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「われおもう、ゆえにわれあり」の否定

フランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596年~1650年)の有名な言葉に、次のものがある。「われおもう、ゆえにわれあり」これは彼が哲学の第一原理として置いたものである。世の中のほとんど全てのものは疑わしいと、デカルトは言った。例えば、目の前に、リンゴが一個ある。このリンゴは赤い。しかし、本当に赤いんだろうか。ハチと人間は目の構造が違う。だから、ハチがこのリンゴを見たら、リンゴは赤くない。また、色弱(色盲)の人が、このリンゴを見ても、赤いかどうかはわからない。別例を挙げれば、ある中華そばを食べて、ある人は、おいしい、と思ったが、別の人は、まずい、と思うかもしれない。したがって、全ては百人百様である。もっと言えば、リンゴが目の前にあること自体が、嘘かもしれない。例えば、逃げ水は、本来存在しない水が存在するように見えているものである。こうして考えると、一切が、存在の根本から、疑わしいと思われる。全てが疑わしいと思われると仮定する論理のことを、懐疑論という。デカルトは、真理に達する道として、方法的懐疑を主張した。真理に達するために全てを疑うというものである。そこで最後に残ったのが、この「われおもう、ゆえにわれあり」である。これは、「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」ということである。全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない、というものである。

これは絶対に否定できない真理のように見える。エマニュエル・カント(1724年~1804年)は、この「真理」を、なんとか否定しようとした。しかし、わたしから見ると、その試みは、失敗に終わっているように思われた。カントのデカルト否定論証をここで説明することは、わたしの理解不足により、できないが、わたしは、別の方向から、デカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」を否定し得たと確信した。

「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」を英語に直すと、"I think therefore I am."となる。ここで"think"というのは、自動詞としての役割を持っており、目的語を必要としていない。目的語というのは何か。例えば「たたく」という言葉があれば、「たたく」対象が必要である。「たたく」対象はバレーボールであったり、釘(くぎ)であったりする。目的語とは、動きの対象のことである。目的語を必要とする動詞のことを、他動詞と言う。それにひきかえ、例えば、「走る」というのは、動きの対象(目的語)を必要としない。これを自動詞と言う。いや、走るには、地面と重力と時間が必要だと言うもあるかもしれないが、「走る」は、言葉としては、目的語を必要としない。では、「考える」はどうなのかというと、考えるためには、考える対象を必要とする。英語で、"think"が自動詞としても存在するために、分かり難くなっているが、本来、考えるには対象が必要である。

先に述べた、デカルトの第一原理をもう一度、ここに出す。「全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない」ここで、「そのこと」と言っているのは何だろうか。結論から言えば、「そのこと」とは、夢幻(本来、存在しないかもしれないもの)ということになってしまうのではないだろうか。つまり、「夢幻」(本来、存在しないかもしれないもの)について考えている自分は、確かに存在するということになってしまう。これはおかしい。

仏教に六根というものがある。これは人間の五感(耳・鼻・舌・身・眼)に意識を加えて、六つの要素としたものである。六根全てを消してしまえば、全てが消えてしまう。では、意識以外の五感を全て消してしまうとどうなるのか。当然、思考(意識)だけが残るはずである。「われおもう、ゆえにわれあり」は、この状態を指すと主張する人がいるかもしれない。しかし、それでも、思考の対象(考える対象)が必要となるのは変わりはない。この五感のない状態というのは、どういうものであろうか、とても簡単には想像しがたい。おそらく、自分自身が存在し、たしかに生きているということを、確認するのが非常に困難な状況だと思われる。何も聞こえず、何も臭わず、何も味がせず、何も感触がなく。何も見えない。この状態を想像してもらいたい。わたしたちが「自分」という意識を持ち得るのは、この五感と意識、すなわち、六根があるからにちがいない。この六根は、すべて、対象を必要とする。すなわち、聞こえる物、臭う物、味がする物、感触がする物、見える物、考えられる物である。すなわち、「自分」とは、「対象」との相互作用の結果、存在する物であり、それ自体、単体としては、存在し得ないことになる。考えるには対象が必要である。しかし、その対象は、必ず存在する物かどうか分からない。ゆえに考えている自分が存在すると仮定しても、それが真実であるという証拠はない。これでルネ・デカルトの哲学の第一原理「われおもう、ゆえにわれあり」は否定できた。

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