなくなる。通常、闇では、われわれはものを見ることできないが、まぶしくても、ものを見ることができない。だから、究極的な光(光だけ)と、究極的な闇(闇だけ)は、結果的には、同じようなものになってしまう。絵画でも光を表現するときに、影を描き、闇を表現するときに、あわい光を描くではないか。

真ん中とはなんであろうか。わたしは、これは、物理学でいうところの観測者ではないかと思う。それは哲学における自分である。しかしここでも同じ問題が生じる。自分があるから世界があるのであり、世界があるから自分があるのである。真ん中があるから全体があるのであり、全体があるから真ん中があるのである。自分だけでは自分は存在しえず、全体だけでは、全体は存在しえない。水が自分(観測者)という存在なしには、存在し得ないように、観測者も観測者以外の存在がなければ存在できない。真ん中という線と全体という表現をしたが、点と全体という表現もできるだろう。全体とは点の集合体である。(しかし数学上の点は、大きさを持たないから、全体を構成することはできない)点は全体の一部である。全体があるから点が存在し、点があるから全体が存在する。

肯定と否定は、同じであるか、違うかということである。たとえば、「この机は黒い」ということに対して、肯定は「同じく黒い」ということであり、否定は「違って黒くない」ということである。肯定は同じであるという見解の表明である。否定は違っているという見解の表明である。

仏教の概念で、「否定否定の絶対肯定」というものがある。これは、すなわちテーゼ(命題)とアンチテーゼ(反命題)が、アウフヘーベン(止揚)して、ジンテーゼ(総合命題)になることではないだろうか。すなわち、弁証法である。悟りとは「あるわけではない。ないわけではない。あるわけでないわけでもなく、ないわけでないわけでもない」(AはBではない。AはBでないわけでもない)と般若部経典に書いてある。それは「テーゼではない。アンチテーゼでもない。テーゼでないわけでもなく、アンチテーゼでないわけでもない。すなわち、ジンテーゼである」ということではないだろうか。イギリスの薔薇(バラ)戦争で、ランカスター家(赤薔薇)と、ヨーク家(白薔薇)が戦って、王位を継承たのは、テューダー朝であるというのも、弁証法ではなかろうか。例えば、明日、晴れてくれなければ困るとする。そして、当日、雨が降ったとする。これは当初の、晴れてくれなければ困るというテーゼが、雨が降るというアンチテーゼによって否定されたわけである。その場合、かんかんになって天気に悪態をつくのは仏教の方法ではない。晴れたら、山登りに行くつもりだったが、雨が降ったので、この前、買った面白い本を家で読もうというのが、仏教的な解決である。これがわれわれの日常なのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

道徳の必要性について

道徳が存在しない国は、地球上には存在しない。道徳の上位に法律がある。法律に書いていないことは、何をやってもかまわないということがないのは、道徳が存在するからであろう。法律の上位には憲法がある。道徳は、法律や憲法の基本理念を提供すると当時に、それ自体が、行動規則となりうるものである。

道徳がなぜ必要かと言われると、ひとつには、それは価値観の共通化のためということになるのではないかと思う。かつて、『日本人に宗教意識が希薄な理由』で、宗教は、常識が通用する世界では、不要なものになると書いたが、宗教にも価値観の共通化という役割がある。宗教と道徳の違いは、形式(芸術など)にある。宗教には芸術性(形式)があるが、道徳には芸術性(形式)がない。

宗教色のある国では、道徳は宗教の一部分として機能する。道徳と宗教は対立する概念ではない。宗教に重きが置かれていない日本においては、道徳が軽視されることがある。しかし、道徳が否定されることはない。道徳がなぜ必要かといえば、やはり、そこには、「なにをやってよいか」「なにをやってはいけないか」という基本理念や行動規則が、個々人の差を超えて、共有されることが必要とされるからではないだろうか。ある人にはやっていいことが、別の人ではやってはいけないとう状況では、暮らしが成り立ちにくくなる。ある社会の構成員が、道徳を共有することで、価値観の統一化が行われ、人間関係のストレスが減少するのではないだろうか。

もし仮に道徳というものが存在しない世界を考えるならば、それは法律といった、権力と結びついた強制力が全てを取り決める世界になるだろう。例えば、多民族国家アメリカ合衆国では、法律に重きが置かれており、民族ごとの道徳は軽視されている。法律に書いていないことは何をやってもかまわない状況がアメリカ合衆国にはある。それは共通の道徳が存在し得ないアメリカ合衆国の国情を反映するものである。しかし、そのアメリカ合衆国でも道徳は否定されない。アメリカ合衆国の基本はキリスト教の理念であり、そこではキリスト教的な道徳観念が重視されている。

宗教のない所に、道徳が存在しうるかという問題では、「しうる」ということが答えになると思う。宗教意識の希薄な日本では、道徳教育なるものが行われているが、実際の道徳教育は、家庭や人間関係の中で自然に行われているものである。それは、言語化されていないものを含めて、ほとんどが体験を通じて伝授されるものである。

宗教意識がないからこそ、常識としての道徳が必要になってくる。常識としての道徳を身につけていない日本人は、日本人らしくない。そして、アメリカ合衆国では、キリスト教道徳を持たないアメリカ人はアメリ人らしくないということになる。価値観の共通化というテーマが、人間社会では、どうしても避けては通れない。そこに宗教が介在するかに関わらず、道徳というものが人間には必須のものであることは疑いようがない。

問題は、道徳を取り決めているのは、誰かということになる。多民族国家、思想信条の自由を標榜するアメリカ合衆国で、キリスト教道徳がベースになっているのは、一種、矛盾のように思われる。道徳が存在する社会を想定する場合、それは、共通の言語を有する集団という単位で考えられる。共通の言語を有する集団の指導者、および伝統が、道徳を決めることになる。そこにはなんら民主的なプロセスが存在しないこともありうるが、祖国や民族のアイデンティティとして、国民国家が存在しうる絶対条件として道徳がある。道徳というのは、民族性の基本となるものである。たとえば、日本では、愛国心教育は、白眼視されているが、それは道徳を国家が制定するという『教育勅語』に代表される第二次大戦前の日本の教育体制が否定されているからである。結果として、戦後の日本では、道徳教育は、家庭や人間関係の中で行われている。日本人の場合は、社会的な常識がベースになっているので、道徳教育が、学校の中で必ずしも必要にはならない。しかし、アメリカ合衆国のような多民族国家では、道徳教育は学校で行われることが重視される。英語という言葉を話し、思想信条がそれぞれ異なるアメリカの国土に住む人々が、学校教育を通じて、共通の価値観を育むことは、社会の秩序維持において、どうしても必要なことだろう。

道徳に国家権力が介入することの危うさは戦後の日本人が強く感じていることだが、共通の価値観の育成という意味では、国家によって道徳が管理されることも、場合によっては、必要になることを、国際人としての日本人は理解すべきであるのではないだろうか。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

個人の利益と公共の利益

「個人の利益と公共の利益」とは、「エゴイズムとモラル」、「我欲と道徳」、「権利と義務」といった別の言葉で表される。これらをテーマにした哲学を生み出した先哲には、カント、ベンサム、アダム・スミス、E.H. カーなどがいる。さらに考えれば、孟子(性善説)や荀子(性悪説)も、そうだといえるだろう。しかし、彼らは二派に分かれる。個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化すると考えるものと、公共の利益のためには、一部、個人の利益を制限しなければならないと考えるものである。前者は、ベンサム(最大多数の最大幸福)、アダム・スミス(神の見えざる手)。後者は、カント、E.H. カー、孟子、荀子である。

善と悪については、拙論文『信仰と科学』で述べている。善と悪は、知性ある生物の社会の維持のために、生じた概念であり、自然界では、強いか弱いかしか存在しない。アリやハチも社会を持っているが、彼らは本能によって、生活しており、その意味で、善と悪は存在しない。(拙論文『知性と本能について』より)また、自由意志を仮定しない観点から見れば、善悪は存在しない。すべては原因と結果の連鎖であるという因果律の論説は、決定論とも言うが、その場合、すべての人間の行動は、個人の責任にならない(善人も悪人もいない)。(拙論文『正義について』より)決定論においては、善悪の観念は、個人の利益と公共の利益という観点から見直さなければならない。

公共の利益とは、すなわち善であり、公共の利益に反するものが悪である。問題は、個人の利益は、善なのか、悪なのかということに収束する。もっと言えば、公共の利益に反する個人の利益(悪)は存在するかということである。さらに言えば、自利他害(自分に利益があり、他人にとって害になること)は存在するかということである。常識から考えて、自利他害は存在する。したがって、個人の利益は悪たりえることになる。その意味で、ベンサム、アダム・スミスの、「個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化する」という論説は否定される。

カントによれば、個人の格率を、公共の格率と一致させることが、実践理性による行為である。個人において、公共の利益を変化させるより、個人の利益を変化させる方が容易である。逆に、公共の利益を個人の利益と一致させるということは、不可能である。公共の利益は、その社会を構成する複数の個人の総意であるからである。しかし、個人の利益を変化させることは、個人の欲望を変化させることではない。個人の欲望を変化させることは、例えば、空腹による食欲を、知識欲と入れ替えるようなことであり、それ自体、困難である。個人の利益を、公共の利益に一致させるとは、一種の、「ごまかし」作用のように思われる。その作用を、「合理化」という言葉で表すこともできるだろう。これは、届かない所にあるブドウを、「どうせ、酸っぱいだろう」と言って、あきらめるようなことと似ている。個人の利益を公共の利益に合わせることは、個人の利益を損ないかねないこともあるだろう。(有害な「ごまかし」作用)

個人が、個人の利益を、公共の利益に合わせるのは、公共が個人の利益を保証する体制が整っていることが前提になる。例えば、兵役は、明らかに個人の利益に反するが、国家が国民個々人の生活を保証するために戦争が必要ならば、義務として個人に要求される。あくまで個人の利益を保証するために義務が課されるべきである。戦争が、国民の総意ではなく、一部の国民(例えば、特権階級)の、局所的な欲望から始まることは多い。それは、究極的には自利他害行動である。個人の利益を求める自由競争が、富の独占を生み、そこから帝国主義へと発展すると論じたのは、レーニンである。帝国主義が、植民地をめぐる戦争を必要とするのは、富の独占を行うブルジョア階級の要求であり、全国民の総意とは言えないのではないかとわたしは思う。少数派の意見が、多数派の意見として、さかんに喧伝されるデマゴーゴスを、われわれは、細心の注意でもって監視しなければならないのである。個人の利益と公共の利益の蜜月は、「みんなはひとりのために。ひとりはみんなのために」ということが前提になっているのであり、それ以外ありえない。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

戦争について

クラウゼヴィッツは、『戦争論』で、戦争とは、外交の一手段であると論じていた。ヒトラーは軍隊のことを人間の学校と言った。反戦教育を受けた世代であるわたしは、戦争というものに対して、自然とネガティブな姿勢をとらざるを得ない。しかし、歴史の教科書を見れば、わかる通り、歴史的事象とは、戦争のことであると言っても過言ではない。まさに人類は、戦争とともに進歩してきたとも言えるだろう。

戦争は三つの型に分けられる。一、経済的な理由による戦争。二、政治的な理由による戦争。三、宗教的な理由による戦争。

経済的な理由による戦争としては、第一次、第二次、世界大戦がある。政治的な理由による戦争では、古代ローマの領土拡張戦争がある。宗教的な理由による戦争では、十字軍がある。

第一次、第二次大戦は、植民地をめぐる戦争であり、レーニンが言うところの「資本主義の最終段階としての帝国主義」にある先進国の経済事情が原因である。特に第二次大戦は、世界恐慌後の戦争であり、公共事業としての戦争という趣もある。ドイツも、アメリカ合衆国も、戦争によって、雇用難から脱出した。

古代ローマの領土拡張戦争は、牧畜と狩猟を主にする蛮族の侵入に悩む古代ローマが、防衛のために、あらかじめ、蛮族の地域を占領し、ローマの領土にし、農耕を教えたことに起因する。ただし、ローマが、カルタゴと戦ったポエニ戦争は、経済的な理由であると言ってよいだろう。

十字軍は、民衆主導、教皇主導、都市国家主導の三タイプがある。都市国家主導(ヴェネツィア)は、経済的な原因であるが、そのほかは、宗教的な情熱によるものである。イスラム教徒から聖地エルサレムを奪い返すための戦争である。

戦争といえば、人が死ぬというのが、一般的な印象だが、人が死ぬ戦争とは、近代以降のものであり、近代以前の戦争は、怪我をして戦闘不能になることが多かった。当時は、戦争は絶対悪ではなかったはずである。死ぬ戦争になったのは、鉄砲、大砲など、重火器の発達が原因だろう。クラウゼヴィッツが『戦争論』で、この書物は、冒頭しか読む必要がないと、豪語しているのは、戦争が、兵器や戦術の変化によって、全くちがったものになることを考えてのことだろう。

戦争の道徳的な意味を考えると、「人殺し」としての悪と、「正義」としての善という意味合いが出てくる。戦争が、「人殺し」でなくなることはない。したがって、反戦論者たちは、戦争を絶対悪とみなす。しかし、国家の方針の違いにより、国と国が、それぞれの正義を振りかざして、その結果、戦争となる様子を見ていると、国家の繁栄のために、戦争は不可避であるようにも思える。なぜなら、ある国家の生存が、別の国家の死であることがあるからである。戦争は、テーゼとアンチテーゼのぶつかり合いとしての、弁証法的な意味合いを持つものとも言えるだろう。戦争がある程度の大きさになると、戦争前と戦争後では、どの国家も、国家としての有り様を変えざるを得ない。テーゼが、ジンテーゼになるためには、戦争という過程を通らざるを得ないこともあるのではないだろうか。

戦争は、人類を、進歩させるのか、退歩させるのかという、問題で、答えを出そうとすることは意味のあることだ。戦争が人類を進歩させるためにあると答えれば、嘘になるし、戦争が人類を退歩させるためにあると答えても、嘘になる。戦争は、資本主義経済において、恐慌が持つ役割に似ている。資本主義経済において、好況期に積み重なった矛盾を解消するために、恐慌があるというのは、経済学者の宇野弘蔵の説である。それぞれの国家で、異なった成長を遂げていく間に、国と国との間に、数々の矛盾が生じる。その矛盾解消が、戦争という形に結実すると考えるのは、性急に過ぎるだろうか。

人類に暴力性がなかったらどうだろうか。戦争はなかったかもしれない。戦争が、道徳的な文脈で考えて、善であることは難しい。自分以外の他者に害を与えることで、自らの命を守るということは、本来、道徳的な意味において、許されるものではないだろう。人類の暴力性は、生存のための本能としてあるとは言えないだろうか。「生存とは闘争である」とも言えるだろう。ダーウィンの進化論における自然淘汰説を考えても、「生きる」ということ自体に、「戦う」という意味があるのは、自然界に存在するあらゆる生命に共通することである。生存するために、戦争という手段に訴えるのは、決して異常なことではない。「他者のための自分」という大前提が破綻した場合、必然的にめぐってくるのが戦争である。変化による矛盾の出現というのは、ほぼ不可避であり、戦争が、最終的な解決となる。

第二次大戦後の日本で、「戦争放棄」が謳(うた)われた。しかし、それは自衛隊という準軍隊を設置するという修正を必要とした。闘争をしないでよいということは、変化しないことが前提である。変化する以上、闘争が必要となる。しかし、「人殺し」「絶対悪」としての戦争を論じる時、われわれは、いかにして戦争を避けるべきか、考える必要がある。それはとりもなおさず、相互理解を意味する。他者の否定は、理解しようとする努力の放棄である。それが一方向であっては、状況は変わらない。相互に理解しあうことで、初めて、人殺しとしての闘争である戦争は避けることができるのだとわたしは思う。

