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正義について

「正義」は存在するのでしょうか。人間は万物の尺度であると唱えたプロタゴラスによればないことになるでしょう。「義」は、人間一人一人、別々に持っています。しかし、「正義」は、人間全員に繁栄を約束するものだと思います。もし、人類が、物質的、精神的な繁栄の中で暮らしたいのなら、自分(たち)だけ幸福になるような「義」は、「正義」によって、打ちくだかれるべきはないでしょうか。「義」は主観的ですが、「正義」は客観的です。主観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:義:個人的(感覚的)な好み)は無数(人間一人一人ちがう)にあるが、客観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:正義:理性的(科学的)な法則)は一つしか(ほぼすべての人間にあてはまる)ありません。俗世を離れれば、「正義」などどうでもよくなります。しかし、俗世の物質的、精神的、幸福を増大を意図するなら、「正義」が必要だと思います。

正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。

人間の思考や感覚が、体内の物質の運動によって、決まっているのであれば、(この前提が正しいか誤っているかは、わかりません。しかし、この前提からいろいろなことを説明できます。)人間の意志や行動も、すべて物理的な法則にのっとって、決まっているはずです。たとえば、朝起きたとき、牛乳を飲むか、ジュースを飲むか、水を飲むか、という選択をするとします。例えば、水を飲む選択をしたとします。「なぜ水を飲んだのですか」、と問えば、「昨日、お酒を飲んだからです」と答えるかもしれません。では、「なぜ昨日お酒を飲んだのですか」、とたずねたら、「新入社員の歓迎会があったから」と答えるかもしれません。では、「なぜ新入社員の歓迎会をしたのですか」と問えば、「毎年やっているからです」と答えるかもしれません。「なぜ毎年やっているのですか」と問えば、「毎年やっても嫌でないし、そこそこ楽しいから」と答えるかもしれません。このように、人間の意思の決定や行動も、原因と結果の連続で起こっていることがわかります。したがって、地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理で、人間が、次の行動をどうするかが決まっていることになります。しかしながら、いやいや、人間の感覚や好みは、それでは説明がつかないよ、とおっしゃるかもしれません。

これまで述べたのは、意識的に行動の理由を説明できるものでした。しかし、人間の精神は意識的な部分と無意識的な部分を両方持っているようです。人間が意識の領域のほかに無意識の領域を持つということは、精神分析を創始したユダヤ系オーストリア人のフロイトが提唱しました。意識的とは、言葉で理由を他の人に説明できること、無意識的とは、言葉では理由を他の人に説明できないこと、と仮に定義しましょう。例えば、あなたが、洋楽のロック(エレキギター系)が好きであること、わたしが洋楽のR&B(黒人の女性歌手)が好きであること、この理由をきちんと説明できるでしょうか。理由を完全に説明するのはかなり困難だと思います。ある程度は、できますが、不完全にとどまります。それは、このようなことには無意識の領域が大きくからんでいるからです。フロイトは、無意識の領域を説明するために、その人の幼児体験を重視しました。例えば、わたしが「R&B(黒人の女性歌手)が好きであること」を幼児体験から説明するならば、父が黒人女性歌手の曲をよく聴いていたので、わたしが幼児の頃から一緒に聴いており、人間に快感を感じさせる脳の部分と、幼児期の幸福で気持ちがいいと感じた情報と、黒人女性歌手の歌声と音楽の情報が脳の中で結びついているから、となるかもしれません。人間は、幼少期に神経を含む肉体の基本機能が発達します。その基礎の上に、積み重なって成長していきます。人間の精神は、脳を中枢とする神経によって生じています。無意識の領域は、幼児期に何を体験するかで大きく変わると仮定すれば、フロイトが幼児体験を重視することは正しいことのように思われます。大人になると、幼児期ほどは、無意識の領域に変更が加えるられることはないのでしょう。しかし、この場合でも、幼児体験による無意識の領域の形成を、「脳の回路(脳の情報ネットワーク)の形成」ということで説明すれば、原因と結果(地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理)ですべて説明がつくのではないかと思います。

