全てのことが原因と結果でつながっていることは拙論文『正義について』で述べた。このことを哲学用語では因果律と言う。因果律がある限り、人間には自由な意思がないことになる。
アメリカ合衆国は自由の国と言われる。わたしはアメリカ合衆国はキリストの王国でありたいと思っている国だと考えている。大統領の宣誓式では新旧聖書を片手に宣誓をする。北アメリカに初めて植民にやってきたのは、ピリグリムファーザーズで、メイフラワー号でやってきたことになっている。イエズス=キリストは人間を自由にするために生まれたと言われている。その教えはモーセという預言者以降のこまごまとした律法(トーラー:生活規範)をことごとく否定するものであった。アメリカには銃を持つ自由がある。ピリグリムファーザーズは、イエズス=キリストの理想を、新天地アメリカで実現しようとしたにちがいない。人間を自由にするのは愛であるとイエズス=キリストは説く。
ひるがえって自由とは何であろうか。因果律によって自由な意志が否定された今、狭い意味での自由しか語れなくなった。金や権力や名誉で、自由に人や時間を使うことができる。これも自由である。かつてアメリカ合衆国がイギリスの植民地だった頃、税金などによって自由が制限されていた。パトリック・ヘンリーという人が「我に自由を、しからずんば死を」と唱えたほどである。しかし、これらの自由はイエズス=キリストの言っている自由とはまた毛色の違ったものと言えないだろうか。
イエズス=キリストは、人間の自由をどのように考えたのだろうか。おそらくイスラエルの律法のがんじがらめの生活からの脱却と考えていたに違いない。「律法とは人のためにある」というのがイエズス=キリストの最大の論拠である。であるから、イエズス=キリストは「わたしは律法を破壊しにきたのではなく、完成しにきたのである」と述べている。心の奥底を注意深く見ていけば、「自由」というものが必ず見つかるはずである。釈尊は、こだわりを捨てることが自由への道であると説いた。イエズス=キリストは、愛によって「自由」に至ろうとしたのではなかろうか。たとえば、婦人が赤ん坊を産んだとする。赤ん坊は不快な気分になりしだい、泣き叫び、好き勝手に生きる。婦人は赤ん坊に大いに自由を束縛され、赤ん坊の支配下に入ってしまう。婦人は赤ん坊を愛している。この赤ん坊の支配下にある婦人は自分の意志で赤ん坊の世話を喜んでしている。この婦人は赤ん坊の奴隷(僕:しもべ)である。小さき者の僕(しもべ)たることで、自分自身は最大の自由を得るという、一見矛盾する論理が出てくる訳である。喜んで、僕(しもべ)たることは自由なのである。ニーチェが攻撃したのはこの奴隷道徳である。しかし、奴隷たることで人間は自由を得るのである。そこに介在するのは愛情なのである。
広い意味での自由な意志が原因と結果の関係(因果律)によって否定されてしまった今、狭い意味での自由(人間が日常生活で感じている自由)だけが残された。釈尊、イエズスともに自由を求めて、道を求めたことは同じである。人間はあらゆる束縛の中に生きている。その中で、偉大なる先史先哲たちの知恵をもとに、狭い意味での自由をせいいっぱい享受して生きていくほかはないのではないかと思う。