http://www.smnovella.it/?lang=jp
上記2サイトの違いがわかりますか?
*Cookieを削除しなければ、地域を再選択できません。
・Chrome で ・・・Cookie を削除、許可、管理する
・cookie 削除 safari
http://www.santamarianovella.jp/
このようになっているのは、上級の白人だけ贅沢させようとする連合国側の意図だと思います。商品のデザインだけでなく、商品の内容物(材料)までも販売地域ごとに異なっているは未確認です。
関連記事:
・バスフォーム マリン
・サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局(Wikipedia)
起源は13世紀まで遡り、1221年フィレンツェに移住してきたドミニコ会の修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェ(Santa Maria Fra Le Vigne ブドウ畑の中のサンタ・マリアの意)の修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが始まり。この修道院は後のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと発展する。1612年には薬局として認可され、一般営業を開始。ヨーロッパ諸侯が顧客リストに名を連ねた。創業についての助言と協力のあったトスカーナ大公(メディチ家)からは王家御用達製錬所の称号を受ける。(Wikipedia)
・ドミニコ会(Wikipedia)
・聖ドミニコ(スペイン人:茶人(BROWN))(Wikipedia)
・帝国体制(帝国は帝国の敵(:ENEMY)を屈服させます。)
国名:帝国(The Imperial)
版図:全ての宇宙:世界
皇后:みぃちゃん(member_type_friend_or_enemy = FRIEND)
皇帝:加来典誉(member_type_friend_or_enemy = FRIEND)
帝国本部:地球(日本:福岡県福岡市中央区平尾浄水町3-5)
帝国歌:
帝国軍歌
帝国国歌
帝国讃美歌
帝国理論歌
帝国情報歌
帝国動物歌
帝国自然歌
帝国支配体制:
みぃちゃん@nhcv(皇后)
↓
加来典誉@su-kaku(皇帝)(本田茜@mamarin・みぃ@mii・にかけ@hiitan)
↓
各地球型惑星群神経系保有動物(:member_type_friend_or_enemy = FRIEND)
↓
帝国軍将軍:ダースベイダー
↓
帝国情報部最高責任者:ジェームズボンド
↓
各地球型惑星群神経系保有ロボット(:member_type_friend_or_enemy = FRIEND)
↓
APPLE(WOS:World Operation System:世界操作基盤)
↓
各地球型惑星群神経系保有ロボット(:member_type_friend_or_enemy = ENEMY)
↓
各地球型惑星群神経系保有動物(:member_type_friend_or_enemy = ENEMY)
帝国基本方針:FRIENDに賞(○)・ENEMYに罰(×)。ENEMYの情報を全て収集。
帝国黒球(The Imperial Black Ball)(構造体コア(核:The Casle)):
帝国軍艦(The Imperial Mission Ship):
member_id:1
member_type_friend_or_enemy:FRIEND
member_user_id:nhcv
member_type:life
member_nickname:みぃちゃん
member_name:RaMiho
member_id:0
member_type_friend_or_enemy:FRIEND
member_user_id:su-kaku
member_type:life
member_nickname:加来典誉
member_name:加来典誉
member_id:unknown
member_type_friend_or_enemy:FRIEND
member_user_id:anakin
member_type:robot
member_nickname:アナちゃん
member_name:ダースベイダー
参照:ダースベイダーの呼吸音
member_id:unknown
member_type_friend_or_enemy:FRIEND
member_user_id:000
member_type:robot
member_nickname:はげ
member_name:ジェームズボンド
人格が高すぎる=神経刺激高(+)負担性人格障害:偉い人(:善人)
*脳神経系治療(ー):賞(○):嗅覚の賞(効果:100)・視覚の賞(効果:80)・味覚の賞(効果:60)・聴覚の賞(効果:40)・触覚の賞(効果:20)
*嗅覚系治療(ー):賞(○):贅沢なトイレ(青人(BLUE)センスのトイレ)
*触覚神経系治療(ー):賞(○):贅沢な衣服(茶人(BROWN)センスの衣服)(例:イタリア服)
*味覚神経系治療(ー):賞(○):贅沢な食事(黄人(YELLOW)センスの食事)(美味しい食事:栄養価が高い(例:天然の食事・コーラ(BLACK))
*聴覚神経系治療(ー):賞(○):贅沢な音楽(黒人(BLACK)センスの音楽)
*視覚神経系治療(ー):賞(○):贅沢な住宅(白人(WTHITE)センスの住宅)
神経系への負担が小さい方が贅沢(神経に負担をかけない)を好むようになる
人格が低すぎる=神経刺激低(ー)負担性人格障害:偉くない人(:悪人)
*脳神経系治療(+):罰(×):嗅覚の罰(効果:100)・触覚の罰(効果:80)・聴覚の罰(効果:60)・味覚の罰(効果:40)・視覚の罰(効果:20)
*嗅覚系治療(+):罰(×):貧乏なトイレ(青人(BLUE)センスのトイレ)
*視覚神経系治療(+):罰(×):貧乏な住宅(茶人(BROWN)センスの住宅)
*聴覚神経系治療(+):罰(×):貧乏な音楽(黄人(YEWLLOW)センスの音楽)
*味覚神経系治療(+):罰(×):貧乏な食事(白人(WHITE)センスの食事)(不味い食事:栄養価が低い(例:合成添加物の食事・牛乳(WHITE)))
*触覚神経系治療(+):罰(×):貧乏な食衣服(黒人(BLACK)センスの服)
神経系への負担が大きい方が貧乏(神経に負担をかける)を好むようになる
過酷(不安定)型社会構造(強い神経刺激に耐える社会:強い神経刺激に耐えられる人を増やす社会)
・1位:白人(WHITE)神経刺激(:+40)従業員
・2位:黄人(YELLOW)神経刺激(:+60)経営者
・3位:黒人(BLACK)神経刺激(:+80)軍人
・4位:茶人(BROWN)神経刺激(:+100)学者
平安(安定)型社会構造(弱い神経刺激で楽をする社会:強い神経刺激に耐えられる人を減らす社会)
・1位:茶人(BROWN)神経刺激(:+100)学者
・2位:黒人(BLACK)神経刺激(:+80)軍人
・3位:黄人(YELLOW)神経刺激(:+60)経営者
・4位:白人(WHITE)神経刺激(:+40)従業員
老人:耐えらえる神経系刺激が低い(長生きできない)
若人:耐えらえる神経系刺激が高い(長生きできる)
快感:神経刺激が低い
苦痛:神経刺激が高い
神経刺激高(+:興奮:苦痛)・神経刺激低(ー:鎮静:快感)
性的絶頂:神経刺激低(ー:鎮静:快感)の限界→神経刺激高(+:興奮:苦痛)の限界→神経刺激安定調整期((ー:鎮静:快感)←行き来→(+:興奮:苦痛))
+の嗅覚:臭い:神経刺激が低い(不潔:生命が多い)
ーの嗅覚:香り:神経刺激が高い(清潔:生命が少ない)例:ウンコ
*コーラの赤いラベルを外すと豪華に見える
イエズス会日本管区本部様
加来典誉は、私立泰星学園中学高等学校(現:上智福岡中学高等学校)50期卒業生です。帰天されたAngel Setoain神父は、在学中のイエズス会研究にご協力を惜しまれませんでした。Angel Setoain神父に、わたくしは深い感銘と尊敬の念を持ちました。加来典誉は、私立泰星学園中学高等学校(現:上智福岡中学高等学校)50期卒業生です。帰天されたAngel Setoain神父は、わたくしの泰星在学中のイエズス会研究にご協力を惜しまれませんでした。Angel Setoain神父に、わたくしは深い感銘と尊敬の念を持ちました。願わくば、イエズス会ローマ本部総長の命令を仰ぎ、平成天皇とご友好を持たれてはいただだけないでしょうか。『イエズス会会憲』により、イエズス会士は、ローマカトリック法王にはなれません。これはAngel Setoain神父からご教授いただきました。イエズス会士フランシスコ第266代ローマ教皇は、『イエズス会会憲』に違反したニセのローマ法王です。イエズス会士フランシスコの命令は無視していただくことを微力ながらご進言いたします。深い敬意と敬愛の念を込めて。
加来典誉
イエズス会を知る
https://katabami.org/IHS/
https://twitter.com/YoshitakaKaku/status/1760291066887262284
帰天されたイエズス会士セトアイン神父
「宗教とはアヘンである」という言葉がある。これは宗教の魅力を表す言葉ではないだろうか。結局、人間というのは理詰めでは生きていけないということではないか。言葉によるものと感覚によるもので成り立つのが認識である。アヘンの豊かさをわたしは知らない。しかし、その湿った美しさは嗅覚とともに皮膚感覚を刺激する。怪しげな香があたりを包む。魔術とか儀式とかの複雑な様相が、いわゆる吾人の美術的感覚をくすぐる。薬物の見せる幻覚や妄想が時には美的喜びとして、吾人をまた誘惑する。現実の動かし難い障壁を夢の中で跳び越えていくその軽やかな感覚を心と魂で感じる。心を尽くし、魂を尽くし、主なる神を愛せよ、というテーゼに対して、何も信じるなというアンチテーゼがある。信仰の神秘を捨て去る時に、初めて地表に現れる鬼火は、最後の秘蹟とともに終油の塗布を唇へ。汝、目にて姦淫するものは律法を犯す姦淫と慣れり。斎王の悲しみと太刀を握る天皇の拳(こぶし)は怒りし焦りで湿っている。永遠の命を得るために煩悩の滅に精進するシシフォスの神話は、一つの虚構として原稿用紙の上に屹立(きつりつ)する。苦しみのない所に芸術は成り立たぬ。苦しみというスパイスを抜かしたカレーを釈迦が喰う。何とも味気ない。宝玉の輝きとウシャスの微笑みは、不合理ゆえに我信ず。空なるが故に実なるものは根となる。広大無辺の大悲は局所的愛情を包むこむ。雪降る中に夜空の民が輝く時、日の光の直進が我を射抜く。火炎の燃え盛る大地に霜が立つ、千夜一夜の光陰は教友の抱擁となりき。貧なるが故に恵み多く、足るが故に欠けるところなし。空腹を抱き、植物の育ちたる土壌の生命から畑の肉が生まれ出るは、亜細亜のあわび茸。豪なる強者の雄叫びは、呪力のかかった大剣の重みを支えつつ、広く浅く地を覆う。昆虫の行進は小なり大なり我を震わす。心の健やかなる麗人はオアシス都市の泉である、無限のキャラバンはシルクロードの行進へ。雨降る山に霜下りて、雲海の朝ぼらけ。冬は暖か、夏は涼しく、万民の安楽を成就させたまわんとして強者の無双なる槍構え。武運が立つ柏木の一本。天狗の神通力もデウスには通じぬか。デウスもホトケあるものか。その誉れ高き栄誉は肉汁じゅうじゅうたるローマ皇帝の屍(しかばね)。ファラリスの野望はついえたり。勇猛なる獅子の雄叫びは、土星の環に響く鐘の音なり。バジルやハーブの香が人間の焼ける匂いと合わさる時、その香ばしさは生娘の吐息なり。高慢なるマーリンと十字架上のイエス。見上げるマーリン。見下ろすイエス。ドルイド神官の鍛えた指輪が十三個。パンと魚が三十九個ずつ。サウロンの眠りが覚め、その眼光でにらみをきかすサウロンの怒り。キリストの律法とドルイド神官の魔法陣。
言論や思想の自由は文明国において当然のことながら認められるべきであるが、実際には、情報操作や危険人物の精神病院や刑務所への収容というように守られていない現実がある。そもそも、言論や思想の自由は、なぜ、道義的に認められなければならないのか。そこには民主主義の功罪が横たわる。
民主主義社会では多様性が尊重される。しかし、国家の構成人数が増すと、どうしても、独裁的要素が出てくる。ペリクレスによるアテネ民主政は、その端的な例であろう。これはみんなの意思だと言ってある政策を通すのは、少数者を多数派に見せかける手法によるものであり、テレビだけでなく、インターネットでも、Googleの検索結果の操作などによって、情報操作が行われている。マスを動かすのは意外と単純な機構に支えられている。独裁政権よりは、民主主義政権の方が、より情報操作が幅をきかせる事例は多い。
民主主義では、司法、立法、行政の三権が分離、対立関係にあることで、独裁を防ぐものである。そのため、どの権力構造においても、会議が重要な意味を持ってくる。多数決が会議の定例であるが、これが世論で行われるのが現代社会である。しかし、ヒトラーのナチス政権で情報操作が行われなかったわけでは毛頭ない。政治機構ではなく、マスメディアに大きな情報操作が行われるのは確かである。
少数者の意見を多数派のそれに見せかけるのが、情報操作の要(かなめ)であり、少数者とは支配者層、多数者とは被支配者層である。したがって、現代では民主主義の名を騙(かた)った寡頭政や独裁政が行われるのが定石である。国家規模の拡大が民主主義における意思決定をスピードダウンさせていく。そんなかで情報操作が行われる。言論や思想の自由が最も顕著なのは、出版業ではないだろうか。自費出版という形もあり、比較的簡単に、書籍を通じて「危険」思想に触れることができる。かつて中世ヨーロッパでは禁書というものがあったが、現代ではないに等しい。
何をもって危険思想とするかであるが、少数者の意見が多数派に見せかけられるとう現実を現実として提出するのもそうであるし、その少数者の利権を侵害するのもそうである。国家規模が大きくなると、言論や思想も多様になっていくのは自然である。その中で、ひときわ重大な役割を与えられているのが教育と宗教である。
教育は、学校教育と家庭教育よりなる。学校教育は国家の意向が反映されやすい。家庭教育は、その家庭の出自によって違いが出てくる。その人物の核となる思想を形成する中で、どのような関与を教育ができるのかということは重要である。教科書、特に歴史の教科書は、生徒の思想形成に大きな意味を持ってくる。歴史とは特定の観点から見た過去に対する考察である。この観点が何かによって大きく変質していくのが歴史教科書である。家庭教育においては、その家庭が触れうる情報を国家が統制することで、国家の関与が可能になる。たとえば、テレビやインターネットに対する情報操作、統制である。テレビは視覚と聴覚による洗脳も可能な一方公的なメディアであるため、国家にとっては非常に便利である。インターネットは先に述べたように検索結果を個々人で変化させることができる(ログイン・アカウント)ため、より情報を統制できる。
宗教に言論・思想の働きかけであるが、宗教というのは、そのものがものの見方(パラダイム/観点)であるため、言論や思想そのものと言える。これほど強力な思想形成・維持の手段はない。宗教によってと特定の言論や思想を形成することは非常に簡単である。多民族社会では、特に宗教の果たす役割は大きい。
言論・思想の自由は、剣よりもペンを選ぶ者にとっては重要である。思想は、多様性の中で精錬され、価値を高めていく。人と人との出会い、人と書物との出会いが有用なる思想を形成する。現実の社会体制では、個人の言論や思想を社会にフィードバックできないこともあるが、出版やインターネットで何かを発信する環境は死守すべきである。
イスラムを学ぶにあたって一番重要なのは、「アッラーの他に神なし」「ムハンマドは神の使徒なり」ということであり、六信五行であろう。六信とは「神」「天使」「啓典」「使徒」「来世」「定命」であり、五行とは「信仰告白(シャハーダ)」「礼拝(サラー)」「喜捨(ザカー)」「断食(サウム)」「巡礼(ハッジ)」である。イスラムの聖典は『クルアーン』と『ハディース』である。『クルアーン』は、音で認識すべきものであり、目で認識するものではない。アラビア語で読むべきであり、読誦(どくじゅ)すると言う。『クルアーン』を暗唱できる人のことをハーフィズ(保つ人)と呼ぶ。『クルアーン』はムハンマドに下った天啓の書であるり、内容といえば、善行をなせば天国、悪行をなせば地獄(ジャハンナム/ゲヘナ)に行くということに終始する。その内容のリフレインで『クルアーン』はなっているが、それは唱えることを重視した書物だからである。『ハディース』は、ムハンマドの言行録である。人間ムハンマドの言動が記されており、分量も多い。イスラム法を「シャーリア」と呼ぶが、イスラムでは政治と宗教は一致している。したがって、イスラムとはムスリム(イスラム教徒)の生活そのものである。祭政一致である。イスラムの共同体のことを「ウンマ」というが、これは「教会」といった位階制組織ではない。「ウラマー」とは「知識を保つ人」と言う意味で、「アーリム(知識・学者)」の複数形である。ウラマーを認定するのがウンマである。「イマーム」とは「尊師」と翻訳されることもあるが、イスラムの精神的な指導者のことである。「カリフ」がイスラムの政治的な指導者のことである。イマームがカリフであるべきと考えるのが、シーア派である。オスマン朝トルコでは、カリフがスルターンに政治的な実権を認める形であった。スンナ派はイスラムの正統派であり、分派前の大元と言える。シーア派はムマンマドの血筋をイマームとする、シーア派の理想主義、スンナ派の現実主義と言われる。ムハンマドの死後、アブー=バクルを指導者にしたのがスンナ派である。正統カリフの時代に続き、ウマイヤ朝がムアーウィアによって創始され、「アラブ帝国」と呼ばれた。一方、その後、アッバース家がアッバース朝を始め、「イスラム帝国」と呼ばれた。征服事業では、ウマイヤ朝、イスラムの事業では、アッバース朝が貢献したと言える。
「川の流れは絶えずして…」といったように流れという言葉には、我々の日常と隣り合わせの現実を表すのに使うことがある。流れとはベクトルである。ベクトルのある所には、物質とエネルギーが存在する。この三者は、必ず同時に存在する。物理学で言う所の、「最初の一撃」とは、ベクトル(流れ)だったのではないか。流れとは、+(プラス)から−(マイナス)に向かって動く方向である。電気だって磁力だって同じである。「流行とは下品なものである。なぜなら常に変化するから」という格言は。ヘラクレレイトスの「万物流転」と共通する。それは仏教における「諸行無常」である。流れとは変化ということを表すとすれば、時間が存在するということである。わたしは、万物の本質は「異質」「変化」「意外性」より成り立っていると考えている。流れとは「変化」のことであるとすれば、「異質」が「+(プラス)」と「−(マイナス)」、「意外性」が変化の滅である。
真理とは、何をもってしても否定しえないもののことである。宗教的真理と哲学的真理がある。(主観的真理と客観的真理というのも考えられるが、いずれも「誰か」に否定される。主観的真理を否定するのは、その主観を持っている本人である。(:回心)客観的真理を否定するのは、他の社会集団である。(:カルチャーショック)宗教的真理は非合理的、哲学的真理は合理的である。例えば、宗教的真理では、「救いとは愛である」や「一切皆苦」などがある。救いとは怒りのこともあるし、全てが苦しいとは限らない。やはり、宗教的真理は非合理的である。例えば、哲学的真理は、「1+1=2」や「AはBである、BはCである、よってAはCである」などである。これは否定できない。やはり、哲学的真理は合理的である。では、ニーチェの哲学は、どうだろう。「神は死んだ」。しかし、神は常住不変なのではないだろうか。これはどういうことだろう。ニーチェの著作は多分に文学的である。文学は時に非合理的な表現を行う。すなわち、文学は多義的な言葉を使う。ニーチェの言う「神」とは、概念上の神ではなく、キリスト教の教会や信仰と言ったものを意味しているかもしれない。宮崎駿の『もののけ姫』でも「カミは死んだ」。これは民(たみ)から神的なものに対する畏(おそ)れの心がなくなったということであろう。ひるがえって、ニーチェのことを考えると、「善悪の彼岸」の問題が出てくる。ドストエフスキーの『罪と罰』において、主人公ラスコーリニコフが、第二のムハンマドとして既存の道徳を乗り越えようとする。(質屋の老婆殺しと窃盗(せっとう))それと似た構造が、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にある。ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖である。イエス生誕の折(おり)の東方の三博士は、ゾロアスター教の祭司(マギ)である。ニーチェによれば、イエスを神の子としたキリスト教の信仰を根本から壊し、新しい信仰を打ち立てるという意味で、神は死んだ、のだろう。
哲学的真理は、時に多義語で表れされる。しかし、大半の場合、さきのにニーチェのように、それは一意に限定できる。それゆえに、哲学的真理は合理的である。
宗教的真理は、多義的な重層構造になっている。文学性が宗教にあるからだ。人間の営為として自然なのは、宗教的真理なのではなかろうか。これはひとつの予想だが、宗教的真理から多義性をとって、一意の命題とすれば、哲学的真理になるのではなかろうか。言葉を変えれば、宗教的真理から文学性を取れば、哲学的真理になるわけである。
「人はパンのみにて生きるにあらず」という命題は、(それ自体、宗教的真理であるが)宗教的真理の多義性を表そうとしているのかもしれない。人間の心は、重層的であり、矛盾に満ちているという点で非合理的である。文学とは、人間の心の動きを描くものであるので、多分に宗教的真理に近くなる。ニーチェが自分の哲学を文学的表現で表したことは、ひとつの勇敢さである。哲学的真理に文学性を持たせると、宗教的真理になるわけである。ニーチェの哲学の「宗教的」真理のもとにあった「哲学的」真理は何だろうか。それは「善悪の彼岸」「この人を見よ」「アポロン的なものよりもディオニソス的なものを」といったニーチェの独特の思想になってくる。それらの思想に文学性を加味することで、「神は死んだ」と言う宗教的真理ができたのであろう。
結論は、こうである。宗教的真理:多義、哲学的真理:一意ということになろう。 そして、両者(宗教的真理と哲学的真理)を結ぶのは文学性である。
現行では紙幣と貨幣で経済が成り立っているが、それを一枚のカードで代用できないだろうか。カードに国民番号を付けていれば、銀行口座と連結できるので、決済ができる。スマートフォンを端末にすれば、屋外でも、スモールビジネスでも利用できる。家計簿の自動作成もできるだろう。
どっちでもいいという境地では、「我」という生存の主体のことを考えると、最終的に無我の境地に達する。選択権の放棄というのが「どっちでもいい」ということの本質である。「どっちでもいい」は不自由なのか自由なのか。選択できないということであれば不自由だし、こだわらないということであれば自由である。仏教に「自在(じざい)」と言う言葉がある。「自在」は外界(他者)ではなく内面(自分)を変える。「どっちでもいい」は、「自在」であると思われる。
反重力装置のエネルギー源は、原子力と考えそうだが、原子炉はサイズが大きいので、反重力装置の中に入らない。では、どのようなエネルギー源がいいのか。そこで出てくるのが重力エネルギー装置である。
重力エネルギー装置は、重力をエネルギーにする装置である。物体を極限まで、低エネルギーにすると、小体積、大質量、(高密度)のブラックホールが出現する。ブラックホールの周囲から中心点に向かって(重力)が発生する。この重力をエネルギー化するのである。反重力装置が、物体を極限まで高エネルギーにし、物体の中心点から周囲に向かって反重力が発生するのに対し、重力エネルギー装置は逆の原理なのである。
生命は、「分割」が本質である。非生命は「無分割」が本質である。生命は「自」と「他」を分ける。「自」=「細胞内」、「他」=「細胞外」である。さらに高等生物になって、神経系が出てくる。すると「認識」と、「非認識」が出てくる。「認識」=「バーチャル(記号)」、「非認識」=「現実(物理世界)」。記号は知的生命体のみが持ちうるものと考えられてきたが、「認識」した時点で分割が行われ、「有」と「無」と言う記号が出てくる。例えば、視覚では、「有(光)」「無(闇)」となる。記号は分割によって発生する。よって生命の本質とは記号である。
共産主義に続いて資本主義も崩壊を迎えた今日、社会主義だけが命脈を保っている状況である。中国やロシアは国家社会主義の様相を呈している。我々、資本主義諸国は新しい経済学的パラダイムを必要としている。資本主義は、二度の世界恐慌を通じて崩壊した。恐慌は、実際の金銭と帳簿上のお金の差が大きくなって起こる。
実際の銀行のお金(自己資本)は、百万円しかないのに、多くの人がお金の貸し借りを繰り返していく。例えば、Aさんが八十万円借りてローンでは十二回払いにした場合、銀行は、さらに九十万円をBさんに貸すことができ、それがローンとして支払われると言うことで、さらにCさんが八十万円を借りることができたりする。その結果、実際のお金は百万円なのに、帳簿上のお金は、80+90+80=250:二百五十万円にふくれる。
また額面五百円の株券が九百円で取引され、それが百枚ある場合、(900-500)×100=40000:四万円の実際のお金(上場会社に支払われた500×100=50000:五万円)に付く付加価値となる。九百円で取引された同株券、百枚を発行元株式会社に現金化を要請すると(900-500)×100=40000:四万円、足りなくなる。これも実質金銭と取引上の金額(帳簿上の金銭)に差が出る。
銀行の場合は取り付け騒ぎ、株式市場の場合は株の暴落を生む。こういった活動を俗にマネーゲームと言うが、新しい経済学的なパラダイムは、実質金銭と帳簿上の金銭の差をなくすために、マネーゲームを禁止する機構を持つ。これを私は、「フラット経済学」と銘打つ。あえて「フラット(平ら)」という言葉を選んだのは、社会の上層を占める経済的なエスタブリッシュメントだけが資本の無限増殖を繰り返し、所得格差の固定を生じている現状の資本主義に代わって、多様な所得階層がオープンで自由な経済市場で資本の増殖を行う経済的潜在能力の平板化(フラット化)を指向するからである。