たとえ不条理(理性で説明することができない)をテーマとするフランス文学であっても状況は同じです。アルベール・カミュの「異邦人」では、主人公の男性のムルソーが、「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」と、法廷で証言します。それはおそらく嘘ではありません。もし太陽がまぶしくなかったら、アラビア人を殺さなかったかもしれません。人間は、人を殺すということを重大なこととして考えているので、殺人には、必ず理性(意識)で説明のつく動機(うらみ、金銭など)といったことがあると考えてしまいます。しかし、人間の意思決定や行動には、無意識の領域が関わっていることは先ほども述べました。ムルソーの「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」という証言は、自分の無意識を、なんとか意識に変えて説明したことになります。「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」ということは、「暑かったから、クーラーをつけた」ということと何ら変わりはないことになります。殺人ということが、クーラーをつけることよりも、人間の社会の中で大きな意味を持つということであるということ、それから、殺人をするという意思決定が、無意識の領域が大きな理由となって起こり、クーラーをつけるという意志決定が暑いという感覚から、意識の領域を大きな理由として起こった、ということが異なっているだけです。アルベール・カミュの示した不条理(理性で説明することができない)は、無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンを解明すれば、条理(理性で説明することができる)ことになります。

無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンとは何でしょうか。人間の脳の構造(脳の神経の物理的分布)は、ネットワーク構造になっていると科学者の間で言われています。脳の中で、一つの情報が、他の情報と網の目(ネット)のようにつながっているそうです。あなたが自分自身で実験して確かめるなら、お母さんのことを思い出したら、親戚のことが、次々に浮かんでくるのは、脳の中で情報がネット(網の目)構造で互いにつながっている(リンクしている)からかもしれません。申し訳ございませんが、これはわたしの専門外であり、ぼんやりとしか説明できません。脳や神経の物理的構造から、この問題を解明するには、「ニューロン」「シナプス」という用語からインターネットなどで情報収集を始めるといいでしょう。科学者によれば脳を中心とする人間の神経系は化学物質の反応と電気信号で成り立っているそうです。無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンも、経験(外部からの情報)によって、脳の中に情報のネットワークが作られていくことによって決定されると仮定するのはどうでしょうか。これは、かなり信ぴょう性の高い仮説だと思います。であるならば、人間の好みや行動パターンも原因と結果で説明できるはずです。もちろん、脳の中に情報ネットワークができる前に、感覚を受ける部分(感覚器→目・耳・鼻・舌・皮膚)の構造が問題になりますがが、これは遺伝子(DNA)によって決まっています。昆虫のハチが見た映像世界と、人間が見た映像世界は異なるそうです。人間の間でも、緑と赤の区別がつかない色盲の人がいるのは、大多数の人間と視覚部分の遺伝子が異なっており、目という感覚器、もしくは、視覚を担当する脳の部分の構造が異なっているからでしょう。遺伝子(DNA:生物の諸器官の設計図にあたる)は、インターネットの百科事典であるウィキペディアによると、デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸であるそうです。塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンの四種類あり、それぞれ A, G, C, Tと略されるそうです。わたしは専門外なのですが、どうやらA, G, C, Tの組み合わせの違いで、生物の諸器官の設計図の違い(遺伝の違い)が出てくるようです。したがって、人間の好みや行動パターンを決定する、外部からの情報(経験)から形作られる脳の中の情報ネットワーク(神経回路)が構築される以前にも、感覚器や脳の構造は、遺伝子という物質(デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基)によって決定されていることになります。「人間の意志や感覚が、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」という前提で、これまでの仮説は説明されました。

では、この前提を疑ってみましょう。つまり、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で、人間の意志や感覚が決まっているの「誤りである」、とするということです。では、人間の意志や感覚を決定しているのは何でしょうか。ある人は、神であるというでしょう。ある人は、仏であるというかもしれません。ただし自然が決めると言ってしまえば、「体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」と同じことになります。自然の神秘的な力が決めるとした場合は、現在の人間では説明のできない体内の物質の運動が決定することになります。仏教でいう「法=仏」は、「法則」であるとことのようです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、自分自身を実験台にして、精神の科学的な実験と検証(精神に関する仮説が正しいか確かめる)を繰り返ししていたようです。そこから、ほとんどの人間に共通する精神の「法則」を導き出し、後世、「法」と呼ばれるようになり、シャカ自身「:仏」が、自分が構築した「法(精神の法則)」を意識しつつ、「法」にのっとって、幸福感の中で暮らしていたので、「法=仏」ということになったということだと思います。(現代の日本の仏教は、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのものとはかなり変質してしまっているようです。日本でいう仏は、後で述べる神に近いものとなります。いわゆる信者がすがる対象である阿弥陀如来や、大日如来は、ほぼ神です。)