相互理解とは、相手の立場に立って、考えるものであり、どのようにしたら、相手の不満状態を改善できるかということを考えることである。お互いに、不満状況を改善できれば、闘争の必要はなくなる。経済的、政治的、宗教的な理由による戦争、いずれも、相手の立場に立って、根気強く続けることが必要であるため、早急な答えは期待できない。いずれにせよ、重要なのは、決して、戦争という手段に訴えないという基本態度である。戦争は、理由はとにかく、戦争それ自体を望む流れがあることによって、生じることが多いのは事実だと思う。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

「われおもう、ゆえにわれあり」の否定

フランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596年~1650年)の有名な言葉に、次のものがある。「われおもう、ゆえにわれあり」これは彼が哲学の第一原理として置いたものである。世の中のほとんど全てのものは疑わしいと、デカルトは言った。例えば、目の前に、リンゴが一個ある。このリンゴは赤い。しかし、本当に赤いんだろうか。ハチと人間は目の構造が違う。だから、ハチがこのリンゴを見たら、リンゴは赤くない。また、色弱(色盲)の人が、このリンゴを見ても、赤いかどうかはわからない。別例を挙げれば、ある中華そばを食べて、ある人は、おいしい、と思ったが、別の人は、まずい、と思うかもしれない。したがって、全ては百人百様である。もっと言えば、リンゴが目の前にあること自体が、嘘かもしれない。例えば、逃げ水は、本来存在しない水が存在するように見えているものである。こうして考えると、一切が、存在の根本から、疑わしいと思われる。全てが疑わしいと思われると仮定する論理のことを、懐疑論という。デカルトは、真理に達する道として、方法的懐疑を主張した。真理に達するために全てを疑うというものである。そこで最後に残ったのが、この「われおもう、ゆえにわれあり」である。これは、「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」ということである。全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない、というものである。

これは絶対に否定できない真理のように見える。エマニュエル・カント(1724年~1804年)は、この「真理」を、なんとか否定しようとした。しかし、わたしから見ると、その試みは、失敗に終わっているように思われた。カントのデカルト否定論証をここで説明することは、わたしの理解不足により、できないが、わたしは、別の方向から、デカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」を否定し得たと確信した。

「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」を英語に直すと、"I think therefore I am."となる。ここで"think"というのは、自動詞としての役割を持っており、目的語を必要としていない。目的語というのは何か。例えば「たたく」という言葉があれば、「たたく」対象が必要である。「たたく」対象はバレーボールであったり、釘(くぎ)であったりする。目的語とは、動きの対象のことである。目的語を必要とする動詞のことを、他動詞と言う。それにひきかえ、例えば、「走る」というのは、動きの対象(目的語)を必要としない。これを自動詞と言う。いや、走るには、地面と重力と時間が必要だと言うもあるかもしれないが、「走る」は、言葉としては、目的語を必要としない。では、「考える」はどうなのかというと、考えるためには、考える対象を必要とする。英語で、"think"が自動詞としても存在するために、分かり難くなっているが、本来、考えるには対象が必要である。

先に述べた、デカルトの第一原理をもう一度、ここに出す。「全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない」ここで、「そのこと」と言っているのは何だろうか。結論から言えば、「そのこと」とは、夢幻(本来、存在しないかもしれないもの)ということになってしまうのではないだろうか。つまり、「夢幻」(本来、存在しないかもしれないもの)について考えている自分は、確かに存在するということになってしまう。これはおかしい。

仏教に六根というものがある。これは人間の五感(耳・鼻・舌・身・眼)に意識を加えて、六つの要素としたものである。六根全てを消してしまえば、全てが消えてしまう。では、意識以外の五感を全て消してしまうとどうなるのか。当然、思考(意識)だけが残るはずである。「われおもう、ゆえにわれあり」は、この状態を指すと主張する人がいるかもしれない。しかし、それでも、思考の対象(考える対象)が必要となるのは変わりはない。この五感のない状態というのは、どういうものであろうか、とても簡単には想像しがたい。おそらく、自分自身が存在し、たしかに生きているということを、確認するのが非常に困難な状況だと思われる。何も聞こえず、何も臭わず、何も味がせず、何も感触がなく。何も見えない。この状態を想像してもらいたい。わたしたちが「自分」という意識を持ち得るのは、この五感と意識、すなわち、六根があるからにちがいない。この六根は、すべて、対象を必要とする。すなわち、聞こえる物、臭う物、味がする物、感触がする物、見える物、考えられる物である。すなわち、「自分」とは、「対象」との相互作用の結果、存在する物であり、それ自体、単体としては、存在し得ないことになる。考えるには対象が必要である。しかし、その対象は、必ず存在する物かどうか分からない。ゆえに考えている自分が存在すると仮定しても、それが真実であるという証拠はない。これでルネ・デカルトの哲学の第一原理「われおもう、ゆえにわれあり」は否定できた。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

祖国と国家について

「国家とは必要悪である」という考えがあるとすれば、それは無政府主義(アナーキズム)に近い。ルソーは「自然に帰れ」と叫び、原始社会の有り様を礼賛した。スイス人であるルソーは主に、フランスを活躍の場とした。そして、イギリスのジョン・ロックは、民衆の政治参加を、社会契約の観点から促す論調を表した。一方、ホッブズは、「万人の万人に対する闘争」を説き、自然状態では、人間は殺し合う、したがって、巨大な権力機関である国家を必要とするようになると述べた。

著名人の有名な言葉がいくつか並んだが、果たして、わたしたちの考える国家とはいかようなものなのかということになると、いかにもピントがずれてしまうように思う。その原因が、「軍隊は必要悪である」という標語より、「国家とは必要悪である」という標語のほうが、非常に捉えどころのないものであることからも類推できるように思う。

国家とは何かという問いに対して、完璧に答えられた思想家はいないだろう。「わたしは国家を裏切ることが出来ない」という言葉を考えて、まず思い浮かぶのがソクラテスである。ソクラテスは、若者たちを悪い思想に導く人として、アテネの法廷に立たされ、ありのままの陳述をした後、死刑を言い渡された。彼は十分に逃走可能であったのにもかかわらず、アテネというポリス(国家)が自分に死を言い渡せば、自分は死ぬべきだという信念を貫いた。彼はポリスの人であった。では、「祖国」とは何かと考えるとどうだろうか。

「国民国家」という、さらによくわからない言葉がある。同じ言葉を話している人たちが、ある原則(根本思想)に基づいて、政府を持ち、国家を成すことが国民国家の基本である。いち早く、国民国家が興ったのは、イギリスであり、次にフランス、そしてドイツ、イタリアと続いていく。ドイツ、イタリアは、かつては、小国が乱立する連合体でしかなかった。第二次大戦後にアフリカやアジアや中米や南米で、民族自決(民族が自分たちの意向を自分で決めること)の原則を元に、各国が欧米列強から独立していった。アジアやアフリカや中米や南米などの後進地域は、第二次大戦後、そうなった。(少なくとも形上は。強国の属国として存在する国があることも否定できない。)英語を話す国は複数あるし、ドイツ語を話す国も複数ある。言葉だけで、国がまとまるかというと、そうではなく、同一言語で、国が分かれるのは、イギリスとアメリカ合衆国なら、根本にあるのは宗教問題(ピューリタンのメイフラワー号にさかのぼる。宗教的迫害のため、故国イギリスに戻れない人々が自立した政府を作った)、ドイツとオーストリアでは、ヨーロッパ各国のパワーバランスの問題に帰着する(ドイツとオーストリアが統合されると、ヨーロッパの軍事的、民族的なパワーバランスが崩れる。ヒトラーは、ドイツとオーストリアを統一し、大ドイツ主義を唱えた)。

わたしたちが、「祖国」を感じるのは、色彩であり、匂いであり、味であり、音であり、感触である。そのようなゲマインシャフト的な要素を多分に含むのが「祖国」であり、法律、軍隊、選挙、税金といった記号(言葉)、すなわち、ゲゼルシャフト的ものから同じものを見たものが「国家」である。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトについて簡単に説明すると、ゲマインシャフトは、物体的(右脳的)であり、ゲゼルシャフトは、言葉(記号)的(左脳的)である。ここで、「祖国は国家に先立つ」という言葉を、出してみる。わたしの創作である。馬鹿ばかしいと思われるかもしれないが、これは、かの有名な実存主義哲学の「実存は本質に先立つ」をもじったものである。しかし、この二つの標語をイコールで結ぶことができる、つまり、「実存は本質に先立つ=祖国は国家に先立つ」とできることは、哲学を志す者には、自明である。実存とは、物体そのものである。本質とは、記号(言葉・意味・価値)である。原始社会では、「祖国愛」はあったが、「国家に対する愛」はなかっただろう。文明化の度合いが低いからである。一方、古代ギリシャには、「国家愛」なるものがすでに存在した。文明とは、文字のごとく、文(言葉=記号)を使う社会である。話し言葉だけだった社会に、文字が出てくることで、文明は飛躍的に進歩した。先述した、国家の要素である、法律、軍隊、選挙、税金は、どれも記録を要するものであり、文字(言葉)なしには存在しえない。

われわれは肉体と精神(意識)を分けて考えることがある。それと同様に、国を、祖国と国家に分けて考えることもできるのではないだろうか。肉体とは、物体で成っており、精神は、言葉で成っている。同じく、祖国は、物体で成っており、国家は、言葉で成っている。そう考えることに、意味があるのかと思われるかもしれない。しかし、これは現実の表裏一体の二面性(表と裏)を認識するときに、正確な表現になるのではなかろうか。なぜなら、わたしたちは、認識を、感覚と言葉で行うからである。国もその例外ではない。

しかし、ユダヤ人はどうなるのだろうか。ユダヤ人は、第二次大戦後に、パレスチナにイスラエルを建国するまで、ざっと三千年ほど、国を持たなかった。国を持たなかった彼らにとっての祖国とは、かつての古代ユダヤ人たちの住んだ、パレスチナであったに違いない。そこに、色彩であり、匂いであり、味であり、音であり、感触があるとすれば、それはユダヤ文化に違いない。しかしその中心にあるのが、聖書、律法という文字であることも忘れてならない。イスラエルとは、国家があって、祖国が出来た珍しい国である。なぜなら、始祖アブラハムが、神(ヤーウェ)と契約を結ぶことから、ユダヤは始まるからである。例えば、ひづめが2つに割れていない四足獣を食べてはならないという教えは、聖書にあるものであり、結果、羊と山羊しか、ユダヤ人は、肉を食べられないのである。また、週に一回の安息日。過ぎ越しの祭り、などなど、聖書や律法に従った生活、それがユダヤ人の文化なのである。民族離散(ディアスポラ)することになっても、ユダヤ人が、民族性、ユダヤ文化を失わなかったのは、言葉によるものが大きい。ユダヤ人にとって、祖国、そして、国家とは何かと問われたら、祖国とはユダヤ文化、国家とは、祭政一致の神権政治体制であることは、誰にも疑いがいようがないことだろう。したがって、ユダヤ人は長期にわたって、国を持たなかったのではなく、正確には、国家を持たなかったと言っていいだろう。ここでもなお、「祖国は国家に先立つ」という原則を外れることはないように思うが、いかがだろうか。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年11月01日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

宇宙について

宇宙の誕生はエネルギーのゆらぎが極点に至り、プラスの物質とマイナスの物質がわずかに発生し、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが徐々に近づき、均一になっていき、最終的にはプラスの物質とマイナスの物質がぶつかって大爆発(対消滅)し、わずかにプラスとマイナスのどちらか多い方に物質が残り、ビッグバンが起こるということになっているらしい。原初の物質は光に包まれていて、電子が飛び回っている状態だった。この物質が一気に増大していって、宇宙を形成していった。なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。これを人間の受精卵と比較すると、受精卵という単細胞から卵割していき、そのそれぞれに核(染色体の集合)、ゴルジ体、ミトコンドリアなどの器官が生じていく。その過程と似通っているように思われる。インド神話では宇宙のことをブラフマン、人格神として呼ぶ場合はブラフマナーという。クリシュナという最高神がブラフマナーを創造した。ブラフマナーの中で、人間や他の生物が生きているという状況である。バラモン教の奥義(ウパニシャッド哲学)で、梵我一如という一番重要な用語がある。梵とは宇宙(ブラフマナーあるいはブラフマン)であり、我とは自分(アートマン)である。一如とは、一致(一のごとし)という意味で、宇宙(ブラフマナー:マクロ)と自分(アートマン:ミクロ)が一致しているということが梵我一如である。極小(ミクロ)だった宇宙と極大(マクロ)になった宇宙は同じもののはずである。

最初の問題に戻ると、なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。おそらくある一点を飛び回る電子が増えたり、減ったりして、新しい一点の周りを飛び回る。色々な元素ができ、そのうち、でき過ぎて、たがいに干渉し合い、その間に物質(例えばニュートリノ)が飛び回っているところが宇宙空間となり、宇宙空間の広さが一定を超えると、元素の種類が一定数になった。これは、例えば、サイコロを一万回ふれば1から6が出る確率は同じ(一定)になるのと似ている。マクロとミクロが一致するとはどうことかというと、一つとしてあるのは、宇宙と人体が一致するということかもしれない。宇宙をマクロコスモス、人体をミクロコスモスと言う。コスモスとは宇宙という意味がある。つまり、大宇宙と小宇宙が一致するのが梵我一如である。インド神話では大宇宙は人格神であり人体である。小宇宙も我(自分:アートマン)であり、人体である。自分には、耳、鼻、舌、身、眼、意という感覚があると仏教では説く。身とは触覚、意とは意識である。この六つ全てが消えると、ありとあらゆるもの全てが消える。ということは、自分が消えると、宇宙が消えるということになる。よって自分=宇宙であるという方程式が成立する。しかし、自分が消えても、他人が残っている。他人=宇宙でもあると考えられる。なぜなら、「他人」にとっても「他人」は自分だからである。宇宙はひとつだけ存在しているのか、複数存在しているのか、もっと正確にいえば、同じ空間上に存在する人間、動物、植物、バクテリア、ウィルスのひとつひとつがひとつの宇宙に住んでいるのか、それぞれ別の宇宙に住んでいるという問題については、主観的な意味では、別々の宇宙だが、客観的に意味では、一つの宇宙に住んでいると考えられる。客観的な法則を導きだす自然科学では一つの宇宙と考えることになる。後に述べるタイムマシンにおいては、過去に干渉した途端にパラレルワールド(別の世界)が生じる。

次に宇宙の終滅について考えてみたい。宇宙は極小の状態から拡大を続けていく。これは物質が拡散し続けていくということであり、ついに物質の濃度が薄まり過ぎて、縮まり始め、再び一点(特異点)の宇宙へと戻っていくと考えられる。極小→極大→極小→極大→極小→極大となって、宇宙は同じ歴史を何度も何度も繰り返していると思われる。ニーチェが永劫回帰(何度も同じ歴史を繰り返す)という言葉を述べたのも、示唆的(しさてき)なものを感じる。宇宙の膨張の速度は光の速度よりも遅いので、光速よりも速く移動する質量ゼロの物質タキオンは、宇宙の誕生から終滅までを何度もぐるぐると飛び回っていることになる。このタキオンを利用すれば、未来、過去への時間旅行、未来、過去への信号の送信が可能になる。いわゆる全知全能の存在になる第一歩はタイムマシンを持つことによって可能になるのである。したがって一度生まれた宇宙は誕生も終滅もないように見えるのである。再び梵我一如に戻るが、バラモン達は修行によって、この境地に達する。これは起きたまま眠ったような状態である。禅定(瞑想状態)を続けていくうちに耳、鼻、舌、身、眼、意が消えてしまうということである。人間は死ぬと土に帰る。それは意識や感覚は失うが、宇宙の一部となるのである。生きている状態と死んでいる状態は一緒(等しい)ということを梵我一如の境地に達した者は悟ることになるのである。ここで問題にしたいのが四苦である。生老病死の死を、人間は、梵我一如によって克服することができるのである。生きている時も、宇宙と自分は一体、死んでからも、宇宙と自分は一体なのである。しかし、自分とは脳を中枢とする神経系の活動である。眠ってしまっても脳を中枢とする神経系の活動はほぼ止まったような状態になるし、死ねば、これは永遠に止まる。生きても死んでも同じと言ったが、自分が消えるということは大違いであり、普通の人なら恐れをなすことである。釈尊の言葉に、一切皆苦という言葉がある。これは生きていると全てが苦しいという言葉である。梵我一如に達し、生きても死んでも同じだと悟った人は、生きている苦しみが気にならなくなるのかもしれない。自分を守ろう守ろうとするから苦しくなるが、なすがままにまかせれば、楽で自由になれるのだろう。宇宙=自分という境地は、大きな水面に、ひとつぶの水滴が落ちていき、静かに波紋を浮かべながら、静まってもとの水面に戻るようなものだろう。釈尊の説いた涅槃寂静(ニルヴァーナ:悟り)の境地も同じである。人間が生まれ、水滴として、水面に落ち、波紋を浮かべた後、消えていく(死んでいく)。悟りとは、人生、宇宙の歴史そのものとも言える。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月31日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

