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思索とアートとヘアカット
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旧人と新人の類型について

人類には何種類かの類型があった。アウストラロピテクス、ネンデルタール、クロマニヨンである。ネアンデルタール人は旧人と呼ばれる。クロマニヨン人が現代人である。アウストラロピテクスはその前の人類である。旧人と新人の大きな違いは、暴力性、破壊性である。ネアンデルタール人すなわち旧人は、クロマニヨン人すなわち新人に比べて争いを好まなかったと言われている。それゆえに旧人は新人に抹殺されたと言われている。人類の暴力性は、昨今、大きな問題になっている。地表を何度も壊滅できるほどの核兵器や生物・化学兵器を持つに至った人類は、みずからの暴力性や残虐性に真っ向から向かわざるをえなくなっている。しかし、遺伝子に組み込まれた暴力性をクロマニヨン人であるわたしたちは消すことができないのである。

もし仮に、暴力性を次のように定義してみたらどうであろうか。自己が他者に「快」を与えることで生活することが多いヒトを、温和な人類。自己が他者に「不快」を与えることで生活しようとすることが多いヒトを、攻撃的な人類と呼ぼう。前者を旧人的(ネアンデルタール人型)、後者を新人的(クロマニヨン人型)とすることができる。

ヒトは社会をつくることで生活する生き物である。したがって、クロマニヨン人的な人類は破滅するはずである。しかし、にもかかわらず、人類が存続しているとすれば、クロマニヨン人の中に、よりネアンデルタール人的な人類が存在するということであろうかと思う。女性にはクロマニヨン人であってもネアンデルタール人的(自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向)を持つ者が多いように思う。クロマニヨン人の暴力性は、性の目覚めと関わりが大きいとわたしは推測している。その例証として、おそらくネアンデルタール人は陰部を被服で隠さなかったのではないかと推測している。これはいささか寓話(ぐうわ)的になるが、旧約聖書を引き合いに出すと、創世記にて、ヒトが地を耕し、子を産み、(戦争をする:これは書いていない)のは、エデンの園の中央の、善悪を知る木の実を、「神」から禁止されていたにも関わらず食べたからだと言われている。わたしはこれを生殖能力の獲得と考えている。人間で言うと、10歳から12歳くらいの思春期。おそらくネアンデルタール人も思春期にあたる時期に同じように生殖能力を獲得するが、ネアンデルタール人は自らが裸であることを恥じなかったと想定するのはどうであろうか。「裸→恥→隠→嘘→悪→罪」という図式から人間(クロマニヨン人)の暴力性が生まれたのではないだろうか。

そもそも恥ずかしいという感覚は動物学的に見て、きわめて特異なものと考えられないだろうか。恥ずかしい、すくなくとも裸でいるのが恥ずかしいと考えることは、例えば、戦後の日本で一時期、思春期以降の男女が、中学校や高校で丸刈りやオカッパやショートカットと言った短髪を強制されて、恥ずかしいと感じるのと似ているのかもしれない。喜怒哀楽は動物にも存在するが、恥ずかしいという感情は動物には存在しない。「恥ずかしい」という感情に関連して、他の人に対する「好き」という感情と、他の人に対する「嫌い」という感情を持ち出すこともできると思う。女性の方がネアンデルタール的な傾向が強い。すなわち、自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向があることは、女性が装飾する(隠す)存在であることと無関係であろうか。アダムよりもイブが最初に善悪を知る木の実を食べて裸を恥じたことは非常に暗示的である。女性は男性よりも美しくあることを求められる。そのことの生殖や繁殖における意味はさておき(おそらく男性の性欲が視覚情報による刺激によって高まるため。一方、女性は匂いと触覚で性欲を感じる)、事実としてそういう傾向があることは確かである。

旧約聖書によれば人類の最初の装飾は、陰部を覆うイチジクの葉であったことになっている。旧約聖書の記述は寓話的な表現であるかもしれないが、実際のクロマニヨン人は、むき出しの生殖器を何らかの物体で覆うことは十分に考えられることである。もし、生殖器の保護という観念ではなく、恥ずかしいという観念から陰部を隠したとしたら、隠した時点で精神は安定し、非合理的な状況から脱して合理的な状態(安定)になったと言える。暴力性とは、非合理的な(言葉で表すことができない)不安感から発して、自己防衛しようとする機構ではないかと仮定すると、女性の方が、男性よりも装飾が多い状態で(たとえば長い髪の毛も含む)生きているので、より多くの「恥」を隠し、より合理的で安定した状態で生きていることになる。装飾には「恥ずかしさ」を隠すとともに他者から「好かれよう(保護されよう)」という意図から発していることも見逃してはならない。一方、男性は、「男らしく」育てられるとすれば「恥」を隠す装飾を切り捨てた服装や髪型(丸刈りなどの短髪)で育てられるため、恥が外に出ているという、より不安定で非合理的な状態で育てられるために、他者に「不快」を与えることで、他者を屈服させ、配下に置き、自己の防衛に他者を配置して備える可能性がある。(=軍隊的暴力集団の始まり?)