したがって、人間の意志や感覚を決定しているのが仏であるとすれば、それは、先ほど、わたしが述べた、人間の意志や感覚が、体内の物質の運動で決まるという前提と同じ立場に立つことになります。では、人間の意志や感覚を決定しているのが神であるとすれば、この場合のみ状況が特殊になります。では、神は、どんな方法で人間の意志や感覚を決定しているのでしょうか。ある人は「超自然の力で決定している」と言っているかもしれません。超自然とは何でしょうか。ひとつ確かに言えることは、現在の人間には、原因と結果の関係をどうしても説明できないものであるということでしょう。フランスにはルルドの泉というものがあり、この泉を訪れたものが難病を治したという事例が、数多くあり、そのうちのいくつかが、現在の人間では、原因と結果の関係を説明しきれないそうです。これが、いわゆる奇跡であり、奇跡とは超自然ということになります。しかしながら、原因と結果の関係を説明しきれないのは、現在の人間の思考(そのうちのひとつが科学)が未熟であるからという可能性もあります。より精密で正確な人間の思考ができれば、その奇跡も、自然の中で起きる当たり前の出来事として、原因と結果の関係を説明できる可能性があります。

しかし、原因と結果の関係を説明し切れない、ということにおいて、そもそもの大前提が崩れる仮説をわたしは示すことができます。それは、「原因と結果の関係が崩れる」ことです。例を挙げて説明します。あなたが、朝、目玉焼きを作ろうとして、冷蔵庫から、卵を手に取ったら、うっかり、床に落としてしまい、卵が割れてしまった、とします。目玉焼きを作ろうと思うなら、割れていない卵を別に使えばいいのですが、もし割ってしまった卵が大変特殊な卵で、二度と手に入らないとすれば、どうでしょうか。あなたの精神の中には、おそらく後悔と悲しみと、時には怒りが生じるかもしれません。しかし、それによっても、割れてしまったその卵を取り返すこと(割れていない状態にその卵をすること)は絶対に無理です。人間は過去に戻ることができないからです。「しかし過去に戻ることができたら?」あなたは、その特殊な卵を割れない状態で取り戻すことが可能なのです。これが「原因と結果の関係が崩れる」ということです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を幸せにする方法はたくさん存在するからです。

結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになります。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって「神」の存在の問題は、タイムトラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます。(全知全能)その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作(老化遺伝子の抹消)すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果(仏教用語でいうと、因縁や因果)で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、変えることができるのは、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を結果として幸せにする方法はたくさん存在するからです。

タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます(全知全能)。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。例えば、イエスがカナの婚礼(ある人の結婚式)で、たるに入った水をワインに変えた奇跡が、新約聖書に書いてあります。これを、タイムトラベルによって実現するにはどうしたらいいでしょうか。時間が止まった状態にして、その時に水とワインを入れ替えるのはどうでしょうか。モーセが、ユダヤ人たちを引き連れて、エジプトから脱出する際に、葦(アシ)の海がふたつに分かれ、海の中に道ができたことが旧約聖書に書いてあります。タイムトラベルによって、モーセたちが葦(アシ)の海付近に到達する時間に移動し、高い科学技術力によって自然現象として、海を二つに分けるのはどうでしょうか。事実、「海が割れる奇跡」の原因としては、当時起こったサントリニ島の大噴火が有力と科学者が考えています。天童よしみの歌に歌われている『海が割れるのよ カムサハムニダ』「珍島物語」でテーマとなる珍島(チンド)では、実際に、毎年5月初旬頃に海が分かれ、道ができ、対岸まで歩いて行けることが確認されており、有名な観光地となっています。結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、現在、過去、未来のあらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって全知全能の「神」の存在の問題は、タイムとラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。

タイムトラベルは可能なのでしょうか。現代の科学者によれば、不可能か、極めて困難であるという見解となります。タイムトラベルのことを考えるにあたって、まず物理学の現象の捉え方を簡単にご紹介します。申し訳ございませんが、これもわたしの専門外なので簡単にしか説明できません。ご紹介するのは、ニュートン力学と、アインシュタインの相対性理論です。リンゴが地面に落ちるのを見て、万有引力について考えるにいたったという、ニュートンが提唱したのが、ニュートン力学です。ニュートン力学の特徴は、時間、空間、物質(質量)の大きさは、常に変わらず、その中でいろいろな現象が起こるというものです。わたしたちが日常生活で接している物理的な現象は、ほぼニュートン物理学で説明することができるそうです。ニュートン物理学だけでは説明できないことがあり、そこで登場したのが、アインシュタインの相対性理論です。