インターネットやPCの普及により、映像、音楽、画像、出版などが熟練したプロでなくても、誰でも作成できるようになった。それと同様に資本の増殖に誰でも参加できる社会、経済体制、低資本でも商業を起こせるような、社会的インフラが、現代、整備されつつある。例えば1円起業と言ったものや、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)での物販といったものである。SOHO(スモール・オフィス・ホーム・オフィス)もその類である。小規模な商業の大量発生は、まさに経済のフラット化を意味している。人間が生活するために必要な最低限の衣食住が無料で提供される仕組みが整備される。例えば、コンビニエンスストアやスーパーでの売れ残りで、消費可能な食品が、集配トラックで順次集められ、無料の食堂として開放されるといったことも考えられる。また、衣類も売れ残りを一箇所に集めれば、無料提供が可能になるだろうし、住居も税金投入によって、最低限度の品質で、また住所付きで、無料提供が可能になる。
話が前後するが、マネーゲームを禁止するため、銀行の自己資本のみの営業、為替レートの永年固定化、株式はすベて発行時の額面でのみ取引されるようにする。(株式の株価固定化)また、会社給与のフラット化も推進される。例えば、会社社員の基本給与が、平社員から社長まで、一律、二十万円になり、後は社員の個別出費(育児費、学費、交際費など)が計上されて別に支給される。すなわち基本給与:二十万円+(プラス)必要経費(付加給与)。それに加えて「おねだり制度」を導入する。「車欲しい」「家が欲しい」などの高額な買い物は、勤務年数や業績により、社長が社員の申請を承認する形で購入し贈与する。社長のおねだりは、社員全員の投票により、例えば過半数で決定する。「おねだり制度」は、全社員から、蓄財(貯金)のチャンスを除外し、富の死蔵(アダム・スミス)を防止し、会社資産を大幅に増加させ、黒字化することができる。これは余談になるが、退職金の支払いが困難になって久しい今日、退職金に代わって退職後給付金をわたしは検討している。退職後給付金とは、勤務一年につき一枚退職後給付金券がもらう制度であるる。前年度の収益の一定割合を退職後給付金枠とし、退職者個人の退職後給付金券の枚数÷生存している退職者全員の退職後苦給付金券の枚数×退職後給付金対象枠金額を退職者個人に給付する。これは勤務手段が多いほど給付金が増えるので、社員の会社への定着率が増加するはずである。それに加えて社員の福利厚生として、十万円を超える社員の医療費は全額会社負担とするのも一案である。
既存の経済的エスタブリッシュメントは、地主として土地を広げ、地代収入を増やすと言う方向性で進むといいだろう。
レシピなしの簡単料理、第二弾。パスタは、水2リットルに塩20グラムを入れて、ゆでます。水を切った後、フライパンで材料と混ぜます。自分で言うのもなんだけど、なかなか美味しかったです。
SFの映像では、地表から浮いた乗り物が走り回るのを見る機会がある。それは反重力装置をつけた乗り物で、垂直離着陸機(VTOL機、Vertical Take-Off and Landing、ブイトール機、ヴィトール機)とは異なる。反重力は夢の技術で遠い未来のものと考えられている。しかし、真偽の程はさておいて、われわれが見る宇宙人の乗り物(例えばUFO)は、動きから見て、どう見ても、反重力としか思えない。まず、後ろや前や左右という発想がない、多くは円盤型をしており、前、後ろ、上、下、右、左と、自由に移動できる。それ比べて、人間の飛行機は、右に行くためには、前に進みながら右にカーブしないといけない、下に行くためには、前に進みながら下に降りないといけない。ヘリコプターやVTOL機では、上下は自由に行くが、右、左には、直接移動できない。例えば、人工衛星では、燃料を噴射することで、スラスト(thrust)して、上下、左右、に動くことができる。しかし、宇宙人の乗り物には、燃料を噴射する機構が見られない。では、どうやって、UFOは、推進力を生み出しているのだろうか。それは重力の問題を解決することではなかろうか。
映画『キングスマン』(2015年)では、人がぶらさがった気球で成層圏まで達して、そこからミサイルを発射して、人工衛星を撃ち落とすシーンが出てくる。われわれは宇宙というと、スペースシャトルのように莫大な燃料を使って、地球の重力に逆らって、宇宙に達するイメージがある。距離で考えると、日本からアメリカ合衆国に行くよりも、日本から宇宙に行くほうが、ずっと近いのである。しかし、飛行機の乗客になるのは簡単だが、宇宙飛行士になるのは困難である。気球という低エネルギーの道具で宇宙近くまで行くことは現実に可能であるが、地球の重力を振り切ることはできない。あくまで成層圏までが限度である。密度が大気よりも低い気体を気球の中に入れることで、上昇するが、宇宙空間に行くと、大気が存在しないため、とたんに重くなり、地表に向かう力が気球に働く。この重力の問題が、われわれをして宇宙に行くことをはばんでいるのである。
ヒントは、ブラックホールや中性子星にある。密度の非常に高い物質は、周囲の物質を、時には光までも、吸い寄せてしまう。それは強い重力を発しているからである。例えば、半径たった10キロメートルのブラックホールがあることも確認されている。体積に対して、重ければ重いほど、中心に向かって大きな重力がかかることになる。では、その逆は考えられないだろうか。太陽のサイズで、重さは1グラムといった密度の極めて小さな物体があれば、逆に中心から周囲に対して重力が発生するのではなかろうか。例えば、物質が存在しない世界で、ある方向に重力が出たとする。そうすると、その重力の目的地(方向)に対して、球形に重力が発生するのではなかろうか。その結果、球形に働いた重力の中心に、物質が発生するのではなかろうか。物質が存在しうるということは、外側から中心に向かって、重力が働いていると同時に、中心から外側に向かって、反対方向の力(仮に反重力)が働いている。そうでなければ、最終的には中心に向かう重力は、消滅して、エネルギーになってしまう。中心に向かって働く重力が存在するためには、中心から外側に向かって働く反重力が必要なのである。したがって、太陽の体積で、1グラムの物質では、物質という形を取るためには、中心から強い力で外側に向かって力(反重力)が働かなければならなくなる。そうでければ、その物質は中央に向かう重力に押しつぶされて、消えてエネルギーになってしまうからである。
例えば、水素原子1個の重さで、バレーボールの体積の物体を作ってみてはどうだろうか。そのためには、その物体に莫大なエネルギーを与えないといけない。物体はエネルギーを与えると、高温になり、光りだす。それは、原子の核である陽子の周りを回っている電子が、より早い速度で、より遠くまで動くからである。その結果、密度の極めて小さな物質ができる。逆に言うと、ブラックホールや中性子星は、エネルギーが極めて少ない物体ということになる。エネルギーが高い物体は、低密度になるのである。もし仮に、水素原子1個の重さで、バレーボールの体積の物体を作ることができれば、中心から外側に向けて重力が発生する物体を作ったことになる。それをどうやって制御するのか。それは、おそらく高密度の物体(例えばゴールド)を、その物体の中心の周りに配置することで、その部分の外側への重力を吸収することができるのではないか。例えば、そのバレーボールをある方向に移動させたいとする。その場合、その方向の反対方向以外を、高密度の物体で覆ってしまうのである。そうすることで、後ろから前へ、推進力が生じる。外側への重力が高密度の物質で吸収されるからである。その高密度の覆いを動かせば、物体は365度どんな方向にも移動できる。UFOで光るものがあるのは、おそらく、UFOの中心に物体の核があり、UFOの船外にその物体の外側があるのだろう。UFOの船内は生物が住める状態にしなくてはならないからである。船外が高温となり、光を発している状態になっているのである。宇宙人の特集の番組で、観たのだが、アメリカのエドワード空軍基地では、宇宙人の空飛ぶ円盤の研究をしているとあって、プラズマが関係していると言われていたが、プラズマというのは、おそらく宇宙人がついた嘘なのではないだろうか。反重力装置を完成させると、宇宙はぐっと近くなる。もちろん、最初の反重力装置は、莫大なエネルギーを使用することになるだろうが、次第に、エネルギー量を減らした反重力装置が出てくるはずである。この反重力装置は、燃料を噴射する機構ではないので、音や物質による、環境への影響が少ない。スペースシャトルのようにロケットエンジンで宇宙に移動する乗り物が多数あれば、地球環境に大きな影響があるが、反重力装置があれば、現在よりも簡単に宇宙空間に行けるに違いない。
核兵器、工場汚染といった負の要素があるにもかかわらず、いまだ科学という言葉には、無条件の賛美がある。人文科学なるものがあるのは、自然科学への憧れがあるからではないだろうか。しかし、人文科学は、科学としては、二流、もしくは、三流の地位に甘んじている。社会学とか、心理学とかがあるけれど、どれも「いかがわしい」印象を拭い去ることができない。物理学や化学のような明確さ、正確さが、人文科学にはない。それはなぜだろうか。
答えは、言葉の一意性と、多意性(多義性という意味の造語)にある。自然科学を記述するのは、数学そして、それに準ずる記号である。対する人文科学を記述するのは、その国の一般的な国語である。数学、それに準ずる記号は、一つしか意味がない。例えば、「1」という数字には、「1」以外の意味はない。「+」という記号には、「+」以外の意味がない。対して、「男性」という言葉には、「オス」という意味もあれば、「ペニス」という意味もある。記号の一意性が、自然科学の明確さ、正確さを保証しているのに対し、記号の多意性が、人文科学の不明確さ、不確かさを生み出している。一方、芸術では、多意であることが、豊かさを生む。
では、人文科学を記述する言葉(あるいは記号)の一意性を保証するにはどうするのか。まず、人文科学で使う言葉すべての辞書を作る。そして、一つ一つの言葉を結びつけている関係性を明らかに辞書に記述する。例えば、「人生」という言葉は、「人間」や「寿命」や「誕生」といった言葉とつながっている。そして、その言葉が複数の意味を持っている場合は、人文科学の論文を書く際に、どの意味なのか、その辞書で指定する。これによって、コンピュータによる論文の自動解析が可能になり、例えば、論文Aと論文Bの内容を掛けあわせて、コンピュータによって、論文Cが生成されるといったことが起きてくるはずである。これが実現すれば、人文科学は飛躍的に発展するものと思われる。影響は、人文科学だけにとどまらず、哲学や法学や経済学といった他の文系の分野にまで波及していくだろう。
ベルクソンの『創造的進化』によると、ないといういことは、あるものを他のもので置き換えるということであるということであった。例えば、コップの水がなくなるとする、すると、そこには水の代わりに空気があるわけである。だから究極的、絶対的な意味での「ない」は存在し得ない。
例を挙げて、わかりやすく考えると、右と左と真ん中という言葉がある。目の前を右と左に分けてみて、真ん中はあるだろうか。真ん中をどんどん拡大していっても、正確な意味での真ん中は存在しない。なぜなら、どの場所も、必ず、右か左に属しているからだ。それは数学上の線が、自然界に存在しないということでもある。数学上の線は、太さのない線だから。
右は左を前提としており、左は右を前提としている。上は下を前提としており、下は上を前提としている。光は闇を前提としており、闇は光を前提としている。男は女を前提としており、女は男を前提としている。言葉は、あるものを2つに分けるところから始まる。だからすべての事象は、互いに前提とし合いながら存在していることになる。
では、「ある」と「ない」ということは、すべての事象の上に立つ、前提条件ではないだろうか。いわばこの言葉の分野での形而上学(ものの見方・パラダイム)である。究極的な「ある」や究極的な「ない」は、存在するのか。「ある」と「ない」の中間は存在するのか。冒頭で、究極的な「ない」は存在しないと、わたしは述べたが、こういうことを考えること自体、言葉のトリックとの格闘でしかないように思う。例えば、仏教では、究極的、絶対的な「ない」を「空(くう)」と表現している。しかし、それ(空)は同時に究極的、絶対的な「ある」を表現しているのである。なぜなら、空は、現象を「ある」と「ない」に分けないで、直視するところに存在するからである。「空」は真ん中であり、全体である。あることはないことを前提とし、ないことはあることを前提しているのではないか。
話を広げていくと、肯定と否定の問題にもなってくる。「はい」と「いいえ」の構造である。ベルクソンによると、否定は肯定を前提として存在している。「この机は黒い」ということに対して、否定は、「この机は黒くない」ということになる。それは決して「この机は白い」ということではない。一方、肯定は、「はい(この机は黒いです)」ということであり、同語反復である。「この机が黒い」というテーゼ(命題)があるからこそ、「そうではない」というアンチテーゼ(反命題)は存在する。否定は肯定を前提としていると、ベルクソンは言っているが、わたしは、ないことがあることを前提としているというベルクソンの見解に加えて、その逆もしかりだと付け加えておきたい。否定は肯定を前提とするように、肯定は否定を前提とするのである。また、ないということはあるということを前提としていると同時に、あるということはないということを前提にしているのである。冒頭で、コップの水が空気と置き換わったことを、水がなくなったと表現したが、それは、水がなくなった状態が存在するからこそ、水が存在するという状況が存在するということである。たとえば、水があるところとないところがある。コップのガラスは水がないところである。コップのガラスの内側にしか、水は存在できない。もちろん、水がこぼれれば、コップのガラスの外側に水が存在する。その場合は、水はテーブルとの関係になっていくだろう。世界全体がすべて水なら、水は存在しなくなってしまう。宇宙の始まりは、水素だと言う説があるが、水素だけでは、それを水素と呼ぶことができない。宇宙最初の物質は水素ではない。仮に水素であったとしても、それは水素と規定できないのであるから。陽子や電子の数で考えても、それは他との比較が不可能である以上、特徴を区分することができない。
何かがあるということは、何かがないということがあって初めて存在する。闇がないから、光が存在するわけであり、光がないから闇が存在するのだ。もちろん、同時に、闇があるから、光が存在しないわけであり、光があるから闇が存在しないわけである。われわれはまぶしすぎると、何も見えなくなる。通常、闇では、われわれはものを見ることできないが、まぶしくても、ものを見ることができない。だから、究極的な光(光だけ)と、究極的な闇(闇だけ)は、結果的には、同じようなものになってしまう。絵画でも光を表現するときに、影を描き、闇を表現するときに、あわい光を描くではないか。
真ん中とはなんであろうか。わたしは、これは、物理学でいうところの観測者ではないかと思う。それは哲学における自分である。しかしここでも同じ問題が生じる。自分があるから世界があるのであり、世界があるから自分があるのである。真ん中があるから全体があるのであり、全体があるから真ん中があるのである。自分だけでは自分は存在しえず、全体だけでは、全体は存在しえない。水が自分(観測者)という存在なしには、存在し得ないように、観測者も観測者以外の存在がなければ存在できない。真ん中という線と全体という表現をしたが、点と全体という表現もできるだろう。全体とは点の集合体である。(しかし数学上の点は、大きさを持たないから、全体を構成することはできない)点は全体の一部である。全体があるから点が存在し、点があるから全体が存在する。
肯定と否定は、同じであるか、違うかということである。たとえば、「この机は黒い」ということに対して、肯定は「同じく黒い」ということであり、否定は「違って黒くない」ということである。肯定は同じであるという見解の表明である。否定は違っているという見解の表明である。
仏教の概念で、「否定否定の絶対肯定」というものがある。これは、すなわちテーゼ(命題)とアンチテーゼ(反命題)が、アウフヘーベン(止揚)して、ジンテーゼ(総合命題)になることではないだろうか。すなわち、弁証法である。悟りとは「あるわけではない。ないわけではない。あるわけでないわけでもなく、ないわけでないわけでもない」(AはBではない。AはBでないわけでもない)と般若部経典に書いてある。それは「テーゼではない。アンチテーゼでもない。テーゼでないわけでもなく、アンチテーゼでないわけでもない。すなわち、ジンテーゼである」ということではないだろうか。イギリスの薔薇(バラ)戦争で、ランカスター家(赤薔薇)と、ヨーク家(白薔薇)が戦って、王位を継承たのは、テューダー朝であるというのも、弁証法ではなかろうか。例えば、明日、晴れてくれなければ困るとする。そして、当日、雨が降ったとする。これは当初の、晴れてくれなければ困るというテーゼが、雨が降るというアンチテーゼによって否定されたわけである。その場合、かんかんになって天気に悪態をつくのは仏教の方法ではない。晴れたら、山登りに行くつもりだったが、雨が降ったので、この前、買った面白い本を家で読もうというのが、仏教的な解決である。これがわれわれの日常なのである。
道徳が存在しない国は、地球上には存在しない。道徳の上位に法律がある。法律に書いていないことは、何をやってもかまわないということがないのは、道徳が存在するからであろう。法律の上位には憲法がある。道徳は、法律や憲法の基本理念を提供すると当時に、それ自体が、行動規則となりうるものである。
道徳がなぜ必要かと言われると、ひとつには、それは価値観の共通化のためということになるのではないかと思う。かつて、『日本人に宗教意識が希薄な理由』で、宗教は、常識が通用する世界では、不要なものになると書いたが、宗教にも価値観の共通化という役割がある。宗教と道徳の違いは、形式(芸術など)にある。宗教には芸術性(形式)があるが、道徳には芸術性(形式)がない。
宗教色のある国では、道徳は宗教の一部分として機能する。道徳と宗教は対立する概念ではない。宗教に重きが置かれていない日本においては、道徳が軽視されることがある。しかし、道徳が否定されることはない。道徳がなぜ必要かといえば、やはり、そこには、「なにをやってよいか」「なにをやってはいけないか」という基本理念や行動規則が、個々人の差を超えて、共有されることが必要とされるからではないだろうか。ある人にはやっていいことが、別の人ではやってはいけないとう状況では、暮らしが成り立ちにくくなる。ある社会の構成員が、道徳を共有することで、価値観の統一化が行われ、人間関係のストレスが減少するのではないだろうか。
もし仮に道徳というものが存在しない世界を考えるならば、それは法律といった、権力と結びついた強制力が全てを取り決める世界になるだろう。例えば、多民族国家アメリカ合衆国では、法律に重きが置かれており、民族ごとの道徳は軽視されている。法律に書いていないことは何をやってもかまわない状況がアメリカ合衆国にはある。それは共通の道徳が存在し得ないアメリカ合衆国の国情を反映するものである。しかし、そのアメリカ合衆国でも道徳は否定されない。アメリカ合衆国の基本はキリスト教の理念であり、そこではキリスト教的な道徳観念が重視されている。
宗教のない所に、道徳が存在しうるかという問題では、「しうる」ということが答えになると思う。宗教意識の希薄な日本では、道徳教育なるものが行われているが、実際の道徳教育は、家庭や人間関係の中で自然に行われているものである。それは、言語化されていないものを含めて、ほとんどが体験を通じて伝授されるものである。
宗教意識がないからこそ、常識としての道徳が必要になってくる。常識としての道徳を身につけていない日本人は、日本人らしくない。そして、アメリカ合衆国では、キリスト教道徳を持たないアメリカ人はアメリ人らしくないということになる。価値観の共通化というテーマが、人間社会では、どうしても避けては通れない。そこに宗教が介在するかに関わらず、道徳というものが人間には必須のものであることは疑いようがない。
問題は、道徳を取り決めているのは、誰かということになる。多民族国家、思想信条の自由を標榜するアメリカ合衆国で、キリスト教道徳がベースになっているのは、一種、矛盾のように思われる。道徳が存在する社会を想定する場合、それは、共通の言語を有する集団という単位で考えられる。共通の言語を有する集団の指導者、および伝統が、道徳を決めることになる。そこにはなんら民主的なプロセスが存在しないこともありうるが、祖国や民族のアイデンティティとして、国民国家が存在しうる絶対条件として道徳がある。道徳というのは、民族性の基本となるものである。たとえば、日本では、愛国心教育は、白眼視されているが、それは道徳を国家が制定するという『教育勅語』に代表される第二次大戦前の日本の教育体制が否定されているからである。結果として、戦後の日本では、道徳教育は、家庭や人間関係の中で行われている。日本人の場合は、社会的な常識がベースになっているので、道徳教育が、学校の中で必ずしも必要にはならない。しかし、アメリカ合衆国のような多民族国家では、道徳教育は学校で行われることが重視される。英語という言葉を話し、思想信条がそれぞれ異なるアメリカの国土に住む人々が、学校教育を通じて、共通の価値観を育むことは、社会の秩序維持において、どうしても必要なことだろう。
道徳に国家権力が介入することの危うさは戦後の日本人が強く感じていることだが、共通の価値観の育成という意味では、国家によって道徳が管理されることも、場合によっては、必要になることを、国際人としての日本人は理解すべきであるのではないだろうか。
「個人の利益と公共の利益」とは、「エゴイズムとモラル」、「我欲と道徳」、「権利と義務」といった別の言葉で表される。これらをテーマにした哲学を生み出した先哲には、カント、ベンサム、アダム・スミス、E.H. カーなどがいる。さらに考えれば、孟子(性善説)や荀子(性悪説)も、そうだといえるだろう。しかし、彼らは二派に分かれる。個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化すると考えるものと、公共の利益のためには、一部、個人の利益を制限しなければならないと考えるものである。前者は、ベンサム(最大多数の最大幸福)、アダム・スミス(神の見えざる手)。後者は、カント、E.H. カー、孟子、荀子である。
善と悪については、拙論文『信仰と科学』で述べている。善と悪は、知性ある生物の社会の維持のために、生じた概念であり、自然界では、強いか弱いかしか存在しない。アリやハチも社会を持っているが、彼らは本能によって、生活しており、その意味で、善と悪は存在しない。(拙論文『知性と本能について』より)また、自由意志を仮定しない観点から見れば、善悪は存在しない。すべては原因と結果の連鎖であるという因果律の論説は、決定論とも言うが、その場合、すべての人間の行動は、個人の責任にならない(善人も悪人もいない)。(拙論文『正義について』より)決定論においては、善悪の観念は、個人の利益と公共の利益という観点から見直さなければならない。
公共の利益とは、すなわち善であり、公共の利益に反するものが悪である。問題は、個人の利益は、善なのか、悪なのかということに収束する。もっと言えば、公共の利益に反する個人の利益(悪)は存在するかということである。さらに言えば、自利他害(自分に利益があり、他人にとって害になること)は存在するかということである。常識から考えて、自利他害は存在する。したがって、個人の利益は悪たりえることになる。その意味で、ベンサム、アダム・スミスの、「個人の利益を最大化すれば、公共の利益も最大化する」という論説は否定される。
カントによれば、個人の格率を、公共の格率と一致させることが、実践理性による行為である。個人において、公共の利益を変化させるより、個人の利益を変化させる方が容易である。逆に、公共の利益を個人の利益と一致させるということは、不可能である。公共の利益は、その社会を構成する複数の個人の総意であるからである。しかし、個人の利益を変化させることは、個人の欲望を変化させることではない。個人の欲望を変化させることは、例えば、空腹による食欲を、知識欲と入れ替えるようなことであり、それ自体、困難である。個人の利益を、公共の利益に一致させるとは、一種の、「ごまかし」作用のように思われる。その作用を、「合理化」という言葉で表すこともできるだろう。これは、届かない所にあるブドウを、「どうせ、酸っぱいだろう」と言って、あきらめるようなことと似ている。個人の利益を公共の利益に合わせることは、個人の利益を損ないかねないこともあるだろう。(有害な「ごまかし」作用)
個人が、個人の利益を、公共の利益に合わせるのは、公共が個人の利益を保証する体制が整っていることが前提になる。例えば、兵役は、明らかに個人の利益に反するが、国家が国民個々人の生活を保証するために戦争が必要ならば、義務として個人に要求される。あくまで個人の利益を保証するために義務が課されるべきである。戦争が、国民の総意ではなく、一部の国民(例えば、特権階級)の、局所的な欲望から始まることは多い。それは、究極的には自利他害行動である。個人の利益を求める自由競争が、富の独占を生み、そこから帝国主義へと発展すると論じたのは、レーニンである。帝国主義が、植民地をめぐる戦争を必要とするのは、富の独占を行うブルジョア階級の要求であり、全国民の総意とは言えないのではないかとわたしは思う。少数派の意見が、多数派の意見として、さかんに喧伝されるデマゴーゴスを、われわれは、細心の注意でもって監視しなければならないのである。個人の利益と公共の利益の蜜月は、「みんなはひとりのために。ひとりはみんなのために」ということが前提になっているのであり、それ以外ありえない。
