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偽善と偽悪について

偽善とは他の人のためと体裁を取りつくらいがら、実際はほとんど自分のためのためにある行為を行うことである。偽悪とは、他の人に害を与える体裁を取りながら、実際は半分以上他者の利益のためにある行為を行うことである。正義とは繁栄のための一つの手段でしかないことは拙論文『正義について』で述べた。偽善と偽悪はどちらがより正義(=繁栄のための一つの手段)と言えるだろうか。偽善が利己>利他なのに対し、偽悪は利己<=利他である。偽悪をする人は悪人扱いされる。しかし、実際には他者を幸福にしているか何もしていない。しかし、偽悪をしている本人は他者から迫害を受ける。偽悪とは一体どういう状況で生まれるのか。偽悪とは本当の自分を隠すために行う者のように思う。しかし、結果的に自己犠牲に陥(おちい)る。偽悪は相手に「不快」自己に「快」もしくは「不快」を与える。悪は常に相手に「不快」自分に「快」を与える。しかし、決定的に異なっているのは、結果として相手に無害であるか、むしろ有益であることだ。偽悪を行うキャラクター(人物)として思い浮かぶのは手塚治虫のブラックジャックである。わたしは偽善よりも偽悪を好む。「他者」のために偽悪(悪のふり)になるとは、正義と言えるのだろうか。偽善の場合、偽善とばれなければ、自分も快であるし、相手も快である。偽善とばれた場合には、自分も不快、相手も不快となるだろう。偽悪の場合には、偽悪とばれなければ、自分は快もしくは不快で、相手は不快である。偽悪とばれた場合には、自分は快もしくは不快であり、相手は快となる。偽善と偽悪を特徴づけると以上のようになっている。いずれも本当の自分の心を隠しながら行うもので、その本当の自分の心を知られた場合と知られない場合で相手の気持ちに変化が起きる。偽悪を行うのは、自分自身の優しさ(弱さ)につけこんで、不快を与えてくる相手に対する威圧の場合と相手に良いことをするときの恥じらい(照れ)を隠すために行う。

偽善と偽悪を考える前に「善」と「悪」を考えよう。「善」とは事実そのままを他者に伝えても自分に問題が起きないことであると定義する。「悪」とは事実を変形させたり、隠したりすることでしか、自分が害を受けずに他者に伝えられないことである。偽善は本心を隠している時点では善か悪かわからない。しかし、その本心が明るみに出た場合に相手から自分に被害を受けるのでやはり悪である。偽悪は本心を隠す時点で善か悪かわからない。しかし、本心が明るみに出た場合に、自分に相手から快を得られる、もしくは通常以上の快を得られる可能性がある。であるから偽善は悪、偽悪は善であることが論証された。偽悪がもっともよく使われるのは恋愛ではないだろうか。通常の善行為は相手への恋心を相手にストレートに伝えることで相手から拒絶される可能性がある。偽悪の場合には、自分の相手への恋心が、その悪っぽさの度合いをしだいにおとしていくことで明らかになり、相手がゆっくりと自分のことを知って好きになる。しかも先に述べた善行為よりもまさる快感を相手に与えることになる。

偽善はほとんど自分のためにある行為を行うことであり、その人の属する集団全体あるいは人類全体に繁栄をもたらすものではないので、正義になり得ない。一方、偽悪は本当の自分を隠すことで自分だけではなくそのひとの属する集団あるいは人類全体に繁栄をもたらすことはないが、相手(集団を含む)への善意を隠して、いつかわかってもらえることを希望していたり、結果として自分は嫌われたが、相手は繁栄を得ている場合がある。よって偽悪は正義となりうると言える。

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