ニュートン物理学で説明できないこととは、例えば、観測者から見て、光の速度に近い速度で移動している物質といったもののことです。相対性理論の特徴は、質量(重さ)を持った物質であれば、観測者から見て、光の速度を超えて移動する物質は存在せず、物質の移動速度が、光の速度(秒速30万キロメートル)を超えないように、時間、空間、物質が、大きくなったり小さくなったりするというものです。どんどん速度が上がっていく乗り物に乗っているとして、その乗り物はいつか、光の速度を越えてしまうはずです。ニュートン力学では、質量(重さ)を持った物質が、光の速度を超えてしまうことは可能です。なぜなら、時間、空間、物質の大きさは常に一定だからです。速度=移動距離÷移動にかかる時間どんどん速度が上がっていく乗り物が光の速度を超えないようにする(その乗り物に乗っていないその乗り物の様子を観測する人(:観測者)から見て、その乗り物が光の速度を超えて移動しないようにする)ためにはどうすればいいでしょうか。観測者から見て、乗り物の速さが上がっていくにつれて、その乗り物の中で時間の経過はゆっくりになり、その乗り物の質量(重さ)は大きくなります。質量が大きくなれば、その物質をより大きな速度で移動させるには、より大きなエネルギーが必要になります。移動するために使うエネルギーは補給しない限り使えば使うほど少なくなっていきます。乗り物の中に乗っている人にとっては、時間はいつもどおり流れており、話したり、動いたら、スローモーションになってしまうということはありません。少し例としては不適切ですが、感覚的に理解するために例をあげます。救急車に乗っている人が聞く、ピーポーピーポーという音の高さは、いつも同じですが、マンションの部屋で、道路を走りすぎて行く救急車のピーポーピーポーという音の高さは、次第に低くなっていくのを感じたことはないですか(ドップラー効果)。速度=移動距離÷移動にかかる時間移動距離を大きくするか、移動にかかる時間を大きくすれば、速度は下がることがお分かりいただけると思います。時間や空間や物質(質量)が、大きくなったり、小さくなったりすることで、観測者から見て、光の速度を超える重さ(質量)を持つ物質が存在しないようにできるのです。

事実、宇宙飛行士が、宇宙船で地球の周り(衛星軌道)を、極端に速い速度でぐるぐる回って、地球に戻ってくると、宇宙船の中の常に正確な時間を示す時計が、わずかに遅れていることが確認されています。自分がいる空間だけ未来に行くこと(浦島太郎状態)は人類はすでに実現しています。せいぜい数秒程度ですが。あなたがいる一人暮らしをしている部屋(宇宙船のように高速で移動しているとする)の時間の経過が、1日で3日間、部屋の外よりも実際に遅れるとします。あなたの部屋の中の1日の経過が、部屋の外では3日の経過にあたるわけです。あなたが部屋の中にある携帯電話の日付時刻で確認して、2010年4月1日午前0時0分0秒から、2010年4月2日午前0時0分0秒までいたとします。それから外に出て、お友達の持っている携帯電話の日付時刻を見てください。そのお友達に会って、お友達の携帯電話をのぞくまでにかかる時間が32分50秒とすれば、お友達の携帯電話は2010年4月4日午前0時32分50秒を示しているはずです。

しかし、現在の人類は過去には行けません。相対性理論は、光の速度を基準にして、空間、時間、物質をひとまとめにして考えることができる理論です。さらに物質(質量)はエネルギー(の大きさ)に置き換えることができます。E=M×C×C(:イーイコールエムシー二乗→エネルギーの大きさは物質の重さに光の速度を2回かけたものと等しい)物質をエネルギーにかえるというのは、割り箸に火をつけて燃やすこととは全く違うことを理解しておいてください。割り箸に火をつけたら、割り箸という物質がエネルギーに変わったのでしょうか。ちがいます。燃焼は、発熱を伴う激しい物質の化学反応です。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)質量保存の法則という言葉をご存じですか。フランスの科学者、アントワーヌ・ラヴォアジエが提唱したそうです。「化学反応の前後で、その化学反応に関与する元素の種類とおのおのの物質量は変わらない」という化学における保存則の一つです。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)時間、空間、物質(質量)が、一定で変化しない、ニュートン力学にのっとった法則です。原子力発電、原子爆弾(核兵器)は、物質をエネルギーに変えることによって実現しています。原子核反応(原子核融合反応・原子核分裂)によって、原子レベルで、物質がエネルギーになるのです。あなたの指の爪を切って、その爪ひとつを全て原子核反応でエネルギーに変えれば、少なくとも福岡県全域を破壊(壊滅状態)にすることができるはずです。宇宙は、ビッグバンという爆発によって始まったと科学者によって言われています。ビッグバンの前は、ゆらめくエネルギーだけが存在する世界だったのではないかと言われています。エネルギーのゆらぎが極点に達し、エネルギーのごく一部が物質に変わった、これがビッグバンとされています。部屋を真空状態(まったく空気も何もない本当の真空)にします。ここに、何らかの方法で膨らんだ風船を入れたとします。すると、気圧差で一瞬で風船は爆発し、中の空気は部屋中に拡散するそうです。ビッグバン以降、宇宙は膨張を続けているそうです。これが「ゆらめくエネルギーだけ」の中に「物質」が生じた状況(ビッグバン)の状況だと言われています。物質が生じた瞬間に、同時に、時間、空間ができました。