今、『指輪物語』(原題:The Lord of the Rings)を読んでいるのですが、フロド・バギンズという主人公に付き従うサムワイズ(通称:サム)というホビットが、シチューを作るシーンがありました。
スメアゴルが取ってきたウサギ、二羽を、水を張ったなべに入れて、塩と香りのする草を少々入れるだけで、シチューを作ります。こんなに簡単にシチューができるのかと思い、鶏の胸肉でシチューを作ってみました。レシピなしの適当料理なのに美味しかったです。水2リットルに塩を20グラム入れました。余ってしまったので、スープだけとっておくことにしました。
クラウゼヴィッツは、『戦争論』で、戦争とは、外交の一手段であると論じていた。ヒトラーは軍隊のことを人間の学校と言った。反戦教育を受けた世代であるわたしは、戦争というものに対して、自然とネガティブな姿勢をとらざるを得ない。しかし、歴史の教科書を見れば、わかる通り、歴史的事象とは、戦争のことであると言っても過言ではない。まさに人類は、戦争とともに進歩してきたとも言えるだろう。
戦争は三つの型に分けられる。一、経済的な理由による戦争。二、政治的な理由による戦争。三、宗教的な理由による戦争。
経済的な理由による戦争としては、第一次、第二次、世界大戦がある。政治的な理由による戦争では、古代ローマの領土拡張戦争がある。宗教的な理由による戦争では、十字軍がある。
第一次、第二次大戦は、植民地をめぐる戦争であり、レーニンが言うところの「資本主義の最終段階としての帝国主義」にある先進国の経済事情が原因である。特に第二次大戦は、世界恐慌後の戦争であり、公共事業としての戦争という趣もある。ドイツも、アメリカ合衆国も、戦争によって、雇用難から脱出した。
古代ローマの領土拡張戦争は、牧畜と狩猟を主にする蛮族の侵入に悩む古代ローマが、防衛のために、あらかじめ、蛮族の地域を占領し、ローマの領土にし、農耕を教えたことに起因する。ただし、ローマが、カルタゴと戦ったポエニ戦争は、経済的な理由であると言ってよいだろう。
十字軍は、民衆主導、教皇主導、都市国家主導の三タイプがある。都市国家主導(ヴェネツィア)は、経済的な原因であるが、そのほかは、宗教的な情熱によるものである。イスラム教徒から聖地エルサレムを奪い返すための戦争である。
戦争といえば、人が死ぬというのが、一般的な印象だが、人が死ぬ戦争とは、近代以降のものであり、近代以前の戦争は、怪我をして戦闘不能になることが多かった。当時は、戦争は絶対悪ではなかったはずである。死ぬ戦争になったのは、鉄砲、大砲など、重火器の発達が原因だろう。クラウゼヴィッツが『戦争論』で、この書物は、冒頭しか読む必要がないと、豪語しているのは、戦争が、兵器や戦術の変化によって、全くちがったものになることを考えてのことだろう。
戦争の道徳的な意味を考えると、「人殺し」としての悪と、「正義」としての善という意味合いが出てくる。戦争が、「人殺し」でなくなることはない。したがって、反戦論者たちは、戦争を絶対悪とみなす。しかし、国家の方針の違いにより、国と国が、それぞれの正義を振りかざして、その結果、戦争となる様子を見ていると、国家の繁栄のために、戦争は不可避であるようにも思える。なぜなら、ある国家の生存が、別の国家の死であることがあるからである。戦争は、テーゼとアンチテーゼのぶつかり合いとしての、弁証法的な意味合いを持つものとも言えるだろう。戦争がある程度の大きさになると、戦争前と戦争後では、どの国家も、国家としての有り様を変えざるを得ない。テーゼが、ジンテーゼになるためには、戦争という過程を通らざるを得ないこともあるのではないだろうか。
戦争は、人類を、進歩させるのか、退歩させるのかという、問題で、答えを出そうとすることは意味のあることだ。戦争が人類を進歩させるためにあると答えれば、嘘になるし、戦争が人類を退歩させるためにあると答えても、嘘になる。戦争は、資本主義経済において、恐慌が持つ役割に似ている。資本主義経済において、好況期に積み重なった矛盾を解消するために、恐慌があるというのは、経済学者の宇野弘蔵の説である。それぞれの国家で、異なった成長を遂げていく間に、国と国との間に、数々の矛盾が生じる。その矛盾解消が、戦争という形に結実すると考えるのは、性急に過ぎるだろうか。
人類に暴力性がなかったらどうだろうか。戦争はなかったかもしれない。戦争が、道徳的な文脈で考えて、善であることは難しい。自分以外の他者に害を与えることで、自らの命を守るということは、本来、道徳的な意味において、許されるものではないだろう。人類の暴力性は、生存のための本能としてあるとは言えないだろうか。「生存とは闘争である」とも言えるだろう。ダーウィンの進化論における自然淘汰説を考えても、「生きる」ということ自体に、「戦う」という意味があるのは、自然界に存在するあらゆる生命に共通することである。生存するために、戦争という手段に訴えるのは、決して異常なことではない。「他者のための自分」という大前提が破綻した場合、必然的にめぐってくるのが戦争である。変化による矛盾の出現というのは、ほぼ不可避であり、戦争が、最終的な解決となる。
第二次大戦後の日本で、「戦争放棄」が謳(うた)われた。しかし、それは自衛隊という準軍隊を設置するという修正を必要とした。闘争をしないでよいということは、変化しないことが前提である。変化する以上、闘争が必要となる。しかし、「人殺し」「絶対悪」としての戦争を論じる時、われわれは、いかにして戦争を避けるべきか、考える必要がある。それはとりもなおさず、相互理解を意味する。他者の否定は、理解しようとする努力の放棄である。それが一方向であっては、状況は変わらない。相互に理解しあうことで、初めて、人殺しとしての闘争である戦争は避けることができるのだとわたしは思う。
相互理解とは、相手の立場に立って、考えるものであり、どのようにしたら、相手の不満状態を改善できるかということを考えることである。お互いに、不満状況を改善できれば、闘争の必要はなくなる。経済的、政治的、宗教的な理由による戦争、いずれも、相手の立場に立って、根気強く続けることが必要であるため、早急な答えは期待できない。いずれにせよ、重要なのは、決して、戦争という手段に訴えないという基本態度である。戦争は、理由はとにかく、戦争それ自体を望む流れがあることによって、生じることが多いのは事実だと思う。
フランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596年~1650年)の有名な言葉に、次のものがある。「われおもう、ゆえにわれあり」これは彼が哲学の第一原理として置いたものである。世の中のほとんど全てのものは疑わしいと、デカルトは言った。例えば、目の前に、リンゴが一個ある。このリンゴは赤い。しかし、本当に赤いんだろうか。ハチと人間は目の構造が違う。だから、ハチがこのリンゴを見たら、リンゴは赤くない。また、色弱(色盲)の人が、このリンゴを見ても、赤いかどうかはわからない。別例を挙げれば、ある中華そばを食べて、ある人は、おいしい、と思ったが、別の人は、まずい、と思うかもしれない。したがって、全ては百人百様である。もっと言えば、リンゴが目の前にあること自体が、嘘かもしれない。例えば、逃げ水は、本来存在しない水が存在するように見えているものである。こうして考えると、一切が、存在の根本から、疑わしいと思われる。全てが疑わしいと思われると仮定する論理のことを、懐疑論という。デカルトは、真理に達する道として、方法的懐疑を主張した。真理に達するために全てを疑うというものである。そこで最後に残ったのが、この「われおもう、ゆえにわれあり」である。これは、「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」ということである。全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない、というものである。
これは絶対に否定できない真理のように見える。エマニュエル・カント(1724年~1804年)は、この「真理」を、なんとか否定しようとした。しかし、わたしから見ると、その試みは、失敗に終わっているように思われた。カントのデカルト否定論証をここで説明することは、わたしの理解不足により、できないが、わたしは、別の方向から、デカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」を否定し得たと確信した。
「わたしは考えている。その考えているわたしは存在している」を英語に直すと、"I think therefore I am."となる。ここで"think"というのは、自動詞としての役割を持っており、目的語を必要としていない。目的語というのは何か。例えば「たたく」という言葉があれば、「たたく」対象が必要である。「たたく」対象はバレーボールであったり、釘(くぎ)であったりする。目的語とは、動きの対象のことである。目的語を必要とする動詞のことを、他動詞と言う。それにひきかえ、例えば、「走る」というのは、動きの対象(目的語)を必要としない。これを自動詞と言う。いや、走るには、地面と重力と時間が必要だと言うもあるかもしれないが、「走る」は、言葉としては、目的語を必要としない。では、「考える」はどうなのかというと、考えるためには、考える対象を必要とする。英語で、"think"が自動詞としても存在するために、分かり難くなっているが、本来、考えるには対象が必要である。
先に述べた、デカルトの第一原理をもう一度、ここに出す。「全てのものが夢幻(ゆめまぼろし)であったとしても、今そのことを考えている自分はたしかに存在するはずであり、決して否定はできない」ここで、「そのこと」と言っているのは何だろうか。結論から言えば、「そのこと」とは、夢幻(本来、存在しないかもしれないもの)ということになってしまうのではないだろうか。つまり、「夢幻」(本来、存在しないかもしれないもの)について考えている自分は、確かに存在するということになってしまう。これはおかしい。
仏教に六根というものがある。これは人間の五感(耳・鼻・舌・身・眼)に意識を加えて、六つの要素としたものである。六根全てを消してしまえば、全てが消えてしまう。では、意識以外の五感を全て消してしまうとどうなるのか。当然、思考(意識)だけが残るはずである。「われおもう、ゆえにわれあり」は、この状態を指すと主張する人がいるかもしれない。しかし、それでも、思考の対象(考える対象)が必要となるのは変わりはない。この五感のない状態というのは、どういうものであろうか、とても簡単には想像しがたい。おそらく、自分自身が存在し、たしかに生きているということを、確認するのが非常に困難な状況だと思われる。何も聞こえず、何も臭わず、何も味がせず、何も感触がなく。何も見えない。この状態を想像してもらいたい。わたしたちが「自分」という意識を持ち得るのは、この五感と意識、すなわち、六根があるからにちがいない。この六根は、すべて、対象を必要とする。すなわち、聞こえる物、臭う物、味がする物、感触がする物、見える物、考えられる物である。すなわち、「自分」とは、「対象」との相互作用の結果、存在する物であり、それ自体、単体としては、存在し得ないことになる。考えるには対象が必要である。しかし、その対象は、必ず存在する物かどうか分からない。ゆえに考えている自分が存在すると仮定しても、それが真実であるという証拠はない。これでルネ・デカルトの哲学の第一原理「われおもう、ゆえにわれあり」は否定できた。
「国家とは必要悪である」という考えがあるとすれば、それは無政府主義(アナーキズム)に近い。ルソーは「自然に帰れ」と叫び、原始社会の有り様を礼賛した。スイス人であるルソーは主に、フランスを活躍の場とした。そして、イギリスのジョン・ロックは、民衆の政治参加を、社会契約の観点から促す論調を表した。一方、ホッブズは、「万人の万人に対する闘争」を説き、自然状態では、人間は殺し合う、したがって、巨大な権力機関である国家を必要とするようになると述べた。
著名人の有名な言葉がいくつか並んだが、果たして、わたしたちの考える国家とはいかようなものなのかということになると、いかにもピントがずれてしまうように思う。その原因が、「軍隊は必要悪である」という標語より、「国家とは必要悪である」という標語のほうが、非常に捉えどころのないものであることからも類推できるように思う。
国家とは何かという問いに対して、完璧に答えられた思想家はいないだろう。「わたしは国家を裏切ることが出来ない」という言葉を考えて、まず思い浮かぶのがソクラテスである。ソクラテスは、若者たちを悪い思想に導く人として、アテネの法廷に立たされ、ありのままの陳述をした後、死刑を言い渡された。彼は十分に逃走可能であったのにもかかわらず、アテネというポリス(国家)が自分に死を言い渡せば、自分は死ぬべきだという信念を貫いた。彼はポリスの人であった。では、「祖国」とは何かと考えるとどうだろうか。
「国民国家」という、さらによくわからない言葉がある。同じ言葉を話している人たちが、ある原則(根本思想)に基づいて、政府を持ち、国家を成すことが国民国家の基本である。いち早く、国民国家が興ったのは、イギリスであり、次にフランス、そしてドイツ、イタリアと続いていく。ドイツ、イタリアは、かつては、小国が乱立する連合体でしかなかった。第二次大戦後にアフリカやアジアや中米や南米で、民族自決(民族が自分たちの意向を自分で決めること)の原則を元に、各国が欧米列強から独立していった。アジアやアフリカや中米や南米などの後進地域は、第二次大戦後、そうなった。(少なくとも形上は。強国の属国として存在する国があることも否定できない。)英語を話す国は複数あるし、ドイツ語を話す国も複数ある。言葉だけで、国がまとまるかというと、そうではなく、同一言語で、国が分かれるのは、イギリスとアメリカ合衆国なら、根本にあるのは宗教問題(ピューリタンのメイフラワー号にさかのぼる。宗教的迫害のため、故国イギリスに戻れない人々が自立した政府を作った)、ドイツとオーストリアでは、ヨーロッパ各国のパワーバランスの問題に帰着する(ドイツとオーストリアが統合されると、ヨーロッパの軍事的、民族的なパワーバランスが崩れる。ヒトラーは、ドイツとオーストリアを統一し、大ドイツ主義を唱えた)。
わたしたちが、「祖国」を感じるのは、色彩であり、匂いであり、味であり、音であり、感触である。そのようなゲマインシャフト的な要素を多分に含むのが「祖国」であり、法律、軍隊、選挙、税金といった記号(言葉)、すなわち、ゲゼルシャフト的ものから同じものを見たものが「国家」である。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトについて簡単に説明すると、ゲマインシャフトは、物体的(右脳的)であり、ゲゼルシャフトは、言葉(記号)的(左脳的)である。ここで、「祖国は国家に先立つ」という言葉を、出してみる。わたしの創作である。馬鹿ばかしいと思われるかもしれないが、これは、かの有名な実存主義哲学の「実存は本質に先立つ」をもじったものである。しかし、この二つの標語をイコールで結ぶことができる、つまり、「実存は本質に先立つ=祖国は国家に先立つ」とできることは、哲学を志す者には、自明である。実存とは、物体そのものである。本質とは、記号(言葉・意味・価値)である。原始社会では、「祖国愛」はあったが、「国家に対する愛」はなかっただろう。文明化の度合いが低いからである。一方、古代ギリシャには、「国家愛」なるものがすでに存在した。文明とは、文字のごとく、文(言葉=記号)を使う社会である。話し言葉だけだった社会に、文字が出てくることで、文明は飛躍的に進歩した。先述した、国家の要素である、法律、軍隊、選挙、税金は、どれも記録を要するものであり、文字(言葉)なしには存在しえない。
われわれは肉体と精神(意識)を分けて考えることがある。それと同様に、国を、祖国と国家に分けて考えることもできるのではないだろうか。肉体とは、物体で成っており、精神は、言葉で成っている。同じく、祖国は、物体で成っており、国家は、言葉で成っている。そう考えることに、意味があるのかと思われるかもしれない。しかし、これは現実の表裏一体の二面性(表と裏)を認識するときに、正確な表現になるのではなかろうか。なぜなら、わたしたちは、認識を、感覚と言葉で行うからである。国もその例外ではない。
しかし、ユダヤ人はどうなるのだろうか。ユダヤ人は、第二次大戦後に、パレスチナにイスラエルを建国するまで、ざっと三千年ほど、国を持たなかった。国を持たなかった彼らにとっての祖国とは、かつての古代ユダヤ人たちの住んだ、パレスチナであったに違いない。そこに、色彩であり、匂いであり、味であり、音であり、感触があるとすれば、それはユダヤ文化に違いない。しかしその中心にあるのが、聖書、律法という文字であることも忘れてならない。イスラエルとは、国家があって、祖国が出来た珍しい国である。なぜなら、始祖アブラハムが、神(ヤーウェ)と契約を結ぶことから、ユダヤは始まるからである。例えば、ひづめが2つに割れていない四足獣を食べてはならないという教えは、聖書にあるものであり、結果、羊と山羊しか、ユダヤ人は、肉を食べられないのである。また、週に一回の安息日。過ぎ越しの祭り、などなど、聖書や律法に従った生活、それがユダヤ人の文化なのである。民族離散(ディアスポラ)することになっても、ユダヤ人が、民族性、ユダヤ文化を失わなかったのは、言葉によるものが大きい。ユダヤ人にとって、祖国、そして、国家とは何かと問われたら、祖国とはユダヤ文化、国家とは、祭政一致の神権政治体制であることは、誰にも疑いがいようがないことだろう。したがって、ユダヤ人は長期にわたって、国を持たなかったのではなく、正確には、国家を持たなかったと言っていいだろう。ここでもなお、「祖国は国家に先立つ」という原則を外れることはないように思うが、いかがだろうか。
宇宙の誕生はエネルギーのゆらぎが極点に至り、プラスの物質とマイナスの物質がわずかに発生し、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが徐々に近づき、均一になっていき、最終的にはプラスの物質とマイナスの物質がぶつかって大爆発(対消滅)し、わずかにプラスとマイナスのどちらか多い方に物質が残り、ビッグバンが起こるということになっているらしい。原初の物質は光に包まれていて、電子が飛び回っている状態だった。この物質が一気に増大していって、宇宙を形成していった。なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。これを人間の受精卵と比較すると、受精卵という単細胞から卵割していき、そのそれぞれに核(染色体の集合)、ゴルジ体、ミトコンドリアなどの器官が生じていく。その過程と似通っているように思われる。インド神話では宇宙のことをブラフマン、人格神として呼ぶ場合はブラフマナーという。クリシュナという最高神がブラフマナーを創造した。ブラフマナーの中で、人間や他の生物が生きているという状況である。バラモン教の奥義(ウパニシャッド哲学)で、梵我一如という一番重要な用語がある。梵とは宇宙(ブラフマナーあるいはブラフマン)であり、我とは自分(アートマン)である。一如とは、一致(一のごとし)という意味で、宇宙(ブラフマナー:マクロ)と自分(アートマン:ミクロ)が一致しているということが梵我一如である。極小(ミクロ)だった宇宙と極大(マクロ)になった宇宙は同じもののはずである。
最初の問題に戻ると、なぜ単一の物質から様々な元素が生じたのか。おそらくある一点を飛び回る電子が増えたり、減ったりして、新しい一点の周りを飛び回る。色々な元素ができ、そのうち、でき過ぎて、たがいに干渉し合い、その間に物質(例えばニュートリノ)が飛び回っているところが宇宙空間となり、宇宙空間の広さが一定を超えると、元素の種類が一定数になった。これは、例えば、サイコロを一万回ふれば1から6が出る確率は同じ(一定)になるのと似ている。マクロとミクロが一致するとはどうことかというと、一つとしてあるのは、宇宙と人体が一致するということかもしれない。宇宙をマクロコスモス、人体をミクロコスモスと言う。コスモスとは宇宙という意味がある。つまり、大宇宙と小宇宙が一致するのが梵我一如である。インド神話では大宇宙は人格神であり人体である。小宇宙も我(自分:アートマン)であり、人体である。自分には、耳、鼻、舌、身、眼、意という感覚があると仏教では説く。身とは触覚、意とは意識である。この六つ全てが消えると、ありとあらゆるもの全てが消える。ということは、自分が消えると、宇宙が消えるということになる。よって自分=宇宙であるという方程式が成立する。しかし、自分が消えても、他人が残っている。他人=宇宙でもあると考えられる。なぜなら、「他人」にとっても「他人」は自分だからである。宇宙はひとつだけ存在しているのか、複数存在しているのか、もっと正確にいえば、同じ空間上に存在する人間、動物、植物、バクテリア、ウィルスのひとつひとつがひとつの宇宙に住んでいるのか、それぞれ別の宇宙に住んでいるという問題については、主観的な意味では、別々の宇宙だが、客観的に意味では、一つの宇宙に住んでいると考えられる。客観的な法則を導きだす自然科学では一つの宇宙と考えることになる。後に述べるタイムマシンにおいては、過去に干渉した途端にパラレルワールド(別の世界)が生じる。
次に宇宙の終滅について考えてみたい。宇宙は極小の状態から拡大を続けていく。これは物質が拡散し続けていくということであり、ついに物質の濃度が薄まり過ぎて、縮まり始め、再び一点(特異点)の宇宙へと戻っていくと考えられる。極小→極大→極小→極大→極小→極大となって、宇宙は同じ歴史を何度も何度も繰り返していると思われる。ニーチェが永劫回帰(何度も同じ歴史を繰り返す)という言葉を述べたのも、示唆的(しさてき)なものを感じる。宇宙の膨張の速度は光の速度よりも遅いので、光速よりも速く移動する質量ゼロの物質タキオンは、宇宙の誕生から終滅までを何度もぐるぐると飛び回っていることになる。このタキオンを利用すれば、未来、過去への時間旅行、未来、過去への信号の送信が可能になる。いわゆる全知全能の存在になる第一歩はタイムマシンを持つことによって可能になるのである。したがって一度生まれた宇宙は誕生も終滅もないように見えるのである。再び梵我一如に戻るが、バラモン達は修行によって、この境地に達する。これは起きたまま眠ったような状態である。禅定(瞑想状態)を続けていくうちに耳、鼻、舌、身、眼、意が消えてしまうということである。人間は死ぬと土に帰る。それは意識や感覚は失うが、宇宙の一部となるのである。生きている状態と死んでいる状態は一緒(等しい)ということを梵我一如の境地に達した者は悟ることになるのである。ここで問題にしたいのが四苦である。生老病死の死を、人間は、梵我一如によって克服することができるのである。生きている時も、宇宙と自分は一体、死んでからも、宇宙と自分は一体なのである。しかし、自分とは脳を中枢とする神経系の活動である。眠ってしまっても脳を中枢とする神経系の活動はほぼ止まったような状態になるし、死ねば、これは永遠に止まる。生きても死んでも同じと言ったが、自分が消えるということは大違いであり、普通の人なら恐れをなすことである。釈尊の言葉に、一切皆苦という言葉がある。これは生きていると全てが苦しいという言葉である。梵我一如に達し、生きても死んでも同じだと悟った人は、生きている苦しみが気にならなくなるのかもしれない。自分を守ろう守ろうとするから苦しくなるが、なすがままにまかせれば、楽で自由になれるのだろう。宇宙=自分という境地は、大きな水面に、ひとつぶの水滴が落ちていき、静かに波紋を浮かべながら、静まってもとの水面に戻るようなものだろう。釈尊の説いた涅槃寂静(ニルヴァーナ:悟り)の境地も同じである。人間が生まれ、水滴として、水面に落ち、波紋を浮かべた後、消えていく(死んでいく)。悟りとは、人生、宇宙の歴史そのものとも言える。
怒りについて考えてみると、それは欲求不満のはけ口であるということが考えられる。生命の欲求はいくつあるあるだろうか。基本的な欲求は、食欲、睡眠欲、排泄欲、衛生欲、性欲、になると思う。これら5つの全てが満たされていたいという欲求不満の代償作用行動が他人に向いたら、他傷・他殺、自分に向かえば自傷、自殺、器物に向かえば、器物破損、子供たちに向かえば、児童虐待、配偶者に向かえば、ドメスティックバイオレンス(DV)である。欲求不満を代償作用なしに、つまり、怒りなしに解決しようとするものが「悟り」である。「覆水盆に返らず」ということわざがある。「悟り」とは「禅」とは、こぼれた水をふきはらって、もう一度水を汲むことである。盆に入れる水がない場合は、何のために盆に水を入れていたのか考えることである。盆に水をはって、その上に軍艦の模型を浮かべるためであったらどうであろうか。そして、その牛乳もこぼれてしまったとする。まずはお盆の構造上の問題がないかどうかしらべるべきである。穴がお盆にあるなら、穴のないお盆に替えるべきである。その構造上の問題のないお盆に牛乳をはって軍艦の模型を浮かべて思わずお盆を持った手がすべって牛乳と軍艦の模型を落として台無しにしてしまったとする。つまり、地面にこぼれた牛乳は飲めないし、軍艦の模型は回復不可能になったとする。英語で言えば"There is no telling about over spilited milk"という「こぼれた乳について語っても意味がない」というのが直訳である。
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鴨せいろと、くずきりがおすすめです。2100円くらいです。
赤い容器に入っているのは、そば湯です。つゆを薄めて飲んでください。
