宇宙の誕生はエネルギーのゆらぎが極点に至り、プラスの物質とマイナスの物質がわずかに発生し、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが徐々に近づき、均一になっていき、最終的にはプラスの物質とマイナスの物質がぶつかって大爆発(対消滅)し、わずかにプラスとマイナスのどちらか多い方に物質が残り、ビッグバンが起こるということになっているらしい。原初の物質は光に包まれていて、電子が飛び回っている状態だった。この物質が一気に増大していって、宇宙を形成していった。なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。これを人間の受精卵と比較すると、受精卵という単細胞から卵割していき、そのそれぞれに核(染色体の集合)、ゴルジ体、ミトコンドリアなどの器官が生じていく。その過程と似通っているように思われる。インド神話では宇宙のことをブラフマン、人格神として呼ぶ場合はブラフマナーという。クリシュナという最高神がブラフマナーを創造した。ブラフマナーの中で、人間や他の生物が生きているという状況である。バラモン教の奥義(ウパニシャッド哲学)で、梵我一如という一番重要な用語がある。梵とは宇宙(ブラフマナーあるいはブラフマン)であり、我とは自分(アートマン)である。一如とは、一致(一のごとし)という意味で、宇宙(ブラフマナー:マクロ)と自分(アートマン:ミクロ)が一致しているということが梵我一如である。極小(ミクロ)だった宇宙と極大(マクロ)になった宇宙は同じもののはずである。
最初の問題に戻ると、なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。おそらくある一点を飛び回る電子が増えたり、減ったりして、新しい一点の周りを飛び回る。色々な元素ができ、そのうち、でき過ぎて、たがいに干渉し合い、その間に物質(例えばニュートリノ)が飛び回っているところが宇宙空間となり、宇宙空間の広さが一定を超えると、元素の種類が一定数になった。これは、例えば、サイコロを一万回ふれば1から6が出る確率は同じ(一定)になるのと似ている。マクロとミクロが一致するとはどうことかというと、一つとしてあるのは、宇宙と人体が一致するということかもしれない。宇宙をマクロコスモス、人体をミクロコスモスと言う。コスモスとは宇宙という意味がある。つまり、大宇宙と小宇宙が一致するのが梵我一如である。インド神話では大宇宙は人格神であり人体である。小宇宙も我(自分:アートマン)であり、人体である。自分には、耳、鼻、舌、身、眼、意という感覚があると仏教では説く。身とは触覚、意とは意識である。この六つ全てが消えると、ありとあらゆるもの全てが消える。ということは、自分が消えると、宇宙が消えるということになる。よって自分=宇宙であるという方程式が成立する。しかし、自分が消えても、他人が残っている。他人=宇宙でもあると考えられる。なぜなら、「他人」にとっても「他人」は自分だからである。宇宙はひとつだけ存在しているのか、複数存在しているのか、もっと正確にいえば、同じ空間上に存在する人間、動物、植物、バクテリア、ウィルスのひとつひとつがひとつの宇宙に住んでいるのか、それぞれ別の宇宙に住んでいるという問題については、主観的な意味では、別々の宇宙だが、客観的に意味では、一つの宇宙に住んでいると考えられる。客観的な法則を導きだす自然科学では一つの宇宙と考えることになる。後に述べるタイムマシンにおいては、過去に干渉した途端にパラレルワールド(別の世界)が生じる。
次に宇宙の終滅について考えてみたい。宇宙は極小の状態から拡大を続けていく。これは物質が拡散し続けていくということであり、ついに物質の濃度が薄まり過ぎて、縮まり始め、再び一点(特異点)の宇宙へと戻っていくと考えられる。極小→極大→極小→極大→極小→極大となって、宇宙は同じ歴史を何度も何度も繰り返していると思われる。ニーチェが永劫回帰(何度も同じ歴史を繰り返す)という言葉を述べたのも、示唆的(しさてき)なものを感じる。宇宙の膨張の速度は光の速度よりも遅いので、光速よりも速く移動する質量ゼロの物質タキオンは、宇宙の誕生から終滅までを何度もぐるぐると飛び回っていることになる。このタキオンを利用すれば、未来、過去への時間旅行、未来、過去への信号の送信が可能になる。いわゆる全知全能の存在になる第一歩はタイムマシンを持つことによって可能になるのである。したがって一度生まれた宇宙は誕生も終滅もないように見えるのである。再び梵我一如に戻るが、バラモン達は修行によって、この境地に達する。これは起きたまま眠ったような状態である。禅定(瞑想状態)を続けていくうちに耳、鼻、舌、身、眼、意が消えてしまうということである。人間は死ぬと土に帰る。それは意識や感覚は失うが、宇宙の一部となるのである。生きている状態と死んでいる状態は一緒(等しい)ということを梵我一如の境地に達した者は悟ることになるのである。ここで問題にしたいのが四苦である。生老病死の死を、人間は、梵我一如によって克服することができるのである。生きている時も、宇宙と自分は一体、死んでからも、宇宙と自分は一体なのである。しかし、自分とは脳を中枢とする神経系の活動である。眠ってしまっても脳を中枢とする神経系の活動はほぼ止まったような状態になるし、死ねば、これは永遠に止まる。生きても死んでも同じと言ったが、自分が消えるということは大違いであり、普通の人なら恐れをなすことである。釈尊の言葉に、一切皆苦という言葉がある。これは生きていると全てが苦しいという言葉である。梵我一如に達し、生きても死んでも同じだと悟った人は、生きている苦しみが気にならなくなるのかもしれない。自分を守ろう守ろうとするから苦しくなるが、なすがままにまかせれば、楽で自由になれるのだろう。宇宙=自分という境地は、大きな水面に、ひとつぶの水滴が落ちていき、静かに波紋を浮かべながら、静まってもとの水面に戻るようなものだろう。釈尊の説いた涅槃寂静(ニルヴァーナ:悟り)の境地も同じである。人間が生まれ、水滴として、水面に落ち、波紋を浮かべた後、消えていく(死んでいく)。悟りとは、人生、宇宙の歴史そのものとも言える。