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解脱と悟りについて

わたしは仏教修行者ではありません。しかし、わたしが考える、そして(不完全ながらも)体験したといってはおこがましいですが、「仏教的な」「解脱」「悟り」のようなものについて解説したいと思います。人生はあらゆる束縛に満ちています。その束縛から全て脱すると、どうなるのか、それが言ってみれば解脱であり、悟りです。

人間が煩悩を持つ凡夫であるというのは、仏教的な説明です。煩悩とは何でしょうか。それはどうしようもないことをどうかしようと悩むことです。凡夫とは煩悩を追い続ける人間の呼称です。悩みが多い時代が現代だと言われています。では、ここで言っておきたいことがあります。あなたがこの24時間、もっと言えば、起きている時間だから16時間くらいで生活するのに必要なのは何ですか?と。おそらく、衣食住、それもわずかな量であるはずです。悩みがあるにもかかわらず、今日一日には困ることがあまりないのが人間なのです。

人間の悩みの多くは過去の後悔と、未来に対する不安です。なぜ人間は悩むのでしょうか。また、なぜ苦悩の深い人は偉大だと言われるのでしょうか。それが、悩みが知性を原因としているからです。過去の振り返りと、未来の予測は人間の知性の働きであり、本能ではできないことです。解脱とは今を生きることに方向転換をすることなのです。知性を捨てるのが、解脱や悟りなのではありません。プライドやこだわりを捨てるのも悟りではありません。戦争などの異常事態でなければ、今、この瞬間だけの自分の欲求を考えれば、ほとんど充足可能な欲望ばかりのはずです。時間は、「今この瞬間」の連続によってできています。悩む人は、一歩先、二歩先を見失い、五十歩先や、百歩前を見ようとするために、いってみれば、すぐそこにある石につまづいて怪我をしてしまうのです。今日一日のためのプライドは必要です。プライドを全て捨てては人間ではなくなります。こだわりを捨てれば芸術もなくなります。今の一瞬を大切に、今日一日を大切にすれば、3年後も5年後もきっと幸せなはずなのです。

あらゆるものの束縛から解かれるとは、人、集団との一切の契約関係を絶たねばなりません。結婚、親子、雇用。しかし、わたしたちがそれらの束縛から離れるのは現実的ではありません。かつては出家と在家に分け、いわば解脱に段階をつけたと思われます。それは時代こそ違え、今でも変わりません。究極の解脱は出家です。わたしたちには束縛があり、その束縛を捨てられないこともあります。怪我や別れといった、運命。英語で言えば「destiny」「fate」といったものがあります。こういったものに対して、仏教は、ギリシャのストア派やエピクロス派とよく似た態度を取ります。避けられないことを避けようとするのも煩悩なのです。どうしようもないことは考えず、できることのみをやるのが、仏教で言う知恵の完成の極意であり、ストア派的、エピクロス派的な解決方法です。

悟りの究極は、路傍(ろぼう)の石(=道ばたの石)が、自分自身と同じであることに気づくことに他なりません。石が動くのも、自分自身が動くのも、何か自由な意志によって決まっているのではありません。人間がどの選択をするかは、遺伝子による脳構造と過去の経験からできた思考パターンによって決まるのですから、ある条件における人間の選択は必ず一通りになってしまいます。それは石を持ち上げて、手を離すと、石が下に落ちるのと同じです。すなわち、一切は避けられないことなのです。そして、そのことから、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、一切皆苦(人生は全て苦しい)という思想に行き着くことになったのかもしれません。

何かを思い込むことと妄想を仏教では一番の毒だとしています。それが知性の働きであるのにもかかわらずです。知性とは生命体が神経系を発達させた結果、脳という中枢神経を作り出し、脳は肉体を効率的に生かすためのツールとして使われているということなのです。誤った過去の振り返りと、誤った未来の予想は、妄想に他ならず、それは、たいてい、どうしようもないことをどうしようかと思い悩むことであることが多いのです。そういったことを悩まず、できることしかしないのが、ストア派的でありエピクロス派的であり、仏教的な解決方法(煩悩を捨てる)なのです。これは新約聖書のナザレのイエスの言葉「野の鳥、まかず、からず、つむがず、生きる。いわんや、人間をや。明日のことで思い悩むな」(マタイによる福音書6章25節)という言葉にも通じています。どうにもならないことに知性を働かすことは煩悩のなせるわざであり、全くの無駄です。

仏教には四苦八苦という言葉があります。生、老、病、死の四苦に加え、「求不得苦(ぐふとくく)」(=求める物が得られない苦しみ)、「愛別離苦(あいべつりく)」(=愛する者と別離する苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(=怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」(=生まれもっての神経構造からくる、あらゆる精神的な悩み)よく見るとどれも自分ではどうにもならないことです。こういったどうにもならないことは考えないし、何もしないというのが仏教であり、繰り返しになりますが、ギリシャのストア派、エピクロス派の思想と酷似しているといえます。ストア派もエピクロス派も、何かを為すときに最善を尽くすけれど、運命によって左右される結果については考えない態度をとります。ストア派の祖であるゼノン、エピクロス派の祖であるエピクロスはともに72歳の高齢まで生きました(当時としては最高齢)。無用なストレスを持たずに生きた結果だと思われます。