わたしたちは時間と空間と物質を分けて考えていますが、これらのものは同時に発生したのであり、ひとつの存在であると考える方がいいのではないでしょうか。物質のないところに、時間も空間もないのです。あなたは時間の経過を、どのように確認しますか。時計でしょうか。現在一般に使われている時計のほとんどは、クォーツ時計と言われています。クォーツとは水晶のことです。水晶は圧電体の一種であり、交流電圧をかけると一定の周期で規則的に振動します。クォーツ時計ではこれを応用し、通常は32,768Hz(= 215Hz)で振動する水晶振動子を用いて、アナログ時計の場合には時針の速度を調節し、デジタル時計の場合はその信号を電気的に処理して時刻を表示します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)もっとわかりやすい例で言えば、砂時計があります。砂時計をひっくり返して置くと、上にたまった砂が下に落ちて行きます。砂が全部下に落ちると3分といったような形になっていたりします。最も正確な時間を刻む(遅れたり進んだりしない)時計としては、原子時計があります。原子や分子には、ある特定の周波数の電磁波を吸収あるいは放射する性質がある(スペクトルにおける吸収線と輝線)。この周波数から、水晶振動子よりも正確に時間を測定することができます。原子時計はこの原子の性質を利用します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)あなたに、おいっ子がいたとします。久々においっ子に会うと、身長が伸びていました。それによっても時間の経過を知ることができます。時間の経過は、物質の状態の変化によってしか知ることはできないのです。あなたは、部屋の広さを調べるときにどうしますか。メジャーを使いますか。メジャーは金属や布でできています。そこに目盛りが書いてあります。メジャーという物質と、大きさを調べようとする対象である物質(例えば部屋)を比較することで、物の大きさを調べることができます。空間の広さも、物質の大きさとの比較によってしか知ることはできないのです。時間と空間と物質が、常に同時に存在し、関係しあっていることが感覚的にご理解いただけたでしょうか。

ずいぶんと脱線しましたが、タイムトラベルは可能なのかという問題に戻ろうと思います。人類が未来に行けることは説明しました。あとは過去に行けるようにするだけです。相対性理論は、質量(重さ)を持たない物質の存在も否定できないのです。質量(重さ)を持たない物質は、観測者から見て光の速度を超えることができます。その物質(粒子)は仮にタキオンと言われており、その性質を使えば、過去に信号を送ることも可能とされています。タキオンに対して静止質量0で真空中を光速で運動する粒子をルクソン(luxon)(タキオンとの混同からかルクシオンとも)、正の実数の静止質量を持ちどんなに加速しても真空中の光速には達しない粒子をターディオン/タージオン(tardyon)と呼びます。タキオンが存在し、ターディオンと作用を及ぼしあうなら、因果律(原因と結果の関係)が破られてしまう(原因と結果の関係が崩れる)か、あるいは、因果関係(原因と結果の関係)が観測者によって異なってしまうとされています。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)ここに過去へのタイムトラベルの可能性があるのです。説明が不十分であることは正直にわたしもみとめます。後日、専門家とともにお話をうかがいたいと思います。その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。人類が自力でタイムトラベルの技術を獲得しない限り、「神」を殺害(破壊)することは不可能です。それはわれわれ人類が、彼(彼ら)に代わって、「神」になることを意味します。そしてたとえ「神」がタイムトラベルできたとしても、タイムトラベルしようということは因果律(原因と結果の関係)で決まっているのです。つまりタイムトラベルできる「神」にも自由意志はないのです。

したがって「神」がいない場合でも、いるパターンでも、人間の行動が、遺伝子によって決定された脳構造と、生まれてきた以降の後天的な経験によって形成された脳の神経回路(行動パターン)によって決定し、人間同士の遺伝子の違いは1%よりはるかに少ないことを考えると、ほぼすべての人間にあてはまる最善の正解である「正義」(真理:理性的(科学的)な法則)はやはり存在することになります。

文頭で述べたことを、繰り返しますが、正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。

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