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日本人に宗教意識が希薄な理由

日本人には宗教意識が希薄であるが、その原因としてあるものをかつて「ニホンキョウ」という概念で説明しようとしたことがあったが、もう一度、考え直すことにした。今、生きている日本人を研究対象にするので、1920年以降に生まれた日本人を考えることにする。「和をもって尊(たっと)しとする」という聖徳太子以降、日本は「和」の国であると言われている。「和」という概念は非常に重要そうである。「和」とは「なごやか」「なかよし」といった意味で考えることができる。英語に直すと「warm」「friendly」となる。今度は否定形で考えてみようと思う。「常識がない」「協調性がない」「空気を読めない」これと、「なごやかでない」「なかよしでない」を対置すると、どうも等質ではないと思われる。枝のように分岐していく図を想像してほしい。「和」を根本概念ととして最初に発し、そこから、「なごやか」「なかよし」という概念に分かれる。現代日本人が声高に叫ぶ「常識」「協調性」「空気を読む」ということはいずれも「なごやか」という概念から発しているが「なかよし」からは発していない。

人間関係の最終目標を「なかよし」であると仮定した場合、「なごやか」は「なかよし」にいたるまでの通過地点でしかない。すなわち「なかよし」ではないが、無理に「なごやか」をよそおっていることがありえるわけである。「なごやか」をその集団における集団を構成する各人の感性や思想の一致、統一であると仮定すると、その集団の大多数もしくは有力者の意向に自分の意向を「合わせる」ことによって「なごやか」が実現している。無理に「合わせて」いる間に本当に合わせることができることもあるだろう。その「なごやか」が長時間続けば「なかよし」に転化することも考えられる。こういった人間関係の作り方を日本人は好んでいるように思われる。おそらく江戸時代三百余年の平和と鎖国と、明治以降の中央集権的政治体制における序所に進んだ全国教育の均一化、戦後のテレビの普及における思想の均一化がますます先に述べた「無理のあるなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の流れを生み、日本人をして宗教の不要を生んでいるものと思われる。

宗教の必要を社会的な側面から見ると、宗教の持つ集団性にあると思う。魔術が個人的な面が多いのに対して宗教には集団性が必要である。かつてのギリシアがヘレネスとして別々のポリスを(国家)を複数持ちながら、オリンピアの祭典の時には停戦して体育競技に参加していたことからも明らかなように、共通意識(「バルバロイ」(異民族)とはちがうという意識=コモンセンス)を持ちえたのも天地創造から日常生活までを含む今日で言うところのギリシア神話の宗教的世界観を共有していたからである。これは西ローマ帝国崩壊後の中世ヨーロッパにおいてカトリックが大きな力を持ち、一度は破門が「死」を意味する(例:カノッサの屈辱)ことがあったこと、その後のキリスト教のカトリック、プロテスタント、プロテスタントがより原理主義化したピューリタン(ユグノー・カルヴァニスト・ゴイセン)の分裂後も、各国または諸自治都市が同じヨーロッパ人という意識を育んでいた。宗教の集団性の意義は宗教の持つ宗教的世界観(形而上学的)宗教的倫理観(形而下学的)を人々が共有することによってたとえ国や言語が異なっていても仲間であるという意識(同胞意識)が生まれることにある。

宗教的もしくは科学的な世界観と倫理観の共通意識が(=コモンセンス)が日本で言うところの「常識」であることが類推される。「常識」をより多く持つことが結果として、より「協調性」「空気を読む」を高めることになる。常識を育むもものとして、家庭、学校、会社での教育と経験、およびテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイが挙げられる。皆と同じテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイを読めば、常識が育まれる。特に日本人女性においてはどの雑誌を読むか読まないかによってどの集団に属するかが決まるようである。よって、日本人としての「常識」を多く持つことによって「協調すること」も「空気を読む」ことも得やすくなっている。意図的にそちらの情報から外れている人(たとえばわたし)は現代日本人としての「常識」が少なくなっている。それにより「協調性」「空気を読む」ことが苦手である。日本で日本人として気持ちよく暮らすには先ほど述べた方法で「常識」を増すことである。この常識こそが、西洋でいうところの宗教(religion)の代わりをしているわけである。であるから、日本人研究において重視すべきはまさにこの「常識」である。「常識」を持つことによって「無理のなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の構造(この構造自体を一つの宗教(ニホンキョウ)として論述したことがわたしにはかつてある)を述べてきたが、インターネット(携帯電話ネットワークを含む)の普及により、ここに当てはまらない日本人が徐々に増えてきているのではないかと思う。まだその数は少数であるが、これからさらに多数化していくものと思われる。その多くは社会からつまはじきを受けているが今後は状況が変わることが考えられる。この傾向が日本人の根幹である「和」とどう対立、融合していくのかがわたしの知的好奇心を増す。

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