恋愛において男が女に示す道化、冗談ぽさには、自分の気持ちを嘘とも本当とも取れるという解釈の余地を相手に残すという効果がある。女はどちらか自分自身にとって都合のいいほうを選択すればいいのだ。恋愛においては、お互いがお互いのペースを尊重するということが最も重要であり、自分が相手のペースを無視して独走すると、必ずといっていいほど、その人は相手から嫌われる。その意味で、恋愛における実直さや率直さは、しばしば危険なものですらある。真面目で実直で正直な男よりも、不真面目で遊び人で嘘つきの男の方が、女との付き合い方が一見すると上手なように見えるのも、ここに理由がある。実直な男の思いつめたような唐突な愛の告白が失敗に終わることが多いのは、それが相手のペースを無視して、選択の余地のない自分の気持ちを相手に押し付けることになっているからで、女からは拒絶が返ってくることがほとんどである。正直な自分の気持ちを正直に真剣に相手に表現するのは、女との間に親しさが増していった最後の瞬間になって行うべきことなのである。
外見が美しいとか、話が面白いとか、お金持ちであるとか、頭がいいとか、そういったことはその人を愛するきっかけでしかない。むしろ、その人を獲得するために自分自身が身を粉にしてつくすことが、その人を長く愛する原因となっていくのだ。愛する相手のために自分がつくせばつくすほど、その人を失った時の悲しみは大きい。それは愛することによって相手がすでに自分自身の一部になってしまっているからだ。身を粉にしてつくしてきた愛する相手を失うということは、自分自身の身体と魂の一部を無理矢理もぎ取られることに等しい。大変な痛みを伴うのだ。だから、人は、外見的には、相手を愛しているようでも、本質的には、その相手を愛している自分自身を愛しているのだ。相手のことを深く愛すれば愛するほど、相手につくせばつくすほど、その相手を愛する気持ちはますます大きくなっていく。もしも、相手が自分にとって愛するに足らない存在であることがわかれば、それはそれまで相手につくしてきた自分の努力が全て無駄であったことを自分自身で認めることになる。だから、あまりに長く深く相手を愛し、相手のためにつくしてしまった人は、もう相手のことを愛さないわけにはいかないのだ。長く深く愛した後に、相手を愛さなくなるということは、それまで相手につくしてきた自分の努力が全て無駄であったことを認めることになるから。だから、生涯にわたって愛する人を手に入れようとするならば、その人を手に入れるために、できるだけ多くの試練や困難を乗り越えなさい。そうすれば、相手を愛しく思う気持ちはますます強くなり、数々の誘惑にも耐えうる強固な愛となっていくであろう。
光は物質の一エネルギー状態でもある。宇宙の構造は無の世界(=ほとんど全てが物質:光につつまれている)のなかに気泡のようにいくつかエネルギー(=闇:ほとんどが熱エネルギー)で、そのなかにまた気泡のようにいくつか宇宙(光)があるという状態である。原初の宇宙は一つの物質で飛び回る電子により、光り輝いていた。それが一気にビックバンにより拡散し、光るエネルギー状態の物質がある所とない所に分かれていく。これにより、光と闇に分かれる。光るエネルギー状態とは、光エネルギー状態(エネルギーには、ほかに化学エネルギー状態、重力エネルギー状態などがある)のことであり、光エネルギー状態とは電子が激しく飛び回っている状態である。闇とは光エネルギーを発しない物質(電子があまり飛び回らない)しかない空間である。光エネルギーが宇宙内で熱エネルギーとして拡散しており、一部分の恒星で核融合で光となり、惑星内でも一部、化学反応で光が生じたりしている。宇宙は、その内部で熱しかないエネルギーの海を再現している。
フィロソフィ(Philosophy)とは哲学と訳される。以前、「思考するために思考する」のが哲学であるという定義をしていたが、もう一度、深く考えてみたくなった。哲学には大別して、西洋哲学と東洋哲学が存在する。西洋哲学の方が、より状況が単純である。ほぼアリストテレスの哲学が基礎となっているのが西洋の哲学である。一方、東洋哲学は、仏教が基礎になっていたり、儒教、老荘思想、荀子、韓非子が基礎になっていたりする。それ以外の思想は、宗教学の扱う範囲となる。どこまでが宗教学で、どこからが哲学なのかは非常に曖昧(あいまい)な所である。はたまた比較文化論といったジャンルが扱うこともある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ヴェーバーは哲学者であるとともに宗教学者でもある。
われわれはなぜ思想を持つのか。思想とは、世界観である。この世がどのように成立しているのかを説明するものである。ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えて、カトリック教会から破門すれすれまでいったことは有名だが、そもそもそういったことまでカトリシズムは規定しているのだろうか。カトリックとは普遍的という意味がある。教皇の持つ宇宙観こそが絶対に正しいという典礼ができあがっているのだろう。ガリレオの地動説が宗教と科学の対立の端緒であったのは明らかである。科学も哲学である。科学も宇宙の見方を持っている。近代に来て、宗教の持つ役割が変わってきた。科学的な世界観に宗教は追いつかなくなった。その代わりに、宗教は個人の魂の救済といった方向にシフトしてきた。子供はよく「どうして?」という疑問を大人たちに投げかけてくるが、現代ではたいていのことが科学によって説明されてきている。科学とは実験と検証によって法則を導きだす一連の流れのことである。子供の問いに、大人は科学的な知識を援用しながら答えざるを得ない。しかし、死後の世界のことであるとか、霊魂のことであるとか、そういったことは、科学では説明することができない。宗教というものを確固として持たない日本人では、状況はもっと複雑で、死後の世界については「わからない」霊魂についても「わからない」という答えをする親が多々いると思う。ユダヤ教では死後の世界や霊魂について何も語らない。キリスト教やイスラム教では、特にイスラム教では、雄弁に死後の世界や霊魂について語る。
話が脱線してしまったが、西洋哲学と東洋哲学という二大分類において、われわれはどちらに軍配を挙げることもできない。西洋哲学はキリスト教と融合してしまったし、東洋哲学は救いを求める仏教や、道教と融合した老荘思想、荀子、韓非子は儒教の流れをくむ法治主義である。哲学は真理を探し求めるが、真理そのものとなることはない。対して宗教は真理を探し求め、真理そのものとなることがある。「あなたはなぜマンゴーの葉ばかりを数えて、マンゴーの実を食べないのですか」という問いを、インドの老僧がヨーロッパの科学者たちにぶつけたそうである。マンゴーとは真理(悟り)である。哲学は真理を傍観するのである。宗教は自らが真理となることを目標にしている。しかし、この傾向、どちらにしても哲学は宗教と融合せざるを得ないという状況をどのように説明したらよかろうか。人間は幸せになるために生きている。哲学は人間の幸福を研究するが、幸福にならなくてもいい。宗教は、人間を救済し、幸福にするものである。人間は幸福になりたいと思って生きている。その結果、哲学を究めていく過程の中で、宗教的にならざるをえないのだろう。マックス・ヴェーバーが哲学者であるとともに宗教学者であることはむしろ自然なこととも言える。
室見川のそばで、父と一緒に白魚のおどり食いをしました。
毎年のお楽しみです。おどり食いは春先だけでの期間限定です。
とり市というところの三秀という場所で食べました。
写真は窓辺からの室見川です。
今回は、三秀ランチに、白魚のおどりぐいと、コーヒーをつけました。
三秀ランチ 2,415円(税込)
※ランチ時間 平日のみ 11:30~15:00 (14:00 オーダーストップ)
※季節によって多少内容がかわることがあります。華(はな) 3,990円(税込)
月(つき) 6,090円(税込)
白魚のおどりぐい (2月中旬~4月中旬) 924円(税込)
コーヒー 231円(税サ込)営業時間 11:30~22:00
(オーダーストップ20:30)
年中無休 (正月休みあり)
TEL 092-883-0808
住所 〒819-0015
福岡県福岡市西区愛宕3丁目1-6 とり市2階
全てのことが原因と結果でつながっていることは拙論文『正義について』で述べた。このことを哲学用語では因果律と言う。因果律がある限り、人間には自由な意思がないことになる。
アメリカ合衆国は自由の国と言われる。わたしはアメリカ合衆国はキリストの王国でありたいと思っている国だと考えている。大統領の宣誓式では新旧聖書を片手に宣誓をする。北アメリカに初めて植民にやってきたのは、ピリグリムファーザーズで、メイフラワー号でやってきたことになっている。イエズス=キリストは人間を自由にするために生まれたと言われている。その教えはモーセという預言者以降のこまごまとした律法(トーラー:生活規範)をことごとく否定するものであった。アメリカには銃を持つ自由がある。ピリグリムファーザーズは、イエズス=キリストの理想を、新天地アメリカで実現しようとしたにちがいない。人間を自由にするのは愛であるとイエズス=キリストは説く。
ひるがえって自由とは何であろうか。因果律によって自由な意志が否定された今、狭い意味での自由しか語れなくなった。金や権力や名誉で、自由に人や時間を使うことができる。これも自由である。かつてアメリカ合衆国がイギリスの植民地だった頃、税金などによって自由が制限されていた。パトリック・ヘンリーという人が「我に自由を、しからずんば死を」と唱えたほどである。しかし、これらの自由はイエズス=キリストの言っている自由とはまた毛色の違ったものと言えないだろうか。
イエズス=キリストは、人間の自由をどのように考えたのだろうか。おそらくイスラエルの律法のがんじがらめの生活からの脱却と考えていたに違いない。「律法とは人のためにある」というのがイエズス=キリストの最大の論拠である。であるから、イエズス=キリストは「わたしは律法を破壊しにきたのではなく、完成しにきたのである」と述べている。心の奥底を注意深く見ていけば、「自由」というものが必ず見つかるはずである。釈尊は、こだわりを捨てることが自由への道であると説いた。イエズス=キリストは、愛によって「自由」に至ろうとしたのではなかろうか。たとえば、婦人が赤ん坊を産んだとする。赤ん坊は不快な気分になりしだい、泣き叫び、好き勝手に生きる。婦人は赤ん坊に大いに自由を束縛され、赤ん坊の支配下に入ってしまう。婦人は赤ん坊を愛している。この赤ん坊の支配下にある婦人は自分の意志で赤ん坊の世話を喜んでしている。この婦人は赤ん坊の奴隷(僕:しもべ)である。小さき者の僕(しもべ)たることで、自分自身は最大の自由を得るという、一見矛盾する論理が出てくる訳である。喜んで、僕(しもべ)たることは自由なのである。ニーチェが攻撃したのはこの奴隷道徳である。しかし、奴隷たることで人間は自由を得るのである。そこに介在するのは愛情なのである。
広い意味での自由な意志が原因と結果の関係(因果律)によって否定されてしまった今、狭い意味での自由(人間が日常生活で感じている自由)だけが残された。釈尊、イエズスともに自由を求めて、道を求めたことは同じである。人間はあらゆる束縛の中に生きている。その中で、偉大なる先史先哲たちの知恵をもとに、狭い意味での自由をせいいっぱい享受して生きていくほかはないのではないかと思う。
偽善とは他の人のためと体裁を取りつくらいがら、実際はほとんど自分のためのためにある行為を行うことである。偽悪とは、他の人に害を与える体裁を取りながら、実際は半分以上他者の利益のためにある行為を行うことである。正義とは繁栄のための一つの手段でしかないことは拙論文『正義について』で述べた。偽善と偽悪はどちらがより正義(=繁栄のための一つの手段)と言えるだろうか。偽善が利己>利他なのに対し、偽悪は利己<=利他である。偽悪をする人は悪人扱いされる。しかし、実際には他者を幸福にしているか何もしていない。しかし、偽悪をしている本人は他者から迫害を受ける。偽悪とは一体どういう状況で生まれるのか。偽悪とは本当の自分を隠すために行う者のように思う。しかし、結果的に自己犠牲に陥(おちい)る。偽悪は相手に「不快」自己に「快」もしくは「不快」を与える。悪は常に相手に「不快」自分に「快」を与える。しかし、決定的に異なっているのは、結果として相手に無害であるか、むしろ有益であることだ。偽悪を行うキャラクター(人物)として思い浮かぶのは手塚治虫のブラックジャックである。わたしは偽善よりも偽悪を好む。「他者」のために偽悪(悪のふり)になるとは、正義と言えるのだろうか。偽善の場合、偽善とばれなければ、自分も快であるし、相手も快である。偽善とばれた場合には、自分も不快、相手も不快となるだろう。偽悪の場合には、偽悪とばれなければ、自分は快もしくは不快で、相手は不快である。偽悪とばれた場合には、自分は快もしくは不快であり、相手は快となる。偽善と偽悪を特徴づけると以上のようになっている。いずれも本当の自分の心を隠しながら行うもので、その本当の自分の心を知られた場合と知られない場合で相手の気持ちに変化が起きる。偽悪を行うのは、自分自身の優しさ(弱さ)につけこんで、不快を与えてくる相手に対する威圧の場合と相手に良いことをするときの恥じらい(照れ)を隠すために行う。
偽善と偽悪を考える前に「善」と「悪」を考えよう。「善」とは事実そのままを他者に伝えても自分に問題が起きないことであると定義する。「悪」とは事実を変形させたり、隠したりすることでしか、自分が害を受けずに他者に伝えられないことである。偽善は本心を隠している時点では善か悪かわからない。しかし、その本心が明るみに出た場合に相手から自分に被害を受けるのでやはり悪である。偽悪は本心を隠す時点で善か悪かわからない。しかし、本心が明るみに出た場合に、自分に相手から快を得られる、もしくは通常以上の快を得られる可能性がある。であるから偽善は悪、偽悪は善であることが論証された。偽悪がもっともよく使われるのは恋愛ではないだろうか。通常の善行為は相手への恋心を相手にストレートに伝えることで相手から拒絶される可能性がある。偽悪の場合には、自分の相手への恋心が、その悪っぽさの度合いをしだいにおとしていくことで明らかになり、相手がゆっくりと自分のことを知って好きになる。しかも先に述べた善行為よりもまさる快感を相手に与えることになる。
偽善はほとんど自分のためにある行為を行うことであり、その人の属する集団全体あるいは人類全体に繁栄をもたらすものではないので、正義になり得ない。一方、偽悪は本当の自分を隠すことで自分だけではなくそのひとの属する集団あるいは人類全体に繁栄をもたらすことはないが、相手(集団を含む)への善意を隠して、いつかわかってもらえることを希望していたり、結果として自分は嫌われたが、相手は繁栄を得ている場合がある。よって偽悪は正義となりうると言える。
フランス菓子 16区
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2Fの喫茶コーナーによく行っています。3個はぺろりと食べてしまいます。アイスティーこみで1600円くらいです。生クリームがとても美味しくて、ショートケーキがおすすめです。
救いには二種類あると思います。現世での救いと、来世での救いです。わたしは救いは愛にあると思います。愛とは小なる神であり、大なる神でもあります。愛とは愛着とは異なります。親が子を愛する無条件の愛情です。弱き物への慈悲と言った方がいいかもしれません。来世とは何かという問いに対して、わたしは何も言うことができません。来世があるという保証はないからです。天国、地獄、極楽、地獄、はたまた煉獄(れんごく)といった我々の想像力は事実無根であります。死後の世界があってほしい、そして、それができるだけ安楽な物であってほしいというのは万人の願いです。来世のために善行を積むのでは、単なる偽善に堕(だ)してしまいます。われわれはいかにして生きるべきか、その答えが愛にあると思います。それは現世的な救いでもあります。現世的な救いの中に来世的な救いが含まれていると考えてはどうでしょうか。夫が妻を愛し、妻が夫を愛するのも、また愛です。それは性欲エロースとは異なります。純粋な愛とは、溢れ出る物であり、わざわざ善行をなそうとして出す物ではありません。
純粋な愛こそ、イエズス=キリストの望む物であり、最も価値の高い物です。自然と出てくる慈愛、これこそが愛です。マザーテレサがインドの路上で行った行為は、「貧しい者の中で最も貧しい者に仕えなさい」という神の声を聞いてから始めたそうです。カルカッタの貧者は、とても自然と出る慈愛の対象足り得ません。しかしながら、マザー・テレサにとっては、慈愛の対象であり、この世での使命そのものであり、救いだったのです。カルカッタで死に行く貧者にマザー・テレサは逆に救われていたのです。人を救うことで、逆に人から救われる。このメカニズムは、人を好きになるときのメカニズムと似通っています。誰かを好きになるのは、誰かを好きになっている自分を好きになっているのです。結局は自己愛なのです。ですから、マザー・テレサは、汚れ、傷ついたカルカッタの貧者を、洗い清め、その過程の中で、自らが洗い清められていたのです。それは自己愛なのです。それは、「力を尽くし、精神を尽くし、あなたの主なる神を愛しなさい」とともに、イエズス=キリストが力説した最も大事な掟である「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ということとつながっていくわけです。
われわれは皆、マザー・テレサの行ったような愛の行いをすることは難しいかもしれません。しかし、妻を、夫を、そして、子供を愛するその愛も、純粋な愛なのです。そのなかに多少の愛着があるのはしょうがありません。愛着を飛び抜け、慈悲の心で接したとき、通常とは異なる救いへと至る愛が得られるのです。それはピエタのような愛です。
仏教では、一切衆生氏悉有仏性(いっさいしゅじょうしつゆぶっしょう)ということばがあります。これは万物全てに仏が宿っているという意味です。アインシュタインの理論では、一切は、物質、エネルギー、無、でしかないということを述べています。仏とは、この物質、エネルギー、無、全てではないでしょうか。
かつて道元禅師が、一切衆生氏悉有仏性なのに、なぜ人間は最初から悟った存在(覚者)ではないのかと一生の疑問に思ったことがあると言います。全ての物が仏である。しかし、自分自身の姿を見ることができる人はいるでしょうか。今でこそ、等身大の鏡がありますが、自分自身を見るということは大変困難なことでした。物理的に自分自身を見ることだけでなく、心理的に自分自身を見るということ、これが、覚者という存在なのです。ひたすら、自分自身を磨き続けなければなりません。仏とは全てであるが、仏とは自分自身でもあります。大きな仏様:宇宙と、小さな仏様:自分、これが一致するということを悟ることも一つの悟りなのです。インド哲学で言う梵我一如(ぼんがいちにょ)です。
全て(物質・エネルギー・無)が仏である。そう仮定して、一体なんの意味があるのでしょうか。本来人間は、覚者足れる存在であるということ、自分自身と路傍(みちばた)の石が同じであると悟ること、これには、全てが仏であるという仮定の上にしかありえないことです。この仮定の上に、仏教の壮大な哲学大系が築かれているのです。
わたしはよりよく学ぶことに最も時間を割いてきたが、長期的な習慣に焦点を当ててみたいと思う。年月を良い習慣を作るために費やせば、それは残りの人生に役に立つであろう。習慣を破ってしまっても、新たに習慣を作るより、昔の習慣を再建するほうが容易である。
しかしながら、しばしば、それほど悠長には構えられないこともある。より多く、より早く学ぶことが必要な試験や締め切りがあるだろう。
この記事では、中国語会話を習いながら、「MITチャレンジ」のざっと四倍のペースと格闘していた時、それから現在も、両方でわたしが利用している戦略をお教えしたいと思う。この戦略を強力なものにしているのは、大半の人たちがきつい締め切りと格闘しているやり方と、それから、結局は締め切りを延ばさざるをえなくなったり、燃え尽きてしまったりする理由とは、正反対のものであるということだ。
立ちはだかる締め切りに対しての学生のアプローチとして典型的なものは、このようなものである。すなわち、すべての時間を図書館で過ごしたり、友達付き合いや娯楽をすべて断ち、時間の浪費や気晴らしをとることのないように自分自身を締め上げるというものである。
これは一生懸命に過ごす時間の使い方であるから、一般的なパターンである。気晴らしをしてから始め、一生懸命に働いて、より多くの時間を勉強に使うように、強制をするのである。こうすることによって、しきりに気晴らしをしたくなったり、一人の時まで時間を浪費しているかのように罪悪感を持つことになることが多くなる。この状態は、最大の能率の時と比較して非常に低いレベルで作業が行われたり、燃え尽きたり、ギブアップしてまうまで、一般的に続く。
こういう学生が理解しにくいのは、より少ない時間で、より多く学べるということである。(また、さらに正確に言えば、準仕事のピントのずれボケ具合、実際にはほんの少ししか勉強できていなということが起こっているため、罪悪感を感じて勉強する時間が少なくなっているということである。
このやりかたのキーポイントは単純である。時間の使い方に制約を設け、時間の使い方をより高品質なものとすることである。
これは、わたしがくわしく説明しようとしている、三段階である。
最初の間違いは、ぶっ続けで勉強できると信じていることである。これは危険な誘惑であるとともに、試験や締め切りがより高くそびえ立つほど、より罠にかかりやすくなるということが言える。
わたしは、勉強時間のうちの幾らかの時間かがのんびりしたものになるように言っている訳ではない。一生懸命、勉強したいなら、一生懸命、頑張る必要がある。そういうことではなく、競争で走っていることを考えれば、早すぎれば息切れしてしまうような維持するには難しい過酷な速度があるということだ。二つに分けるのがうまいやり方である。
二つに分けるのに最も簡単な方法は、十分な休息時間をもたらすように具体的な時間を設定することである。わたしは、個人的に一週間のうち五日、午前8時から、午後6時まで、さらに半日を足して(当然、休憩を入れて)いるのが、一度に、数週間続けるよりも最大限に時間を活用できると思われる。わたしは、これを「MITチャレンジ」を通して使ったが、今は、中国語を学習するのに使っている。
このスケジュールの特徴は毎晩が週末丸一日と同じくらい自由であるということだ。(もう半分はそうではない)これはすなわち、友達に会ったり、運動したり、楽しみに何かをやったりすることが、犠牲にされる必要がないということである。
今、現在、一生懸命、勉強していて、燃え尽きた感じがあり、戦略を変えようと試みているなら、変更する仕事量は、それよりも少なくさえある必要がある。わたしは、このスケジュールをバックアップするのに数日か一週間かけて、半分くらいしかできないだろう。走っている時に、息切れがしたなら、持続可能な速度に戻る前に、より遅い速度に戻る必要がある。
わたしは具体的な時間を設定するのが不可欠だと、長年、例を出して説明してきた。しかしながら、精神的な仕事と、肉体的な仕事は、根本的に違うので、連続して類推しても失敗する。競争していて速く走りすぎていると感じ始めたら、速度を遅くしないといけない。また、メンタルな競争をしていて、押され気味だと感じたら、集中を解いて、身体が休まるようにしないといけない。
集中力が阻害されたら、たくさんの努力をしていても、学習スピードは著しく減退する。これは、ずっと少ない時間しか学習していないのに、具体的なスケジュールにはまり込んだ人と同じ努力を払うことになるということである。
この問題と闘う次の段階は、仕事を、受動的なものから能動的なものに切り替えるということである。これは、燃え尽き型のスケジュールから、修正したスケジュールに移行する場合に、強い味方になってくれるので、最初の数日は、最小限の時間しか設定する必要がないくらいである。しかしながら、能動的な仕事の恩恵は、より高い効率の勉強の管理を実現するということである。
能動性というのは、範囲の問題であって、受動的あるいは、能動的とラベルのついた二つの勉強の種類ではない。むしろ、いくつかの仕事は、他の仕事より、一層、高い集中と効率を示すものである。
自己テストは能動的な仕事。読み直しは受動的な仕事。「フェインマン・テクニック」は能動的な仕事。「スキミング」は受動的な仕事。おおざっぱなやり方は、自分が間違っていると分かる可能性がある日課をこなしても意味がなく、それは能動的な仕事とは言えない。わたしは限定されたリストの例外を設けようと思うが、それは小さなものである。そのリストについて言えば、記憶を助ける語呂合わせ技術には、なんの反応もないし、精神的な負担の多き万もので、かなり効率的であるということである。
このステップは明確だ。気が散るものがある環境で働いていたら、気が散ってしまう。わたしは、会話のない中国語の勉強を、インターネット環境のない場所で行った。仕事の一部として、インターネットを使うなら、仕事に関係のないサイトを選択的にブロックする「SelfControl」といったアプリケーションを使うのがいいだろう。インターネットがまったくないのであれば、なおいいだろう。
携帯電話をマナーモードにするか、勉強中に、携帯電話を持ってすらいないようにするのがいいだろう。友人がいないところに行くのもいい。(中国語を勉強する場所を選ぶと、ランダムな中国語の会話を時々、容易にすることができたが、それはこのルールを証明する例外である)
気が散るようにしたくないのでああっても、休憩を取ることを恐れなくていい。理想的なのは、休憩が退屈(しかしリラックスできるもの)で、勉強をやめるように誘惑するものではないものでない環境を作り出すことである。先ほどの基準に則った休憩の仕方を選ぶことは、丸一日、集中力を持続させることに役に立つ。
「MITチャレンジ」の間、わたしは短い散歩や、十五分から二十分、静かにただ座ることをしばしばやっていた。これらは良い休憩であった。というのも、これらの休憩は、意識に休息をもたらし、元の仕事に戻るのに、意思の力を必要としないほど退屈であったからだ。インターネットサーフィン、友人とのチャット、携帯電話のゲームをすることは、良い休憩ではない。
