どっちでもいいという境地では、「我」という生存の主体のことを考えると、最終的に無我の境地に達する。選択権の放棄というのが「どっちでもいい」ということの本質である。「どっちでもいい」は不自由なのか自由なのか。選択できないということであれば不自由だし、こだわらないということであれば自由である。仏教に「自在(じざい)」と言う言葉がある。「自在」は外界(他者)ではなく内面(自分)を変える。「どっちでもいい」は、「自在」であると思われる。