信仰とは、いわば根拠のないことを信じることである。科学は根拠のあることのみを扱う。以前、本能と知性について文章を書いたが、信仰と科学も知性の領域に属することである。本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。信仰は魔術(呪術)、宗教に分かれるが、後天的にその概念を手に入れる。科学は妄想を扱わないが、信仰は妄想を持つことができるといえる。
人間には妄想も必要なのであると考えられないだろうか。例えば、善いライオンと悪いライオンというのは、童話の中にしか存在せず、科学の世界にあるのは、強いライオンと弱いライオンでしかないことを考えると、人間に対して、善と悪のレッテルを貼ることは科学的ではない。善悪が社会的な概念であると仮定したとしても、社会性を持つアリやハチに善悪の観念があるかというと、実際にはないであろう。アリやハチは本能によって社会性を営んでいるからである。
いわば、善という「妄想」、悪という「妄想」を人間は持ちたがるのである。そのことに功利主義的な意味があるのかと言えば、あるだろう。プラトンは「神」を「善のイデア(概念)」と称したという。善悪の観念が実体のない妄想であると考えれば、当然、「神」も妄想である。しかし、人類はなぜ、「神」を信じようとするのか、そして、それは多くの場合、プラトン的な「善のイデア的な神」、例えば、キリスト教で言えば、「愛」であるように、信じようとするのか。それは多分に「あまえの構造」にあるのだと思う。「すがりたい」という欲求である。すがる対象は、個人、集団、そして、「精霊」「神」である。「精霊」「神」のみが、合理的な存在(存在を理性的に立証できる存在)でない。しかし、究極のすがる対象がやはり「神」なのである。さらにいえば、合理的な存在でないがゆえに、すがりの度合いが無限大になりえるのである。「一切を神におまかせします」ということである。
わたしたちのいう善悪の概念が、権威者から禁止されたことをしてしまったことを恥じ、隠すことから始まったことは旧約聖書のアダムとイブの善悪を知る木の実を食べる寓話から暗示されている。そもそも禁止なるものを設定する必要は、社会集団を維持させるために「決めたルール」であったことから始まる。すなわち知性によって「決まり(ルール)」ができたわけである。ルール(rule)とは英語では「統治する」という意味がある。そもそも社会を維持するためにそこに「決まり(ルール)」を作る存在が支配者であり、究極には「神」であることになっていると思われる。すわなわち、古代において「神」の代理人として、または現人神として、支配者がルールを設定していたのである。人間の能力の卑小さは、自然災害などを前にした、無力さから痛感させられ、そこから、ある社会集団の支配者であるといっても、それ以上の存在として、「神」を設定する必要があるのであろう。神を「悪」として考えた場合に、それは私的な欲望を満たす神であって、社会集団を維持する神は「善」であるはずである。自然を前にした人間の卑小さに対する「すがり」の対象として、「善のイデア」たる神の存在は、いわば人間の精神安定上必要な存在たらざるをえないのだと思われ、科学的には妄想である「信仰」「神」は、功利主義的な意味において、人間が全知全能の存在にならない限りは科学とともに併存し、存続し続けるだろうと思われる。