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道徳の必要性について

道徳が存在しない国は、地球上には存在しない。道徳の上位に法律がある。法律に書いていないことは、何をやってもかまわないということがないのは、道徳が存在するからであろう。法律の上位には憲法がある。道徳は、法律や憲法の基本理念を提供すると当時に、それ自体が、行動規則となりうるものである。

道徳がなぜ必要かと言われると、ひとつには、それは価値観の共通化のためということになるのではないかと思う。かつて、『日本人に宗教意識が希薄な理由』で、宗教は、常識が通用する世界では、不要なものになると書いたが、宗教にも価値観の共通化という役割がある。宗教と道徳の違いは、形式(芸術など)にある。宗教には芸術性(形式)があるが、道徳には芸術性(形式)がない。

宗教色のある国では、道徳は宗教の一部分として機能する。道徳と宗教は対立する概念ではない。宗教に重きが置かれていない日本においては、道徳が軽視されることがある。しかし、道徳が否定されることはない。道徳がなぜ必要かといえば、やはり、そこには、「なにをやってよいか」「なにをやってはいけないか」という基本理念や行動規則が、個々人の差を超えて、共有されることが必要とされるからではないだろうか。ある人にはやっていいことが、別の人ではやってはいけないとう状況では、暮らしが成り立ちにくくなる。ある社会の構成員が、道徳を共有することで、価値観の統一化が行われ、人間関係のストレスが減少するのではないだろうか。

もし仮に道徳というものが存在しない世界を考えるならば、それは法律といった、権力と結びついた強制力が全てを取り決める世界になるだろう。例えば、多民族国家アメリカ合衆国では、法律に重きが置かれており、民族ごとの道徳は軽視されている。法律に書いていないことは何をやってもかまわない状況がアメリカ合衆国にはある。それは共通の道徳が存在し得ないアメリカ合衆国の国情を反映するものである。しかし、そのアメリカ合衆国でも道徳は否定されない。アメリカ合衆国の基本はキリスト教の理念であり、そこではキリスト教的な道徳観念が重視されている。

宗教のない所に、道徳が存在しうるかという問題では、「しうる」ということが答えになると思う。宗教意識の希薄な日本では、道徳教育なるものが行われているが、実際の道徳教育は、家庭や人間関係の中で自然に行われているものである。それは、言語化されていないものを含めて、ほとんどが体験を通じて伝授されるものである。

宗教意識がないからこそ、常識としての道徳が必要になってくる。常識としての道徳を身につけていない日本人は、日本人らしくない。そして、アメリカ合衆国では、キリスト教道徳を持たないアメリカ人はアメリ人らしくないということになる。価値観の共通化というテーマが、人間社会では、どうしても避けては通れない。そこに宗教が介在するかに関わらず、道徳というものが人間には必須のものであることは疑いようがない。

問題は、道徳を取り決めているのは、誰かということになる。多民族国家、思想信条の自由を標榜するアメリカ合衆国で、キリスト教道徳がベースになっているのは、一種、矛盾のように思われる。道徳が存在する社会を想定する場合、それは、共通の言語を有する集団という単位で考えられる。共通の言語を有する集団の指導者、および伝統が、道徳を決めることになる。そこにはなんら民主的なプロセスが存在しないこともありうるが、祖国や民族のアイデンティティとして、国民国家が存在しうる絶対条件として道徳がある。道徳というのは、民族性の基本となるものである。たとえば、日本では、愛国心教育は、白眼視されているが、それは道徳を国家が制定するという『教育勅語』に代表される第二次大戦前の日本の教育体制が否定されているからである。結果として、戦後の日本では、道徳教育は、家庭や人間関係の中で行われている。日本人の場合は、社会的な常識がベースになっているので、道徳教育が、学校の中で必ずしも必要にはならない。しかし、アメリカ合衆国のような多民族国家では、道徳教育は学校で行われることが重視される。英語という言葉を話し、思想信条がそれぞれ異なるアメリカの国土に住む人々が、学校教育を通じて、共通の価値観を育むことは、社会の秩序維持において、どうしても必要なことだろう。

道徳に国家権力が介入することの危うさは戦後の日本人が強く感じていることだが、共通の価値観の育成という意味では、国家によって道徳が管理されることも、場合によっては、必要になることを、国際人としての日本人は理解すべきであるのではないだろうか。

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