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戦争について

クラウゼヴィッツは、『戦争論』で、戦争とは、外交の一手段であると論じていた。ヒトラーは軍隊のことを人間の学校と言った。反戦教育を受けた世代であるわたしは、戦争というものに対して、自然とネガティブな姿勢をとらざるを得ない。しかし、歴史の教科書を見れば、わかる通り、歴史的事象とは、戦争のことであると言っても過言ではない。まさに人類は、戦争とともに進歩してきたとも言えるだろう。

戦争は三つの型に分けられる。一、経済的な理由による戦争。二、政治的な理由による戦争。三、宗教的な理由による戦争。

経済的な理由による戦争としては、第一次、第二次、世界大戦がある。政治的な理由による戦争では、古代ローマの領土拡張戦争がある。宗教的な理由による戦争では、十字軍がある。

第一次、第二次大戦は、植民地をめぐる戦争であり、レーニンが言うところの「資本主義の最終段階としての帝国主義」にある先進国の経済事情が原因である。特に第二次大戦は、世界恐慌後の戦争であり、公共事業としての戦争という趣もある。ドイツも、アメリカ合衆国も、戦争によって、雇用難から脱出した。

古代ローマの領土拡張戦争は、牧畜と狩猟を主にする蛮族の侵入に悩む古代ローマが、防衛のために、あらかじめ、蛮族の地域を占領し、ローマの領土にし、農耕を教えたことに起因する。ただし、ローマが、カルタゴと戦ったポエニ戦争は、経済的な理由であると言ってよいだろう。

十字軍は、民衆主導、教皇主導、都市国家主導の三タイプがある。都市国家主導(ヴェネツィア)は、経済的な原因であるが、そのほかは、宗教的な情熱によるものである。イスラム教徒から聖地エルサレムを奪い返すための戦争である。

戦争といえば、人が死ぬというのが、一般的な印象だが、人が死ぬ戦争とは、近代以降のものであり、近代以前の戦争は、怪我をして戦闘不能になることが多かった。当時は、戦争は絶対悪ではなかったはずである。死ぬ戦争になったのは、鉄砲、大砲など、重火器の発達が原因だろう。クラウゼヴィッツが『戦争論』で、この書物は、冒頭しか読む必要がないと、豪語しているのは、戦争が、兵器や戦術の変化によって、全くちがったものになることを考えてのことだろう。

戦争の道徳的な意味を考えると、「人殺し」としての悪と、「正義」としての善という意味合いが出てくる。戦争が、「人殺し」でなくなることはない。したがって、反戦論者たちは、戦争を絶対悪とみなす。しかし、国家の方針の違いにより、国と国が、それぞれの正義を振りかざして、その結果、戦争となる様子を見ていると、国家の繁栄のために、戦争は不可避であるようにも思える。なぜなら、ある国家の生存が、別の国家の死であることがあるからである。戦争は、テーゼとアンチテーゼのぶつかり合いとしての、弁証法的な意味合いを持つものとも言えるだろう。戦争がある程度の大きさになると、戦争前と戦争後では、どの国家も、国家としての有り様を変えざるを得ない。テーゼが、ジンテーゼになるためには、戦争という過程を通らざるを得ないこともあるのではないだろうか。

戦争は、人類を、進歩させるのか、退歩させるのかという、問題で、答えを出そうとすることは意味のあることだ。戦争が人類を進歩させるためにあると答えれば、嘘になるし、戦争が人類を退歩させるためにあると答えても、嘘になる。戦争は、資本主義経済において、恐慌が持つ役割に似ている。資本主義経済において、好況期に積み重なった矛盾を解消するために、恐慌があるというのは、経済学者の宇野弘蔵の説である。それぞれの国家で、異なった成長を遂げていく間に、国と国との間に、数々の矛盾が生じる。その矛盾解消が、戦争という形に結実すると考えるのは、性急に過ぎるだろうか。

人類に暴力性がなかったらどうだろうか。戦争はなかったかもしれない。戦争が、道徳的な文脈で考えて、善であることは難しい。自分以外の他者に害を与えることで、自らの命を守るということは、本来、道徳的な意味において、許されるものではないだろう。人類の暴力性は、生存のための本能としてあるとは言えないだろうか。「生存とは闘争である」とも言えるだろう。ダーウィンの進化論における自然淘汰説を考えても、「生きる」ということ自体に、「戦う」という意味があるのは、自然界に存在するあらゆる生命に共通することである。生存するために、戦争という手段に訴えるのは、決して異常なことではない。「他者のための自分」という大前提が破綻した場合、必然的にめぐってくるのが戦争である。変化による矛盾の出現というのは、ほぼ不可避であり、戦争が、最終的な解決となる。

第二次大戦後の日本で、「戦争放棄」が謳(うた)われた。しかし、それは自衛隊という準軍隊を設置するという修正を必要とした。闘争をしないでよいということは、変化しないことが前提である。変化する以上、闘争が必要となる。しかし、「人殺し」「絶対悪」としての戦争を論じる時、われわれは、いかにして戦争を避けるべきか、考える必要がある。それはとりもなおさず、相互理解を意味する。他者の否定は、理解しようとする努力の放棄である。それが一方向であっては、状況は変わらない。相互に理解しあうことで、初めて、人殺しとしての闘争である戦争は避けることができるのだとわたしは思う。

相互理解とは、相手の立場に立って、考えるものであり、どのようにしたら、相手の不満状態を改善できるかということを考えることである。お互いに、不満状況を改善できれば、闘争の必要はなくなる。経済的、政治的、宗教的な理由による戦争、いずれも、相手の立場に立って、根気強く続けることが必要であるため、早急な答えは期待できない。いずれにせよ、重要なのは、決して、戦争という手段に訴えないという基本態度である。戦争は、理由はとにかく、戦争それ自体を望む流れがあることによって、生じることが多いのは事実だと思う。

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