先に述べた、結婚、親子、雇用は解消可能ですが、人によってはどうしても解消することができないでしょう。その人にとってはその解消は、「煩悩」となっています。物理的には可能でも社会的にはどうしようもないことがあるとすれば、出家(物理的に解消可能)、在家(社会的に解消不可能)の違いはなくなると考えることもできるでしょう。より自由になるために、物理的に可能な束縛は全て捨ててしまうという出家の形も残るでしょうが、社会的な束縛を断ち切れない大部分の者にとってはこの思考は仏教的な意味で福音となるでしょう。

大乗仏教の教典には、悟りとは言語化できないものであり、「あるわけでもない。ないわけでもない。あるわけでもないわけでもない」と評しています。しかし、わたしは悟りは次の言葉に集約できると思います。「自分は何もしていないということをしているのだ」ということを知るのが悟りなのだと思うのです。神経系を持たない石や植物は、何もしていないということをしています。植物が成長するのは、勝手にそうなるのであって、植物自身の意思がそうさせているわけではありません。人間の身体が大きくなるのも同じです。なるべくしてなっているのである。脳という中枢神経系を持つ動物も人間も同じなのです。中枢神経系である脳は生命を維持するためのツールでしかないのに、主人公にまつりあげていることに錯誤があるのです。そこに気づくということが、路傍(ろぼう:道ばた)の石と自分が同じ存在であると気づくことです。

また仏教はあらゆる差別を否定します。ところで、日本人は白と黒をはっきりつけるのを好まないと言われます。ここに仏教的な影響を見る人もいるかもしれません。つまり、仏教は、男と女、白と黒、善と悪、上と下、右と左といった一切の差異を否定して一つのものとして見るという思想だと明言されているからです。であれば、白と黒の中間点の灰色(グレー)が「悟り」の色かというと、わたしは違っていると思います。(一般に日本人はグレーを好みますが。ここに日本人的な好みと仏教の差がある)例えば、左から黒から白へと途中で灰色になりながら変わって行くカラーボードがあるします。しかし、この表面にはどこにも「悟り」の色はないとわたしは思います。灰色(そのグラデーション)白と黒の区別がついている限り、区別が存在するので、仏教的ではないのです。

わたしたちが生きている空間には物質が偏在(へんざい)しています。相対性理論をここで持ち出すのはいささか大げさかもしれませんが、便宜的に使用します。相対性理論では、物質のないところには、空間も時間も存在しません。原初、エネルギーのゆらぎから物質と反物質の対消滅ののち、わずかに残った片方の物質が、ビックバンとして、現在の宇宙を形成しているのです。それは受精卵が分割して、最終的に死に至るまでに、多細胞生物として生きるのに似ています。わたちたちが、白、灰色、黒と認識するのは、言葉や言葉以前の「認識」であって、これは中枢神経系である脳の作用によるものです。白、灰色、黒のボードをビデオのカメラで撮影したとします。ビデオのデータは、白と灰色と黒を概念としては、区別しないはずです。(色の違いとしては記録するでしょうか)これが脳による「認識」以前の世界であり、言うなれば、仏教で言う「悟り」の世界なのです。全てが一体であるから、自分と世界も一体です。であるから、白と灰色と黒のボードを見て分けないのとすれば、白と灰色と黒の全ての色を選択するということである。ここで、透明を「悟り」の色であると言いたいところですが、その透明とは、脳による識別がない、(白と黒と灰色を分けない)という意味で透明なのであって、透明なのが「悟り」を表す色であるとは断言できません。しかし、透明なものは全ての色をその色で透過して映し出す。その意味で、悟りの色を透明であるということもできるでしょう。色が無いということであり、「悟り」をダイヤモンド(金剛石)に例えることがあることもこのことからうかがえます。

自分と世界が一体であるとわかること、自分が世界そのものであることに気づくことも悟りです。先に述べたように、受精卵が多細胞生物である人間になっているのは、ごくわずかな物質がエネルギーの海の中でビックバンを起こして、複雑な系を為しているのと同じなのです。「全てを神にお任せします」というのは「全てを自然(自然法則:仏法)にお任せします」ということと同じ意味なのです。全てが原因と結果の関係(因果律)でできており、何が起きるのか、玉突きのように決まっているのですから、宇宙の始まりであるビックバンから宇宙の終末まで、全て決まっているのです。自由意志は存在しないわけです。しかし、できることは最善をつくし、できないことは悩まない(煩悩を捨てる)という人生態度への変換が、仏教の法へ帰依(自然法則にすなおに従うこと)をしようと覚悟することに他ならならず、本来、誰もができることなのです。四諦八正道(したいはっしょうどう)という修行方法がありますが、これが四苦八苦に対応した言葉であることは予想できます。この修行方法によって、仏教の法へ帰依(自然法則(:仏法)に素直に従い、より、もしくは最大限に効率的に快を得ること)ができるようになるということでしょう。

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