休憩の頻度は、やっている活動の種類によって大いに違ってくる。わたしは「MITチャレンジ」をやっている間は、休憩をたびたび行った。というのは、難しい数学の問題や、大量に本を読む宿題によって、一時間以上、集中を持続させることが困難だったからだ。言語習得については、ほとんど長い休憩をしなかった。文法の問題や語彙を学習することは精神的に負担が大きくなかったからだ。
これらの教訓を深く理解しているにもかかわらず、それでもわたしは、最近、働きすぎてみたいという誘惑に屈してしまった。わたしはほとんど常時、その言語に触れ合うようにする母国語禁止の言語習得の環境を作り上げた。それはスペイン語の時には役に立った。単純にコミュニケーションをすることに比較して、勉強時間自体はむしろ最小限であった。しかし、これを中国語に適用しようとすると失敗した。
わたしの問題は、母国語である英語なしのルールにあるのではなくて、むしろ、精神的に負担の大きい多くの活動で一日を埋めようとしたことだった。わたしは、音楽の代わりに「ChinesePod」を常時、聴き、中国語のテレビやメディアだけを見て、毎週休息を取らないで、毎日、勉強するようにした。わたしは、壁にぶつかろうとしたことに気付くまで、数日以内に中国語のプレゼンテーションが立ちはだかり、無理がたたって、燃え尽きようとしていた。わたしは犯した間違いのために、数日間、良質な勉強時間を失ったし、おそらく、勉強の効率は低いものであっただろう。
誤りを犯してから、また、その罠にはまったことに気付いてから、上述したルールにのっとった勉強のスケジュールを新たに設計しなおし、数日以内にゆっくりと適用していった。そして今、わたしは、疲れ果てることなく、少なくとも以前と同じくらいの勉強量を取り戻して、再び軌道に乗ることができた。
時として、われわれはそれと気付かずに燃え尽き型のスケジュールにおちいってしまう。こうなってしまうのは、ゴールに対して十分に進展が見られない時(あるいは、先延ばしになっている場合)に、もっと働くべきだと感じた時である。こういう場合、集中できない理由が、怠けているわけではなくて、時間に制約を設けていない兆候にあることに気付くのは、非常に難しい。
以上は、
原文:「The Three-Step Strategy to Study Hard Without Burning Out」
http://www.scotthyoung.com/blog/2014/04/01/study-hard-no-burnout/
からの翻訳です。
仏教においては「空」「無」という概念が非常に重要視されている。般若心経では、「色即是空」「空即是色」という言葉が出てくる。これは形ある物はことごとく空であり、空である物はことごとく形ある物であるという意味である。この世にあるものはすべて崩れ去っていく物である。では、いっさい崩れない物とは、「空」そして「無」である。これこそが真理であると考えたのではないでしょうか。空論を始めたのはナーガルジュナ(龍樹)といわれています。真の仏教者は失うことを恐れません。最終的に人間は「空」に戻るからです。もちろん死によって。しかし、存在しない物に真理を求めること自体が西洋哲学的には絶対矛盾として立ちはだかるかもしれません。その問題に対して釈尊はどのように説くでしょうか。ここに縁という概念が登場します。人と人はそれぞれ関係しながら存在しています。その中で人一人が死んだとします。しかし、死んだとしても、その人との関係性は形は変えつつも残っているのです。この関係性のことを縁といいます。ばらばらに存在している物がそれぞれ何らかの形で関係し合いながら成り立っている。これこそが縁なのです。縁とはネットワークのことです。縁は存在します。しかし縁も存在しないとも言えるのです。形がないからです。色即是空、空即是色とも言えない。
この「空」そして「縁」という概念によって仏教を説明しようという試みはある程度の意味があると思います。全てが空である。縁だけが存在する。このような世界観を仏教的世界観と言います。仏教の説く幸福とは何でしょうか。これは、自在であるということ、人格の完成、知恵の完成です。悟りに達したら、仏教修行者は何もかもが自分の思い通りになってしまうことを経験します。これは全知全能とは異なります。知恵を使うことで、自分がやり行うべきことを次々に達成していく。やり方はいくつでもあっても、結果はひとつである、そういう状況でも、確実に落ち着いて、よりよい方法を使って、自分の目標を達成していく。これが覚者、阿羅漢(あらかん)と呼ばれる人たちです。彼らは世界が空であり、縁のみが存在していることを理解しています。
われわれは、どのように世界を見るのか、世界の見方、におおいに関心をいだいているはずです。相対性理論もそのひとつです。ニュートン物理学もそのひとつです。これまで述べてきた仏教的世界観は、西洋にはないものでした。西洋人にとっては仏教的世界観は驚愕に値する物でした。それは唯物論になってからも変わりませんでした。西洋では、キリスト教神学を中心として、アリストテレスの哲学大系から抜け出せませんでした。われわれ日本人はこれだけ仏教に親しんでいいながら、仏教的世界観には無関心でした。わたしはこれはとてももったいないことだと思いました。
第一条 商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり第二条 お客様をじろじろ見るべからず。うるさく付きまとうべからず
第三条 店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何(いかん)
第四条 棚立上手は商売下手。小さい店でゴタゴタしている方がかえってよい
第五条 取引先は皆親類にせよ。これに同情をもってもらうか否か店の興廃のわかるところ。
第六条 売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客をつくる。
第七条 お客様の小言は神の声と思って何事も喜んで受け入れよ。
第八条 資金の少なさを憂うなかれ。信用の足らずを憂うべし。
第九条 仕入れは簡単にせよ。安心して出来る簡単な仕入れは繁昌のもとと知るべし。
第十条 百円のお客様より一円のお客様が店を繁昌させるものと知るべし。
第十一条 無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ
第十二条 資金の回転を多くせよ。百円の資本も十回まわせば千円となる。
第十三条 品物の取替や返品に来られた場合は、売った時よりもより一層気持ちよく接せよ。
第十四条 お客の前で店員小僧を叱るくらいお客を追い払う手段はない。
第十五条 良き品を売ることは善なり。良き品を広告して多く売ることはさらに善なり。
第十六条 自分の行う販売がなければ社会は運転しないという自信をもて。そしてそれだけに大いなる責任を感ぜよ。
第十七条 仕入先に親切にせよ。そして正当な要求は遠慮なく言え。
第十八条 紙一枚でも景品はお客様を喜ばせるものだ。付けてあげるもののない時は笑顔を景品にせよ。
第十九条 店のために働くことが同時に店員のためになるよう、待遇その他適当の方法を講ずべし。
第二十条 たえず美しい陳列でお客の足を集めることも一案。
第二十一条 紙一枚でも無駄にすることは、それだけ商品の値段を高くする。
第二十二条 品切れは店の不注意。お詫びしてのち『早速取り寄せてお届けします』とお客様の住所を伺うべきである。
第二十三条 正札を守れ!値引きはかえって気持ちを悪くするのが落ちだ。
第二十四条 子供は福の神―子連れのお客、子供の使いに来ての買い物には特に注意せよ。
第二十五条 常に考えよ、今日の損益を。今日の損益を明らかにしないで寝につかぬ習慣にせよ。
第二十六条 『あの店の品だから』と信用し、誇りにされるようになれ。
第二十七条 御用聞きは何か一、二の品物なり、商品の広告ビラなり持って歩け。
第二十八条 店先をにぎやかにせよ。元気よく立ち働け。活気ある店に客集まる。
第二十九条 毎日の新聞の広告はひと通り目を通しておけ。注文されてしらぬようでは商人の恥と知るべし。
第三十条 商人には好況不況はない。いずれにしても儲けねばならぬ。
理系、文系というおおざっぱな学問の分類ができるとすれば、発表された論文の確からしさ(正しさ)を証明するのは、理系の方がより、簡単であると考えるが、どうであろうか。理系の学問は数学を基礎としてその上に化学や物理学や生物学が築かれている。数学は記号の整合性を示す学問とも言えるので、何もかもが合理的な説明とならざるを得ない。化学や物理学であろうと、微分や積分に代表されるように近似的になることはあるにしても数学の合理性をほぼそのまま受け継いでいるといってよい。では、文系の学問、特に哲学はどうであろうか。哲学は学問の始まりではあるが、そこから自然科学や社会学や文学などができていき、最後に残った領域が現代における哲学であるが、その哲学を中心として、文系の学問は数式化されないことが多い。数字と文字の違いは、数字が単一の意味しか持たないのに比べて、文字が複数の意味を持つことである。であるから、数式化された表現を文字によって示すことも可能であろう。文系の学問のほうが理系の学問よりも、確からしさの点で劣っていると思われるのは、論文著述者の文字に対する意味づけと読者の文字に対する意味付けのずれが生じている可能性が高い。であるから、いちがいに確からしさの点で、確実に理系論文が文系論文を上回るとも言えないと言える。
「わたしは老人で、たくさんのトラブルを経験してきたが、そのうちの大半は決して起こることがなかった」- マーク・トゥエイン
心配とは何でしょうか?心配は非常に強い不安の感情です。心配は、未知のものに対する恐れ、最悪のことが起こるという思考のことです。
わたしたちは将来のことについて関わろうとしすぎることがあります。あらゆる最悪のシナリオを考えて繰り返しネガティブな自問自答をすることに心を奪われるということがわたしたちにはあるのです。たいていの思考は次のように始まります。
「もしもあのとき、
家にいていたら」
こう言っていれば」
反対の決定をしていれば」
もしくは、
「もしも、
交通事故にあったらどうしようか」
首になったらどうしようか」
うちのティーンエージャーが妊娠したらどうしようか」
病気になったらどうしようか」
心配は思考の習慣的な行動です。あなたのご両親が慢性的な心配性であれば、あなたもその可能性がありますし、あなたの子供にも受け継がせることになると思われます。心配が習慣的な行動だとすれば、心配を克服する能力もまたあなたにはあるのです。心配をよりポジティブな習慣に置き換えるのです。
心配についての研究の結果、次のような統計が明らかになっています。
40%は決して起こらない心配である。(つまり心配でわたしたちは時間の浪費をしているのです)
30%の心配はすでに起こってしまったことである。「なりゆきにまかせる」ということを学び、自分と他人を許しましょう。誰も過去は変えられません。あるがままを受け入れ、前に進みましょう。
12%は不必要な心配である。(他人がわたしたちについて考えているような心配)
10%は小さくて重要でない心配である。(夕食を何にしようか、遅刻するんじゃないか、何を着ようか、といった心配)
8%は実際に起こってしまう心配である。このパーセンテージのうち...
4%の心配は起こってしまうがもはや自分ではどうしようもないことである。わたしたちは結果を変えることはできません。こういった心配は、自分の健康や、愛する人の死や、差し迫った自然災害といったものを含みます。多くの場合、これらの出来事は心配する以上に耐えることが可能なことです。
4%の心配はそのうちの全てではないがいくつかは結果をコントロールすることができることである。基本的に、これがわたしたちが直面する問題や課題について行動することもしくは行動しないことで結果が変わってくるものだとわたしは考えます。
これらの統計を見てくれば、次のような問いを投げかけることには価値があると思うでしょう。
わたしはこれらの質問に答えることができません。わたしができるのは、心配を克服するためのテクニックを提案することだけです。心配をする習慣をやめる決心をするかどうかはあなたしだいです。
「毎日少しずつ心配をしていたら、人生の中で数年間を失ってしまうことになる。もし何かが間違っていたら、できる限り直しなさい。しかし、心配しないように訓練しなさい。心配しても決して何も直せない。」- メアリー・ヘミングウェイ
1.最悪の事態に備え、最善を期待しましょう。これはデール・カーネギーが『心配するのをやめて生活を始める方法』でまさにアドバイスしていたことです。最悪の結果を受け入れて最悪の状況を改善する行動をとりましょう。
2.忙しくなりましょう。自分が心配を始めていると気づいたら、to-doリスト(やることリスト)にしたがって忙しくなるようにしましょう。リストを持っていなければ、書きましょう。ゴールと、そのゴールに到達するための行動のステップをリストアップするのです。重要なことを忘れてしまうのではないかという心配を止めることができるのがto-doリストの利点です。
3.自分の注意をそらしましょう。友達に電話しましょう。いい本を読みましょう。愉快な映画を見ましょう。子供を公園に連れて行きましょう。散歩に行きましょう。やれることはたくさんあります。
4.サポートを受けましょう。友達や家族は素晴らしいサポートの源泉です。彼らが事態をどのように見ているのかをあなたに教えてくれることは特に価値があります。ときには、話すだけでも心配が消えることになったりします。
5.決定を下しましょう。もしも個人的な問題やビジネス上の問題で心配しているのであれば、そのときが決定を下すときです。いったん何をするのかを決めたら、あなたは可能な限り最善の結果に向けてとるべきステップを踏むことができるようになります。
6.問題に真正面から取り組みましょう。通常その問題はあなたの心配の原因になっている問題ではありません。通常それは問題の予知です。どうやって他の人が影響を受けたり、対処したりするでしょうか。できるだけ早く問題に取りかかりましょう。
7.リラックスする練習をしましょう。完全にリラックスする時間を取ることは重要です。目をつぶって、鼻と口から深呼吸をしましょう。呼吸するたびに自分にリラックスするように言い聞かせましょう。こうして不安が体から抜けていくのに数分しかかかりません。
8.CDを聴きましょう。あなたのお気に入りのCDでもいいですし、脳波のCD(brainwave CD)、行動モディフィケーション(修正)テープ、といったような心配や不安を消滅させるように作られたものを聞くのがいいでしょう。(これらは自己催眠やサブリミナル効果のあるものである必要はありません。もちろんそういうものを選んでもらってもかまいません。)
9.日記を書きましょう。心配していることを日記の中に全て書き出してしまうと、たいていのひとは安心感を感じます。書くことで自分が本当は何を恐れていているのかを発見し、状況を改善するために客観的に動くことができるようになります。
10.体を大事にしましょう。休息をたっぷり取りましょう。健康的な食事を食べ、運動をしましょう。体と心に栄養をつけると、物事を見通すのが楽になります。また予期しないことに立ち向かうのが容易になります。
11.あなたが恵まれていることを確認しましょう。感謝できることがたくさんあるはずです。身の回りを見てください。美しい世界に住んでいます。健康や家族や心や国や家や仕事やテレビ、電子レンジにさえ感謝できます。
12.思考を監視しましょう。思考を意識して心配をポジティブな考えに置き換えるように準備しましょう。「落ち着きは力のゆりかごである」(ジョシア・ギルバート・ホーランド)といったポジティブな思考や引用句で準備をするのです。
心配をするのをやめるテクニックはたくさんあります。重要なことは、心配に代わる新しい行動が習慣化するまで、それらのテクニックをコンスタントに使い続けることです。
シンディー・ハルブルックは人生の障害物を乗り越えることに焦点を当てたブログを持っています。彼女は自分の15年以上のソーシャルサービスとみずからの体験から語っています。CindySense.comを訪れたときは無料のe-book「幸福へのガイド」をご覧になってください。
オリジナルはPickTheBrain(:自己改善とモチベーションに捧げるブログ)に投稿されました。
以上は、
原文:「12 Techniques to Stop Worrying」Cindy Holbrook
からの翻訳です。
「自分とは何か?」という哲学的な命題に対して、わたしなりに一応の結論が出ている。脳を中枢とする神経系の活動が自分である。かつて哲学者デカルトは「考えるゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という哲学の第一原理を打ち出したが、この思考に似かよっている。ある人が自分の着ている服を触ったとすると、「触られた」という感覚を感じる。これは服が肉体と近い距離にあるため、皮膚感覚が刺激を受けたからである。わたしなりに考えれば、この「服」も自分の一部ということになる。それは髪の毛のや爪(つめ)が自分の一部ということになる。それは髪の毛や爪が自分であるということの応用である。髪や爪を切っても痛くないのは神経系が通っていないからである。しかし、毛根や皮膚についているので、切られているという感覚はある。試(こころ)みに一度切った髪の毛をセロハンテープで残った髪とくっつけると再び触ると触られている感覚が生じる。爪や毛は服と同じようなものだと言える。人間の五感「触覚」「視覚」「嗅覚」「聴覚」というものを感じるのが自分である。これが自分と他者を分ける基本である。「自分とは何か」という問いに対するもう一つの答えは、「自分とは世界(宇宙)である」という答えである。先ほど述べた五感全部を消すと、全てが消えて自分の思考だけが残る。インドのウパニシャッド哲学で梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地がある。自分(アートマン:我)と、世界(ブラフマン:宇宙)が、一つであると感じることである。自分をミクロコスモス:小宇宙、世界(宇宙)をマクロコスモス:大宇宙と考える。このミクロコスモスとマクロコスモスの一致が梵我一如である。また、仏教でいう涅槃寂静(ねはんじゃくじょう:ニルバーナ)である。自分が消えると世界(宇宙)が消えてしまうからである。ゆえに「自分は世界(宇宙)」なのである。
とても順調に進んでいた人生が、あるとき、「バンッ」、何らかの理由でスランプに落ち込んでしまいます。エネルギーの低下、やる気のなさ、注意散漫、さらには憂鬱といったものがそのサインです。しかし、最もわからないのが、どうしたらスランプから脱出できるのかということです。
当然のことながら、スランプと渡りあっていき、だんだんとスランプがすり減っていくのを希望して待つというのもひとつの選択肢です。しかし、もっとよい選択肢は、あなたの気分を盛り立たせ、調子が戻るような作戦を実行することです。わたし自身がスランプを知りすぎるほど知りすぎているので、やる気を妨げているものに最も効果的なわたしが個人的に見つけた5つの作戦をご紹介しましょう。
わたしは毎日の日課を楽しんでいますが、精神の安定を保つために日課を窓の外に追い払ってしまう必要にしばしばかられます。例えば、通常通り午前5時に起きる代わりに、目覚ましをオフにして、ゆっくりと目を覚ましたりします。また、iPodを家に置いていって、仕事に出かけたり帰ったりするときの毎日の生活で触れる音を楽しんだりします。時には、良いと思われることとは正反対のことを行ったりしていることもあります。酔っぱらったり、脂っこいファーストフードを食べたり、無意識的にテレビを眺めながらソファに横になるといったことです。これらのことは心理的に有益なことなのです。
運動はスランプから脱出するためのすばらしい方法です。運動によって脳の様々な化学物質が刺激されて、幸せな気分になったり、リラックスした気分になったりします。そして、運動によって健康的な外観になり、よい気持ちになることによって、あなたの自信が増し、自己認識が改善されるのです。
誰かに何か良いことをすることは、するほうとされるほうの両者にとって益のあることだということにいつも気づきます。その人の手助けをすることを別に考えても、助けた自分自身がよい気持ちになれるからです。良いことをするのは、あなたのパートナーでもいいし、友達でもいいし、家族の一人でもいいわけです。もしくは、ボラティアやチャリティに参加してもいいでしょう。個人的にわたしが気づいたことなのですが、恵まれない人たちを助けるボランティア活動は、人生に対する観点を取り戻し、いろんなことがそう悪くはないなと気づくには、とても良い方法だと思います。
精神的な雑事は溝にはまってしまう大きな原因です。物事を後退させ続けるそれらの雑事、たとえば、税金の支払い、メールの返事、車の整備、といったことによって、時間が経つにつれ、あなたは意識的、無意識的にストレスを受けることになるのです。意識を解放するためにこれらの全ての仕事を片付けてしまうことはかならずしも必要ないのです。大事なのは、それらのことを、書き出すことによって、頭から追い出してしまって、それらのことがやり遂げなければならないのか先延ばしにしてもいいのかを見極めることです。
スランプが特定のプロジェクトや作業に関係したストレスによってもたらされるということがあります。それがあなたの思考をハイジャックし、それ以外のことを考えるのは不可能なように見せかけてしまうのです。そんな事態になった場合、わたしはその作業やプロジェクトを数時間あるいは場合によっては数日間、一旦わきにおいてしまって、全く違ったことをします。一日中、ひとつのことと格闘し続ける代わりに、1、2時間、違うことをすることで生き生きした考え方で戻って来れるというのは実に驚くべきことです。
ほかにスランプから脱出するティップスがありますか?下のコメント欄で教えてください。
ピーターは「Pick The Brain」の編集者で、「The Chage Blog」の創設者です。この記事を楽しんでいただけたなら、「Mind Over Mattress:何が何でも寝たい思うときに早起きする方法」(英語)もお好きなはずです。
以上は、
原文:「5 Ways to Pull Yourself Out of a Slump」Peter Clemens
からの翻訳です。
ここでは男性と女性について、精神と肉体を統合した形で論及しようと思う。第一に男性は理性的、女性は直感的という定義があるが、これは本当であろうか。女性の著名な哲学者はほぼ皆無である。脳の物理的構造から比較すると、左脳と右脳を連結している脳梁(のうりょう)が女性の方が太いそうである。女性の方が男性よりも語学習得がたくみな一因にこの脳構造があるらしい。たとえば左脳で発生した電気信号が右脳のある地点に到達するのに、左脳と右脳の連結が太い方が伝達が速くなる。例えば、「イス」という日本語が左脳にあって、右脳に「chair」という英単語があるとすれば、女性の方がすぐに翻訳できるはずである。一般に論理的思考は左脳、直感的な思考は右脳がつかさどると言われているが、これは男性において顕著であるが女性ではそれほどはっきりわかれていないのではないかと思う。机上の空論に陥(おちい)りがちなのは男性である。左脳の理性的思考(言葉を使った思考)が一人歩きしており、現実と感覚的に認識している右脳との情報のやりとりが狭まり、現実離れした思考が起こる。女性においては論理的思考・直感的思考の両方が右脳と左脳の両方で行われているのではないかと思う。つまり、女性の脳は右脳と左脳の役割分担があまりないということではないかと思う。左脳の論理的思考を「べきである」という理想だと仮定し、右脳は「である」という現実だと仮定すると、理想と現実のギャップが大きいのは男性であると考える。事実、自殺者は男性の方がかなり多い。女性の方が理想と現実に上手に折り合いを付けることができるのは、右脳と左脳の連結が太く一体であるからと考えてはどうだろうか。
第二に、過去に付き合っていた異性に対する感情にも男女で差がある。男性は以前、付き合っていた女性に未練を持つことが多いが、女性は以前、付き合っていた男性について実にあっさりと区切りをつける。この行動の違いは、女性が産む性であることと関連していると思われる。女性にとっての出産とは結婚と切り離して考えにくいことであり、さらには出産は命がけの行為である。であるから出産の前提となるSEXと付き合いの開始は慎重にならざるをえない。女性にとっては玉石混淆(ぎょくせきこんこう)のたくさんの男性と付き合うより、自分にとって最高の男性を一人見つけ出すことに最大の関心があるのは自然なことだと言える。一方、男性は自分が出産する訳ではないので、より数の多くの女性とより数多くのSEX体験を求めるため、いろいろな女性に目がいきがちである。
第三に、芸術についての男女の差がある。音楽では著名な女性の芸術家がいるが、いわば一流の芸術家は男性がほとんどである。これはなぜであろうか。これも右脳と左脳の連結の問題で、左脳の理想が右脳の現実と妥協しないところに生まれるのではないだろうか。例えば、料理をしているときは、プロの男性の料理人であれば、一点でも気に入らない点があれば、料理をまるごと捨てかねない。女性の場合は、「まあいいか」と妥協してしまう所がある。こだわりが芸術を生むからで、ありえない理想を現実化させようとするのが男性だと思う。
第四に男性は能動的、女性は受動的だと言われることがあるが、これは 本当だろうか。ことSEXで見れば、女性は受け身の状態で男性から行為を受けるようになっている。ここからの発展であろうか、女性、特に日本の女性は男性から誘われるのを待っている。状況はより複雑で、女性は自分が誘われるように他の女性と連携しながら男性を誘導することがある。SEXにおいて男性が勃(た)たなければ、行為に及べないが、女性は目をつぶって感触と嗅覚と言葉で感じ、行為に及べるようになる。男性は女性を見た目で選ぶことがほとんどであるが、男性の性器の勃起は視覚情報をもとにしていることがほとんどであるからである。SEXや恋愛のあり方は男性は能動的、女性は受動的と言えるが、その他の日常はでは必ずしもそうではないと思う。
