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知性と本能について

アリやハチは人間と比較してもいいような社会生活を営んでいる。しかし、その機構は、本能によって定められたものである。人間の社会は知性によって成り立っている。これ「知性と本能」はベルクソンが提起した問題でもある。生物学的なアリやハチの社会構成と人間の社会構成の綿密な比較は、この際、できないのでやめておく。ベルクソンは知性を本能の上に立てて考えた。その理由は、人間は本能と知性の両方を持つが、ハチやアリは本能とわずかながらの知性しか持ち合わせていないと考えたからであろう。知性とは経験からの累積から生じた思考パターンと言えるだろう。

西洋の対置としての東洋、特に西洋哲学の対置としての仏教を考え、人間の幸福を人生の目的と考えた場合(本来、仏教は人間の幸福を考える思想である)、知性は本能に劣る可能性もある。知性は、妄想を生むというのが仏教の考えである。本能はある外部から、また内部からの刺激に対する反射的な運動である。したがって、無駄がほとんどなく、現象の原因と結果はほぼ一瞬で了解でき、解決する。一方、知性とは、過去の経験の回顧、および未来の予測である。それによって思考、行動を決定しようとする。ある状況において、(もし仮に生命体が「幸福(快)」になるために存在しているとすれば)、過去の経験の回顧、及び、それによってできた思考パターンから、誤った未来の予測をするとしたら、結果は「不幸(不快)」であり、エネルギーの無駄による疲労まで生じてしまう。誤った過去の経験の回顧と、それにともなう誤った未来の予測は妄想に他ならない。人間の知性が妄想へとおちいる(誤った過去の回顧と誤った未来の予測)理由は、現時点における自分自身のおかれた状況と、解決しようとする問題に大きな隔たりがあるからであるだろう。刺激に対する反射運動でしかない本能では不可能なこの事態を、知性は可能にしてしまうのである。

本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。したがって、本能による行動(反応)は、同種の生命体であればほぼ同じであるが、知性では、行動(反応)は、同種の生命体においても、過去の経験の違いに寄って別々になるはずである。知性が妄想にならないためには、過去の経験の回顧と、未来の推論を精緻にすることである。そこに一定の指標を設けるとすれば、その過去の経験の回顧とそこから演繹される未来の推論を第三者に言葉(もしくは数字)によって説明して納得してもらえるかどうかということである。確かな事実の累積(過去の経験の確かな累積)による、正確な未来の推測は、場合によっては、人類に莫大な利益をもたらす(例えば科学技術)が、それほどの恩恵をそもそも、個人がそこまで欲しないのではないかと考えるのが仏教であり、「知は力である」とフランシス・ベーコンが言った西洋文明と仏教の対峙がある。仏教的観点から見れば、知性は本能を説明することができるにすぎず、本能以上に知性が人間の幸せに貢献するとは限らないという見地から、知性と本能の価値を比較しないのである。

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