仏教においては「空」「無」という概念が非常に重要視されている。般若心経では、「色即是空」「空即是色」という言葉が出てくる。これは形ある物はことごとく空であり、空である物はことごとく形ある物であるという意味である。この世にあるものはすべて崩れ去っていく物である。では、いっさい崩れない物とは、「空」そして「無」である。これこそが真理であると考えたのではないでしょうか。空論を始めたのはナーガルジュナ(龍樹)といわれています。真の仏教者は失うことを恐れません。最終的に人間は「空」に戻るからです。もちろん死によって。しかし、存在しない物に真理を求めること自体が西洋哲学的には絶対矛盾として立ちはだかるかもしれません。その問題に対して釈尊はどのように説くでしょうか。ここに縁という概念が登場します。人と人はそれぞれ関係しながら存在しています。その中で人一人が死んだとします。しかし、死んだとしても、その人との関係性は形は変えつつも残っているのです。この関係性のことを縁といいます。ばらばらに存在している物がそれぞれ何らかの形で関係し合いながら成り立っている。これこそが縁なのです。縁とはネットワークのことです。縁は存在します。しかし縁も存在しないとも言えるのです。形がないからです。色即是空、空即是色とも言えない。
この「空」そして「縁」という概念によって仏教を説明しようという試みはある程度の意味があると思います。全てが空である。縁だけが存在する。このような世界観を仏教的世界観と言います。仏教の説く幸福とは何でしょうか。これは、自在であるということ、人格の完成、知恵の完成です。悟りに達したら、仏教修行者は何もかもが自分の思い通りになってしまうことを経験します。これは全知全能とは異なります。知恵を使うことで、自分がやり行うべきことを次々に達成していく。やり方はいくつでもあっても、結果はひとつである、そういう状況でも、確実に落ち着いて、よりよい方法を使って、自分の目標を達成していく。これが覚者、阿羅漢(あらかん)と呼ばれる人たちです。彼らは世界が空であり、縁のみが存在していることを理解しています。
われわれは、どのように世界を見るのか、世界の見方、におおいに関心をいだいているはずです。相対性理論もそのひとつです。ニュートン物理学もそのひとつです。これまで述べてきた仏教的世界観は、西洋にはないものでした。西洋人にとっては仏教的世界観は驚愕に値する物でした。それは唯物論になってからも変わりませんでした。西洋では、キリスト教神学を中心として、アリストテレスの哲学大系から抜け出せませんでした。われわれ日本人はこれだけ仏教に親しんでいいながら、仏教的世界観には無関心でした。わたしはこれはとてももったいないことだと思いました。