救いには二種類あると思います。現世での救いと、来世での救いです。わたしは救いは愛にあると思います。愛とは小なる神であり、大なる神でもあります。愛とは愛着とは異なります。親が子を愛する無条件の愛情です。弱き物への慈悲と言った方がいいかもしれません。来世とは何かという問いに対して、わたしは何も言うことができません。来世があるという保証はないからです。天国、地獄、極楽、地獄、はたまた煉獄(れんごく)といった我々の想像力は事実無根であります。死後の世界があってほしい、そして、それができるだけ安楽な物であってほしいというのは万人の願いです。来世のために善行を積むのでは、単なる偽善に堕(だ)してしまいます。われわれはいかにして生きるべきか、その答えが愛にあると思います。それは現世的な救いでもあります。現世的な救いの中に来世的な救いが含まれていると考えてはどうでしょうか。夫が妻を愛し、妻が夫を愛するのも、また愛です。それは性欲エロースとは異なります。純粋な愛とは、溢れ出る物であり、わざわざ善行をなそうとして出す物ではありません。
純粋な愛こそ、イエズス=キリストの望む物であり、最も価値の高い物です。自然と出てくる慈愛、これこそが愛です。マザーテレサがインドの路上で行った行為は、「貧しい者の中で最も貧しい者に仕えなさい」という神の声を聞いてから始めたそうです。カルカッタの貧者は、とても自然と出る慈愛の対象足り得ません。しかしながら、マザー・テレサにとっては、慈愛の対象であり、この世での使命そのものであり、救いだったのです。カルカッタで死に行く貧者にマザー・テレサは逆に救われていたのです。人を救うことで、逆に人から救われる。このメカニズムは、人を好きになるときのメカニズムと似通っています。誰かを好きになるのは、誰かを好きになっている自分を好きになっているのです。結局は自己愛なのです。ですから、マザー・テレサは、汚れ、傷ついたカルカッタの貧者を、洗い清め、その過程の中で、自らが洗い清められていたのです。それは自己愛なのです。それは、「力を尽くし、精神を尽くし、あなたの主なる神を愛しなさい」とともに、イエズス=キリストが力説した最も大事な掟である「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ということとつながっていくわけです。
われわれは皆、マザー・テレサの行ったような愛の行いをすることは難しいかもしれません。しかし、妻を、夫を、そして、子供を愛するその愛も、純粋な愛なのです。そのなかに多少の愛着があるのはしょうがありません。愛着を飛び抜け、慈悲の心で接したとき、通常とは異なる救いへと至る愛が得られるのです。それはピエタのような愛です。