真理とは、何をもってしても否定しえないもののことである。宗教的真理と哲学的真理がある。(主観的真理と客観的真理というのも考えられるが、いずれも「誰か」に否定される。主観的真理を否定するのは、その主観を持っている本人である。(:回心)客観的真理を否定するのは、他の社会集団である。(:カルチャーショック)宗教的真理は非合理的、哲学的真理は合理的である。例えば、宗教的真理では、「救いとは愛である」や「一切皆苦」などがある。救いとは怒りのこともあるし、全てが苦しいとは限らない。やはり、宗教的真理は非合理的である。例えば、哲学的真理は、「1+1=2」や「AはBである、BはCである、よってAはCである」などである。これは否定できない。やはり、哲学的真理は合理的である。では、ニーチェの哲学は、どうだろう。「神は死んだ」。しかし、神は常住不変なのではないだろうか。これはどういうことだろう。ニーチェの著作は多分に文学的である。文学は時に非合理的な表現を行う。すなわち、文学は多義的な言葉を使う。ニーチェの言う「神」とは、概念上の神ではなく、キリスト教の教会や信仰と言ったものを意味しているかもしれない。宮崎駿の『もののけ姫』でも「カミは死んだ」。これは民(たみ)から神的なものに対する畏(おそ)れの心がなくなったということであろう。ひるがえって、ニーチェのことを考えると、「善悪の彼岸」の問題が出てくる。ドストエフスキーの『罪と罰』において、主人公ラスコーリニコフが、第二のムハンマドとして既存の道徳を乗り越えようとする。(質屋の老婆殺しと窃盗(せっとう))それと似た構造が、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にある。ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖である。イエス生誕の折(おり)の東方の三博士は、ゾロアスター教の祭司(マギ)である。ニーチェによれば、イエスを神の子としたキリスト教の信仰を根本から壊し、新しい信仰を打ち立てるという意味で、神は死んだ、のだろう。
哲学的真理は、時に多義語で表れされる。しかし、大半の場合、さきのにニーチェのように、それは一意に限定できる。それゆえに、哲学的真理は合理的である。
宗教的真理は、多義的な重層構造になっている。文学性が宗教にあるからだ。人間の営為として自然なのは、宗教的真理なのではなかろうか。これはひとつの予想だが、宗教的真理から多義性をとって、一意の命題とすれば、哲学的真理になるのではなかろうか。言葉を変えれば、宗教的真理から文学性を取れば、哲学的真理になるわけである。
「人はパンのみにて生きるにあらず」という命題は、(それ自体、宗教的真理であるが)宗教的真理の多義性を表そうとしているのかもしれない。人間の心は、重層的であり、矛盾に満ちているという点で非合理的である。文学とは、人間の心の動きを描くものであるので、多分に宗教的真理に近くなる。ニーチェが自分の哲学を文学的表現で表したことは、ひとつの勇敢さである。哲学的真理に文学性を持たせると、宗教的真理になるわけである。ニーチェの哲学の「宗教的」真理のもとにあった「哲学的」真理は何だろうか。それは「善悪の彼岸」「この人を見よ」「アポロン的なものよりもディオニソス的なものを」といったニーチェの独特の思想になってくる。それらの思想に文学性を加味することで、「神は死んだ」と言う宗教的真理ができたのであろう。
結論は、こうである。宗教的真理:多義、哲学的真理:一意ということになろう。 そして、両者(宗教的真理と哲学的真理)を結ぶのは文学性である。