近代以降、男女同権について意見が交わされているが、SEX、恋愛には男女に大きな違いあり、体力でも男女に差がある。脳の構造、思考パターンにもかなり差がある。これらは先天的(アプリオリ)にそうだと言える。したがって、男女同権とは、男性と女性を同じように扱うということではなく、男性と女性を種類の違う動物といったように接し方を別々に考えなければならない。男女同権は先に言ったSEX、恋愛以外の、能動性、受動性といった後天的(アポステリオリ)男女で共通する特徴の箇所で実現するべきことなのである。
『What Love is(愛とは何か)』という Mary J.Bligeという黒人女性の歌の歌詞を日本語訳と英語とで書きます。iTunes Storeで「What Love is」で検索して探してみてください。
美しく
ひどくて
魔法のようで
おそろしい
笑う理由であり
眠りにつくために泣く理由である
戦え
身なりをととのえ うちくだけ
間違っているのか正しいのか
すべてを投げ打つだけの価値のある天国であり
同時に生きたまま地獄に入ることにもなる
そして誰もそのことについて何も知らない
しかし、すべてのひとがそれを必要としている
それがなくては生きていけない
そして、どうすることもできない
昼のように暗く
夜のように明るい
もし愛がどのような感覚のものであるかを問うならば、
そのうちのわずかなことを知ることになるだろう
それは喜びのようであり、
それは痛みのようであり、
それは太陽の光のようであり、雨のようである
死ぬ口実であり
生きる理由である
あなたがもし、それを知らないとすれば
それが愛である
優しい口づけ
心ほどける優しさ
首への口づけ
頭が痛くなるまで議論した
あなたが何時間も大声で叫んでいたことを思い出せない
わたしたちが叫んでいたことがわからない
そうだ、それが真実である、ともはっきりわからない
しかし、もしそれが存在しないとすれば、われわれは何をしたらいいのか
そして、それが本当は何であるのか、知っているひとは一人もいないのだ
しかし、すべてのひとがそれを必要としているのだ
それがなくては生きていけない
どうすることもできない
昼のように暗く
夜のように明るい
もし愛がどのような感覚のものであるかを問うならば、
そのうちのわずかなことを知ることになるだろう
それは喜びのようであり、
それは痛みのようであり、
それは太陽の光のようであり、雨のようである
死ぬ口実であり
生きる理由である
あなたがもし、それを知らないとすれば
それが愛である
人を引き上げるもの 人を突き落とすもの
それが愛である
空に現れる太陽となることもあれば、暗黒の雲となることもある
それが愛である
そして、それは絶対に必要なのだ
それが愛である
そして、それは絶対に必要なのだ
それが愛である
誰かにそれがどのように感じられるか問うてみるがよい
それは喜びのようであり、
それは痛みのようであり、
それは太陽の光のようであり、雨のようである
死ぬ口実であり
生きる理由である
あなたがもし、それを知らないとすれば
それが愛である
それは喜びのようであり、
それは痛みのようであり、
それは太陽の光のようであり、雨のようである
死ぬ口実であり
生きる理由である
あなたがもし、それを知らないとすれば
それが愛である
Beautiful
Horrible
Magical
Terrible
Reason to laugh and smile
Reason to cry yourself to sleep at night
Start a fight
Make up, break up
Wrong or right
Heaven for all it's worth
Can equally be hell right here on earthAnd no one really knows anything about it
But everybody needs it
We can't live without it
And that's the way it goes
Dark as day
Bright as night
Just some of the things you might hear if you ask what love feels likeAnd it feels like joy
And it feels like pain
And it feels like sunshine
Feels like rain
An excuse for dying
Reason to live
And if you don't know
That's what love is
Love is ohGentle kiss
Sweet caress
Kiss the base of your neck
Argue until my head hurts I can't remember what you said
Hours screaming loud
Don't know what we're screaming bout
So confusing yes it's true
But if it wasn't there what would we doAnd no one really knows anything about it
But everybody needs it
We can't live without it
And that's the way it goes
Oooo dark as day
Bright as night
Just some of the things you might hear if you ask what love feels likeAnd it feels like joy
And it feels like pain
And it feels like sunshine
Feels like rain
An excuse for dying
Reason to live
And if you don't know
That's what love is
Love is ohThat's love
Anything that can bring you up or bring you down
That's love
Can be the sun up in your sky or the darkest cloud
That's love
And we need it
That's love
And we need
That's love
Oooo ask anybody how it feelsAnd it feels like joy
And it feels like pain
And it feels like sunshine
Feels like rain
An excuse for dying
Reason to live
And if you don't know
That's what love is
Love isAnd it feels like joy
And it feels like pain
And it feels like sunshine
Feels like rain
An excuse for dying
Reason to live
And if you don't know
That's what love is
Love is oh
ブレインストーミングはとてもポピュラーなグループで行うクリエイティブなエクササイズです。それは手早く簡単に役に立ちます。しかし、たくさんの組織がブレインストーミングによって失敗し、ブレインストーミングを使わなくなっています。彼らはブレインストーミングは時代遅れでもはや役には立たないと言います。しかし、失敗の本当の理由はブレインストーミングが正しく活用されなかったことにあるのです。上手に運用されたブレインストーミングは面白くて強力です。そういうブレインストーミングは、大量の良質のアイデアを生み出します。しかし、貧弱なブレインストーミングは欲求不満を生み出し、モチベーションを下げます。あなたの次回の会議をだめにするかもしれない単純な方法をこれから見ていきましょう。
漠然とした不明確な目的しかないブレインストーミングは戸惑い行き場を失う原因となります。ですから明確な目標を立てましょう。ブレインストーミングの目的は明確なゴールのための答えを得るためのクリエイティブなアイデアをたくさん生み出すことにあるのです。ぼんやりした目的は役に立ちません。「どうやったらもっとうまくできるだろうか」というのはよくありません。「次の12ヶ月で売り上げを2倍にするにはどうすればいいだろうか」といったものがいいのです。しかし、質問の要素は詳細になりすぎないようにしなければなりません。さもないと横道にそれたようなアイデアが出る可能性を閉め出してしまいます。「既存顧客と現状の製品で売り上げを2倍にするにはどうすればいか」というのはおそらく自然ではありません。いったんブレインストーミングの目標を指し示すその質問が同意を得たら、誰もが見えるように書き出されねばなりません。
出されるべきアイデアの数とそのために要する時間を決めておくことは役に立ちます。「20分間で60個のアイデアを生み出そう。そしてそれを4、5個の良いアイデアに絞り込もう」といったように。
みなが同じ部署の人間であるならば、クリエイティビティは妨げられ、「集団的なものの考え方」をする可能性があります。参加する集団を注意深く選びましょう。およそ6人から12人くらいがちょうどよい参加者の人数です。参加者が少なすぎては多様性のある十分なアイデアが集まりません。逆に参加者が多すぎては管理が難しくなり、みなの合意を保つことができなくなります。他の分野から、さらには他の企業組織から外部の人間(異なった視点や馬鹿げたアイデアを持ち込みうる人たち)を交えたグループにしましょう。様々な年代、男性と女性、経験を積んだ人と新人といったように、種類が混ざったグループがベストです。
チームを率いる専制的なボス(そのチームの最高責任者)に注意しましょう。彼らは議論を妨げたり型にはめたりする可能性があります。ボスが出席する場合は、独立した立場の適切な司会者(意見を出しやすくし、誰か一人が支配的な立場にならないようにできる人)を設定することをおすすめします。最悪のブレインストーミングは、その部署の最高責任者が会議を主導し、意見に対する書記と審判を同時に兼ねるというものです。
ブレインストーミングの最も重要なルールは判断を先送りするということです。馬鹿げたアイデアの持つ豊かさを引き立たせるために、誰も出されたアイデアに対して批判的になったり否定的になったり審判を下したりするようなことがないというのが必須の条件なのです。発言されたアイデアは、どんなに馬鹿げていても、書き記さねばなりません。アイデアを生み出す段階では判断を先送りにするというルールは厳格に強制する価値のある重要なことなのです。
一握りだけのアイデアを集めてから分析を開始するのはやめましょう。アイデアは多ければ多いほどいいのです。ブレインストーミングは、量が質を改善するということを実証する生活の中で数少ない活動なのです。ダーウィンの進化論を考えてみてください。ばらばらのアイデアがより多く生み出されれば生み出されるほど、そのうちのいくつかが生き延びるように適応するチャンスは大きくなるのです。エネルギーをためておいて、大量の馬鹿げたアイデアに遭遇するようにする必要があるのです。全く役に立たないと思われるような気違いじみた考えが、新しい偉大なソリューションへと適応していく他のアイデアへの飛び込み台となることはしばしばあるのです。ですから、気違いじみたアイデアが出続けるようにしなければなりません。1人の王子を見つけるためにはたくさんのカエルにキスしなければならないのです。
大量のアイデアと追求すべき漠然とした展望を生み出しただけで会議を終了してはいけません。現実の結果が見えなければ、人というのは欲求不満を感じ、確信を失います。会議の場で素早くアイデアを分析すべきです。最良の方法一つとして挙げられるのは、提案されたものを、見込みあり、面白い、拒否の3つのカテゴリーに分類することです。すぐに実行されるべきであると思われる考える必要のないくらい見込みのあるアイデアがあるならば、ただちに誰かにそれを実行する権限を与えるべきです。
アイデアをカテゴリ分けして蓄積すべきです。見込みあり、面白い、と分類された全てのアイデアのうちマーケティングに関するものを、分かれているフリップチャートの一方に書き記し、セールスに関するものを、フリップチャートのもう一方に書き記すといったことを行います。アイデアを再構成するこの処理によって、新しい組み合わせと可能性が見えてきます。このステージにおいて、簡単にアイデアを移動できるように付せん(ポストイット)を使う人もいます。
もし時間がないのであれば、参加者全員に5ポイントずつ与えるという、最良のアイデアを集めるための別の方法があります。参加者は好きなようにポイントを自分が気に入ったアイデアに振り分けます。5つの別々のアイデアにそれぞれ1ポイントずつ振り分けてもいいし、5ポイント全てを1つのアイデアに当ててもいいのです。あとはポイントを集計して実行すべき最良のアイデアを集めることができるのです。
意見を出してくれたことに対して参加者全員に感謝をして会議を終わります。最良のアイデアのうちの2つについてそれぞれもう一度、言及します。仮にそれが小さなことであっても、どちらのアイデアが条件を満たしているかを見ます。
人は行動へと導いてくれる短時間のエネルギーに満ちたブレインストーミングを楽しむものです。これらの会議は人のモチベーションを上げ、効果的に改善が行われ、革新を促します。
以上は、
原文:「Six Great Ways to Ruin a Brainstorm」Paul Sloane
からの翻訳です。
日本人には宗教意識が希薄であるが、その原因としてあるものをかつて「ニホンキョウ」という概念で説明しようとしたことがあったが、もう一度、考え直すことにした。今、生きている日本人を研究対象にするので、1920年以降に生まれた日本人を考えることにする。「和をもって尊(たっと)しとする」という聖徳太子以降、日本は「和」の国であると言われている。「和」という概念は非常に重要そうである。「和」とは「なごやか」「なかよし」といった意味で考えることができる。英語に直すと「warm」「friendly」となる。今度は否定形で考えてみようと思う。「常識がない」「協調性がない」「空気を読めない」これと、「なごやかでない」「なかよしでない」を対置すると、どうも等質ではないと思われる。枝のように分岐していく図を想像してほしい。「和」を根本概念ととして最初に発し、そこから、「なごやか」「なかよし」という概念に分かれる。現代日本人が声高に叫ぶ「常識」「協調性」「空気を読む」ということはいずれも「なごやか」という概念から発しているが「なかよし」からは発していない。
人間関係の最終目標を「なかよし」であると仮定した場合、「なごやか」は「なかよし」にいたるまでの通過地点でしかない。すなわち「なかよし」ではないが、無理に「なごやか」をよそおっていることがありえるわけである。「なごやか」をその集団における集団を構成する各人の感性や思想の一致、統一であると仮定すると、その集団の大多数もしくは有力者の意向に自分の意向を「合わせる」ことによって「なごやか」が実現している。無理に「合わせて」いる間に本当に合わせることができることもあるだろう。その「なごやか」が長時間続けば「なかよし」に転化することも考えられる。こういった人間関係の作り方を日本人は好んでいるように思われる。おそらく江戸時代三百余年の平和と鎖国と、明治以降の中央集権的政治体制における序所に進んだ全国教育の均一化、戦後のテレビの普及における思想の均一化がますます先に述べた「無理のあるなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の流れを生み、日本人をして宗教の不要を生んでいるものと思われる。
宗教の必要を社会的な側面から見ると、宗教の持つ集団性にあると思う。魔術が個人的な面が多いのに対して宗教には集団性が必要である。かつてのギリシアがヘレネスとして別々のポリスを(国家)を複数持ちながら、オリンピアの祭典の時には停戦して体育競技に参加していたことからも明らかなように、共通意識(「バルバロイ」(異民族)とはちがうという意識=コモンセンス)を持ちえたのも天地創造から日常生活までを含む今日で言うところのギリシア神話の宗教的世界観を共有していたからである。これは西ローマ帝国崩壊後の中世ヨーロッパにおいてカトリックが大きな力を持ち、一度は破門が「死」を意味する(例:カノッサの屈辱)ことがあったこと、その後のキリスト教のカトリック、プロテスタント、プロテスタントがより原理主義化したピューリタン(ユグノー・カルヴァニスト・ゴイセン)の分裂後も、各国または諸自治都市が同じヨーロッパ人という意識を育んでいた。宗教の集団性の意義は宗教の持つ宗教的世界観(形而上学的)宗教的倫理観(形而下学的)を人々が共有することによってたとえ国や言語が異なっていても仲間であるという意識(同胞意識)が生まれることにある。
宗教的もしくは科学的な世界観と倫理観の共通意識が(=コモンセンス)が日本で言うところの「常識」であることが類推される。「常識」をより多く持つことが結果として、より「協調性」「空気を読む」を高めることになる。常識を育むもものとして、家庭、学校、会社での教育と経験、およびテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイが挙げられる。皆と同じテレビ、インターネット、雑誌、新聞、マンガ、小説、エッセイを読めば、常識が育まれる。特に日本人女性においてはどの雑誌を読むか読まないかによってどの集団に属するかが決まるようである。よって、日本人としての「常識」を多く持つことによって「協調すること」も「空気を読む」ことも得やすくなっている。意図的にそちらの情報から外れている人(たとえばわたし)は現代日本人としての「常識」が少なくなっている。それにより「協調性」「空気を読む」ことが苦手である。日本で日本人として気持ちよく暮らすには先ほど述べた方法で「常識」を増すことである。この常識こそが、西洋でいうところの宗教(religion)の代わりをしているわけである。であるから、日本人研究において重視すべきはまさにこの「常識」である。「常識」を持つことによって「無理のなごやか」→「なごやか」→「なかよし」の構造(この構造自体を一つの宗教(ニホンキョウ)として論述したことがわたしにはかつてある)を述べてきたが、インターネット(携帯電話ネットワークを含む)の普及により、ここに当てはまらない日本人が徐々に増えてきているのではないかと思う。まだその数は少数であるが、これからさらに多数化していくものと思われる。その多くは社会からつまはじきを受けているが今後は状況が変わることが考えられる。この傾向が日本人の根幹である「和」とどう対立、融合していくのかがわたしの知的好奇心を増す。
最近、勤務先の仕事が忙しすぎて自分のことに使う時間がかなり減っています。そこで出てくるのが、勤務先が忙しいから、ブログ更新や自己実現(コンテンツ制作など)ができないのは当たり前という言い訳です。結論を先に言えば「自己実現=仕事」にしてしまえば問題が解決するので、最終的にはそれを目指しているわけなのですが、修行中の身であるため、勤務先での仕事をなくすわけにはいきません。僕の場合、勤務先での仕事も自己実現に役に立ってはいます。しかし、大半は自己実現に直接関係のない業務です。そこで、勤務先での忙しさを言い訳にしないための約束を3つしたいと思います。
これは自分だけで解決する問題ではありませんが、勤務先と相談して最低限の休日は確保すべきです。また、退社時間をエンドレスに伸ばさずに、最高で何時までというのを決めておくべきです。寝ないでやれば何でもやれるというのも一理あるのですが、体力的に僕は無理です。それは勤務先での勤務にも影響を与えるし、健康にもよくありません。
これは僕にとって非常に難しい約束です。週休2日なら、そのうちの1日は昼過ぎまでだらだら寝る時間が欲しいというのが僕の本音です。しかし、それを言うと、自己実現から遠ざかってしまいます。惰性に流されず自由に使える時間を確保することが重要です。
一日(特に休日)が始まるときに今日やる最低限のことを決め、それを確実に実行します。ほかのことをやってもかまわないけれど、決めたことは確実に実行する。逆に言えばできないことは決めないということです。あることをやっていてほかのことが気になって、本来やるべきことができなくなるという事態は避けねばなりません。
僕は一度、悩みだすとそれがいつまでも続いて、場合によっては一日中寝て、悩みをごまかそうとすることがあります。しかし、それは結局何にもならないのです。特に人間関係で悩んだりするのですが、実際に問題の当人に聞いてみると、全然そういうことはなかったなんていうことが多々あって、悩むなら直接ぶつかった方が早いということも経験上わかってきました。やりたいことがいっぱいあるのと、実際にやれることは必ずしもイコールではないけれど、両者の差を縮めるのに、この3つの約束が役立ってほしいと思っています。
人類には何種類かの類型があった。アウストラロピテクス、ネンデルタール、クロマニヨンである。ネアンデルタール人は旧人と呼ばれる。クロマニヨン人が現代人である。アウストラロピテクスはその前の人類である。旧人と新人の大きな違いは、暴力性、破壊性である。ネアンデルタール人すなわち旧人は、クロマニヨン人すなわち新人に比べて争いを好まなかったと言われている。それゆえに旧人は新人に抹殺されたと言われている。人類の暴力性は、昨今、大きな問題になっている。地表を何度も壊滅できるほどの核兵器や生物・化学兵器を持つに至った人類は、みずからの暴力性や残虐性に真っ向から向かわざるをえなくなっている。しかし、遺伝子に組み込まれた暴力性をクロマニヨン人であるわたしたちは消すことができないのである。
もし仮に、暴力性を次のように定義してみたらどうであろうか。自己が他者に「快」を与えることで生活することが多いヒトを、温和な人類。自己が他者に「不快」を与えることで生活しようとすることが多いヒトを、攻撃的な人類と呼ぼう。前者を旧人的(ネアンデルタール人型)、後者を新人的(クロマニヨン人型)とすることができる。
ヒトは社会をつくることで生活する生き物である。したがって、クロマニヨン人的な人類は破滅するはずである。しかし、にもかかわらず、人類が存続しているとすれば、クロマニヨン人の中に、よりネアンデルタール人的な人類が存在するということであろうかと思う。女性にはクロマニヨン人であってもネアンデルタール人的(自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向)を持つ者が多いように思う。クロマニヨン人の暴力性は、性の目覚めと関わりが大きいとわたしは推測している。その例証として、おそらくネアンデルタール人は陰部を被服で隠さなかったのではないかと推測している。これはいささか寓話(ぐうわ)的になるが、旧約聖書を引き合いに出すと、創世記にて、ヒトが地を耕し、子を産み、(戦争をする:これは書いていない)のは、エデンの園の中央の、善悪を知る木の実を、「神」から禁止されていたにも関わらず食べたからだと言われている。わたしはこれを生殖能力の獲得と考えている。人間で言うと、10歳から12歳くらいの思春期。おそらくネアンデルタール人も思春期にあたる時期に同じように生殖能力を獲得するが、ネアンデルタール人は自らが裸であることを恥じなかったと想定するのはどうであろうか。「裸→恥→隠→嘘→悪→罪」という図式から人間(クロマニヨン人)の暴力性が生まれたのではないだろうか。
そもそも恥ずかしいという感覚は動物学的に見て、きわめて特異なものと考えられないだろうか。恥ずかしい、すくなくとも裸でいるのが恥ずかしいと考えることは、例えば、戦後の日本で一時期、思春期以降の男女が、中学校や高校で丸刈りやオカッパやショートカットと言った短髪を強制されて、恥ずかしいと感じるのと似ているのかもしれない。喜怒哀楽は動物にも存在するが、恥ずかしいという感情は動物には存在しない。「恥ずかしい」という感情に関連して、他の人に対する「好き」という感情と、他の人に対する「嫌い」という感情を持ち出すこともできると思う。女性の方がネアンデルタール的な傾向が強い。すなわち、自分が「不快」を得ようとも相手に「快」を与えようとする傾向があることは、女性が装飾する(隠す)存在であることと無関係であろうか。アダムよりもイブが最初に善悪を知る木の実を食べて裸を恥じたことは非常に暗示的である。女性は男性よりも美しくあることを求められる。そのことの生殖や繁殖における意味はさておき(おそらく男性の性欲が視覚情報による刺激によって高まるため。一方、女性は匂いと触覚で性欲を感じる)、事実としてそういう傾向があることは確かである。
旧約聖書によれば人類の最初の装飾は、陰部を覆うイチジクの葉であったことになっている。旧約聖書の記述は寓話的な表現であるかもしれないが、実際のクロマニヨン人は、むき出しの生殖器を何らかの物体で覆うことは十分に考えられることである。もし、生殖器の保護という観念ではなく、恥ずかしいという観念から陰部を隠したとしたら、隠した時点で精神は安定し、非合理的な状況から脱して合理的な状態(安定)になったと言える。暴力性とは、非合理的な(言葉で表すことができない)不安感から発して、自己防衛しようとする機構ではないかと仮定すると、女性の方が、男性よりも装飾が多い状態で(たとえば長い髪の毛も含む)生きているので、より多くの「恥」を隠し、より合理的で安定した状態で生きていることになる。装飾には「恥ずかしさ」を隠すとともに他者から「好かれよう(保護されよう)」という意図から発していることも見逃してはならない。一方、男性は、「男らしく」育てられるとすれば「恥」を隠す装飾を切り捨てた服装や髪型(丸刈りなどの短髪)で育てられるため、恥が外に出ているという、より不安定で非合理的な状態で育てられるために、他者に「不快」を与えることで、他者を屈服させ、配下に置き、自己の防衛に他者を配置して備える可能性がある。(=軍隊的暴力集団の始まり?)
