フィロソフィ(Philosophy)とは哲学と訳される。以前、「思考するために思考する」のが哲学であるという定義をしていたが、もう一度、深く考えてみたくなった。哲学には大別して、西洋哲学と東洋哲学が存在する。西洋哲学の方が、より状況が単純である。ほぼアリストテレスの哲学が基礎となっているのが西洋の哲学である。一方、東洋哲学は、仏教が基礎になっていたり、儒教、老荘思想、荀子、韓非子が基礎になっていたりする。それ以外の思想は、宗教学の扱う範囲となる。どこまでが宗教学で、どこからが哲学なのかは非常に曖昧(あいまい)な所である。はたまた比較文化論といったジャンルが扱うこともある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ヴェーバーは哲学者であるとともに宗教学者でもある。
われわれはなぜ思想を持つのか。思想とは、世界観である。この世がどのように成立しているのかを説明するものである。ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えて、カトリック教会から破門すれすれまでいったことは有名だが、そもそもそういったことまでカトリシズムは規定しているのだろうか。カトリックとは普遍的という意味がある。教皇の持つ宇宙観こそが絶対に正しいという典礼ができあがっているのだろう。ガリレオの地動説が宗教と科学の対立の端緒であったのは明らかである。科学も哲学である。科学も宇宙の見方を持っている。近代に来て、宗教の持つ役割が変わってきた。科学的な世界観に宗教は追いつかなくなった。その代わりに、宗教は個人の魂の救済といった方向にシフトしてきた。子供はよく「どうして?」という疑問を大人たちに投げかけてくるが、現代ではたいていのことが科学によって説明されてきている。科学とは実験と検証によって法則を導きだす一連の流れのことである。子供の問いに、大人は科学的な知識を援用しながら答えざるを得ない。しかし、死後の世界のことであるとか、霊魂のことであるとか、そういったことは、科学では説明することができない。宗教というものを確固として持たない日本人では、状況はもっと複雑で、死後の世界については「わからない」霊魂についても「わからない」という答えをする親が多々いると思う。ユダヤ教では死後の世界や霊魂について何も語らない。キリスト教やイスラム教では、特にイスラム教では、雄弁に死後の世界や霊魂について語る。
話が脱線してしまったが、西洋哲学と東洋哲学という二大分類において、われわれはどちらに軍配を挙げることもできない。西洋哲学はキリスト教と融合してしまったし、東洋哲学は救いを求める仏教や、道教と融合した老荘思想、荀子、韓非子は儒教の流れをくむ法治主義である。哲学は真理を探し求めるが、真理そのものとなることはない。対して宗教は真理を探し求め、真理そのものとなることがある。「あなたはなぜマンゴーの葉ばかりを数えて、マンゴーの実を食べないのですか」という問いを、インドの老僧がヨーロッパの科学者たちにぶつけたそうである。マンゴーとは真理(悟り)である。哲学は真理を傍観するのである。宗教は自らが真理となることを目標にしている。しかし、この傾向、どちらにしても哲学は宗教と融合せざるを得ないという状況をどのように説明したらよかろうか。人間は幸せになるために生きている。哲学は人間の幸福を研究するが、幸福にならなくてもいい。宗教は、人間を救済し、幸福にするものである。人間は幸福になりたいと思って生きている。その結果、哲学を究めていく過程の中で、宗教的にならざるをえないのだろう。マックス・ヴェーバーが哲学者であるとともに宗教学者であることはむしろ自然なこととも言える。