怒りについて

怒りについて考えてみると、それは欲求不満のはけ口であるということが考えられる。生命の欲求はいくつあるあるだろうか。基本的な欲求は、食欲、睡眠欲、排泄欲、衛生欲、性欲、になると思う。これら5つの全てが満たされていたいという欲求不満の代償作用行動が他人に向いたら、他傷・他殺、自分に向かえば自傷、自殺、器物に向かえば、器物破損、子供たちに向かえば、児童虐待、配偶者に向かえば、ドメスティックバイオレンス(DV)である。欲求不満を代償作用なしに、つまり、怒りなしに解決しようとするものが「悟り」である。「覆水盆に返らず」ということわざがある。「悟り」とは「禅」とは、こぼれた水をふきはらって、もう一度水を汲むことである。盆に入れる水がない場合は、何のために盆に水を入れていたのか考えることである。盆に水をはって、その上に軍艦の模型を浮かべるためであったらどうであろうか。そして、その牛乳もこぼれてしまったとする。まずはお盆の構造上の問題がないかどうかしらべるべきである。穴がお盆にあるなら、穴のないお盆に替えるべきである。その構造上の問題のないお盆に牛乳をはって軍艦の模型を浮かべて思わずお盆を持った手がすべって牛乳と軍艦の模型を落として台無しにしてしまったとする。つまり、地面にこぼれた牛乳は飲めないし、軍艦の模型は回復不可能になったとする。英語で言えば"There is no telling about over spilited milk"という「こぼれた乳について語っても意味がない」というのが直訳である。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月31日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

恋愛における男の道化について

恋愛において男が女に示す道化、冗談ぽさには、自分の気持ちを嘘とも本当とも取れるという解釈の余地を相手に残すという効果がある。女はどちらか自分自身にとって都合のいいほうを選択すればいいのだ。恋愛においては、お互いがお互いのペースを尊重するということが最も重要であり、自分が相手のペースを無視して独走すると、必ずといっていいほど、その人は相手から嫌われる。その意味で、恋愛における実直さや率直さは、しばしば危険なものですらある。真面目で実直で正直な男よりも、不真面目で遊び人で嘘つきの男の方が、女との付き合い方が一見すると上手なように見えるのも、ここに理由がある。実直な男の思いつめたような唐突な愛の告白が失敗に終わることが多いのは、それが相手のペースを無視して、選択の余地のない自分の気持ちを相手に押し付けることになっているからで、女からは拒絶が返ってくることがほとんどである。正直な自分の気持ちを正直に真剣に相手に表現するのは、女との間に親しさが増していった最後の瞬間になって行うべきことなのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月31日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

恋愛について

外見が美しいとか、話が面白いとか、お金持ちであるとか、頭がいいとか、そういったことはその人を愛するきっかけでしかない。むしろ、その人を獲得するために自分自身が身を粉にしてつくすことが、その人を長く愛する原因となっていくのだ。愛する相手のために自分がつくせばつくすほど、その人を失った時の悲しみは大きい。それは愛することによって相手がすでに自分自身の一部になってしまっているからだ。身を粉にしてつくしてきた愛する相手を失うということは、自分自身の身体と魂の一部を無理矢理もぎ取られることに等しい。大変な痛みを伴うのだ。だから、人は、外見的には、相手を愛しているようでも、本質的には、その相手を愛している自分自身を愛しているのだ。相手のことを深く愛すれば愛するほど、相手につくせばつくすほど、その相手を愛する気持ちはますます大きくなっていく。もしも、相手が自分にとって愛するに足らない存在であることがわかれば、それはそれまで相手につくしてきた自分の努力が全て無駄であったことを自分自身で認めることになる。だから、あまりに長く深く相手を愛し、相手のためにつくしてしまった人は、もう相手のことを愛さないわけにはいかないのだ。長く深く愛した後に、相手を愛さなくなるということは、それまで相手につくしてきた自分の努力が全て無駄であったことを認めることになるから。だから、生涯にわたって愛する人を手に入れようとするならば、その人を手に入れるために、できるだけ多くの試練や困難を乗り越えなさい。そうすれば、相手を愛しく思う気持ちはますます強くなり、数々の誘惑にも耐えうる強固な愛となっていくであろう。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月31日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

光と闇について

光は物質の一エネルギー状態でもある。宇宙の構造は無の世界(=ほとんど全てが物質:光につつまれている)のなかに気泡のようにいくつかエネルギー(=闇:ほとんどが熱エネルギー)で、そのなかにまた気泡のようにいくつか宇宙(光)があるという状態である。原初の宇宙は一つの物質で飛び回る電子により、光り輝いていた。それが一気にビックバンにより拡散し、光るエネルギー状態の物質がある所とない所に分かれていく。これにより、光と闇に分かれる。光るエネルギー状態とは、光エネルギー状態(エネルギーには、ほかに化学エネルギー状態、重力エネルギー状態などがある)のことであり、光エネルギー状態とは電子が激しく飛び回っている状態である。闇とは光エネルギーを発しない物質(電子があまり飛び回らない)しかない空間である。光エネルギーが宇宙内で熱エネルギーとして拡散しており、一部分の恒星で核融合で光となり、惑星内でも一部、化学反応で光が生じたりしている。宇宙は、その内部で熱しかないエネルギーの海を再現している。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月30日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

哲学について

フィロソフィ(Philosophy)とは哲学と訳される。以前、「思考するために思考する」のが哲学であるという定義をしていたが、もう一度、深く考えてみたくなった。哲学には大別して、西洋哲学と東洋哲学が存在する。西洋哲学の方が、より状況が単純である。ほぼアリストテレスの哲学が基礎となっているのが西洋の哲学である。一方、東洋哲学は、仏教が基礎になっていたり、儒教、老荘思想、荀子、韓非子が基礎になっていたりする。それ以外の思想は、宗教学の扱う範囲となる。どこまでが宗教学で、どこからが哲学なのかは非常に曖昧(あいまい)な所である。はたまた比較文化論といったジャンルが扱うこともある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ヴェーバーは哲学者であるとともに宗教学者でもある。

われわれはなぜ思想を持つのか。思想とは、世界観である。この世がどのように成立しているのかを説明するものである。ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えて、カトリック教会から破門すれすれまでいったことは有名だが、そもそもそういったことまでカトリシズムは規定しているのだろうか。カトリックとは普遍的という意味がある。教皇の持つ宇宙観こそが絶対に正しいという典礼ができあがっているのだろう。ガリレオの地動説が宗教と科学の対立の端緒であったのは明らかである。科学も哲学である。科学も宇宙の見方を持っている。近代に来て、宗教の持つ役割が変わってきた。科学的な世界観に宗教は追いつかなくなった。その代わりに、宗教は個人の魂の救済といった方向にシフトしてきた。子供はよく「どうして?」という疑問を大人たちに投げかけてくるが、現代ではたいていのことが科学によって説明されてきている。科学とは実験と検証によって法則を導きだす一連の流れのことである。子供の問いに、大人は科学的な知識を援用しながら答えざるを得ない。しかし、死後の世界のことであるとか、霊魂のことであるとか、そういったことは、科学では説明することができない。宗教というものを確固として持たない日本人では、状況はもっと複雑で、死後の世界については「わからない」霊魂についても「わからない」という答えをする親が多々いると思う。ユダヤ教では死後の世界や霊魂について何も語らない。キリスト教やイスラム教では、特にイスラム教では、雄弁に死後の世界や霊魂について語る。

話が脱線してしまったが、西洋哲学と東洋哲学という二大分類において、われわれはどちらに軍配を挙げることもできない。西洋哲学はキリスト教と融合してしまったし、東洋哲学は救いを求める仏教や、道教と融合した老荘思想、荀子、韓非子は儒教の流れをくむ法治主義である。哲学は真理を探し求めるが、真理そのものとなることはない。対して宗教は真理を探し求め、真理そのものとなることがある。「あなたはなぜマンゴーの葉ばかりを数えて、マンゴーの実を食べないのですか」という問いを、インドの老僧がヨーロッパの科学者たちにぶつけたそうである。マンゴーとは真理(悟り)である。哲学は真理を傍観するのである。宗教は自らが真理となることを目標にしている。しかし、この傾向、どちらにしても哲学は宗教と融合せざるを得ないという状況をどのように説明したらよかろうか。人間は幸せになるために生きている。哲学は人間の幸福を研究するが、幸福にならなくてもいい。宗教は、人間を救済し、幸福にするものである。人間は幸福になりたいと思って生きている。その結果、哲学を究めていく過程の中で、宗教的にならざるをえないのだろう。マックス・ヴェーバーが哲学者であるとともに宗教学者であることはむしろ自然なこととも言える。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月30日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

自由について

全てのことが原因と結果でつながっていることは拙論文『正義について』で述べた。このことを哲学用語では因果律と言う。因果律がある限り、人間には自由な意思がないことになる。

アメリカ合衆国は自由の国と言われる。わたしはアメリカ合衆国はキリストの王国でありたいと思っている国だと考えている。大統領の宣誓式では新旧聖書を片手に宣誓をする。北アメリカに初めて植民にやってきたのは、ピリグリムファーザーズで、メイフラワー号でやってきたことになっている。イエズス=キリストは人間を自由にするために生まれたと言われている。その教えはモーセという預言者以降のこまごまとした律法(トーラー:生活規範)をことごとく否定するものであった。アメリカには銃を持つ自由がある。ピリグリムファーザーズは、イエズス=キリストの理想を、新天地アメリカで実現しようとしたにちがいない。人間を自由にするのは愛であるとイエズス=キリストは説く。

ひるがえって自由とは何であろうか。因果律によって自由な意志が否定された今、狭い意味での自由しか語れなくなった。金や権力や名誉で、自由に人や時間を使うことができる。これも自由である。かつてアメリカ合衆国がイギリスの植民地だった頃、税金などによって自由が制限されていた。パトリック・ヘンリーという人が「我に自由を、しからずんば死を」と唱えたほどである。しかし、これらの自由はイエズス=キリストの言っている自由とはまた毛色の違ったものと言えないだろうか。

イエズス=キリストは、人間の自由をどのように考えたのだろうか。おそらくイスラエルの律法のがんじがらめの生活からの脱却と考えていたに違いない。「律法とは人のためにある」というのがイエズス=キリストの最大の論拠である。であるから、イエズス=キリストは「わたしは律法を破壊しにきたのではなく、完成しにきたのである」と述べている。心の奥底を注意深く見ていけば、「自由」というものが必ず見つかるはずである。釈尊は、こだわりを捨てることが自由への道であると説いた。イエズス=キリストは、愛によって「自由」に至ろうとしたのではなかろうか。たとえば、婦人が赤ん坊を産んだとする。赤ん坊は不快な気分になりしだい、泣き叫び、好き勝手に生きる。婦人は赤ん坊に大いに自由を束縛され、赤ん坊の支配下に入ってしまう。婦人は赤ん坊を愛している。この赤ん坊の支配下にある婦人は自分の意志で赤ん坊の世話を喜んでしている。この婦人は赤ん坊の奴隷(僕:しもべ)である。小さき者の僕(しもべ)たることで、自分自身は最大の自由を得るという、一見矛盾する論理が出てくる訳である。喜んで、僕(しもべ)たることは自由なのである。ニーチェが攻撃したのはこの奴隷道徳である。しかし、奴隷たることで人間は自由を得るのである。そこに介在するのは愛情なのである。

広い意味での自由な意志が原因と結果の関係(因果律)によって否定されてしまった今、狭い意味での自由(人間が日常生活で感じている自由)だけが残された。釈尊、イエズスともに自由を求めて、道を求めたことは同じである。人間はあらゆる束縛の中に生きている。その中で、偉大なる先史先哲たちの知恵をもとに、狭い意味での自由をせいいっぱい享受して生きていくほかはないのではないかと思う。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月30日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

偽善と偽悪について

偽善とは他の人のためと体裁を取りつくらいがら、実際はほとんど自分のためのためにある行為を行うことである。偽悪とは、他の人に害を与える体裁を取りながら、実際は半分以上他者の利益のためにある行為を行うことである。正義とは繁栄のための一つの手段でしかないことは拙論文『正義について』で述べた。偽善と偽悪はどちらがより正義(=繁栄のための一つの手段)と言えるだろうか。偽善が利己>利他なのに対し、偽悪は利己<=利他である。偽悪をする人は悪人扱いされる。しかし、実際には他者を幸福にしているか何もしていない。しかし、偽悪をしている本人は他者から迫害を受ける。偽悪とは一体どういう状況で生まれるのか。偽悪とは本当の自分を隠すために行う者のように思う。しかし、結果的に自己犠牲に陥(おちい)る。偽悪は相手に「不快」自己に「快」もしくは「不快」を与える。悪は常に相手に「不快」自分に「快」を与える。しかし、決定的に異なっているのは、結果として相手に無害であるか、むしろ有益であることだ。偽悪を行うキャラクター(人物)として思い浮かぶのは手塚治虫のブラックジャックである。わたしは偽善よりも偽悪を好む。「他者」のために偽悪(悪のふり)になるとは、正義と言えるのだろうか。偽善の場合、偽善とばれなければ、自分も快であるし、相手も快である。偽善とばれた場合には、自分も不快、相手も不快となるだろう。偽悪の場合には、偽悪とばれなければ、自分は快もしくは不快で、相手は不快である。偽悪とばれた場合には、自分は快もしくは不快であり、相手は快となる。偽善と偽悪を特徴づけると以上のようになっている。いずれも本当の自分の心を隠しながら行うもので、その本当の自分の心を知られた場合と知られない場合で相手の気持ちに変化が起きる。偽悪を行うのは、自分自身の優しさ(弱さ)につけこんで、不快を与えてくる相手に対する威圧の場合と相手に良いことをするときの恥じらい(照れ)を隠すために行う。

偽善と偽悪を考える前に「善」と「悪」を考えよう。「善」とは事実そのままを他者に伝えても自分に問題が起きないことであると定義する。「悪」とは事実を変形させたり、隠したりすることでしか、自分が害を受けずに他者に伝えられないことである。偽善は本心を隠している時点では善か悪かわからない。しかし、その本心が明るみに出た場合に相手から自分に被害を受けるのでやはり悪である。偽悪は本心を隠す時点で善か悪かわからない。しかし、本心が明るみに出た場合に、自分に相手から快を得られる、もしくは通常以上の快を得られる可能性がある。であるから偽善は悪、偽悪は善であることが論証された。偽悪がもっともよく使われるのは恋愛ではないだろうか。通常の善行為は相手への恋心を相手にストレートに伝えることで相手から拒絶される可能性がある。偽悪の場合には、自分の相手への恋心が、その悪っぽさの度合いをしだいにおとしていくことで明らかになり、相手がゆっくりと自分のことを知って好きになる。しかも先に述べた善行為よりもまさる快感を相手に与えることになる。

偽善はほとんど自分のためにある行為を行うことであり、その人の属する集団全体あるいは人類全体に繁栄をもたらすものではないので、正義になり得ない。一方、偽悪は本当の自分を隠すことで自分だけではなくそのひとの属する集団あるいは人類全体に繁栄をもたらすことはないが、相手(集団を含む)への善意を隠して、いつかわかってもらえることを希望していたり、結果として自分は嫌われたが、相手は繁栄を得ている場合がある。よって偽悪は正義となりうると言える。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月30日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

