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あるとない

ベルクソンの『創造的進化』によると、ないといういことは、あるものを他のもので置き換えるということであるということであった。例えば、コップの水がなくなるとする、すると、そこには水の代わりに空気があるわけである。だから究極的、絶対的な意味での「ない」は存在し得ない。

例を挙げて、わかりやすく考えると、右と左と真ん中という言葉がある。目の前を右と左に分けてみて、真ん中はあるだろうか。真ん中をどんどん拡大していっても、正確な意味での真ん中は存在しない。なぜなら、どの場所も、必ず、右か左に属しているからだ。それは数学上の線が、自然界に存在しないということでもある。数学上の線は、太さのない線だから。

右は左を前提としており、左は右を前提としている。上は下を前提としており、下は上を前提としている。光は闇を前提としており、闇は光を前提としている。男は女を前提としており、女は男を前提としている。言葉は、あるものを2つに分けるところから始まる。だからすべての事象は、互いに前提とし合いながら存在していることになる。

では、「ある」と「ない」ということは、すべての事象の上に立つ、前提条件ではないだろうか。いわばこの言葉の分野での形而上学(ものの見方・パラダイム)である。究極的な「ある」や究極的な「ない」は、存在するのか。「ある」と「ない」の中間は存在するのか。冒頭で、究極的な「ない」は存在しないと、わたしは述べたが、こういうことを考えること自体、言葉のトリックとの格闘でしかないように思う。例えば、仏教では、究極的、絶対的な「ない」を「空(くう)」と表現している。しかし、それ(空)は同時に究極的、絶対的な「ある」を表現しているのである。なぜなら、空は、現象を「ある」と「ない」に分けないで、直視するところに存在するからである。「空」は真ん中であり、全体である。あることはないことを前提とし、ないことはあることを前提しているのではないか。

話を広げていくと、肯定と否定の問題にもなってくる。「はい」と「いいえ」の構造である。ベルクソンによると、否定は肯定を前提として存在している。「この机は黒い」ということに対して、否定は、「この机は黒くない」ということになる。それは決して「この机は白い」ということではない。一方、肯定は、「はい(この机は黒いです)」ということであり、同語反復である。「この机が黒い」というテーゼ(命題)があるからこそ、「そうではない」というアンチテーゼ(反命題)は存在する。否定は肯定を前提としていると、ベルクソンは言っているが、わたしは、ないことがあることを前提としているというベルクソンの見解に加えて、その逆もしかりだと付け加えておきたい。否定は肯定を前提とするように、肯定は否定を前提とするのである。また、ないということはあるということを前提としていると同時に、あるということはないということを前提にしているのである。冒頭で、コップの水が空気と置き換わったことを、水がなくなったと表現したが、それは、水がなくなった状態が存在するからこそ、水が存在するという状況が存在するということである。たとえば、水があるところとないところがある。コップのガラスは水がないところである。コップのガラスの内側にしか、水は存在できない。もちろん、水がこぼれれば、コップのガラスの外側に水が存在する。その場合は、水はテーブルとの関係になっていくだろう。世界全体がすべて水なら、水は存在しなくなってしまう。宇宙の始まりは、水素だと言う説があるが、水素だけでは、それを水素と呼ぶことができない。宇宙最初の物質は水素ではない。仮に水素であったとしても、それは水素と規定できないのであるから。陽子や電子の数で考えても、それは他との比較が不可能である以上、特徴を区分することができない。

何かがあるということは、何かがないということがあって初めて存在する。闇がないから、光が存在するわけであり、光がないから闇が存在するのだ。もちろん、同時に、闇があるから、光が存在しないわけであり、光があるから闇が存在しないわけである。われわれはまぶしすぎると、何も見えなくなる。通常、闇では、われわれはものを見ることできないが、まぶしくても、ものを見ることができない。だから、究極的な光(光だけ)と、究極的な闇(闇だけ)は、結果的には、同じようなものになってしまう。絵画でも光を表現するときに、影を描き、闇を表現するときに、あわい光を描くではないか。

真ん中とはなんであろうか。わたしは、これは、物理学でいうところの観測者ではないかと思う。それは哲学における自分である。しかしここでも同じ問題が生じる。自分があるから世界があるのであり、世界があるから自分があるのである。真ん中があるから全体があるのであり、全体があるから真ん中があるのである。自分だけでは自分は存在しえず、全体だけでは、全体は存在しえない。水が自分(観測者)という存在なしには、存在し得ないように、観測者も観測者以外の存在がなければ存在できない。真ん中という線と全体という表現をしたが、点と全体という表現もできるだろう。全体とは点の集合体である。(しかし数学上の点は、大きさを持たないから、全体を構成することはできない)点は全体の一部である。全体があるから点が存在し、点があるから全体が存在する。

肯定と否定は、同じであるか、違うかということである。たとえば、「この机は黒い」ということに対して、肯定は「同じく黒い」ということであり、否定は「違って黒くない」ということである。肯定は同じであるという見解の表明である。否定は違っているという見解の表明である。

仏教の概念で、「否定否定の絶対肯定」というものがある。これは、すなわちテーゼ(命題)とアンチテーゼ(反命題)が、アウフヘーベン(止揚)して、ジンテーゼ(総合命題)になることではないだろうか。すなわち、弁証法である。悟りとは「あるわけではない。ないわけではない。あるわけでないわけでもなく、ないわけでないわけでもない」(AはBではない。AはBでないわけでもない)と般若部経典に書いてある。それは「テーゼではない。アンチテーゼでもない。テーゼでないわけでもなく、アンチテーゼでないわけでもない。すなわち、ジンテーゼである」ということではないだろうか。イギリスの薔薇(バラ)戦争で、ランカスター家(赤薔薇)と、ヨーク家(白薔薇)が戦って、王位を継承たのは、テューダー朝であるというのも、弁証法ではなかろうか。例えば、明日、晴れてくれなければ困るとする。そして、当日、雨が降ったとする。これは当初の、晴れてくれなければ困るというテーゼが、雨が降るというアンチテーゼによって否定されたわけである。その場合、かんかんになって天気に悪態をつくのは仏教の方法ではない。晴れたら、山登りに行くつもりだったが、雨が降ったので、この前、買った面白い本を家で読もうというのが、仏教的な解決である。これがわれわれの日常なのである。

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