確からしいことではないが、戦後の一時期(1987年から1995年くらいまで)日本において全国の中学校や高校に丸刈り、オカッパ、ショートカット校則があった頃に、校内暴力が多かったことと、このことは関係していないだろうか。自分の恥を隠す装飾(この場合は髪の毛)を否定された思春期の男女が著しい不安感に襲われたのではないか。しかし、それは実は、丸刈り、オカッパ、ショートカットを強要されて、実際にその髪型になった少年少女ではなく、そうなる前の小学校の児童や、短髪髪型校則のないキリスト教系の私立学校に行くなどして逃れることのできた児童(しかし罰としての電気バリカンの恐怖があった)、短髪髪型校則があるにもかかわらず反抗して長髪を保ち、染髪もしたようないわゆるヤンキー(不良少年少女)グループに、著しい暴力性を生じさせていたのではないかと思う。しかし、短髪髪型校則を作った教育者の予定どおりなのか、偶然なのか、思春期の多感な時期に強制的に丸刈り・オカッパ・ショートカットといった短髪を実際に強制された当人は、クロマニヨン性が減じているように思われる。恥ずかしい思いを強制させられることで、プライド(尊厳)を一度捨てさせられた場合は、その後の非合理的な社会の要求にだまって追従するタイプのネアンデルタール的な、一種奴隷的な境遇にあまんずる人間となっているように思えてならない。かつてのロシアにおいて、所得の低い家庭の息子の最終教育課程は兵営、所得の高い家庭の息子の最終教育課程は大学であったと、トロツキーが『文学と革命』で述べていたように記憶している。短髪髪型校則が公立学校で多かった理由は、それと似たものを感じずにはいられない。学ランは、陸軍の軍服、セーラー服は、海軍の軍服であるからだ。

では、逆にクロマニヨン性を現せないためには、非合理的な理由によって恥ずかしい思いをさせようとして不安感をあおるような教育ではなく、非合理性のない合理的な(リーゾナブル:理由を納得のいくように説明できる)な指示だけを与える教育を児童に施すことであろう。しかしながら、思春期の児童の全員に非合理的な規則をまんべんなく、例外無く(男も女もすべて)与えれば、暴力性のある人物が減る可能性もある。一部だけが非合理的な恥ずかしい規則に従わなくていいような状態にしかできないのであれば、先述したように合理的、リーゾナブルな教育を児童に与えるべきである。それによってもネアンデルタール的な人物ができると思われる。逆に、古代のスパルタでは、戦士階級(貴族階級)の男子は、全て丸刈り全裸で少年時代を過ごさせられ、すさまじい軍事的訓練を得て後、戦士として長髪と服を装うことを許される。これはリュクルゴスが決めた法であるそうだが、この場合は、社会の上層が全員まんべんなく恥を負わせられた。これは強力なクロマニヨン型人間であり、同時にネアンデルタール型道徳を持った軍事的に理想の人間を作り出すための制度であったに違いない。

「愛」には大別して3種類あると、アリストテレスが述べている。「友愛(フィリア:アリストテレスが好んだ愛らしい)」、「愛欲(エロス)」、「無償の愛(アガペー)」このうちのエロスが非合理性と暴力性につながっているとわたしは思う。人を好きになるときに、理由が先にくることはまずない。その人を好きになった後では理由を話せても、その人を好きになる前や好きになった瞬間に述べることはまずできない。それは「おいしい」とか「気持ちがいい」「恥ずかしい:これは人間に特有」といた感情的な状態に近いからである。感覚的な快楽は脳の中に概念として存在せず、単なる快楽の受容として認識されるに過ぎない。「フィリア」はホモやレズビアン、「アガペー」は、性欲につながる僧院の偽善と独善につながってしまう可能性がある。すなわちこの三種の愛は、やはり「エロス」を中心に据えた存在であると思われる。人間は動物の一員である。動物の欲求も人間は持っている。人間が通常の動物と異なるのは言葉を使う存在、つまり理性的な存在であり、なおかつ自分を客観視することができることである。実験によると、一部のオラウータンやチンパンジーは、鏡を見て自分自身を認識し、歯磨きができるそうである。鏡を見て自分だと理解できるということは自分を客観視することの始まりである。自分を客観視した結果、自らの陰部がむき出しになっているのを見て「恥ずかしい:性欲」と思った。そして善悪を知る木の実を食べた理由は、イブがアダムのエロスを獲得するためであったことを思い起こすと、ますます単なる寓話とは創世記が思えない所以である。エロスが満たされないと、人間は不安定になる。これは人間の五大欲求(食欲・睡眠欲・排泄欲・衛生欲・性欲)に含まれるからである。エロスには相手が必要である。ローマ時代、ローマ皇帝は兵士に結婚を禁止したそうである。兵士を欲求不満にし、暴力性を高めさせるためだったという。つまり愛し合う相手がいない(自分の好きなあの子が自分のものになっていないという不安感を持った)兵士が、略奪などの暴力性を発揮させたいという為政者の方針であった。ここで秘密に結婚式を挙げてやり、処刑されたのがバレンタイン神父であり、処刑の日がバレンタインデーなのはあまり知られていないことである。エロスの発現は思春期である。

ネアンデルタール型、クロマニヨン型、と人類の類型を分けたが、『新約聖書』のマタイによる福音書の25章31節から始まる、最後の審判の様子を表現する(羊と山羊(やぎ)をわける」文章が重なっているように思えてならない。羊がネアンデルタール型、山羊がクロマニヨン型である。羊は天国に行かされ。山羊は地獄(ハルマゲドン?)に行かされる。イエスが羊と山羊の分類をするわけである。人間は皆、思春期前のときは羊(ネアンデルタール型)である。しかし、思春期以降に、ネアンデルタール型(羊)とクロマニヨン型(山羊)に分かれるのだと思われる。裸を「恥ずかしい」と思い、キリスト教系の私立学校に行くことで、隠し続けることができた(長髪の高所得層の児童)と、裸を恥ずかしいと思いながら、丸出しにされた(短髪の低所得層の児童)で、分かれるというとたとえとしては分かりやすいかもしれない。どんなに非合理的な命令でも言うことを聞く羊(ネアンデルタール型)の人間を天国へという訳であろうか。この仮説によれば、その天国(「神」にとって都合のいい奴隷性があるネアンデルタール型人類)があまりいいところに思えないのは、なんとなく不安である。

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