救いについて

救いには二種類あると思います。現世での救いと、来世での救いです。わたしは救いは愛にあると思います。愛とは小なる神であり、大なる神でもあります。愛とは愛着とは異なります。親が子を愛する無条件の愛情です。弱き物への慈悲と言った方がいいかもしれません。来世とは何かという問いに対して、わたしは何も言うことができません。来世があるという保証はないからです。天国、地獄、極楽、地獄、はたまた煉獄(れんごく)といった我々の想像力は事実無根であります。死後の世界があってほしい、そして、それができるだけ安楽な物であってほしいというのは万人の願いです。来世のために善行を積むのでは、単なる偽善に堕(だ)してしまいます。われわれはいかにして生きるべきか、その答えが愛にあると思います。それは現世的な救いでもあります。現世的な救いの中に来世的な救いが含まれていると考えてはどうでしょうか。夫が妻を愛し、妻が夫を愛するのも、また愛です。それは性欲エロースとは異なります。純粋な愛とは、溢れ出る物であり、わざわざ善行をなそうとして出す物ではありません。

純粋な愛こそ、イエズス=キリストの望む物であり、最も価値の高い物です。自然と出てくる慈愛、これこそが愛です。マザーテレサがインドの路上で行った行為は、「貧しい者の中で最も貧しい者に仕えなさい」という神の声を聞いてから始めたそうです。カルカッタの貧者は、とても自然と出る慈愛の対象足り得ません。しかしながら、マザー・テレサにとっては、慈愛の対象であり、この世での使命そのものであり、救いだったのです。カルカッタで死に行く貧者にマザー・テレサは逆に救われていたのです。人を救うことで、逆に人から救われる。このメカニズムは、人を好きになるときのメカニズムと似通っています。誰かを好きになるのは、誰かを好きになっている自分を好きになっているのです。結局は自己愛なのです。ですから、マザー・テレサは、汚れ、傷ついたカルカッタの貧者を、洗い清め、その過程の中で、自らが洗い清められていたのです。それは自己愛なのです。それは、「力を尽くし、精神を尽くし、あなたの主なる神を愛しなさい」とともに、イエズス=キリストが力説した最も大事な掟である「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ということとつながっていくわけです。

われわれは皆、マザー・テレサの行ったような愛の行いをすることは難しいかもしれません。しかし、妻を、夫を、そして、子供を愛するその愛も、純粋な愛なのです。そのなかに多少の愛着があるのはしょうがありません。愛着を飛び抜け、慈悲の心で接したとき、通常とは異なる救いへと至る愛が得られるのです。それはピエタのような愛です。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月30日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

仏について

仏教では、一切衆生氏悉有仏性(いっさいしゅじょうしつゆぶっしょう)ということばがあります。これは万物全てに仏が宿っているという意味です。アインシュタインの理論では、一切は、物質、エネルギー、無、でしかないということを述べています。仏とは、この物質、エネルギー、無、全てではないでしょうか。

かつて道元禅師が、一切衆生氏悉有仏性なのに、なぜ人間は最初から悟った存在(覚者)ではないのかと一生の疑問に思ったことがあると言います。全ての物が仏である。しかし、自分自身の姿を見ることができる人はいるでしょうか。今でこそ、等身大の鏡がありますが、自分自身を見るということは大変困難なことでした。物理的に自分自身を見ることだけでなく、心理的に自分自身を見るということ、これが、覚者という存在なのです。ひたすら、自分自身を磨き続けなければなりません。仏とは全てであるが、仏とは自分自身でもあります。大きな仏様:宇宙と、小さな仏様:自分、これが一致するということを悟ることも一つの悟りなのです。インド哲学で言う梵我一如(ぼんがいちにょ)です。

全て(物質・エネルギー・無)が仏である。そう仮定して、一体なんの意味があるのでしょうか。本来人間は、覚者足れる存在であるということ、自分自身と路傍(みちばた)の石が同じであると悟ること、これには、全てが仏であるという仮定の上にしかありえないことです。この仮定の上に、仏教の壮大な哲学大系が築かれているのです。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月29日(土)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

空と縁について

仏教においては「空」「無」という概念が非常に重要視されている。般若心経では、「色即是空」「空即是色」という言葉が出てくる。これは形ある物はことごとく空であり、空である物はことごとく形ある物であるという意味である。この世にあるものはすべて崩れ去っていく物である。では、いっさい崩れない物とは、「空」そして「無」である。これこそが真理であると考えたのではないでしょうか。空論を始めたのはナーガルジュナ(龍樹)といわれています。真の仏教者は失うことを恐れません。最終的に人間は「空」に戻るからです。もちろん死によって。しかし、存在しない物に真理を求めること自体が西洋哲学的には絶対矛盾として立ちはだかるかもしれません。その問題に対して釈尊はどのように説くでしょうか。ここに縁という概念が登場します。人と人はそれぞれ関係しながら存在しています。その中で人一人が死んだとします。しかし、死んだとしても、その人との関係性は形は変えつつも残っているのです。この関係性のことを縁といいます。ばらばらに存在している物がそれぞれ何らかの形で関係し合いながら成り立っている。これこそが縁なのです。縁とはネットワークのことです。縁は存在します。しかし縁も存在しないとも言えるのです。形がないからです。色即是空、空即是色とも言えない。

この「空」そして「縁」という概念によって仏教を説明しようという試みはある程度の意味があると思います。全てが空である。縁だけが存在する。このような世界観を仏教的世界観と言います。仏教の説く幸福とは何でしょうか。これは、自在であるということ、人格の完成、知恵の完成です。悟りに達したら、仏教修行者は何もかもが自分の思い通りになってしまうことを経験します。これは全知全能とは異なります。知恵を使うことで、自分がやり行うべきことを次々に達成していく。やり方はいくつでもあっても、結果はひとつである、そういう状況でも、確実に落ち着いて、よりよい方法を使って、自分の目標を達成していく。これが覚者、阿羅漢(あらかん)と呼ばれる人たちです。彼らは世界が空であり、縁のみが存在していることを理解しています。

われわれは、どのように世界を見るのか、世界の見方、におおいに関心をいだいているはずです。相対性理論もそのひとつです。ニュートン物理学もそのひとつです。これまで述べてきた仏教的世界観は、西洋にはないものでした。西洋人にとっては仏教的世界観は驚愕に値する物でした。それは唯物論になってからも変わりませんでした。西洋では、キリスト教神学を中心として、アリストテレスの哲学大系から抜け出せませんでした。われわれ日本人はこれだけ仏教に親しんでいいながら、仏教的世界観には無関心でした。わたしはこれはとてももったいないことだと思いました。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月29日(土)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

数式化されない論文の価値について

理系、文系というおおざっぱな学問の分類ができるとすれば、発表された論文の確からしさ(正しさ)を証明するのは、理系の方がより、簡単であると考えるが、どうであろうか。理系の学問は数学を基礎としてその上に化学や物理学や生物学が築かれている。数学は記号の整合性を示す学問とも言えるので、何もかもが合理的な説明とならざるを得ない。化学や物理学であろうと、微分や積分に代表されるように近似的になることはあるにしても数学の合理性をほぼそのまま受け継いでいるといってよい。では、文系の学問、特に哲学はどうであろうか。哲学は学問の始まりではあるが、そこから自然科学や社会学や文学などができていき、最後に残った領域が現代における哲学であるが、その哲学を中心として、文系の学問は数式化されないことが多い。数字と文字の違いは、数字が単一の意味しか持たないのに比べて、文字が複数の意味を持つことである。であるから、数式化された表現を文字によって示すことも可能であろう。文系の学問のほうが理系の学問よりも、確からしさの点で劣っていると思われるのは、論文著述者の文字に対する意味づけと読者の文字に対する意味付けのずれが生じている可能性が高い。であるから、いちがいに確からしさの点で、確実に理系論文が文系論文を上回るとも言えないと言える。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月29日(土)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

自分とは何か?

「自分とは何か?」という哲学的な命題に対して、わたしなりに一応の結論が出ている。脳を中枢とする神経系の活動が自分である。かつて哲学者デカルトは「考えるゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という哲学の第一原理を打ち出したが、この思考に似かよっている。ある人が自分の着ている服を触ったとすると、「触られた」という感覚を感じる。これは服が肉体と近い距離にあるため、皮膚感覚が刺激を受けたからである。わたしなりに考えれば、この「服」も自分の一部ということになる。それは髪の毛のや爪(つめ)が自分の一部ということになる。それは髪の毛や爪が自分であるということの応用である。髪や爪を切っても痛くないのは神経系が通っていないからである。しかし、毛根や皮膚についているので、切られているという感覚はある。試(こころ)みに一度切った髪の毛をセロハンテープで残った髪とくっつけると再び触ると触られている感覚が生じる。爪や毛は服と同じようなものだと言える。人間の五感「触覚」「視覚」「嗅覚」「聴覚」というものを感じるのが自分である。これが自分と他者を分ける基本である。「自分とは何か」という問いに対するもう一つの答えは、「自分とは世界(宇宙)である」という答えである。先ほど述べた五感全部を消すと、全てが消えて自分の思考だけが残る。インドのウパニシャッド哲学で梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地がある。自分(アートマン:我)と、世界(ブラフマン:宇宙)が、一つであると感じることである。自分をミクロコスモス:小宇宙、世界(宇宙)をマクロコスモス:大宇宙と考える。このミクロコスモスとマクロコスモスの一致が梵我一如である。また、仏教でいう涅槃寂静(ねはんじゃくじょう:ニルバーナ)である。自分が消えると世界(宇宙)が消えてしまうからである。ゆえに「自分は世界(宇宙)」なのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月28日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

男性と女性について

ここでは男性と女性について、精神と肉体を統合した形で論及しようと思う。第一に男性は理性的、女性は直感的という定義があるが、これは本当であろうか。女性の著名な哲学者はほぼ皆無である。脳の物理的構造から比較すると、左脳と右脳を連結している脳梁(のうりょう)が女性の方が太いそうである。女性の方が男性よりも語学習得がたくみな一因にこの脳構造があるらしい。たとえば左脳で発生した電気信号が右脳のある地点に到達するのに、左脳と右脳の連結が太い方が伝達が速くなる。例えば、「イス」という日本語が左脳にあって、右脳に「chair」という英単語があるとすれば、女性の方がすぐに翻訳できるはずである。一般に論理的思考は左脳、直感的な思考は右脳がつかさどると言われているが、これは男性において顕著であるが女性ではそれほどはっきりわかれていないのではないかと思う。机上の空論に陥(おちい)りがちなのは男性である。左脳の理性的思考(言葉を使った思考)が一人歩きしており、現実と感覚的に認識している右脳との情報のやりとりが狭まり、現実離れした思考が起こる。女性においては論理的思考・直感的思考の両方が右脳と左脳の両方で行われているのではないかと思う。つまり、女性の脳は右脳と左脳の役割分担があまりないということではないかと思う。左脳の論理的思考を「べきである」という理想だと仮定し、右脳は「である」という現実だと仮定すると、理想と現実のギャップが大きいのは男性であると考える。事実、自殺者は男性の方がかなり多い。女性の方が理想と現実に上手に折り合いを付けることができるのは、右脳と左脳の連結が太く一体であるからと考えてはどうだろうか。

第二に、過去に付き合っていた異性に対する感情にも男女で差がある。男性は以前、付き合っていた女性に未練を持つことが多いが、女性は以前、付き合っていた男性について実にあっさりと区切りをつける。この行動の違いは、女性が産む性であることと関連していると思われる。女性にとっての出産とは結婚と切り離して考えにくいことであり、さらには出産は命がけの行為である。であるから出産の前提となるSEXと付き合いの開始は慎重にならざるをえない。女性にとっては玉石混淆(ぎょくせきこんこう)のたくさんの男性と付き合うより、自分にとって最高の男性を一人見つけ出すことに最大の関心があるのは自然なことだと言える。一方、男性は自分が出産する訳ではないので、より数の多くの女性とより数多くのSEX体験を求めるため、いろいろな女性に目がいきがちである。

第三に、芸術についての男女の差がある。音楽では著名な女性の芸術家がいるが、いわば一流の芸術家は男性がほとんどである。これはなぜであろうか。これも右脳と左脳の連結の問題で、左脳の理想が右脳の現実と妥協しないところに生まれるのではないだろうか。例えば、料理をしているときは、プロの男性の料理人であれば、一点でも気に入らない点があれば、料理をまるごと捨てかねない。女性の場合は、「まあいいか」と妥協してしまう所がある。こだわりが芸術を生むからで、ありえない理想を現実化させようとするのが男性だと思う。

第四に男性は能動的、女性は受動的だと言われることがあるが、これは 本当だろうか。ことSEXで見れば、女性は受け身の状態で男性から行為を受けるようになっている。ここからの発展であろうか、女性、特に日本の女性は男性から誘われるのを待っている。状況はより複雑で、女性は自分が誘われるように他の女性と連携しながら男性を誘導することがある。SEXにおいて男性が勃(た)たなければ、行為に及べないが、女性は目をつぶって感触と嗅覚と言葉で感じ、行為に及べるようになる。男性は女性を見た目で選ぶことがほとんどであるが、男性の性器の勃起は視覚情報をもとにしていることがほとんどであるからである。SEXや恋愛のあり方は男性は能動的、女性は受動的と言えるが、その他の日常はでは必ずしもそうではないと思う。

近代以降、男女同権について意見が交わされているが、SEX、恋愛には男女に大きな違いあり、体力でも男女に差がある。脳の構造、思考パターンにもかなり差がある。これらは先天的(アプリオリ)にそうだと言える。したがって、男女同権とは、男性と女性を同じように扱うということではなく、男性と女性を種類の違う動物といったように接し方を別々に考えなければならない。男女同権は先に言ったSEX、恋愛以外の、能動性、受動性といった後天的(アポステリオリ)男女で共通する特徴の箇所で実現するべきことなのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月28日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

日本人に宗教意識が希薄な理由

日本人には宗教意識が希薄であるが、その原因としてあるものをかつて「ニホンキョウ」という概念で説明しようとしたことがあったが、もう一度、考え直すことにした。今、生きている日本人を研究対象にするので、1920年以降に生まれた日本人を考えることにする。「和をもって尊(たっと)しとする」という聖徳太子以降、日本は「和」の国であると言われている。「和」という概念は非常に重要そうである。「和」とは「なごやか」「なかよし」といった意味で考えることができる。英語に直すと「warm」「friendly」となる。今度は否定形で考えてみようと思う。「常識がない」「協調性がない」「空気を読めない」これと、「なごやかでない」「なかよしでない」を対置すると、どうも等質ではないと思われる。枝のように分岐していく図を想像してほしい。「和」を根本概念ととして最初に発し、そこから、「なごやか」「なかよし」という概念に分かれる。現代日本人が声高に叫ぶ「常識」「協調性」「空気を読む」ということはいずれも「なごやか」という概念から発しているが「なかよし」からは発していない。

人間関係の最終目標を「なかよし」であると仮定した場合、「なごやか」は「なかよし」にいたるまでの通過地点でしかない。すなわち「なかよし」ではないが、無理に「なごやか」をよそおっていることがありえるわけである。「なごやか」をその集団における集団を構成する各人の感性や思想の一致、統一であると仮定すると、その集団の大多数もしくは有力者の意向に自分の意向を「合わせる」ことによって「なごやか」が実現している。無理に「合わせて」いる間に本当に合わせることができることもあるだろう。その「なごやか」が長時間続けば「なかよし」に転化することも考えられる。こういった人間関係の作り方を日本人は好んでいるように思われる。おそらく江戸時代三百余年の平和と鎖国と、明治以降の中央集権的政治体制における序所に進んだ全国教育の均一化、戦後のテレビの普及における思想の均一化がますます先に述べた「無理のあるなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の流れを生み、日本人をして宗教の不要を生んでいるものと思われる。

