「個人の利益と公共の利益」とは、「エゴイズムとモラル」、「我欲と道徳」、「権利と義務」といった別の言葉で表される。これらをテーマにした哲学を生み出した先哲には、カント、ベンサム、アダム・スミス、E.H. カーなどがいる。さらに考えれば、孟子(性善説)や荀子(性悪説)も、そうだといえるだろう。しかし、彼らは二派に分かれる。個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化すると考えるものと、公共の利益のためには、一部、個人の利益を制限しなければならないと考えるものである。前者は、ベンサム(最大多数の最大幸福)、アダム・スミス(神の見えざる手)。後者は、カント、E.H. カー、孟子、荀子である。
善と悪については、拙論文『信仰と科学』で述べている。善と悪は、知性ある生物の社会の維持のために、生じた概念であり、自然界では、強いか弱いかしか存在しない。アリやハチも社会を持っているが、彼らは本能によって、生活しており、その意味で、善と悪は存在しない。(拙論文『知性と本能について』より)また、自由意志を仮定しない観点から見れば、善悪は存在しない。すべては原因と結果の連鎖であるという因果律の論説は、決定論とも言うが、その場合、すべての人間の行動は、個人の責任にならない(善人も悪人もいない)。(拙論文『正義について』より)決定論においては、善悪の観念は、個人の利益と公共の利益という観点から見直さなければならない。
公共の利益とは、すなわち善であり、公共の利益に反するものが悪である。問題は、個人の利益は、善なのか、悪なのかということに収束する。もっと言えば、公共の利益に反する個人の利益(悪)は存在するかということである。さらに言えば、自利他害(自分に利益があり、他人にとって害になること)は存在するかということである。常識から考えて、自利他害は存在する。したがって、個人の利益は悪たりえることになる。その意味で、ベンサム、アダム・スミスの、「個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化する」という論説は否定される。
カントによれば、個人の格率を、公共の格率と一致させることが、実践理性による行為である。個人において、公共の利益を変化させるより、個人の利益を変化させる方が容易である。逆に、公共の利益を個人の利益と一致させるということは、不可能である。公共の利益は、その社会を構成する複数の個人の総意であるからである。しかし、個人の利益を変化させることは、個人の欲望を変化させることではない。個人の欲望を変化させることは、例えば、空腹による食欲を、知識欲と入れ替えるようなことであり、それ自体、困難である。個人の利益を、公共の利益に一致させるとは、一種の、「ごまかし」作用のように思われる。その作用を、「合理化」という言葉で表すこともできるだろう。これは、届かない所にあるブドウを、「どうせ、酸っぱいだろう」と言って、あきらめるようなことと似ている。個人の利益を公共の利益に合わせることは、個人の利益を損ないかねないこともあるだろう。(有害な「ごまかし」作用)
個人が、個人の利益を、公共の利益に合わせるのは、公共が個人の利益を保証する体制が整っていることが前提になる。例えば、兵役は、明らかに個人の利益に反するが、国家が国民個々人の生活を保証するために戦争が必要ならば、義務として個人に要求される。あくまで個人の利益を保証するために義務が課されるべきである。戦争が、国民の総意ではなく、一部の国民(例えば、特権階級)の、局所的な欲望から始まることは多い。それは、究極的には自利他害行動である。個人の利益を求める自由競争が、富の独占を生み、そこから帝国主義へと発展すると論じたのは、レーニンである。帝国主義が、植民地をめぐる戦争を必要とするのは、富の独占を行うブルジョア階級の要求であり、全国民の総意とは言えないのではないかとわたしは思う。少数派の意見が、多数派の意見として、さかんに喧伝されるデマゴーゴスを、われわれは、細心の注意でもって監視しなければならないのである。個人の利益と公共の利益の蜜月は、「みんなはひとりのために。ひとりはみんなのために」ということが前提になっているのであり、それ以外ありえない。