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貧富の格差について

経済的繁栄の決定的原因は、経済的所得層の総中流化であるとわたしは考えている。それを逆に立証しているのが、今日(2010年)のアメリカ合衆国を主軸とする世界同時不況であろう。アメリカ合衆国において特に、またその傘下の日本においても、所得格差の大きな偏(かたよ)りができている。一部の人間に大量の貨幣が集まるということ、すなわち、動産、不動産、預金が集中しているということと関連して、本来ならば流通し、取引されるべきものが、一カ所にとどまったまま動かないため、商品の流通がとどこおっている。すなわち不景気を引き起こしているのである。赤血球を貨幣、酸素を商品にたとえれば、人体の細胞のごく一部に酸素(商品)を運べる赤血球(貨幣などの資産)が集中しているために、体全体が酸欠状態になっているのに似ているのではないかと思う。

貨幣が同じ額面である限り、その国に置いて同じ価値を持つのであるならば、貨幣はほぼ均等に国民に行き渡っていた方が活発な消費活動が生まれるのは明らかである。しかし、ここで逆のことを考えるべきである。そもそもなぜ過剰な経済格差が生まれたのか。株式取引のトリックを利用するユダヤ人の陰謀という過激な説はともかくとして、人間の競争心によるもの、適者生存(ダーウィンの理論)といった古くからの考え方からが、貧富の格差が生まれたと考えるのは自然だろう。一人の人が一日に使いうるお金は限られているにもかかわらず、将来の不安や他の人に対する虚栄心、名誉欲といったものが、強力な権力や経済的能力を持つ国民において、過度の蓄財を生んだことで、異常な貧富の格差が生まれた。マックス=ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、かつての精教徒(ピューリタン)は、商業によって得られた利潤を自らの魂の救済の証として認識していたため、利潤は蓄財へとはならず、さらなる投資として市場に持ち込まれ続けたということであった。その状況下であれば、貨幣は常に資本(現代のような株式市場への投資ではなく、さらなる物資サービス生産拠点である工場・店舗の資本としての投資)となって循環し続けるので問題がなかった。

商業におけるWASP(ピューリタンの流れをくむ白人のプロテスタント)の信仰的熱意の低下が、この不景気を生んだと言えるのではないかと思われる。所得の総中流化と競争心という一見すると二律背反のように思われる命題を弁証法的に解決することが古今東西を問わず、経済問題を解決するものであるとわたしは思う。消費においては、所得の総中流の世界を用意するなら、生産またはサービスにおいては、競争心の世界を導入すべきなのは明らかである。今度は、物資の提供およびサービスの提供においては、何によって競争心を出すか。商業は基本的に政府の関与を一切排除(税金をのぞく)するのが繁栄の原則であるため、商業国民に何らかの政治的な特権を渡すべきではない。よくよく考えると、競争心の報いは、かつては「利潤:もうけ」であった。これはこれからも変わらないだろう。ただし、何一つ生産しない株式市場のようなマネーゲームによる数字上の金儲けがいけないのであって、これが現在のアメリカ合衆国が陥っている不況の原因である。

単なるマネーゲームを阻止する法律を政府で施行することで、良い物資、良いサービスの提供者に利潤を報いるようにしなければならない。今回のアメリカ合衆国の不況は、資本主義の破綻(株式の山を左から右に、右から左にコンピュータというシャベルで移しているだけの株式市場の破綻)と言ってよいと思う。株式という経済のあり方自体が見直されるべきときに来ていると思われる。これからもカルテル、トラスト、コンツェルンといった既存で知られている形態以外の、実質的な独占が生じるとすれば、それはこれまで通り、司法によって抑制する必要がある。すなわち、検察が、自由経済の活性化を阻害する、企業、個人の動きを告発し、停止させねばならない。商品の活動が「なるにまかせよ(レッセフェール・レッセパッセ)であってよいのは、競争状態のある純粋な商業活動(商品・サービスの提供)においてであり、政治的な特権を商業活動をする個人、法人に与えるべきではない。国民所得の均一化は、完全ではなく、ある程度の貧富の格差はあるにしても、総中流に近くなるように、累進課税制度を導入し、個人の場合は場合によっては最大所有財産を決めて、それを超える部分は国家が徴収することによって、少数の個人に貨幣がたまること(死蔵される)ことのないようにしなければならないと思う。特定の企業に貨幣がたまることを抑制するのは税金ではなく司法の役割である。

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