宗教の必要を社会的な側面から見ると、宗教の持つ集団性にあると思う。魔術が個人的な面が多いのに対して宗教には集団性が必要である。かつてのギリシアがヘレネスとして別々のポリスを(国家)を複数持ちながら、オリンピアの祭典の時には停戦して体育競技に参加していたことからも明らかなように、共通意識(「バルバロイ」(異民族)とはちがうという意識=コモンセンス)を持ちえたのも天地創造から日常生活までを含む今日で言うところのギリシア神話の宗教的世界観を共有していたからである。これは西ローマ帝国崩壊後の中世ヨーロッパにおいてカトリックが大きな力を持ち、一度は破門が「死」を意味する(例:カノッサの屈辱)ことがあったこと、その後のキリスト教のカトリック、プロテスタント、プロテスタントがより原理主義化したピューリタン(ユグノー・カルヴァニスト・ゴイセン)の分裂後も、各国または諸自治都市が同じヨーロッパ人という意識を育んでいた。宗教の集団性の意義は宗教の持つ宗教的世界観(形而上学的)宗教的倫理観(形而下学的)を人々が共有することによってたとえ国や言語が異なっていても仲間であるという意識(同胞意識)が生まれることにある。

宗教的もしくは科学的な世界観と倫理観の共通意識が(=コモンセンス)が日本で言うところの「常識」であることが類推される。「常識」をより多く持つことが結果として、より「協調性」「空気を読む」を高めることになる。常識を育むもものとして、家庭、学校、会社での教育と経験、およびテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイが挙げられる。皆と同じテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイを読めば、常識が育まれる。特に日本人女性においてはどの雑誌を読むか読まないかによってどの集団に属するかが決まるようである。よって、日本人としての「常識」を多く持つことによって「協調すること」も「空気を読む」ことも得やすくなっている。意図的にそちらの情報から外れている人(たとえばわたし)は現代日本人としての「常識」が少なくなっている。それにより「協調性」「空気を読む」ことが苦手である。日本で日本人として気持ちよく暮らすには先ほど述べた方法で「常識」を増すことである。この常識こそが、西洋でいうところの宗教(religion)の代わりをしているわけである。であるから、日本人研究において重視すべきはまさにこの「常識」である。「常識」を持つことによって「無理のなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の構造(この構造自体を一つの宗教(ニホンキョウ)として論述したことがわたしにはかつてある)を述べてきたが、インターネット(携帯電話ネットワークを含む)の普及により、ここに当てはまらない日本人が徐々に増えてきているのではないかと思う。まだその数は少数であるが、これからさらに多数化していくものと思われる。その多くは社会からつまはじきを受けているが今後は状況が変わることが考えられる。この傾向が日本人の根幹である「和」とどう対立、融合していくのかがわたしの知的好奇心を増す。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月27日(木)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

旧人と新人の類型について

人類には何種類かの類型があった。アウストラロピテクス、ネンデルタール、クロマニヨンである。ネアンデルタール人は旧人と呼ばれる。クロマニヨン人が現代人である。アウストラロピテクスはその前の人類である。旧人と新人の大きな違いは、暴力性、破壊性である。ネアンデルタール人すなわち旧人は、クロマニヨン人すなわち新人に比べて争いを好まなかったと言われている。それゆえに旧人は新人に抹殺されたと言われている。人類の暴力性は、昨今、大きな問題になっている。地表を何度も壊滅できるほどの核兵器や生物・化学兵器を持つに至った人類は、みずからの暴力性や残虐性に真っ向から向かわざるをえなくなっている。しかし、遺伝子に組み込まれた暴力性をクロマニヨン人であるわたしたちは消すことができないのである。

もし仮に、暴力性を次のように定義してみたらどうであろうか。自己が他者に「快」を与えることで生活することが多いヒトを、温和な人類。自己が他者に「不快」を与えることで生活しようとすることが多いヒトを、攻撃的な人類と呼ぼう。前者を旧人的(ネアンデルタール人型)、後者を新人的(クロマニヨン人型)とすることができる。

ヒトは社会をつくることで生活する生き物である。したがって、クロマニヨン人的な人類は破滅するはずである。しかし、にもかかわらず、人類が存続しているとすれば、クロマニヨン人の中に、よりネアンデルタール人的な人類が存在するということであろうかと思う。女性にはクロマニヨン人であってもネアンデルタール人的(自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向)を持つ者が多いように思う。クロマニヨン人の暴力性は、性の目覚めと関わりが大きいとわたしは推測している。その例証として、おそらくネアンデルタール人は陰部を被服で隠さなかったのではないかと推測している。これはいささか寓話(ぐうわ)的になるが、旧約聖書を引き合いに出すと、創世記にて、ヒトが地を耕し、子を産み、(戦争をする:これは書いていない)のは、エデンの園の中央の、善悪を知る木の実を、「神」から禁止されていたにも関わらず食べたからだと言われている。わたしはこれを生殖能力の獲得と考えている。人間で言うと、10歳から12歳くらいの思春期。おそらくネアンデルタール人も思春期にあたる時期に同じように生殖能力を獲得するが、ネアンデルタール人は自らが裸であることを恥じなかったと想定するのはどうであろうか。「裸→恥→隠→嘘→悪→罪」という図式から人間(クロマニヨン人)の暴力性が生まれたのではないだろうか。

そもそも恥ずかしいという感覚は動物学的に見て、きわめて特異なものと考えられないだろうか。恥ずかしい、すくなくとも裸でいるのが恥ずかしいと考えることは、例えば、戦後の日本で一時期、思春期以降の男女が、中学校や高校で丸刈りやオカッパやショートカットと言った短髪を強制されて、恥ずかしいと感じるのと似ているのかもしれない。喜怒哀楽は動物にも存在するが、恥ずかしいという感情は動物には存在しない。「恥ずかしい」という感情に関連して、他の人に対する「好き」という感情と、他の人に対する「嫌い」という感情を持ち出すこともできると思う。女性の方がネアンデルタール的な傾向が強い。すなわち、自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向があることは、女性が装飾する(隠す)存在であることと無関係であろうか。アダムよりもイブが最初に善悪を知る木の実を食べて裸を恥じたことは非常に暗示的である。女性は男性よりも美しくあることを求められる。そのことの生殖や繁殖における意味はさておき(おそらく男性の性欲が視覚情報による刺激によって高まるため。一方、女性は匂いと触覚で性欲を感じる)、事実としてそういう傾向があることは確かである。

旧約聖書によれば人類の最初の装飾は、陰部を覆うイチジクの葉であったことになっている。旧約聖書の記述は寓話的な表現であるかもしれないが、実際のクロマニヨン人は、むき出しの生殖器を何らかの物体で覆うことは十分に考えられることである。もし、生殖器の保護という観念ではなく、恥ずかしいという観念から陰部を隠したとしたら、隠した時点で精神は安定し、非合理的な状況から脱して合理的な状態(安定)になったと言える。暴力性とは、非合理的な(言葉で表すことができない)不安感から発して、自己防衛しようとする機構ではないかと仮定すると、女性の方が、男性よりも装飾が多い状態で(たとえば長い髪の毛も含む)生きているので、より多くの「恥」を隠し、より合理的で安定した状態で生きていることになる。装飾には「恥ずかしさ」を隠すとともに他者から「好かれよう(保護されよう)」という意図から発していることも見逃してはならない。一方、男性は、「男らしく」育てられるとすれば「恥」を隠す装飾を切り捨てた服装や髪型(丸刈りなどの短髪)で育てられるため、恥が外に出ているという、より不安定で非合理的な状態で育てられるために、他者に「不快」を与えることで、他者を屈服させ、配下に置き、自己の防衛に他者を配置して備える可能性がある。(=軍隊的暴力集団の始まり?)

確からしいことではないが、戦後の一時期(1987年から1995年くらいまで)日本において全国の中学校や高校に丸刈り、オカッパ、ショートカット校則があった頃に、校内暴力が多かったことと、このことは関係していないだろうか。自分の恥を隠す装飾(この場合は髪の毛)を否定された思春期の男女が著しい不安感に襲われたのではないか。しかし、それは実は、丸刈り、オカッパ、ショートカットを強要されて、実際にその髪型になった少年少女ではなく、そうなる前の小学校の児童や、短髪髪型校則のないキリスト教系の私立学校に行くなどして逃れることのできた児童(しかし罰としての電気バリカンの恐怖があった)、短髪髪型校則があるにもかかわらず反抗して長髪を保ち、染髪もしたようないわゆるヤンキー(不良少年少女)グループに、著しい暴力性を生じさせていたのではないかと思う。しかし、短髪髪型校則を作った教育者の予定どおりなのか、偶然なのか、思春期の多感な時期に強制的に丸刈り・オカッパ・ショートカットといった短髪を実際に強制された当人は、クロマニヨン性が減じているように思われる。恥ずかしい思いを強制させられることで、プライド(尊厳)を一度捨てさせられた場合は、その後の非合理的な社会の要求にだまって追従するタイプのネアンデルタール的な、一種奴隷的な境遇にあまんずる人間となっているように思えてならない。かつてのロシアにおいて、所得の低い家庭の息子の最終教育課程は兵営、所得の高い家庭の息子の最終教育課程は大学であったと、トロツキーが『文学と革命』で述べていたように記憶している。短髪髪型校則が公立学校で多かった理由は、それと似たものを感じずにはいられない。学ランは、陸軍の軍服、セーラー服は、海軍の軍服であるからだ。

では、逆にクロマニヨン性を現せないためには、非合理的な理由によって恥ずかしい思いをさせようとして不安感をあおるような教育ではなく、非合理性のない合理的な(リーゾナブル:理由を納得のいくように説明できる)な指示だけを与える教育を児童に施すことであろう。しかしながら、思春期の児童の全員に非合理的な規則をまんべんなく、例外無く(男も女もすべて)与えれば、暴力性のある人物が減る可能性もある。一部だけが非合理的な恥ずかしい規則に従わなくていいような状態にしかできないのであれば、先述したように合理的、リーゾナブルな教育を児童に与えるべきである。それによってもネアンデルタール的な人物ができると思われる。逆に、古代のスパルタでは、戦士階級(貴族階級)の男子は、全て丸刈り全裸で少年時代を過ごさせられ、すさまじい軍事的訓練を得て後、戦士として長髪と服を装うことを許される。これはリュクルゴスが決めた法であるそうだが、この場合は、社会の上層が全員まんべんなく恥を負わせられた。これは強力なクロマニヨン型人間であり、同時にネアンデルタール型道徳を持った軍事的に理想の人間を作り出すための制度であったに違いない。

「愛」には大別して3種類あると、アリストテレスが述べている。「友愛(フィリア:アリストテレスが好んだ愛らしい)」、「愛欲(エロス)」、「無償の愛(アガペー)」このうちのエロスが非合理性と暴力性につながっているとわたしは思う。人を好きになるときに、理由が先にくることはまずない。その人を好きになった後では理由を話せても、その人を好きになる前や好きになった瞬間に述べることはまずできない。それは「おいしい」とか「気持ちがいい」「恥ずかしい:これは人間に特有」といた感情的な状態に近いからである。感覚的な快楽は脳の中に概念として存在せず、単なる快楽の受容として認識されるに過ぎない。「フィリア」はホモやレズビアン、「アガペー」は、性欲につながる僧院の偽善と独善につながってしまう可能性がある。すなわちこの三種の愛は、やはり「エロス」を中心に据えた存在であると思われる。人間は動物の一員である。動物の欲求も人間は持っている。人間が通常の動物と異なるのは言葉を使う存在、つまり理性的な存在であり、なおかつ自分を客観視することができることである。実験によると、一部のオラウータンやチンパンジーは、鏡を見て自分自身を認識し、歯磨きができるそうである。鏡を見て自分だと理解できるということは自分を客観視することの始まりである。自分を客観視した結果、自らの陰部がむき出しになっているのを見て「恥ずかしい:性欲」と思った。そして善悪を知る木の実を食べた理由は、イブがアダムのエロスを獲得するためであったことを思い起こすと、ますます単なる寓話とは創世記が思えない所以である。エロスが満たされないと、人間は不安定になる。これは人間の五大欲求(食欲・睡眠欲・排泄欲・衛生欲・性欲)に含まれるからである。エロスには相手が必要である。ローマ時代、ローマ皇帝は兵士に結婚を禁止したそうである。兵士を欲求不満にし、暴力性を高めさせるためだったという。つまり愛し合う相手がいない(自分の好きなあの子が自分のものになっていないという不安感を持った)兵士が、略奪などの暴力性を発揮させたいという為政者の方針であった。ここで秘密に結婚式を挙げてやり、処刑されたのがバレンタイン神父であり、処刑の日がバレンタインデーなのはあまり知られていないことである。エロスの発現は思春期である。

ネアンデルタール型、クロマニヨン型、と人類の類型を分けたが、『新約聖書』のマタイによる福音書の25章31節から始まる、最後の審判の様子を表現する(羊と山羊(やぎ)をわける」文章が重なっているように思えてならない。羊がネアンデルタール型、山羊がクロマニヨン型である。羊は天国に行かされ。山羊は地獄(ハルマゲドン?)に行かされる。イエスが羊と山羊の分類をするわけである。人間は皆、思春期前のときは羊(ネアンデルタール型)である。しかし、思春期以降に、ネアンデルタール型(羊)とクロマニヨン型(山羊)に分かれるのだと思われる。裸を「恥ずかしい」と思い、キリスト教系の私立学校に行くことで、隠し続けることができた(長髪の高所得層の児童)と、裸を恥ずかしいと思いながら、丸出しにされた(短髪の低所得層の児童)で、分かれるというとたとえとしては分かりやすいかもしれない。どんなに非合理的な命令でも言うことを聞く羊(ネアンデルタール型)の人間を天国へという訳であろうか。この仮説によれば、その天国(「神」にとって都合のいい奴隷性があるネアンデルタール型人類)があまりいいところに思えないのは、なんとなく不安である。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月26日(水)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

正義について

「正義」は存在するのでしょうか。人間は万物の尺度であると唱えたプロタゴラスによればないことになるでしょう。「義」は、人間一人一人、別々に持っています。しかし、「正義」は、人間全員に繁栄を約束するものだと思います。もし、人類が、物質的、精神的な繁栄の中で暮らしたいのなら、自分(たち)だけ幸福になるような「義」は、「正義」によって、打ちくだかれるべきはないでしょうか。「義」は主観的ですが、「正義」は客観的です。主観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:義:個人的(感覚的)な好み)は無数(人間一人一人ちがう)にあるが、客観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:正義:理性的(科学的)な法則)は一つしか(ほぼすべての人間にあてはまる)ありません。俗世を離れれば、「正義」などどうでもよくなります。しかし、俗世の物質的、精神的、幸福を増大を意図するなら、「正義」が必要だと思います。

正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。

人間の思考や感覚が、体内の物質の運動によって、決まっているのであれば、(この前提が正しいか誤っているかは、わかりません。しかし、この前提からいろいろなことを説明できます。)人間の意志や行動も、すべて物理的な法則にのっとって、決まっているはずです。たとえば、朝起きたとき、牛乳を飲むか、ジュースを飲むか、水を飲むか、という選択をするとします。例えば、水を飲む選択をしたとします。「なぜ水を飲んだのですか」、と問えば、「昨日、お酒を飲んだからです」と答えるかもしれません。では、「なぜ昨日お酒を飲んだのですか」、とたずねたら、「新入社員の歓迎会があったから」と答えるかもしれません。では、「なぜ新入社員の歓迎会をしたのですか」と問えば、「毎年やっているからです」と答えるかもしれません。「なぜ毎年やっているのですか」と問えば、「毎年やっても嫌でないし、そこそこ楽しいから」と答えるかもしれません。このように、人間の意思の決定や行動も、原因と結果の連続で起こっていることがわかります。したがって、地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理で、人間が、次の行動をどうするかが決まっていることになります。しかしながら、いやいや、人間の感覚や好みは、それでは説明がつかないよ、とおっしゃるかもしれません。

