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言論・思想の自由について

言論や思想の自由は文明国において当然のことながら認められるべきであるが、実際には、情報操作や危険人物の精神病院や刑務所への収容というように守られていない現実がある。そもそも、言論や思想の自由は、なぜ、道義的に認められなければならないのか。そこには民主主義の功罪が横たわる。

民主主義社会では多様性が尊重される。しかし、国家の構成人数が増すと、どうしても、独裁的要素が出てくる。ペリクレスによるアテネ民主政は、その端的な例であろう。これはみんなの意思だと言ってある政策を通すのは、少数者を多数派に見せかける手法によるものであり、テレビだけでなく、インターネットでも、Googleの検索結果の操作などによって、情報操作が行われている。マスを動かすのは意外と単純な機構に支えられている。独裁政権よりは、民主主義政権の方が、より情報操作が幅をきかせる事例は多い。

民主主義では、司法、立法、行政の三権が分離、対立関係にあることで、独裁を防ぐものである。そのため、どの権力構造においても、会議が重要な意味を持ってくる。多数決が会議の定例であるが、これが世論で行われるのが現代社会である。しかし、ヒトラーのナチス政権で情報操作が行われなかったわけでは毛頭ない。政治機構ではなく、マスメディアに大きな情報操作が行われるのは確かである。

少数者の意見を多数派のそれに見せかけるのが、情報操作の要(かなめ)であり、少数者とは支配者層、多数者とは被支配者層である。したがって、現代では民主主義の名を騙(かた)った寡頭政や独裁政が行われるのが定石である。国家規模の拡大が民主主義における意思決定をスピードダウンさせていく。そんなかで情報操作が行われる。言論や思想の自由が最も顕著なのは、出版業ではないだろうか。自費出版という形もあり、比較的簡単に、書籍を通じて「危険」思想に触れることができる。かつて中世ヨーロッパでは禁書というものがあったが、現代ではないに等しい。

何をもって危険思想とするかであるが、少数者の意見が多数派に見せかけられるとう現実を現実として提出するのもそうであるし、その少数者の利権を侵害するのもそうである。国家規模が大きくなると、言論や思想も多様になっていくのは自然である。その中で、ひときわ重大な役割を与えられているのが教育と宗教である。

教育は、学校教育と家庭教育よりなる。学校教育は国家の意向が反映されやすい。家庭教育は、その家庭の出自によって違いが出てくる。その人物の核となる思想を形成する中で、どのような関与を教育ができるのかということは重要である。教科書、特に歴史の教科書は、生徒の思想形成に大きな意味を持ってくる。歴史とは特定の観点から見た過去に対する考察である。この観点が何かによって大きく変質していくのが歴史教科書である。家庭教育においては、その家庭が触れうる情報を国家が統制することで、国家の関与が可能になる。たとえば、テレビやインターネットに対する情報操作、統制である。テレビは視覚と聴覚による洗脳も可能な一方公的なメディアであるため、国家にとっては非常に便利である。インターネットは先に述べたように検索結果を個々人で変化させることができる(ログイン・アカウント)ため、より情報を統制できる。

宗教に言論・思想の働きかけであるが、宗教というのは、そのものがものの見方(パラダイム/観点)であるため、言論や思想そのものと言える。これほど強力な思想形成・維持の手段はない。宗教によってと特定の言論や思想を形成することは非常に簡単である。多民族社会では、特に宗教の果たす役割は大きい。

言論・思想の自由は、剣よりもペンを選ぶ者にとっては重要である。思想は、多様性の中で精錬され、価値を高めていく。人と人との出会い、人と書物との出会いが有用なる思想を形成する。現実の社会体制では、個人の言論や思想を社会にフィードバックできないこともあるが、出版やインターネットで何かを発信する環境は死守すべきである。

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