核兵器、工場汚染といった負の要素があるにもかかわらず、いまだ科学という言葉には、無条件の賛美がある。人文科学なるものがあるのは、自然科学への憧れがあるからではないだろうか。しかし、人文科学は、科学としては、二流、もしくは、三流の地位に甘んじている。社会学とか、心理学とかがあるけれど、どれも「いかがわしい」印象を拭い去ることができない。物理学や化学のような明確さ、正確さが、人文科学にはない。それはなぜだろうか。
答えは、言葉の一意性と、多意性(多義性という意味の造語)にある。自然科学を記述するのは、数学そして、それに準ずる記号である。対する人文科学を記述するのは、その国の一般的な国語である。数学、それに準ずる記号は、一つしか意味がない。例えば、「1」という数字には、「1」以外の意味はない。「+」という記号には、「+」以外の意味がない。対して、「男性」という言葉には、「オス」という意味もあれば、「ペニス」という意味もある。記号の一意性が、自然科学の明確さ、正確さを保証しているのに対し、記号の多意性が、人文科学の不明確さ、不確かさを生み出している。一方、芸術では、多意であることが、豊かさを生む。
では、人文科学を記述する言葉(あるいは記号)の一意性を保証するにはどうするのか。まず、人文科学で使う言葉すべての辞書を作る。そして、一つ一つの言葉を結びつけている関係性を明らかに辞書に記述する。例えば、「人生」という言葉は、「人間」や「寿命」や「誕生」といった言葉とつながっている。そして、その言葉が複数の意味を持っている場合は、人文科学の論文を書く際に、どの意味なのか、その辞書で指定する。これによって、コンピュータによる論文の自動解析が可能になり、例えば、論文Aと論文Bの内容を掛けあわせて、コンピュータによって、論文Cが生成されるといったことが起きてくるはずである。これが実現すれば、人文科学は飛躍的に発展するものと思われる。影響は、人文科学だけにとどまらず、哲学や法学や経済学といった他の文系の分野にまで波及していくだろう。