これまで述べたのは、意識的に行動の理由を説明できるものでした。しかし、人間の精神は意識的な部分と無意識的な部分を両方持っているようです。人間が意識の領域のほかに無意識の領域を持つということは、精神分析を創始したユダヤ系オーストリア人のフロイトが提唱しました。意識的とは、言葉で理由を他の人に説明できること、無意識的とは、言葉では理由を他の人に説明できないこと、と仮に定義しましょう。例えば、あなたが、洋楽のロック(エレキギター系)が好きであること、わたしが洋楽のR&B(黒人の女性歌手)が好きであること、この理由をきちんと説明できるでしょうか。理由を完全に説明するのはかなり困難だと思います。ある程度は、できますが、不完全にとどまります。それは、このようなことには無意識の領域が大きくからんでいるからです。フロイトは、無意識の領域を説明するために、その人の幼児体験を重視しました。例えば、わたしが「R&B(黒人の女性歌手)が好きであること」を幼児体験から説明するならば、父が黒人女性歌手の曲をよく聴いていたので、わたしが幼児の頃から一緒に聴いており、人間に快感を感じさせる脳の部分と、幼児期の幸福で気持ちがいいと感じた情報と、黒人女性歌手の歌声と音楽の情報が脳の中で結びついているから、となるかもしれません。人間は、幼少期に神経を含む肉体の基本機能が発達します。その基礎の上に、積み重なって成長していきます。人間の精神は、脳を中枢とする神経によって生じています。無意識の領域は、幼児期に何を体験するかで大きく変わると仮定すれば、フロイトが幼児体験を重視することは正しいことのように思われます。大人になると、幼児期ほどは、無意識の領域に変更が加えるられることはないのでしょう。しかし、この場合でも、幼児体験による無意識の領域の形成を、「脳の回路(脳の情報ネットワーク)の形成」ということで説明すれば、原因と結果(地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理)ですべて説明がつくのではないかと思います。

たとえ不条理(理性で説明することができない)をテーマとするフランス文学であっても状況は同じです。アルベール・カミュの「異邦人」では、主人公の男性のムルソーが、「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」と、法廷で証言します。それはおそらく嘘ではありません。もし太陽がまぶしくなかったら、アラビア人を殺さなかったかもしれません。人間は、人を殺すということを重大なこととして考えているので、殺人には、必ず理性(意識)で説明のつく動機(うらみ、金銭など)といったことがあると考えてしまいます。しかし、人間の意思決定や行動には、無意識の領域が関わっていることは先ほども述べました。ムルソーの「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」という証言は、自分の無意識を、なんとか意識に変えて説明したことになります。「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」ということは、「暑かったから、クーラーをつけた」ということと何ら変わりはないことになります。殺人ということが、クーラーをつけることよりも、人間の社会の中で大きな意味を持つということであるということ、それから、殺人をするという意思決定が、無意識の領域が大きな理由となって起こり、クーラーをつけるという意志決定が暑いという感覚から、意識の領域を大きな理由として起こった、ということが異なっているだけです。アルベール・カミュの示した不条理(理性で説明することができない)は、無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンを解明すれば、条理(理性で説明することができる)ことになります。

無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンとは何でしょうか。人間の脳の構造(脳の神経の物理的分布)は、ネットワーク構造になっていると科学者の間で言われています。脳の中で、一つの情報が、他の情報と網の目(ネット)のようにつながっているそうです。あなたが自分自身で実験して確かめるなら、お母さんのことを思い出したら、親戚のことが、次々に浮かんでくるのは、脳の中で情報がネット(網の目)構造で互いにつながっている(リンクしている)からかもしれません。申し訳ございませんが、これはわたしの専門外であり、ぼんやりとしか説明できません。脳や神経の物理的構造から、この問題を解明するには、「ニューロン」「シナプス」という用語からインターネットなどで情報収集を始めるといいでしょう。科学者によれば脳を中心とする人間の神経系は化学物質の反応と電気信号で成り立っているそうです。無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンも、経験(外部からの情報)によって、脳の中に情報のネットワークが作られていくことによって決定されると仮定するのはどうでしょうか。これは、かなり信ぴょう性の高い仮説だと思います。であるならば、人間の好みや行動パターンも原因と結果で説明できるはずです。もちろん、脳の中に情報ネットワークができる前に、感覚を受ける部分(感覚器→目・耳・鼻・舌・皮膚)の構造が問題になりますがが、これは遺伝子(DNA)によって決まっています。昆虫のハチが見た映像世界と、人間が見た映像世界は異なるそうです。人間の間でも、緑と赤の区別がつかない色盲の人がいるのは、大多数の人間と視覚部分の遺伝子が異なっており、目という感覚器、もしくは、視覚を担当する脳の部分の構造が異なっているからでしょう。遺伝子(DNA:生物の諸器官の設計図にあたる)は、インターネットの百科事典であるウィキペディアによると、デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸であるそうです。塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンの四種類あり、それぞれ A, G, C, Tと略されるそうです。わたしは専門外なのですが、どうやらA, G, C, Tの組み合わせの違いで、生物の諸器官の設計図の違い(遺伝の違い)が出てくるようです。したがって、人間の好みや行動パターンを決定する、外部からの情報(経験)から形作られる脳の中の情報ネットワーク(神経回路)が構築される以前にも、感覚器や脳の構造は、遺伝子という物質(デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基)によって決定されていることになります。「人間の意志や感覚が、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」という前提で、これまでの仮説は説明されました。

では、この前提を疑ってみましょう。つまり、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で、人間の意志や感覚が決まっているの「誤りである」、とするということです。では、人間の意志や感覚を決定しているのは何でしょうか。ある人は、神であるというでしょう。ある人は、仏であるというかもしれません。ただし自然が決めると言ってしまえば、「体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」と同じことになります。自然の神秘的な力が決めるとした場合は、現在の人間では説明のできない体内の物質の運動が決定することになります。仏教でいう「法=仏」は、「法則」であるとことのようです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、自分自身を実験台にして、精神の科学的な実験と検証(精神に関する仮説が正しいか確かめる)を繰り返ししていたようです。そこから、ほとんどの人間に共通する精神の「法則」を導き出し、後世、「法」と呼ばれるようになり、シャカ自身「:仏」が、自分が構築した「法(精神の法則)」を意識しつつ、「法」にのっとって、幸福感の中で暮らしていたので、「法=仏」ということになったということだと思います。(現代の日本の仏教は、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのものとはかなり変質してしまっているようです。日本でいう仏は、後で述べる神に近いものとなります。いわゆる信者がすがる対象である阿弥陀如来や、大日如来は、ほぼ神です。)

したがって、人間の意志や感覚を決定しているのが仏であるとすれば、それは、先ほど、わたしが述べた、人間の意志や感覚が、体内の物質の運動で決まるという前提と同じ立場に立つことになります。では、人間の意志や感覚を決定しているのが神であるとすれば、この場合のみ状況が特殊になります。では、神は、どんな方法で人間の意志や感覚を決定しているのでしょうか。ある人は「超自然の力で決定している」と言っているかもしれません。超自然とは何でしょうか。ひとつ確かに言えることは、現在の人間には、原因と結果の関係をどうしても説明できないものであるということでしょう。フランスにはルルドの泉というものがあり、この泉を訪れたものが難病を治したという事例が、数多くあり、そのうちのいくつかが、現在の人間では、原因と結果の関係を説明しきれないそうです。これが、いわゆる奇跡であり、奇跡とは超自然ということになります。しかしながら、原因と結果の関係を説明しきれないのは、現在の人間の思考(そのうちのひとつが科学)が未熟であるからという可能性もあります。より精密で正確な人間の思考ができれば、その奇跡も、自然の中で起きる当たり前の出来事として、原因と結果の関係を説明できる可能性があります。

しかし、原因と結果の関係を説明し切れない、ということにおいて、そもそもの大前提が崩れる仮説をわたしは示すことができます。それは、「原因と結果の関係が崩れる」ことです。例を挙げて説明します。あなたが、朝、目玉焼きを作ろうとして、冷蔵庫から、卵を手に取ったら、うっかり、床に落としてしまい、卵が割れてしまった、とします。目玉焼きを作ろうと思うなら、割れていない卵を別に使えばいいのですが、もし割ってしまった卵が大変特殊な卵で、二度と手に入らないとすれば、どうでしょうか。あなたの精神の中には、おそらく後悔と悲しみと、時には怒りが生じるかもしれません。しかし、それによっても、割れてしまったその卵を取り返すこと(割れていない状態にその卵をすること)は絶対に無理です。人間は過去に戻ることができないからです。「しかし過去に戻ることができたら?」あなたは、その特殊な卵を割れない状態で取り戻すことが可能なのです。これが「原因と結果の関係が崩れる」ということです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を幸せにする方法はたくさん存在するからです。

結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになります。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって「神」の存在の問題は、タイムトラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます。(全知全能)その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作(老化遺伝子の抹消)すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果(仏教用語でいうと、因縁や因果)で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、変えることができるのは、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を結果として幸せにする方法はたくさん存在するからです。

タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます(全知全能)。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。例えば、イエスがカナの婚礼(ある人の結婚式)で、たるに入った水をワインに変えた奇跡が、新約聖書に書いてあります。これを、タイムトラベルによって実現するにはどうしたらいいでしょうか。時間が止まった状態にして、その時に水とワインを入れ替えるのはどうでしょうか。モーセが、ユダヤ人たちを引き連れて、エジプトから脱出する際に、葦(アシ)の海がふたつに分かれ、海の中に道ができたことが旧約聖書に書いてあります。タイムトラベルによって、モーセたちが葦(アシ)の海付近に到達する時間に移動し、高い科学技術力によって自然現象として、海を二つに分けるのはどうでしょうか。事実、「海が割れる奇跡」の原因としては、当時起こったサントリニ島の大噴火が有力と科学者が考えています。天童よしみの歌に歌われている『海が割れるのよ カムサハムニダ』「珍島物語」でテーマとなる珍島(チンド)では、実際に、毎年5月初旬頃に海が分かれ、道ができ、対岸まで歩いて行けることが確認されており、有名な観光地となっています。結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、現在、過去、未来のあらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって全知全能の「神」の存在の問題は、タイムとラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。

タイムトラベルは可能なのでしょうか。現代の科学者によれば、不可能か、極めて困難であるという見解となります。タイムトラベルのことを考えるにあたって、まず物理学の現象の捉え方を簡単にご紹介します。申し訳ございませんが、これもわたしの専門外なので簡単にしか説明できません。ご紹介するのは、ニュートン力学と、アインシュタインの相対性理論です。リンゴが地面に落ちるのを見て、万有引力について考えるにいたったという、ニュートンが提唱したのが、ニュートン力学です。ニュートン力学の特徴は、時間、空間、物質(質量)の大きさは、常に変わらず、その中でいろいろな現象が起こるというものです。わたしたちが日常生活で接している物理的な現象は、ほぼニュートン物理学で説明することができるそうです。ニュートン物理学だけでは説明できないことがあり、そこで登場したのが、アインシュタインの相対性理論です。

ニュートン物理学で説明できないこととは、例えば、観測者から見て、光の速度に近い速度で移動している物質といったもののことです。相対性理論の特徴は、質量(重さ)を持った物質であれば、観測者から見て、光の速度を超えて移動する物質は存在せず、物質の移動速度が、光の速度(秒速30万キロメートル)を超えないように、時間、空間、物質が、大きくなったり小さくなったりするというものです。どんどん速度が上がっていく乗り物に乗っているとして、その乗り物はいつか、光の速度を越えてしまうはずです。ニュートン力学では、質量(重さ)を持った物質が、光の速度を超えてしまうことは可能です。なぜなら、時間、空間、物質の大きさは常に一定だからです。速度=移動距離÷移動にかかる時間どんどん速度が上がっていく乗り物が光の速度を超えないようにする(その乗り物に乗っていないその乗り物の様子を観測する人(:観測者)から見て、その乗り物が光の速度を超えて移動しないようにする)ためにはどうすればいいでしょうか。観測者から見て、乗り物の速さが上がっていくにつれて、その乗り物の中で時間の経過はゆっくりになり、その乗り物の質量(重さ)は大きくなります。質量が大きくなれば、その物質をより大きな速度で移動させるには、より大きなエネルギーが必要になります。移動するために使うエネルギーは補給しない限り使えば使うほど少なくなっていきます。乗り物の中に乗っている人にとっては、時間はいつもどおり流れており、話したり、動いたら、スローモーションになってしまうということはありません。少し例としては不適切ですが、感覚的に理解するために例をあげます。救急車に乗っている人が聞く、ピーポーピーポーという音の高さは、いつも同じですが、マンションの部屋で、道路を走りすぎて行く救急車のピーポーピーポーという音の高さは、次第に低くなっていくのを感じたことはないですか(ドップラー効果)。速度=移動距離÷移動にかかる時間移動距離を大きくするか、移動にかかる時間を大きくすれば、速度は下がることがお分かりいただけると思います。時間や空間や物質(質量)が、大きくなったり、小さくなったりすることで、観測者から見て、光の速度を超える重さ(質量)を持つ物質が存在しないようにできるのです。

事実、宇宙飛行士が、宇宙船で地球の周り(衛星軌道)を、極端に速い速度でぐるぐる回って、地球に戻ってくると、宇宙船の中の常に正確な時間を示す時計が、わずかに遅れていることが確認されています。自分がいる空間だけ未来に行くこと(浦島太郎状態)は人類はすでに実現しています。せいぜい数秒程度ですが。あなたがいる一人暮らしをしている部屋(宇宙船のように高速で移動しているとする)の時間の経過が、1日で3日間、部屋の外よりも実際に遅れるとします。あなたの部屋の中の1日の経過が、部屋の外では3日の経過にあたるわけです。あなたが部屋の中にある携帯電話の日付時刻で確認して、2010年4月1日午前0時0分0秒から、2010年4月2日午前0時0分0秒までいたとします。それから外に出て、お友達の持っている携帯電話の日付時刻を見てください。そのお友達に会って、お友達の携帯電話をのぞくまでにかかる時間が32分50秒とすれば、お友達の携帯電話は2010年4月4日午前0時32分50秒を示しているはずです。

しかし、現在の人類は過去には行けません。相対性理論は、光の速度を基準にして、空間、時間、物質をひとまとめにして考えることができる理論です。さらに物質(質量)はエネルギー(の大きさ)に置き換えることができます。E=M×C×C(:イーイコールエムシー二乗→エネルギーの大きさは物質の重さに光の速度を2回かけたものと等しい)物質をエネルギーにかえるというのは、割り箸に火をつけて燃やすこととは全く違うことを理解しておいてください。割り箸に火をつけたら、割り箸という物質がエネルギーに変わったのでしょうか。ちがいます。燃焼は、発熱を伴う激しい物質の化学反応です。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)質量保存の法則という言葉をご存じですか。フランスの科学者、アントワーヌ・ラヴォアジエが提唱したそうです。「化学反応の前後で、その化学反応に関与する元素の種類とおのおのの物質量は変わらない」という化学における保存則の一つです。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)時間、空間、物質(質量)が、一定で変化しない、ニュートン力学にのっとった法則です。原子力発電、原子爆弾(核兵器)は、物質をエネルギーに変えることによって実現しています。原子核反応(原子核融合反応・原子核分裂)によって、原子レベルで、物質がエネルギーになるのです。あなたの指の爪を切って、その爪ひとつを全て原子核反応でエネルギーに変えれば、少なくとも福岡県全域を破壊(壊滅状態)にすることができるはずです。宇宙は、ビッグバンという爆発によって始まったと科学者によって言われています。ビッグバンの前は、ゆらめくエネルギーだけが存在する世界だったのではないかと言われています。エネルギーのゆらぎが極点に達し、エネルギーのごく一部が物質に変わった、これがビッグバンとされています。部屋を真空状態(まったく空気も何もない本当の真空)にします。ここに、何らかの方法で膨らんだ風船を入れたとします。すると、気圧差で一瞬で風船は爆発し、中の空気は部屋中に拡散するそうです。ビッグバン以降、宇宙は膨張を続けているそうです。これが「ゆらめくエネルギーだけ」の中に「物質」が生じた状況(ビッグバン)の状況だと言われています。物質が生じた瞬間に、同時に、時間、空間ができました。