確からしいことではないが、戦後の一時期(1987年から1995年くらいまで)日本において全国の中学校や高校に丸刈り、オカッパ、ショートカット校則があった頃に、校内暴力が多かったことと、このことは関係していないだろうか。自分の恥を隠す装飾(この場合は髪の毛)を否定された思春期の男女が著しい不安感に襲われたのではないか。しかし、それは実は、丸刈り、オカッパ、ショートカットを強要されて、実際にその髪型になった少年少女ではなく、そうなる前の小学校の児童や、短髪髪型校則のないキリスト教系の私立学校に行くなどして逃れることのできた児童(しかし罰としての電気バリカンの恐怖があった)、短髪髪型校則があるにもかかわらず反抗して長髪を保ち、染髪もしたようないわゆるヤンキー(不良少年少女)グループに、著しい暴力性を生じさせていたのではないかと思う。しかし、短髪髪型校則を作った教育者の予定どおりなのか、偶然なのか、思春期の多感な時期に強制的に丸刈り・オカッパ・ショートカットといった短髪を実際に強制された当人は、クロマニヨン性が減じているように思われる。恥ずかしい思いを強制させられることで、プライド(尊厳)を一度捨てさせられた場合は、その後の非合理的な社会の要求にだまって追従するタイプのネアンデルタール的な、一種奴隷的な境遇にあまんずる人間となっているように思えてならない。かつてのロシアにおいて、所得の低い家庭の息子の最終教育課程は兵営、所得の高い家庭の息子の最終教育課程は大学であったと、トロツキーが『文学と革命』で述べていたように記憶している。短髪髪型校則が公立学校で多かった理由は、それと似たものを感じずにはいられない。学ランは、陸軍の軍服、セーラー服は、海軍の軍服であるからだ。
では、逆にクロマニヨン性を現せないためには、非合理的な理由によって恥ずかしい思いをさせようとして不安感をあおるような教育ではなく、非合理性のない合理的な(リーゾナブル:理由を納得のいくように説明できる)な指示だけを与える教育を児童に施すことであろう。しかしながら、思春期の児童の全員に非合理的な規則をまんべんなく、例外無く(男も女もすべて)与えれば、暴力性のある人物が減る可能性もある。一部だけが非合理的な恥ずかしい規則に従わなくていいような状態にしかできないのであれば、先述したように合理的、リーゾナブルな教育を児童に与えるべきである。それによってもネアンデルタール的な人物ができると思われる。逆に、古代のスパルタでは、戦士階級(貴族階級)の男子は、全て丸刈り全裸で少年時代を過ごさせられ、すさまじい軍事的訓練を得て後、戦士として長髪と服を装うことを許される。これはリュクルゴスが決めた法であるそうだが、この場合は、社会の上層が全員まんべんなく恥を負わせられた。これは強力なクロマニヨン型人間であり、同時にネアンデルタール型道徳を持った軍事的に理想の人間を作り出すための制度であったに違いない。
「愛」には大別して3種類あると、アリストテレスが述べている。「友愛(フィリア:アリストテレスが好んだ愛らしい)」、「愛欲(エロス)」、「無償の愛(アガペー)」このうちのエロスが非合理性と暴力性につながっているとわたしは思う。人を好きになるときに、理由が先にくることはまずない。その人を好きになった後では理由を話せても、その人を好きになる前や好きになった瞬間に述べることはまずできない。それは「おいしい」とか「気持ちがいい」「恥ずかしい:これは人間に特有」といた感情的な状態に近いからである。感覚的な快楽は脳の中に概念として存在せず、単なる快楽の受容として認識されるに過ぎない。「フィリア」はホモやレズビアン、「アガペー」は、性欲につながる僧院の偽善と独善につながってしまう可能性がある。すなわちこの三種の愛は、やはり「エロス」を中心に据えた存在であると思われる。人間は動物の一員である。動物の欲求も人間は持っている。人間が通常の動物と異なるのは言葉を使う存在、つまり理性的な存在であり、なおかつ自分を客観視することができることである。実験によると、一部のオラウータンやチンパンジーは、鏡を見て自分自身を認識し、歯磨きができるそうである。鏡を見て自分だと理解できるということは自分を客観視することの始まりである。自分を客観視した結果、自らの陰部がむき出しになっているのを見て「恥ずかしい:性欲」と思った。そして善悪を知る木の実を食べた理由は、イブがアダムのエロスを獲得するためであったことを思い起こすと、ますます単なる寓話とは創世記が思えない所以である。エロスが満たされないと、人間は不安定になる。これは人間の五大欲求(食欲・睡眠欲・排泄欲・衛生欲・性欲)に含まれるからである。エロスには相手が必要である。ローマ時代、ローマ皇帝は兵士に結婚を禁止したそうである。兵士を欲求不満にし、暴力性を高めさせるためだったという。つまり愛し合う相手がいない(自分の好きなあの子が自分のものになっていないという不安感を持った)兵士が、略奪などの暴力性を発揮させたいという為政者の方針であった。ここで秘密に結婚式を挙げてやり、処刑されたのがバレンタイン神父であり、処刑の日がバレンタインデーなのはあまり知られていないことである。エロスの発現は思春期である。
ネアンデルタール型、クロマニヨン型、と人類の類型を分けたが、『新約聖書』のマタイによる福音書の25章31節から始まる、最後の審判の様子を表現する(羊と山羊(やぎ)をわける」文章が重なっているように思えてならない。羊がネアンデルタール型、山羊がクロマニヨン型である。羊は天国に行かされ。山羊は地獄(ハルマゲドン?)に行かされる。イエスが羊と山羊の分類をするわけである。人間は皆、思春期前のときは羊(ネアンデルタール型)である。しかし、思春期以降に、ネアンデルタール型(羊)とクロマニヨン型(山羊)に分かれるのだと思われる。裸を「恥ずかしい」と思い、キリスト教系の私立学校に行くことで、隠し続けることができた(長髪の高所得層の児童)と、裸を恥ずかしいと思いながら、丸出しにされた(短髪の低所得層の児童)で、分かれるというとたとえとしては分かりやすいかもしれない。どんなに非合理的な命令でも言うことを聞く羊(ネアンデルタール型)の人間を天国へという訳であろうか。この仮説によれば、その天国(「神」にとって都合のいい奴隷性があるネアンデルタール型人類)があまりいいところに思えないのは、なんとなく不安である。
宴の支度 (3) 小さな変化からすべては始まる。「プロ」と「アマ」の13の違い
プロ1.人間的成長を求め続ける
アマ1.現状に甘える
プロ2.自信と誇り
アマ2.ぐちっぽい
プロ3.常に明確な目標を指向
アマ3.目標が漠然としている
プロ4.他人の幸せに役立つ喜び
アマ4.自分が傷つく事は回避する
プロ5.可能性に挑戦し続ける
アマ5.経験に生きる
プロ6.思い信じ込むことができる
アマ6.不信が先にある
プロ7.自己訓練を習慣化
アマ7.気まぐれ
プロ8.時間を有効に習慣化
アマ8.時間の観念がない
プロ9.成功し続ける
アマ9.失敗を恐れる
プロ10.自己投資を続ける
アマ10.享楽的資金優先
プロ11.使命を持つ
アマ11.途中で投げ出す
プロ12.出来る方法を考える
アマ12.できない言い訳が口に出る
プロ13.自分のシナリオを書く
アマ13.他人のシナリオが気になる
プロとアマの本当の違い
アマ1.人間的成長を求め続けていることを言い訳に仕事をしない
プロ1.現状がどのようなものであるかを認識・把握し、その中で仕事を行う
アマ2.根拠のない自信と誇りに満ちあふれている
プロ2.ぐちっぽいが仕事はこなす
アマ3.常に明確な目標を指向することが目的化している
プロ3.目標が漠然としているように見えるが、目の前の仕事はきっちりこなす
アマ4.他人の幸せに役立っていると信じてしまう
プロ4.自分が傷つく事は回避する。結果としてそれが仕事をする上で最善ならば。
アマ5.闇雲に可能性に挑戦し続ける。
プロ5.経験を生かし、次のステップを見極める。
アマ6.根拠が無くても思い信じ込むことができる
プロ6.根拠が無いものは信じないことからスタートする
アマ7.自己訓練を習慣化し目的化する
プロ7.気まぐれであっても納期に結果を出す
アマ8.時間を有効に習慣化することが目的化される
プロ8.時間の観念がなくても結果を出す
アマ9.成功し続けていると思いこむ
プロ9.失敗を恐れるが結果は出す
アマ10.自己投資を続けるが結果に結びつかない
プロ10.享楽的資金につぎ込んでいるように見えるが、結果的に回収される
アマ11.使命を持っている気がする
プロ11.途中で投げ出すこともあるが、納期までには終わっている
アマ12.出来る方法を考えるが実行しない
プロ12.できない言い訳が口に出るが結果は出す
アマ13.自分のシナリオを書くことに没頭する
プロ13.他人のシナリオを気にして、参考になることがあるか考える
アマ14.成果で金が稼げない
プロ14.成果で金が稼げる
これは僕の作ったチェックリストです。1が多い人は「Lifehacking.jp」の定義が、2が多い人は「煩悩是道場」の定義が心地よいと感じるはず。どうでしょうか?僕はというと、「Lifehacking.jp」派です。
「正義」は存在するのでしょうか。人間は万物の尺度であると唱えたプロタゴラスによればないことになるでしょう。「義」は、人間一人一人、別々に持っています。しかし、「正義」は、人間全員に繁栄を約束するものだと思います。もし、人類が、物質的、精神的な繁栄の中で暮らしたいのなら、自分(たち)だけ幸福になるような「義」は、「正義」によって、打ちくだかれるべきはないでしょうか。「義」は主観的ですが、「正義」は客観的です。主観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:義:個人的(感覚的)な好み)は無数(人間一人一人ちがう)にあるが、客観的に人や物事を見た場合の、最善の正解(真理:正義:理性的(科学的)な法則)は一つしか(ほぼすべての人間にあてはまる)ありません。俗世を離れれば、「正義」などどうでもよくなります。しかし、俗世の物質的、精神的、幸福を増大を意図するなら、「正義」が必要だと思います。
正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。
人間の思考や感覚が、体内の物質の運動によって、決まっているのであれば、(この前提が正しいか誤っているかは、わかりません。しかし、この前提からいろいろなことを説明できます。)人間の意志や行動も、すべて物理的な法則にのっとって、決まっているはずです。たとえば、朝起きたとき、牛乳を飲むか、ジュースを飲むか、水を飲むか、という選択をするとします。例えば、水を飲む選択をしたとします。「なぜ水を飲んだのですか」、と問えば、「昨日、お酒を飲んだからです」と答えるかもしれません。では、「なぜ昨日お酒を飲んだのですか」、とたずねたら、「新入社員の歓迎会があったから」と答えるかもしれません。では、「なぜ新入社員の歓迎会をしたのですか」と問えば、「毎年やっているからです」と答えるかもしれません。「なぜ毎年やっているのですか」と問えば、「毎年やっても嫌でないし、そこそこ楽しいから」と答えるかもしれません。このように、人間の意思の決定や行動も、原因と結果の連続で起こっていることがわかります。したがって、地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理で、人間が、次の行動をどうするかが決まっていることになります。しかしながら、いやいや、人間の感覚や好みは、それでは説明がつかないよ、とおっしゃるかもしれません。
これまで述べたのは、意識的に行動の理由を説明できるものでした。しかし、人間の精神は意識的な部分と無意識的な部分を両方持っているようです。人間が意識の領域のほかに無意識の領域を持つということは、精神分析を創始したユダヤ系オーストリア人のフロイトが提唱しました。意識的とは、言葉で理由を他の人に説明できること、無意識的とは、言葉では理由を他の人に説明できないこと、と仮に定義しましょう。例えば、あなたが、洋楽のロック(エレキギター系)が好きであること、わたしが洋楽のR&B(黒人の女性歌手)が好きであること、この理由をきちんと説明できるでしょうか。理由を完全に説明するのはかなり困難だと思います。ある程度は、できますが、不完全にとどまります。それは、このようなことには無意識の領域が大きくからんでいるからです。フロイトは、無意識の領域を説明するために、その人の幼児体験を重視しました。例えば、わたしが「R&B(黒人の女性歌手)が好きであること」を幼児体験から説明するならば、父が黒人女性歌手の曲をよく聴いていたので、わたしが幼児の頃から一緒に聴いており、人間に快感を感じさせる脳の部分と、幼児期の幸福で気持ちがいいと感じた情報と、黒人女性歌手の歌声と音楽の情報が脳の中で結びついているから、となるかもしれません。人間は、幼少期に神経を含む肉体の基本機能が発達します。その基礎の上に、積み重なって成長していきます。人間の精神は、脳を中枢とする神経によって生じています。無意識の領域は、幼児期に何を体験するかで大きく変わると仮定すれば、フロイトが幼児体験を重視することは正しいことのように思われます。大人になると、幼児期ほどは、無意識の領域に変更が加えるられることはないのでしょう。しかし、この場合でも、幼児体験による無意識の領域の形成を、「脳の回路(脳の情報ネットワーク)の形成」ということで説明すれば、原因と結果(地球上で、石を手に持って、手を開くと、石が落ちて、地面にころがる、といったことと同じ原理)ですべて説明がつくのではないかと思います。
たとえ不条理(理性で説明することができない)をテーマとするフランス文学であっても状況は同じです。アルベール・カミュの「異邦人」では、主人公の男性のムルソーが、「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」と、法廷で証言します。それはおそらく嘘ではありません。もし太陽がまぶしくなかったら、アラビア人を殺さなかったかもしれません。人間は、人を殺すということを重大なこととして考えているので、殺人には、必ず理性(意識)で説明のつく動機(うらみ、金銭など)といったことがあると考えてしまいます。しかし、人間の意思決定や行動には、無意識の領域が関わっていることは先ほども述べました。ムルソーの「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」という証言は、自分の無意識を、なんとか意識に変えて説明したことになります。「太陽がまぶしかったから、アラビア人を殺した」ということは、「暑かったから、クーラーをつけた」ということと何ら変わりはないことになります。殺人ということが、クーラーをつけることよりも、人間の社会の中で大きな意味を持つということであるということ、それから、殺人をするという意思決定が、無意識の領域が大きな理由となって起こり、クーラーをつけるという意志決定が暑いという感覚から、意識の領域を大きな理由として起こった、ということが異なっているだけです。アルベール・カミュの示した不条理(理性で説明することができない)は、無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンを解明すれば、条理(理性で説明することができる)ことになります。
無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンとは何でしょうか。人間の脳の構造(脳の神経の物理的分布)は、ネットワーク構造になっていると科学者の間で言われています。脳の中で、一つの情報が、他の情報と網の目(ネット)のようにつながっているそうです。あなたが自分自身で実験して確かめるなら、お母さんのことを思い出したら、親戚のことが、次々に浮かんでくるのは、脳の中で情報がネット(網の目)構造で互いにつながっている(リンクしている)からかもしれません。申し訳ございませんが、これはわたしの専門外であり、ぼんやりとしか説明できません。脳や神経の物理的構造から、この問題を解明するには、「ニューロン」「シナプス」という用語からインターネットなどで情報収集を始めるといいでしょう。科学者によれば脳を中心とする人間の神経系は化学物質の反応と電気信号で成り立っているそうです。無意識の領域で決まる人間の好みや行動パターンも、経験(外部からの情報)によって、脳の中に情報のネットワークが作られていくことによって決定されると仮定するのはどうでしょうか。これは、かなり信ぴょう性の高い仮説だと思います。であるならば、人間の好みや行動パターンも原因と結果で説明できるはずです。もちろん、脳の中に情報ネットワークができる前に、感覚を受ける部分(感覚器→目・耳・鼻・舌・皮膚)の構造が問題になりますがが、これは遺伝子(DNA)によって決まっています。昆虫のハチが見た映像世界と、人間が見た映像世界は異なるそうです。人間の間でも、緑と赤の区別がつかない色盲の人がいるのは、大多数の人間と視覚部分の遺伝子が異なっており、目という感覚器、もしくは、視覚を担当する脳の部分の構造が異なっているからでしょう。遺伝子(DNA:生物の諸器官の設計図にあたる)は、インターネットの百科事典であるウィキペディアによると、デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸であるそうです。塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンの四種類あり、それぞれ A, G, C, Tと略されるそうです。わたしは専門外なのですが、どうやらA, G, C, Tの組み合わせの違いで、生物の諸器官の設計図の違い(遺伝の違い)が出てくるようです。したがって、人間の好みや行動パターンを決定する、外部からの情報(経験)から形作られる脳の中の情報ネットワーク(神経回路)が構築される以前にも、感覚器や脳の構造は、遺伝子という物質(デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基)によって決定されていることになります。「人間の意志や感覚が、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」という前提で、これまでの仮説は説明されました。
では、この前提を疑ってみましょう。つまり、体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で、人間の意志や感覚が決まっているの「誤りである」、とするということです。では、人間の意志や感覚を決定しているのは何でしょうか。ある人は、神であるというでしょう。ある人は、仏であるというかもしれません。ただし自然が決めると言ってしまえば、「体内の物質の運動(化学物質の反応と電気信号)で決まる」と同じことになります。自然の神秘的な力が決めるとした場合は、現在の人間では説明のできない体内の物質の運動が決定することになります。仏教でいう「法=仏」は、「法則」であるとことのようです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、自分自身を実験台にして、精神の科学的な実験と検証(精神に関する仮説が正しいか確かめる)を繰り返ししていたようです。そこから、ほとんどの人間に共通する精神の「法則」を導き出し、後世、「法」と呼ばれるようになり、シャカ自身「:仏」が、自分が構築した「法(精神の法則)」を意識しつつ、「法」にのっとって、幸福感の中で暮らしていたので、「法=仏」ということになったということだと思います。(現代の日本の仏教は、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのものとはかなり変質してしまっているようです。日本でいう仏は、後で述べる神に近いものとなります。いわゆる信者がすがる対象である阿弥陀如来や、大日如来は、ほぼ神です。)
したがって、人間の意志や感覚を決定しているのが仏であるとすれば、それは、先ほど、わたしが述べた、人間の意志や感覚が、体内の物質の運動で決まるという前提と同じ立場に立つことになります。では、人間の意志や感覚を決定しているのが神であるとすれば、この場合のみ状況が特殊になります。では、神は、どんな方法で人間の意志や感覚を決定しているのでしょうか。ある人は「超自然の力で決定している」と言っているかもしれません。超自然とは何でしょうか。ひとつ確かに言えることは、現在の人間には、原因と結果の関係をどうしても説明できないものであるということでしょう。フランスにはルルドの泉というものがあり、この泉を訪れたものが難病を治したという事例が、数多くあり、そのうちのいくつかが、現在の人間では、原因と結果の関係を説明しきれないそうです。これが、いわゆる奇跡であり、奇跡とは超自然ということになります。しかしながら、原因と結果の関係を説明しきれないのは、現在の人間の思考(そのうちのひとつが科学)が未熟であるからという可能性もあります。より精密で正確な人間の思考ができれば、その奇跡も、自然の中で起きる当たり前の出来事として、原因と結果の関係を説明できる可能性があります。
しかし、原因と結果の関係を説明し切れない、ということにおいて、そもそもの大前提が崩れる仮説をわたしは示すことができます。それは、「原因と結果の関係が崩れる」ことです。例を挙げて説明します。あなたが、朝、目玉焼きを作ろうとして、冷蔵庫から、卵を手に取ったら、うっかり、床に落としてしまい、卵が割れてしまった、とします。目玉焼きを作ろうと思うなら、割れていない卵を別に使えばいいのですが、もし割ってしまった卵が大変特殊な卵で、二度と手に入らないとすれば、どうでしょうか。あなたの精神の中には、おそらく後悔と悲しみと、時には怒りが生じるかもしれません。しかし、それによっても、割れてしまったその卵を取り返すこと(割れていない状態にその卵をすること)は絶対に無理です。人間は過去に戻ることができないからです。「しかし過去に戻ることができたら?」あなたは、その特殊な卵を割れない状態で取り戻すことが可能なのです。これが「原因と結果の関係が崩れる」ということです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を幸せにする方法はたくさん存在するからです。
結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになります。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって「神」の存在の問題は、タイムトラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます。(全知全能)その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作(老化遺伝子の抹消)すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)が説いたオリジナルのの説いた仏教では、すべての現象を原因と結果(仏教用語でいうと、因縁や因果)で説明しようとします。現代の科学とほぼ同じです。人間が過去に戻れない以上、変えることができるのは、現時点での原因と、それによって生じる未来の結果だけなのです。だから、ゴータマ・シッダールタ(シャカ=ブッダ)は、過去の原因や、現在の結果を考えて、怒ったり、悲しんだりするのはやめなさい、と言っています。どうにもならないことを考えても意味がないからです。さらに幸福になるために人間が生きているとすれば、現在に新たな原因を作ることで、未来の自分を結果として幸せにする方法はたくさん存在するからです。
タイムトラベルができる存在は、一切(すべて)を知り、一切(すべて)を行うことができます(全知全能)。時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、あらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。例えば、イエスがカナの婚礼(ある人の結婚式)で、たるに入った水をワインに変えた奇跡が、新約聖書に書いてあります。これを、タイムトラベルによって実現するにはどうしたらいいでしょうか。時間が止まった状態にして、その時に水とワインを入れ替えるのはどうでしょうか。モーセが、ユダヤ人たちを引き連れて、エジプトから脱出する際に、葦(アシ)の海がふたつに分かれ、海の中に道ができたことが旧約聖書に書いてあります。タイムトラベルによって、モーセたちが葦(アシ)の海付近に到達する時間に移動し、高い科学技術力によって自然現象として、海を二つに分けるのはどうでしょうか。事実、「海が割れる奇跡」の原因としては、当時起こったサントリニ島の大噴火が有力と科学者が考えています。天童よしみの歌に歌われている『海が割れるのよ カムサハムニダ』「珍島物語」でテーマとなる珍島(チンド)では、実際に、毎年5月初旬頃に海が分かれ、道ができ、対岸まで歩いて行けることが確認されており、有名な観光地となっています。結論から言うと、時間を移動できる(過去や現在や未来に自由に移動できる)存在が、「神」ということになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、時間を移動する(過去や現在や未来に自由に移動する)ことで、現在、過去、未来のあらゆる原因と結果を思い通りに変化させることができるのです。これによって全知全能の「神」の存在の問題は、タイムとラベルは可能なのかという問題、ということに置き換わることになります。
タイムトラベルは可能なのでしょうか。現代の科学者によれば、不可能か、極めて困難であるという見解となります。タイムトラベルのことを考えるにあたって、まず物理学の現象の捉え方を簡単にご紹介します。申し訳ございませんが、これもわたしの専門外なので簡単にしか説明できません。ご紹介するのは、ニュートン力学と、アインシュタインの相対性理論です。リンゴが地面に落ちるのを見て、万有引力について考えるにいたったという、ニュートンが提唱したのが、ニュートン力学です。ニュートン力学の特徴は、時間、空間、物質(質量)の大きさは、常に変わらず、その中でいろいろな現象が起こるというものです。わたしたちが日常生活で接している物理的な現象は、ほぼニュートン物理学で説明することができるそうです。ニュートン物理学だけでは説明できないことがあり、そこで登場したのが、アインシュタインの相対性理論です。
ニュートン物理学で説明できないこととは、例えば、観測者から見て、光の速度に近い速度で移動している物質といったもののことです。相対性理論の特徴は、質量(重さ)を持った物質であれば、観測者から見て、光の速度を超えて移動する物質は存在せず、物質の移動速度が、光の速度(秒速30万キロメートル)を超えないように、時間、空間、物質が、大きくなったり小さくなったりするというものです。どんどん速度が上がっていく乗り物に乗っているとして、その乗り物はいつか、光の速度を越えてしまうはずです。ニュートン力学では、質量(重さ)を持った物質が、光の速度を超えてしまうことは可能です。なぜなら、時間、空間、物質の大きさは常に一定だからです。速度=移動距離÷移動にかかる時間どんどん速度が上がっていく乗り物が光の速度を超えないようにする(その乗り物に乗っていないその乗り物の様子を観測する人(:観測者)から見て、その乗り物が光の速度を超えて移動しないようにする)ためにはどうすればいいでしょうか。観測者から見て、乗り物の速さが上がっていくにつれて、その乗り物の中で時間の経過はゆっくりになり、その乗り物の質量(重さ)は大きくなります。質量が大きくなれば、その物質をより大きな速度で移動させるには、より大きなエネルギーが必要になります。移動するために使うエネルギーは補給しない限り使えば使うほど少なくなっていきます。乗り物の中に乗っている人にとっては、時間はいつもどおり流れており、話したり、動いたら、スローモーションになってしまうということはありません。少し例としては不適切ですが、感覚的に理解するために例をあげます。救急車に乗っている人が聞く、ピーポーピーポーという音の高さは、いつも同じですが、マンションの部屋で、道路を走りすぎて行く救急車のピーポーピーポーという音の高さは、次第に低くなっていくのを感じたことはないですか(ドップラー効果)。速度=移動距離÷移動にかかる時間移動距離を大きくするか、移動にかかる時間を大きくすれば、速度は下がることがお分かりいただけると思います。時間や空間や物質(質量)が、大きくなったり、小さくなったりすることで、観測者から見て、光の速度を超える重さ(質量)を持つ物質が存在しないようにできるのです。
事実、宇宙飛行士が、宇宙船で地球の周り(衛星軌道)を、極端に速い速度でぐるぐる回って、地球に戻ってくると、宇宙船の中の常に正確な時間を示す時計が、わずかに遅れていることが確認されています。自分がいる空間だけ未来に行くこと(浦島太郎状態)は人類はすでに実現しています。せいぜい数秒程度ですが。あなたがいる一人暮らしをしている部屋(宇宙船のように高速で移動しているとする)の時間の経過が、1日で3日間、部屋の外よりも実際に遅れるとします。あなたの部屋の中の1日の経過が、部屋の外では3日の経過にあたるわけです。あなたが部屋の中にある携帯電話の日付時刻で確認して、2010年4月1日午前0時0分0秒から、2010年4月2日午前0時0分0秒までいたとします。それから外に出て、お友達の持っている携帯電話の日付時刻を見てください。そのお友達に会って、お友達の携帯電話をのぞくまでにかかる時間が32分50秒とすれば、お友達の携帯電話は2010年4月4日午前0時32分50秒を示しているはずです。