わたしたちは時間と空間と物質を分けて考えていますが、これらのものは同時に発生したのであり、ひとつの存在であると考える方がいいのではないでしょうか。物質のないところに、時間も空間もないのです。あなたは時間の経過を、どのように確認しますか。時計でしょうか。現在一般に使われている時計のほとんどは、クォーツ時計と言われています。クォーツとは水晶のことです。水晶は圧電体の一種であり、交流電圧をかけると一定の周期で規則的に振動します。クォーツ時計ではこれを応用し、通常は32,768Hz(= 215Hz)で振動する水晶振動子を用いて、アナログ時計の場合には時針の速度を調節し、デジタル時計の場合はその信号を電気的に処理して時刻を表示します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)もっとわかりやすい例で言えば、砂時計があります。砂時計をひっくり返して置くと、上にたまった砂が下に落ちて行きます。砂が全部下に落ちると3分といったような形になっていたりします。最も正確な時間を刻む(遅れたり進んだりしない)時計としては、原子時計があります。原子や分子には、ある特定の周波数の電磁波を吸収あるいは放射する性質がある(スペクトルにおける吸収線と輝線)。この周波数から、水晶振動子よりも正確に時間を測定することができます。原子時計はこの原子の性質を利用します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)あなたに、おいっ子がいたとします。久々においっ子に会うと、身長が伸びていました。それによっても時間の経過を知ることができます。時間の経過は、物質の状態の変化によってしか知ることはできないのです。あなたは、部屋の広さを調べるときにどうしますか。メジャーを使いますか。メジャーは金属や布でできています。そこに目盛りが書いてあります。メジャーという物質と、大きさを調べようとする対象である物質(例えば部屋)を比較することで、物の大きさを調べることができます。空間の広さも、物質の大きさとの比較によってしか知ることはできないのです。時間と空間と物質が、常に同時に存在し、関係しあっていることが感覚的にご理解いただけたでしょうか。

ずいぶんと脱線しましたが、タイムトラベルは可能なのかという問題に戻ろうと思います。人類が未来に行けることは説明しました。あとは過去に行けるようにするだけです。相対性理論は、質量(重さ)を持たない物質の存在も否定できないのです。質量(重さ)を持たない物質は、観測者から見て光の速度を超えることができます。その物質(粒子)は仮にタキオンと言われており、その性質を使えば、過去に信号を送ることも可能とされています。タキオンに対して静止質量0で真空中を光速で運動する粒子をルクソン(luxon)(タキオンとの混同からかルクシオンとも)、正の実数の静止質量を持ちどんなに加速しても真空中の光速には達しない粒子をターディオン/タージオン(tardyon)と呼びます。タキオンが存在し、ターディオンと作用を及ぼしあうなら、因果律(原因と結果の関係)が破られてしまう(原因と結果の関係が崩れる)か、あるいは、因果関係(原因と結果の関係)が観測者によって異なってしまうとされています。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)ここに過去へのタイムトラベルの可能性があるのです。説明が不十分であることは正直にわたしもみとめます。後日、専門家とともにお話をうかがいたいと思います。その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。人類が自力でタイムトラベルの技術を獲得しない限り、「神」を殺害(破壊)することは不可能です。それはわれわれ人類が、彼(彼ら)に代わって、「神」になることを意味します。そしてたとえ「神」がタイムトラベルできたとしても、タイムトラベルしようということは因果律(原因と結果の関係)で決まっているのです。つまりタイムトラベルできる「神」にも自由意志はないのです。

したがって「神」がいない場合でも、いるパターンでも、人間の行動が、遺伝子によって決定された脳構造と、生まれてきた以降の後天的な経験によって形成された脳の神経回路(行動パターン)によって決定し、人間同士の遺伝子の違いは1%よりはるかに少ないことを考えると、ほぼすべての人間にあてはまる最善の正解である「正義」(真理:理性的(科学的)な法則)はやはり存在することになります。

文頭で述べたことを、繰り返しますが、正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月25日(火)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

貧富の格差について

経済的繁栄の決定的原因は、経済的所得層の総中流化であるとわたしは考えている。それを逆に立証しているのが、今日(2010年)のアメリカ合衆国を主軸とする世界同時不況であろう。アメリカ合衆国において特に、またその傘下の日本においても、所得格差の大きな偏(かたよ)りができている。一部の人間に大量の貨幣が集まるということ、すなわち、動産、不動産、預金が集中しているということと関連して、本来ならば流通し、取引されるべきものが、一カ所にとどまったまま動かないため、商品の流通がとどこおっている。すなわち不景気を引き起こしているのである。赤血球を貨幣、酸素を商品にたとえれば、人体の細胞のごく一部に酸素(商品)を運べる赤血球(貨幣などの資産)が集中しているために、体全体が酸欠状態になっているのに似ているのではないかと思う。

貨幣が同じ額面である限り、その国に置いて同じ価値を持つのであるならば、貨幣はほぼ均等に国民に行き渡っていた方が活発な消費活動が生まれるのは明らかである。しかし、ここで逆のことを考えるべきである。そもそもなぜ過剰な経済格差が生まれたのか。株式取引のトリックを利用するユダヤ人の陰謀という過激な説はともかくとして、人間の競争心によるもの、適者生存(ダーウィンの理論)といった古くからの考え方からが、貧富の格差が生まれたと考えるのは自然だろう。一人の人が一日に使いうるお金は限られているにもかかわらず、将来の不安や他の人に対する虚栄心、名誉欲といったものが、強力な権力や経済的能力を持つ国民において、過度の蓄財を生んだことで、異常な貧富の格差が生まれた。マックス=ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、かつての精教徒(ピューリタン)は、商業によって得られた利潤を自らの魂の救済の証として認識していたため、利潤は蓄財へとはならず、さらなる投資として市場に持ち込まれ続けたということであった。その状況下であれば、貨幣は常に資本(現代のような株式市場への投資ではなく、さらなる物資サービス生産拠点である工場・店舗の資本としての投資)となって循環し続けるので問題がなかった。

商業におけるWASP(ピューリタンの流れをくむ白人のプロテスタント)の信仰的熱意の低下が、この不景気を生んだと言えるのではないかと思われる。所得の総中流化と競争心という一見すると二律背反のように思われる命題を弁証法的に解決することが古今東西を問わず、経済問題を解決するものであるとわたしは思う。消費においては、所得の総中流の世界を用意するなら、生産またはサービスにおいては、競争心の世界を導入すべきなのは明らかである。今度は、物資の提供およびサービスの提供においては、何によって競争心を出すか。商業は基本的に政府の関与を一切排除(税金をのぞく)するのが繁栄の原則であるため、商業国民に何らかの政治的な特権を渡すべきではない。よくよく考えると、競争心の報いは、かつては「利潤:もうけ」であった。これはこれからも変わらないだろう。ただし、何一つ生産しない株式市場のようなマネーゲームによる数字上の金儲けがいけないのであって、これが現在のアメリカ合衆国が陥っている不況の原因である。

単なるマネーゲームを阻止する法律を政府で施行することで、良い物資、良いサービスの提供者に利潤を報いるようにしなければならない。今回のアメリカ合衆国の不況は、資本主義の破綻(株式の山を左から右に、右から左にコンピュータというシャベルで移しているだけの株式市場の破綻)と言ってよいと思う。株式という経済のあり方自体が見直されるべきときに来ていると思われる。これからもカルテル、トラスト、コンツェルンといった既存で知られている形態以外の、実質的な独占が生じるとすれば、それはこれまで通り、司法によって抑制する必要がある。すなわち、検察が、自由経済の活性化を阻害する、企業、個人の動きを告発し、停止させねばならない。商品の活動が「なるにまかせよ(レッセフェール・レッセパッセ)であってよいのは、競争状態のある純粋な商業活動(商品・サービスの提供)においてであり、政治的な特権を商業活動をする個人、法人に与えるべきではない。国民所得の均一化は、完全ではなく、ある程度の貧富の格差はあるにしても、総中流に近くなるように、累進課税制度を導入し、個人の場合は場合によっては最大所有財産を決めて、それを超える部分は国家が徴収することによって、少数の個人に貨幣がたまること(死蔵される)ことのないようにしなければならないと思う。特定の企業に貨幣がたまることを抑制するのは税金ではなく司法の役割である。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月24日(月)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

解脱と悟りについて

わたしは仏教修行者ではありません。しかし、わたしが考える、そして(不完全ながらも)体験したといってはおこがましいですが、「仏教的な」「解脱」「悟り」のようなものについて解説したいと思います。人生はあらゆる束縛に満ちています。その束縛から全て脱すると、どうなるのか、それが言ってみれば解脱であり、悟りです。

人間が煩悩を持つ凡夫であるというのは、仏教的な説明です。煩悩とは何でしょうか。それはどうしようもないことをどうかしようと悩むことです。凡夫とは煩悩を追い続ける人間の呼称です。悩みが多い時代が現代だと言われています。では、ここで言っておきたいことがあります。あなたがこの24時間、もっと言えば、起きている時間だから16時間くらいで生活するのに必要なのは何ですか?と。おそらく、衣食住、それもわずかな量であるはずです。悩みがあるにもかかわらず、今日一日には困ることがあまりないのが人間なのです。

人間の悩みの多くは過去の後悔と、未来に対する不安です。なぜ人間は悩むのでしょうか。また、なぜ苦悩の深い人は偉大だと言われるのでしょうか。それが、悩みが知性を原因としているからです。過去の振り返りと、未来の予測は人間の知性の働きであり、本能ではできないことです。解脱とは今を生きることに方向転換をすることなのです。知性を捨てるのが、解脱や悟りなのではありません。プライドやこだわりを捨てるのも悟りではありません。戦争などの異常事態でなければ、今、この瞬間だけの自分の欲求を考えれば、ほとんど充足可能な欲望ばかりのはずです。時間は、「今この瞬間」の連続によってできています。悩む人は、一歩先、二歩先を見失い、五十歩先や、百歩前を見ようとするために、いってみれば、すぐそこにある石につまづいて怪我をしてしまうのです。今日一日のためのプライドは必要です。プライドを全て捨てては人間ではなくなります。こだわりを捨てれば芸術もなくなります。今の一瞬を大切に、今日一日を大切にすれば、3年後も5年後もきっと幸せなはずなのです。

あらゆるものの束縛から解かれるとは、人、集団との一切の契約関係を絶たねばなりません。結婚、親子、雇用。しかし、わたしたちがそれらの束縛から離れるのは現実的ではありません。かつては出家と在家に分け、いわば解脱に段階をつけたと思われます。それは時代こそ違え、今でも変わりません。究極の解脱は出家です。わたしたちには束縛があり、その束縛を捨てられないこともあります。怪我や別れといった、運命。英語で言えば「destiny」「fate」といったものがあります。こういったものに対して、仏教は、ギリシャのストア派やエピクロス派とよく似た態度を取ります。避けられないことを避けようとするのも煩悩なのです。どうしようもないことは考えず、できることのみをやるのが、仏教で言う知恵の完成の極意であり、ストア派的、エピクロス派的な解決方法です。

悟りの究極は、路傍(ろぼう)の石(=道ばたの石)が、自分自身と同じであることに気づくことに他なりません。石が動くのも、自分自身が動くのも、何か自由な意志によって決まっているのではありません。人間がどの選択をするかは、遺伝子による脳構造と過去の経験からできた思考パターンによって決まるのですから、ある条件における人間の選択は必ず一通りになってしまいます。それは石を持ち上げて、手を離すと、石が下に落ちるのと同じです。すなわち、一切は避けられないことなのです。そして、そのことから、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、一切皆苦(人生は全て苦しい)という思想に行き着くことになったのかもしれません。

何かを思い込むことと妄想を仏教では一番の毒だとしています。それが知性の働きであるのにもかかわらずでにす。知性とは生命体が神経系を発達させた結果、脳という中枢神経を作り出し、脳は肉体を効率的に生かすためのツールとして使われているということなのです。誤った過去の振り返りと、誤った未来の予想は、妄想に他ならず、それは、たいてい、どうしようもないことをどうしようかと思い悩むことであることが多いのです。そういったことを悩まず、できることしかしないのが、ストア派的でありエピクロス派的であり、仏教的な解決方法(煩悩を捨てる)なのです。これは新約聖書のナザレのイエスの言葉「野の鳥、まかず、からず、つむがず、生きる。いわんや、人間をや。明日のことで思い悩むな」(マタイによる福音書6章25節)という言葉にも通じています。どうにもならないことに知性を働かすことは煩悩のなせるわざであり、全くの無駄です。

仏教には四苦八苦という言葉があります。生、老、病、死の四苦に加え、「求不得苦(ぐふとくく)」(=求める物が得られない苦しみ)、「愛別離苦(あいべつりく)」(=愛する者と別離する苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(=怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」(=生まれもっての神経構造からくる、あらゆる精神的な悩み)よく見るとどれも自分ではどうにもならないことです。こういったどうにもならないことは考えないし、何もしないというのが仏教であり、繰り返しになりますが、ギリシャのストア派、エピクロス派の思想と酷似しているといえます。ストア派もエピクロス派も、何かを為すときに最善を尽くすけれど、運命によって左右される結果については考えない態度をとります。ストア派の祖であるゼノン、エピクロス派の祖であるエピクロスはともに72歳の高齢まで生きました(当時としては最高齢)。無用なストレスを持たずに生きた結果だと思われます。

先に述べた、結婚、親子、雇用は解消可能ですが、人によってはどうしても解消することができないでしょう。その人にとってはその解消は、「煩悩」となっています。物理的には可能でも社会的にはどうしようもないことがあるとすれば、出家(物理的に解消可能)、在家(社会的に解消不可能)の違いはなくなると考えることもできるでしょう。より自由になるために、物理的に可能な束縛は全て捨ててしまうという出家の形も残るでしょうが、社会的な束縛を断ち切れない大部分の者にとってはこの思考は仏教的な意味で福音となるでしょう。

大乗仏教の教典には、悟りとは言語化できないものであり、「あるわけでもない。ないわけでもない。あるわけでもないわけでもない」と評しています。しかし、わたしは悟りは次の言葉に集約できると思います。「自分は何もしていないということをしているのだ」ということを知るのが悟りなのだと思うのです。神経系を持たない石や植物は、何もしていないということをしています。植物が成長するのは、勝手にそうなるのであって、植物自身の意思がそうさせているわけではありません。人間の身体が大きくなるのも同じです。なるべくしてなっているのである。脳という中枢神経系を持つ動物も人間も同じなのです。中枢神経系である脳は生命を維持するためのツールでしかないのに、主人公にまつりあげていることに錯誤があるのです。そこに気づくということが、路傍(ろぼう:道ばた)の石と自分が同じ存在であると気づくことです。

また仏教はあらゆる差別を否定します。ところで、日本人は白と黒をはっきりつけるのを好まないと言われます。ここに仏教的な影響を見る人もいるかもしれません。つまり、仏教は、男と女、白と黒、善と悪、上と下、右と左といった一切の差異を否定して一つのものとして見るという思想だと明言されているからです。であれば、白と黒の中間点の灰色(グレー)が「悟り」の色かというと、わたしは違っていると思います。(一般に日本人はグレーを好みますが。ここに日本人的な好みと仏教の差がある)例えば、左から黒から白へと途中で灰色になりながら変わって行くカラーボードがあるします。しかし、この表面にはどこにも「悟り」の色はないとわたしは思います。灰色(そのグラデーション)白と黒の区別がついている限り、区別が存在するので、仏教的ではないのです。

わたしたちが生きている空間には物質が偏在(へんざい)しています。相対性理論をここで持ち出すのはいささか大げさかもしれませんが、便宜的に使用します。相対性理論では、物質のないところには、空間も時間も存在しません。原初、エネルギーのゆらぎから物質と反物質の対消滅ののち、わずかに残った片方の物質が、ビックバンとして、現在の宇宙を形成しているのです。それは受精卵が分割して、最終的に死に至るまでに、多細胞生物として生きるのに似ています。わたちたちが、白、灰色、黒と認識するのは、言葉や言葉以前の「認識」であって、これは中枢神経系である脳の作用によるものです。白、灰色、黒のボードをビデオのカメラで撮影したとします。ビデオのデータは、白と灰色と黒を概念としては、区別しないはずです。(色の違いとしては記録するでしょうか)これが脳による「認識」以前の世界であり、言うなれば、仏教で言う「悟り」の世界なのです。全てが一体であるから、自分と世界も一体です。であるから、白と灰色と黒のボードを見て分けないのとすれば、白と灰色と黒の全ての色を選択するということである。ここで、透明を「悟り」の色であると言いたいところですが、その透明とは、脳による識別がない、(白と黒と灰色を分けない)という意味で透明なのであって、透明なのが「悟り」を表す色であるとは断言できません。しかし、透明なものは全ての色をその色で透過して映し出す。その意味で、悟りの色を透明であるということもできるでしょう。色が無いということであり、「悟り」をダイヤモンド(金剛石)に例えることがあることもこのことからうかがえます。

自分と世界が一体であるとわかること、自分が世界そのものであることに気づくことも悟りです。先に述べたように、受精卵が多細胞生物である人間になっているのは、ごくわずかな物質がエネルギーの海の中でビックバンを起こして、複雑な系を為しているのと同じなのです。「全てを神にお任せします」というのは「全てを自然(自然法則:仏法)にお任せします」ということと同じ意味なのです。全てが原因と結果の関係(因果律)でできており、何が起きるのか、玉突きのように決まっているのですから、宇宙の始まりであるビックバンから宇宙の終末まで、全て決まっているのです。自由意志は存在しないわけです。しかし、できることは最善をつくし、できないことは悩まない(煩悩を捨てる)という人生態度への変換が、仏教の法へ帰依(自然法則にすなおに従うこと)をしようと覚悟することに他ならならず、本来、誰もができることなのです。四諦八正道(したいはっしょうどう)という修行方法がありますが、これが四苦八苦に対応した言葉であることは予想できます。この修行方法によって、仏教の法へ帰依(自然法則(:仏法)に素直に従い、より、もしくは最大限に効率的に快を得ること)ができるようになるということでしょう。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月23日(日)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

信仰と科学

信仰とは、いわば根拠のないことを信じることである。科学は根拠のあることのみを扱う。以前、本能と知性について文章を書いたが、信仰と科学も知性の領域に属することである。本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。信仰は魔術(呪術)、宗教に分かれるが、後天的にその概念を手に入れる。科学は妄想を扱わないが、信仰は妄想を持つことができるといえる。

人間には妄想も必要なのであると考えられないだろうか。例えば、善いライオンと悪いライオンというのは、童話の中にしか存在せず、科学の世界にあるのは、強いライオンと弱いライオンでしかないことを考えると、人間に対して、善と悪のレッテルを貼ることは科学的ではない。善悪が社会的な概念であると仮定したとしても、社会性を持つアリやハチに善悪の観念があるかというと、実際にはないであろう。アリやハチは本能によって社会性を営んでいるからである。

いわば、善という「妄想」、悪という「妄想」を人間は持ちたがるのである。そのことに功利主義的な意味があるのかと言えば、あるだろう。プラトンは「神」を「善のイデア(概念)」と称したという。善悪の観念が実体のない妄想であると考えれば、当然、「神」も妄想である。しかし、人類はなぜ、「神」を信じようとするのか、そして、それは多くの場合、プラトン的な「善のイデア的な神」、例えば、キリスト教で言えば、「愛」であるように、信じようとするのか。それは多分に「あまえの構造」にあるのだと思う。「すがりたい」という欲求である。すがる対象は、個人、集団、そして、「精霊」「神」である。「精霊」「神」のみが、合理的な存在(存在を理性的に立証できる存在)でない。しかし、究極のすがる対象がやはり「神」なのである。さらにいえば、合理的な存在でないがゆえに、すがりの度合いが無限大になりえるのである。「一切を神におまかせします」ということである。

わたしたちのいう善悪の概念が、権威者から禁止されたことをしてしまったことを恥じ、隠すことから始まったことは旧約聖書のアダムとイブの善悪を知る木の実を食べる寓話から暗示されている。そもそも禁止なるものを設定する必要は、社会集団を維持させるために「決めたルール」であったことから始まる。すなわち知性によって「決まり(ルール)」ができたわけである。ルール(rule)とは英語では「統治する」という意味がある。そもそも社会を維持するためにそこに「決まり(ルール)」を作る存在が支配者であり、究極には「神」であることになっていると思われる。すわなわち、古代において「神」の代理人として、または現人神として、支配者がルールを設定していたのである。人間の能力の卑小さは、自然災害などを前にした、無力さから痛感させられ、そこから、ある社会集団の支配者であるといっても、それ以上の存在として、「神」を設定する必要があるのであろう。神を「悪」として考えた場合に、それは私的な欲望を満たす神であって、社会集団を維持する神は「善」であるはずである。自然を前にした人間の卑小さに対する「すがり」の対象として、「善のイデア」たる神の存在は、いわば人間の精神安定上必要な存在たらざるをえないのだと思われ、科学的には妄想である「信仰」「神」は、功利主義的な意味において、人間が全知全能の存在にならない限りは科学とともに併存し、存続し続けるだろうと思われる。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月21日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

知性と本能について

アリやハチは人間と比較してもいいような社会生活を営んでいる。しかし、その機構は、本能によって定められたものである。人間の社会は知性によって成り立っている。これ「知性と本能」はベルクソンが提起した問題でもある。生物学的なアリやハチの社会構成と人間の社会構成の綿密な比較は、この際、できないのでやめておく。ベルクソンは知性を本能の上に立てて考えた。その理由は、人間は本能と知性の両方を持つが、ハチやアリは本能とわずかながらの知性しか持ち合わせていないと考えたからであろう。知性とは経験からの累積から生じた思考パターンと言えるだろう。

西洋の対置としての東洋、特に西洋哲学の対置としての仏教を考え、人間の幸福を人生の目的と考えた場合(本来、仏教は人間の幸福を考える思想である)、知性は本能に劣る可能性もある。知性は、妄想を生むというのが仏教の考えである。本能はある外部から、また内部からの刺激に対する反射的な運動である。したがって、無駄がほとんどなく、現象の原因と結果はほぼ一瞬で了解でき、解決する。一方、知性とは、過去の経験の回顧、および未来の予測である。それによって思考、行動を決定しようとする。ある状況において、(もし仮に生命体が「幸福(快)」になるために存在しているとすれば)、過去の経験の回顧、及び、それによってできた思考パターンから、誤った未来の予測をするとしたら、結果は「不幸(不快)」であり、エネルギーの無駄による疲労まで生じてしまう。誤った過去の経験の回顧と、それにともなう誤った未来の予測は妄想に他ならない。人間の知性が妄想へとおちいる(誤った過去の回顧と誤った未来の予測)理由は、現時点における自分自身のおかれた状況と、解決しようとする問題に大きな隔たりがあるからであるだろう。刺激に対する反射運動でしかない本能では不可能なこの事態を、知性は可能にしてしまうのである。

本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。したがって、本能による行動(反応)は、同種の生命体であればほぼ同じであるが、知性では、行動(反応)は、同種の生命体においても、過去の経験の違いに寄って別々になるはずである。知性が妄想にならないためには、過去の経験の回顧と、未来の推論を精緻にすることである。そこに一定の指標を設けるとすれば、その過去の経験の回顧とそこから演繹される未来の推論を第三者に言葉(もしくは数字)によって説明して納得してもらえるかどうかということである。確かな事実の累積(過去の経験の確かな累積)による、正確な未来の推測は、場合によっては、人類に莫大な利益をもたらす(例えば科学技術)が、それほどの恩恵をそもそも、個人がそこまで欲しないのではないかと考えるのが仏教であり、「知は力である」とフランシス・ベーコンが言った西洋文明と仏教の対峙がある。仏教的観点から見れば、知性は本能を説明することができるにすぎず、本能以上に知性が人間の幸せに貢献するとは限らないという見地から、知性と本能の価値を比較しないのである。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月21日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

Webで収益を上げる方法

僕は将来、どんな形であれWeb(インターネット)に関わった仕事(会社に雇われるのではなく独立した状態・本業もしくは兼業で)をしていきたいと思っているので、Webからどのようにして収益を得るかということは重要です。僕の考えをまとめるためにこのエントリーを書くことにしました。まずはWebで収益を上げる方法を以下のように分類しました。

  • 通販
  • Webサービス
  • 広告
  • Web制作
  • Web学校

とりあえず現在のWebで考えられるのは以上のようではないかと思います。これだけでは具体的な想像がつきにくいので、それぞれの分野で成功している会社名もしくはサイト名を挙げてみましょう。

  • 通販:Amazon・iTunes Store・楽天・各社ECサイト
  • Webサービス:レンタルサーバ会社・Yahoo!(オークションなど)・楽天・はてな・mixi
  • 広告:Google・Yahoo!・mixi・MSN・個人アフィリエイター
  • Web制作:Web制作会社・Webコンサルティング会社
  • Web学校:デジハリ・各種専門学校

中には具体的な会社名(サイト名)でなく普通名詞も含めています。個々の説明は割愛します。次にそれぞれの分野で成功している会社(サイト)の特徴を挙げてみます。

  • 通販:販売する商品の種類が圧倒的に多い会社・希少性のある商品を扱っている会社
  • Webサービス:低価格・高性能のサービスを提供する会社
  • 広告:ページビューが多いサイトを運営する会社・個人
  • Web制作:ハイクオリティのデザイン、高性能のシステム構築を請け負える会社・営業力のある会社・Web活用方法に詳しく成功実績のあるマーケティング会社、企画会社
  • Web学校:最新の技術と学習機材を提供できる学校

現状の問題

僕は現在、Web制作の会社に勤めています。しかし、一番問題を感じているのは、前に一度やったことのある作業(特にプログラミング・HTMLコーディング)を別の会社のサイトということでもう一度やらなければならないということです。たしかにプロとして働く以上、当然かもしれません。しかし、前にやったことのあることをもう一度やるのは技術的な進歩があまり望めません。インターネットは技術の進歩のスピードが他の業界に比べて圧倒的に速いので、同じところで足踏みをするのは危険だし面白くないと僕は思うのです。同じ作業を繰り返す必要のない会社はないのでしょうか。

同じ作業を繰り返す必要がないという点ではWebサービスを行う会社が一番でしょう。一度サイト(サービス)構築をしたら、サイト(サービス)の改善をひたすら行うだけで、同じような機能のサイトを別のところで立ち上げることはないからです。改善を行う過程で常に新しい技術に挑戦することができます。しかし、Webサービスはレンタルサーバを除いて収益を上げるのがとても難しいです。まずは使ってみなければユーザーはついてこないので無料で使わせる必要があります。しかし、無料から有料に切り替えるにはユーザーがそのサービスをよっぽど気に入っていないとできないことです。ほかにも広告で収益を上げる方法がありますが、よほど人気のあるサービスでないと広告で十分な収益は望めません。

解決方法

僕が将来考えているのは、Web制作とWebサービスを組み合わせた形態です。Web制作の基本路線は変わらないのですが、カタログ・ショッピングといったサイトの基本機能をプログラミングし、そのプログラムをクライアント(発注した顧客)ごとに改造することは一切せず、デザインはいくつかのテンプレートから選択させ、希望する独自ドメインつきで複数のクライアントに低価格で売ります。無料のお試しサイトも用意します。僕が行うのはそのプログラムのサーバーへのインストール作業(データベース構築・FTPでのファイルのアップロード・初期設定)です。毎年、サーバー費用とは別に管理費を徴収します。テンプレートにない個別のデザインを希望する場合は、比較的高い価格でデザイン作成を請け負います。プログラム部分は定期的にバージョンアップし、大きなバージョンアップがあった場合は、別の商品として再度プログラムを売ります。前のバージョンで独自のデザインを希望している場合は足りない部分のデザインをする必要があるので別途代金を請求しなければなりません。段階を見てデザイン部分の変更に関してはクライアント側で行えるようにしてもいいでしょう。その際、重要なのはデザイン変更の自由度を高めることだと思っています。また、これとは別に総Flashサイト(ページすべてがFlashでできているサイト)の受注を通常のWeb制作会社の運営方法で請け負うことも考えています。Flashはデザインとのからみが非常に大きいので同じ作業を繰り返すことが少ないと思われるからです。

以上のように自分勝手にまとめてみました。Webを志す人は一度は考えなければならないことなのですが、参考になりましたか?

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月21日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ 

Web2.0について

Web2.0という言葉がたくさんの人に使われ、バズワードとして世に広まりました。Web2.0は日本では「もうかる」「ビジネス」という視点からさかんに注目を浴びましたが、僕なりの結論はWeb2.0は「もうからない」ということにつきます。Web2.0の代表的な会社としてAmazon、Google、Appleが挙げられます。Amazonは黒字に転換するまでかなりの資金投下を続けてようやくまともな利益が上がるようになりました。Googleは初期のまったく収益モデルのない状態から一転して広告ビジネスを軸にして今では巨万の富を得ています。Appleは、Windowsに押されて、過去の会社になろうとしていたところを、iPod、iTunesの成功で経営を良好にしました。Web2.0を実践するにはかなりの資金・体力・技術が必要です。中小企業がWeb2.0的なサービスを展開するのは至難の技です。

僕の考えるWeb2.0とは次のようなものです。

(技術的側面)
  1. 機械(プログラム)にできることは全部機械(プログラム)にやらせて、本当に人間が関わらなければならないことだけ人間が作業をする
  2. 増え続ける膨大なデータベース(ページ運営者とページ閲覧者・プログラムの三者がデータベースのデータを増やしていく)
  3. 人間(サイト運営者とユーザー)がほしい情報をデータベースから整理された形でアウトプットする(検索・リコメンド・SNS・ショッピング・アクセス解析・API)

(ユーザー的(サイト閲覧者的)側面)

  1. いつでもほしい情報(商品・仲間)がそのサイトにある
  2. そのサイトを使えば使うほど便利になる
  3. そのサイトに愛着を持つようになる

(ビジネス的(サイト運営者的)側面)

  1. 誰が何を欲してサイトに訪れているのかが自動的に記録されていく(データベースが企業資産となる)
  2. 知らせたい情報をいつでもユーザーに知らせることができる
  3. ユーザーと直接コミュニケーション(情報交換・売買)できる

Web2.0という言葉の定義の際によくいわれることですが、以上のことはインターネットが始まったころに、「ネットの特性を考えれば、こういうものが理想的」と言われてきたことです。Amazon、Google、Appleはかなりのエネルギーを使ってWeb2.0的なビジネスを成功させました。そして、それほどエネルギーのない中小企業は、この3つのIT大手からおこぼれ(API・サービス)を利用することで細々と利益を得てきました。

それほどエネルギーのない中小企業や個人ががわずかにWeb2.0的なサービスを展開するとすれば「ブログ」しかありませんでした。しかし、ヒントはこの「ブログ」にあると思います。Web2.0的なことを中小企業が行うためには、独自のシステムを独自の資金投下で実現するのではなく、すでにあるオープンソースのウェブアプリケーションまたは格安のウェブサービスを利用する必要があります。いわば「使いまわしされるウェブアプリケーション」が重要なキーになるのです。

これからの中小企業向けのウェブ制作の現場では、いかに品質の高い「使いまわしされるウェブアプリケーション」を製造するかが重要だと考えます。したがって、僕もできるだけ早い段階にこの方向性のアプリケーションを開発すことを考えています。katabami.orgでは、これらのことを念頭に置いたサービスとして「Tagoro」というサービスを構想しています。「Tagoro」のミッションはWeb2.0的なサービスをどんな中小企業でも簡単に低資金で実現できるようにすることです。

「Tagoro」はバージョンアップを繰り返すごとに機能が追加され、その機能の「使用・不使用」を管理画面から選択することができるようになるはずです。そして将来的には多くの機能を備えたウェブアプリケーションになるでしょう。

記事作者:加来典誉
公開日:2022年10月21日(金)個別ページ
カテゴリー:エッセイ