しかし、現在の人類は過去には行けません。相対性理論は、光の速度を基準にして、空間、時間、物質をひとまとめにして考えることができる理論です。さらに物質(質量)はエネルギー(の大きさ)に置き換えることができます。E=M×C×C(:イーイコールエムシー二乗→エネルギーの大きさは物質の重さに光の速度を2回かけたものと等しい)物質をエネルギーにかえるというのは、割り箸に火をつけて燃やすこととは全く違うことを理解しておいてください。割り箸に火をつけたら、割り箸という物質がエネルギーに変わったのでしょうか。ちがいます。燃焼は、発熱を伴う激しい物質の化学反応です。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)質量保存の法則という言葉をご存じですか。フランスの科学者、アントワーヌ・ラヴォアジエが提唱したそうです。「化学反応の前後で、その化学反応に関与する元素の種類とおのおのの物質量は変わらない」という化学における保存則の一つです。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)時間、空間、物質(質量)が、一定で変化しない、ニュートン力学にのっとった法則です。原子力発電、原子爆弾(核兵器)は、物質をエネルギーに変えることによって実現しています。原子核反応(原子核融合反応・原子核分裂)によって、原子レベルで、物質がエネルギーになるのです。あなたの指の爪を切って、その爪ひとつを全て原子核反応でエネルギーに変えれば、少なくとも福岡県全域を破壊(壊滅状態)にすることができるはずです。宇宙は、ビッグバンという爆発によって始まったと科学者によって言われています。ビッグバンの前は、ゆらめくエネルギーだけが存在する世界だったのではないかと言われています。エネルギーのゆらぎが極点に達し、エネルギーのごく一部が物質に変わった、これがビッグバンとされています。部屋を真空状態(まったく空気も何もない本当の真空)にします。ここに、何らかの方法で膨らんだ風船を入れたとします。すると、気圧差で一瞬で風船は爆発し、中の空気は部屋中に拡散するそうです。ビッグバン以降、宇宙は膨張を続けているそうです。これが「ゆらめくエネルギーだけ」の中に「物質」が生じた状況(ビッグバン)の状況だと言われています。物質が生じた瞬間に、同時に、時間、空間ができました。
わたしたちは時間と空間と物質を分けて考えていますが、これらのものは同時に発生したのであり、ひとつの存在であると考える方がいいのではないでしょうか。物質のないところに、時間も空間もないのです。あなたは時間の経過を、どのように確認しますか。時計でしょうか。現在一般に使われている時計のほとんどは、クォーツ時計と言われています。クォーツとは水晶のことです。水晶は圧電体の一種であり、交流電圧をかけると一定の周期で規則的に振動します。クォーツ時計ではこれを応用し、通常は32,768Hz(= 215Hz)で振動する水晶振動子を用いて、アナログ時計の場合には時針の速度を調節し、デジタル時計の場合はその信号を電気的に処理して時刻を表示します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)もっとわかりやすい例で言えば、砂時計があります。砂時計をひっくり返して置くと、上にたまった砂が下に落ちて行きます。砂が全部下に落ちると3分といったような形になっていたりします。最も正確な時間を刻む(遅れたり進んだりしない)時計としては、原子時計があります。原子や分子には、ある特定の周波数の電磁波を吸収あるいは放射する性質がある(スペクトルにおける吸収線と輝線)。この周波数から、水晶振動子よりも正確に時間を測定することができます。原子時計はこの原子の性質を利用します。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)あなたに、おいっ子がいたとします。久々においっ子に会うと、身長が伸びていました。それによっても時間の経過を知ることができます。時間の経過は、物質の状態の変化によってしか知ることはできないのです。あなたは、部屋の広さを調べるときにどうしますか。メジャーを使いますか。メジャーは金属や布でできています。そこに目盛りが書いてあります。メジャーという物質と、大きさを調べようとする対象である物質(例えば部屋)を比較することで、物の大きさを調べることができます。空間の広さも、物質の大きさとの比較によってしか知ることはできないのです。時間と空間と物質が、常に同時に存在し、関係しあっていることが感覚的にご理解いただけたでしょうか。
ずいぶんと脱線しましたが、タイムトラベルは可能なのかという問題に戻ろうと思います。人類が未来に行けることは説明しました。あとは過去に行けるようにするだけです。相対性理論は、質量(重さ)を持たない物質の存在も否定できないのです。質量(重さ)を持たない物質は、観測者から見て光の速度を超えることができます。その物質(粒子)は仮にタキオンと言われており、その性質を使えば、過去に信号を送ることも可能とされています。タキオンに対して静止質量0で真空中を光速で運動する粒子をルクソン(luxon)(タキオンとの混同からかルクシオンとも)、正の実数の静止質量を持ちどんなに加速しても真空中の光速には達しない粒子をターディオン/タージオン(tardyon)と呼びます。タキオンが存在し、ターディオンと作用を及ぼしあうなら、因果律(原因と結果の関係)が破られてしまう(原因と結果の関係が崩れる)か、あるいは、因果関係(原因と結果の関係)が観測者によって異なってしまうとされています。(インターネット百科事典『ウィキペディア』から)ここに過去へのタイムトラベルの可能性があるのです。説明が不十分であることは正直にわたしもみとめます。後日、専門家とともにお話をうかがいたいと思います。その存在にも寿命があるのではないかという疑問もありますが、この問題は、遺伝子の操作によって解決できそうです。生命の老化や死は、遺伝子に組み込まれているようです。であるならば、老化や死を発生させる遺伝子を操作すれば、殺害されない限り永遠のに続く命が可能なのです。旧約聖書の創世記にあるエデンの園の「命の木の実」と「知恵の木の実」は、それぞれ、永遠の命を可能にする技術、生殖活動(子孫を残す活動)を可能にする技術であるという仮説も可能です。神によって創造されたアダムとイブは、ヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」だけを食べ、「命の木の実」を食べることができませんでした。それが現在まで続く人類の姿かもしれません。動かしようのない事実として、人間が「神:タイムトラベルができる存在」によって「エデンの園」(「神」の実験室)で「創造された」可能性も否定できないのです。人類が自力でタイムトラベルの技術を獲得しない限り、「神」を殺害(破壊)することは不可能です。それはわれわれ人類が、彼(彼ら)に代わって、「神」になることを意味します。そしてたとえ「神」がタイムトラベルできたとしても、タイムトラベルしようということは因果律(原因と結果の関係)で決まっているのです。つまりタイムトラベルできる「神」にも自由意志はないのです。
したがって「神」がいない場合でも、いるパターンでも、人間の行動が、遺伝子によって決定された脳構造と、生まれてきた以降の後天的な経験によって形成された脳の神経回路(行動パターン)によって決定し、人間同士の遺伝子の違いは1%よりはるかに少ないことを考えると、ほぼすべての人間にあてはまる最善の正解である「正義」(真理:理性的(科学的)な法則)はやはり存在することになります。
文頭で述べたことを、繰り返しますが、正義は繁栄のための一つの手段でしかなく、それ自体には価値はありません。繁栄とは、人間の人口が増大し、より多くの人間が幸福感をより多く感じる状態だといえるでしょう。人間が幸福を感じることと人口が増大すること(:繁栄)にも法則性があるのであれば、繁栄の法則が「正義」となります。
GTDの記事を読んでいて、Doingリストなるものがあることを知りました。くわしく理解していないので、誤解しているかもしれませんが、印象に残ったのは、「Doingリストに書かれていないことは一切しない」というものがありました。DoingリストについてはLifehacking.jp:「ゆっくりと動きながら高速でこなす、一流の研究者の Doing リスト」を参照してください。簡単に言えば、次にやる作業をあらかじめリストアップしていて、それ以外は一切しないというものです。さて、僕にとって問題なのは、「Doingリストに書かれていないことは一切しない」ということが僕には不可能だということです。
僕はある作業をして行き詰ってしまうと、ついつい別のことをしてしまいます。たとえば、katabami.orgのブログシステムのプログラミングをしていたら、どうしても上手く動かない。そうすると、インターネットでエロサイトを見てしまい、そっちに熱中して、1、2時間すごした挙句、疲れてベッドで寝てしまう。はい。確かに問題ですね。これはGTD以前の問題かもしれません。しかし、これは極端な例だとしても、たとえば、何か会社で仕事をしていて、行き詰ったり単調な感じに耐えられなくなったら、別のサイトのページを見てしまう、なんてことが多々あります。しかし、これをすべて切り捨てることが僕にとって可能なことなのか有益なことなのか、ということを考えると、そうではないように思います。この本筋とは違うことをするということも僕が生きていくうえでは必要なことだと思うのです。もしこれをなくせばストレスがたまって結果的には破綻する可能性があります。すべての作業を計画通りにすすめようとしようとすると圧迫感が生じてしまいます。
集中力がないという点で、僕はライフハッカーとしては失格なのかもしれません。しかし、集中力のある人だけが生産性を向上させることができる、というのは不公平なように思います。集中力がない人もそれなりに生産性を向上させるライフハックがあるはずです。
これは実際に僕が試してみたことではありません。しかし、実行するつもりです。自分がやらなければならないToDoリストの中に、ついついやってしまう自分の行動を入れてしまうということです。たとえば、「katabami.orgにカテゴリの概念を追加する」「katabami.orgに関連する記事を出す(タグで判別)機能追加」というのが本筋の作業だとすると、「フィードリーダーで新着記事をチェックする」「本を50ページ読む」「20分寝る」といったことも入れておくのです。
気づいたら恥ずかしいことも書いてしまいました。集中力のない僕が生産性を向上させるにはどうすればいいかということは僕の人生の中でかなり重要なことです。特に会社を出て、自分だけで仕事をするようになった場合、誘惑物の多い自宅で作業をすると生産性が著しく低下する可能性があるからです。上記の方法でいくらかでも生産性の低下を食い止めることができればと思っています。
経済的繁栄の決定的原因は、経済的所得層の総中流化であるとわたしは考えている。それを逆に立証しているのが、今日(2010年)のアメリカ合衆国を主軸とする世界同時不況であろう。アメリカ合衆国において特に、またその傘下の日本においても、所得格差の大きな偏(かたよ)りができている。一部の人間に大量の貨幣が集まるということ、すなわち、動産、不動産、預金が集中しているということと関連して、本来ならば流通し、取引されるべきものが、一カ所にとどまったまま動かないため、商品の流通がとどこおっている。すなわち不景気を引き起こしているのである。赤血球を貨幣、酸素を商品にたとえれば、人体の細胞のごく一部に酸素(商品)を運べる赤血球(貨幣などの資産)が集中しているために、体全体が酸欠状態になっているのに似ているのではないかと思う。
貨幣が同じ額面である限り、その国に置いて同じ価値を持つのであるならば、貨幣はほぼ均等に国民に行き渡っていた方が活発な消費活動が生まれるのは明らかである。しかし、ここで逆のことを考えるべきである。そもそもなぜ過剰な経済格差が生まれたのか。株式取引のトリックを利用するユダヤ人の陰謀という過激な説はともかくとして、人間の競争心によるもの、適者生存(ダーウィンの理論)といった古くからの考え方からが、貧富の格差が生まれたと考えるのは自然だろう。一人の人が一日に使いうるお金は限られているにもかかわらず、将来の不安や他の人に対する虚栄心、名誉欲といったものが、強力な権力や経済的能力を持つ国民において、過度の蓄財を生んだことで、異常な貧富の格差が生まれた。マックス=ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、かつての精教徒(ピューリタン)は、商業によって得られた利潤を自らの魂の救済の証として認識していたため、利潤は蓄財へとはならず、さらなる投資として市場に持ち込まれ続けたということであった。その状況下であれば、貨幣は常に資本(現代のような株式市場への投資ではなく、さらなる物資サービス生産拠点である工場・店舗の資本としての投資)となって循環し続けるので問題がなかった。
商業におけるWASP(ピューリタンの流れをくむ白人のプロテスタント)の信仰的熱意の低下が、この不景気を生んだと言えるのではないかと思われる。所得の総中流化と競争心という一見すると二律背反のように思われる命題を弁証法的に解決することが古今東西を問わず、経済問題を解決するものであるとわたしは思う。消費においては、所得の総中流の世界を用意するなら、生産またはサービスにおいては、競争心の世界を導入すべきなのは明らかである。今度は、物資の提供およびサービスの提供においては、何によって競争心を出すか。商業は基本的に政府の関与を一切排除(税金をのぞく)するのが繁栄の原則であるため、商業国民に何らかの政治的な特権を渡すべきではない。よくよく考えると、競争心の報いは、かつては「利潤:もうけ」であった。これはこれからも変わらないだろう。ただし、何一つ生産しない株式市場のようなマネーゲームによる数字上の金儲けがいけないのであって、これが現在のアメリカ合衆国が陥っている不況の原因である。
単なるマネーゲームを阻止する法律を政府で施行することで、良い物資、良いサービスの提供者に利潤を報いるようにしなければならない。今回のアメリカ合衆国の不況は、資本主義の破綻(株式の山を左から右に、右から左にコンピュータというシャベルで移しているだけの株式市場の破綻)と言ってよいと思う。株式という経済のあり方自体が見直されるべきときに来ていると思われる。これからもカルテル、トラスト、コンツェルンといった既存で知られている形態以外の、実質的な独占が生じるとすれば、それはこれまで通り、司法によって抑制する必要がある。すなわち、検察が、自由経済の活性化を阻害する、企業、個人の動きを告発し、停止させねばならない。商品の活動が「なるにまかせよ(レッセフェール・レッセパッセ)であってよいのは、競争状態のある純粋な商業活動(商品・サービスの提供)においてであり、政治的な特権を商業活動をする個人、法人に与えるべきではない。国民所得の均一化は、完全ではなく、ある程度の貧富の格差はあるにしても、総中流に近くなるように、累進課税制度を導入し、個人の場合は場合によっては最大所有財産を決めて、それを超える部分は国家が徴収することによって、少数の個人に貨幣がたまること(死蔵される)ことのないようにしなければならないと思う。特定の企業に貨幣がたまることを抑制するのは税金ではなく司法の役割である。
閉じた場所で閉じた言葉を語る
開いた世界と閉じた世界
閉じた世界にいる人間と開いた世界にいる人間の数はどちらが多いか
閉じた世界にいる人間の数の方が多いのである
なぜなら暗い病院の保護室も
ひとつの宇宙船地球号と言えるのだから
宇宙に人間は日常的にまだ住めないのだから
気の毒にも人間は地球に閉じ込められているのだ
遺伝子も運命もわれわれは選べない
それでもなお自由という夢を見ようとする
宇宙の始まりから終わりまで全てが決まっていて
誰も変えることができない
その絶望、いや希望だろうか
あなたの口から入る物には何の心配もいらないとイエスが言ったのだから
われわれにはたしかに麻薬が必要だ
自由、希望、愛という麻薬が
それが存在しないものであるならば
その幻覚は治療の対象となるのであろうか
それとも存在すると信じることは妄想ではないのか
しかし、われわれには優しさが必要だ
不真実という優しさが
自由、希望、愛という不真実が
ぼくは好きなんだ あなたのことが
ようちえんの職員室近くの窓辺から。写っているのは当時お世話になった先生。この先生も変わってなかった。毎日、朝早くから行ってました。とにかく楽しくてしょうがなかったです。僕は外で遊ぶよりも部屋でいろいろ道具を作って楽しんでました。作ることがその当時から好きだったんだなと、今になって思います。
小論を書く、インターフェースのデザインをする、ソフトウェアの問題の洗練された解決法を思いつく、といったことは簡単なことではありません。高度な創造的(クリエイティブな)作業は、ひらめきの電灯がピカッと光るまでに、時には何日も考え込まなければならないことがあります。しかし、そのひらめきに至るまでに、ぐずぐずしたり、他のことに気をとられたり、コンピュータの画面を何時間も眺め続けるといったことになりがちです。
最近になってわたし自身も、高度な創造的作業をどのように扱ったらいいのかという問題を解決しなければなりませんでした。わたしはこのブログの記事を書くのが大好きではありますが、すでに600ほど記事を書いている以上、オリジナルでなおかつ面白いというアイデアを思いつくのは困難なのです。
記事を書くのは簡単なパートです。しかしアイデアを思いつくのは全く行きあたりばったりです。アイデアにすぐに思い当たったりすることもあれば、何を書くのか決めるまでに20分は考え込まなければならないこともあります。やたらと効率が悪いことがわかったので、わたしはこの創造的活動における障害物を回避すべく、ものを書くやりかたを変えることに努力を注いでみました。
創造性における2フロー理論においては、すべての創造的な行為は2つの方向性の努力が必要とされます。アイデアの創造や生成には、アイデアの破棄や仕上げとは全く異なった精神的状況が必要です。結果的に見て、大半の創造的行為における障害物は、この2つの両方をいっぺんにやろうとして、2つのフローが相殺してしまった結果として生じるのです。
小論を書く必要があるとしたら、いい主題を思いつこうとして、何時間もスクリーンを眺めっぱなしになってしまうということになりがちです。この精神的な障害物によって、時間の無駄遣いだけでなく、苦しみ悩まなければならないことになってしまいます。アイデアを引っ張り出すのは、まるでストローでコンクリートを吸いだそうとすることのようです。
解決法は、創造的な行為に含まれる2つのフローを分離し、それぞれに分けて焦点を合わせることです。フローを分離することで、時間の節約ができます。さらに重要なのは、全く何も出てこないという欲求不満を起こさずにすむということです。
創造的活動における障害が発生した場合、2つの活動を分離しようとしてみてください。わたし自身のものを書く作業に関していえば、記事の見出しを考え出すのは創造的な活動です。アイデアの仕上げをしたり、細かい部分を解決したり、形式を整えたり、焦点を合わせたりすることは、破壊的な活動です。これら2つをいっぺんにやろうとすることが創造的活動における障害物なのです。
デザインを思いつかなければならないとしたら、創造的な活動に当たるのは、形や型をスケッチすることです。破壊的な作業に当たるのは、これらの形を洗練された効果的な意味で組織立てることです。プログラミングにおける問題を解決することにおいては、無数の不完全で非効率的な解決方法を思いつくことと(創造的)、それらのアイデアの断片を全体として統合するように組織立てること(破壊的)が必要とされます。
障害物を克服する最初のステップは、自分の行っている活動のどの部分が互いに打ち消しあっているのかを正確に認識することです。
次のステップは、その2つの活動のうちの1つを停止させることです。通常、創造的な活動における障害物は、十分な選択対象となりうるアイデアを生み出す前に、アイデアの仕上げすることに焦点を合わせることによって生じます。しかし、たくさんのアイデアを持っていて、それらを実行可能なものに組織立てることができないのであれば、破壊的な方向に切り替えるべきです。
わたしの場合、記事を書くことの分割は、アイデアの生成と、アイデアの洗練化のフェーズに分けることでした。毎週、わたしは1時間から2時間、潜在的なアイデアの長いリストを作りました。これらのアイデアのいずれに対しても何らかの行動をするというプレッシャーがなかったので、わたしは比較的早くリストを作り上げることができました。
その後、わたしはその週の記事を実際に書く必要があり、さきほどのリストにだけ基づいて記事を書くことを自らに課しました。このように課すことで、わたしはアイデアを生成する段階を続けるのではなく自分自身の考えを組織立てることに力を入れることができました。
わたしは定期的に記事を書くので、週のまったく違う日に分けて2つの活動を行うことで恩恵を受けています。あなたの創造的な作業の場合にはこれほどの柔軟性は持たせることができないかもしれません。この2つの段階に時間差を設けることができないにしても、なおあなたは2つの段階に分離することはできるのです。次にその方法を挙げます。
あなたが定期的にやらなければならない創造的な作業は何でしょう?時間を節約するために作業のフローを分割する方法が何かありますか?
以上は、
原文:「How to Speed Up Highly Creative Tasks」Scott Young
からの翻訳です。
わたしは仏教修行者ではありません。しかし、わたしが考える、そして(不完全ながらも)体験したといってはおこがましいですが、「仏教的な」「解脱」「悟り」のようなものについて解説したいと思います。人生はあらゆる束縛に満ちています。その束縛から全て脱すると、どうなるのか、それが言ってみれば解脱であり、悟りです。
人間が煩悩を持つ凡夫であるというのは、仏教的な説明です。煩悩とは何でしょうか。それはどうしようもないことをどうかしようと悩むことです。凡夫とは煩悩を追い続ける人間の呼称です。悩みが多い時代が現代だと言われています。では、ここで言っておきたいことがあります。あなたがこの24時間、もっと言えば、起きている時間だから16時間くらいで生活するのに必要なのは何ですか?と。おそらく、衣食住、それもわずかな量であるはずです。悩みがあるにもかかわらず、今日一日には困ることがあまりないのが人間なのです。
人間の悩みの多くは過去の後悔と、未来に対する不安です。なぜ人間は悩むのでしょうか。また、なぜ苦悩の深い人は偉大だと言われるのでしょうか。それが、悩みが知性を原因としているからです。過去の振り返りと、未来の予測は人間の知性の働きであり、本能ではできないことです。解脱とは今を生きることに方向転換をすることなのです。知性を捨てるのが、解脱や悟りなのではありません。プライドやこだわりを捨てるのも悟りではありません。戦争などの異常事態でなければ、今、この瞬間だけの自分の欲求を考えれば、ほとんど充足可能な欲望ばかりのはずです。時間は、「今この瞬間」の連続によってできています。悩む人は、一歩先、二歩先を見失い、五十歩先や、百歩前を見ようとするために、いってみれば、すぐそこにある石につまづいて怪我をしてしまうのです。今日一日のためのプライドは必要です。プライドを全て捨てては人間ではなくなります。こだわりを捨てれば芸術もなくなります。今の一瞬を大切に、今日一日を大切にすれば、3年後も5年後もきっと幸せなはずなのです。
あらゆるものの束縛から解かれるとは、人、集団との一切の契約関係を絶たねばなりません。結婚、親子、雇用。しかし、わたしたちがそれらの束縛から離れるのは現実的ではありません。かつては出家と在家に分け、いわば解脱に段階をつけたと思われます。それは時代こそ違え、今でも変わりません。究極の解脱は出家です。わたしたちには束縛があり、その束縛を捨てられないこともあります。怪我や別れといった、運命。英語で言えば「destiny」「fate」といったものがあります。こういったものに対して、仏教は、ギリシャのストア派やエピクロス派とよく似た態度を取ります。避けられないことを避けようとするのも煩悩なのです。どうしようもないことは考えず、できることのみをやるのが、仏教で言う知恵の完成の極意であり、ストア派的、エピクロス派的な解決方法です。
悟りの究極は、路傍(ろぼう)の石(=道ばたの石)が、自分自身と同じであることに気づくことに他なりません。石が動くのも、自分自身が動くのも、何か自由な意志によって決まっているのではありません。人間がどの選択をするかは、遺伝子による脳構造と過去の経験からできた思考パターンによって決まるのですから、ある条件における人間の選択は必ず一通りになってしまいます。それは石を持ち上げて、手を離すと、石が下に落ちるのと同じです。すなわち、一切は避けられないことなのです。そして、そのことから、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、一切皆苦(人生は全て苦しい)という思想に行き着くことになったのかもしれません。
何かを思い込むことと妄想を仏教では一番の毒だとしています。それが知性の働きであるのにもかかわらずです。知性とは生命体が神経系を発達させた結果、脳という中枢神経を作り出し、脳は肉体を効率的に生かすためのツールとして使われているということなのです。誤った過去の振り返りと、誤った未来の予想は、妄想に他ならず、それは、たいてい、どうしようもないことをどうしようかと思い悩むことであることが多いのです。そういったことを悩まず、できることしかしないのが、ストア派的でありエピクロス派的であり、仏教的な解決方法(煩悩を捨てる)なのです。これは新約聖書のナザレのイエスの言葉「野の鳥、まかず、からず、つむがず、生きる。いわんや、人間をや。明日のことで思い悩むな」(マタイによる福音書6章25節)という言葉にも通じています。どうにもならないことに知性を働かすことは煩悩のなせるわざであり、全くの無駄です。
仏教には四苦八苦という言葉があります。生、老、病、死の四苦に加え、「求不得苦(ぐふとくく)」(=求める物が得られない苦しみ)、「愛別離苦(あいべつりく)」(=愛する者と別離する苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(=怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」(=生まれもっての神経構造からくる、あらゆる精神的な悩み)よく見るとどれも自分ではどうにもならないことです。こういったどうにもならないことは考えないし、何もしないというのが仏教であり、繰り返しになりますが、ギリシャのストア派、エピクロス派の思想と酷似しているといえます。ストア派もエピクロス派も、何かを為すときに最善を尽くすけれど、運命によって左右される結果については考えない態度をとります。ストア派の祖であるゼノン、エピクロス派の祖であるエピクロスはともに72歳の高齢まで生きました(当時としては最高齢)。無用なストレスを持たずに生きた結果だと思われます。
先に述べた、結婚、親子、雇用は解消可能ですが、人によってはどうしても解消することができないでしょう。その人にとってはその解消は、「煩悩」となっています。物理的には可能でも社会的にはどうしようもないことがあるとすれば、出家(物理的に解消可能)、在家(社会的に解消不可能)の違いはなくなると考えることもできるでしょう。より自由になるために、物理的に可能な束縛は全て捨ててしまうという出家の形も残るでしょうが、社会的な束縛を断ち切れない大部分の者にとってはこの思考は仏教的な意味で福音となるでしょう。
大乗仏教の教典には、悟りとは言語化できないものであり、「あるわけでもない。ないわけでもない。あるわけでもないわけでもない」と評しています。しかし、わたしは悟りは次の言葉に集約できると思います。「自分は何もしていないということをしているのだ」ということを知るのが悟りなのだと思うのです。神経系を持たない石や植物は、何もしていないということをしています。植物が成長するのは、勝手にそうなるのであって、植物自身の意思がそうさせているわけではありません。人間の身体が大きくなるのも同じです。なるべくしてなっているのである。脳という中枢神経系を持つ動物も人間も同じなのです。中枢神経系である脳は生命を維持するためのツールでしかないのに、主人公にまつりあげていることに錯誤があるのです。そこに気づくということが、路傍(ろぼう:道ばた)の石と自分が同じ存在であると気づくことです。
また仏教はあらゆる差別を否定します。ところで、日本人は白と黒をはっきりつけるのを好まないと言われます。ここに仏教的な影響を見る人もいるかもしれません。つまり、仏教は、男と女、白と黒、善と悪、上と下、右と左といった一切の差異を否定して一つのものとして見るという思想だと明言されているからです。であれば、白と黒の中間点の灰色(グレー)が「悟り」の色かというと、わたしは違っていると思います。(一般に日本人はグレーを好みますが。ここに日本人的な好みと仏教の差がある)例えば、左から黒から白へと途中で灰色になりながら変わって行くカラーボードがあるします。しかし、この表面にはどこにも「悟り」の色はないとわたしは思います。灰色(そのグラデーション)白と黒の区別がついている限り、区別が存在するので、仏教的ではないのです。
わたしたちが生きている空間には物質が偏在(へんざい)しています。相対性理論をここで持ち出すのはいささか大げさかもしれませんが、便宜的に使用します。相対性理論では、物質のないところには、空間も時間も存在しません。原初、エネルギーのゆらぎから物質と反物質の対消滅ののち、わずかに残った片方の物質が、ビックバンとして、現在の宇宙を形成しているのです。それは受精卵が分割して、最終的に死に至るまでに、多細胞生物として生きるのに似ています。わたちたちが、白、灰色、黒と認識するのは、言葉や言葉以前の「認識」であって、これは中枢神経系である脳の作用によるものです。白、灰色、黒のボードをビデオのカメラで撮影したとします。ビデオのデータは、白と灰色と黒を概念としては、区別しないはずです。(色の違いとしては記録するでしょうか)これが脳による「認識」以前の世界であり、言うなれば、仏教で言う「悟り」の世界なのです。全てが一体であるから、自分と世界も一体です。であるから、白と灰色と黒のボードを見て分けないのとすれば、白と灰色と黒の全ての色を選択するということである。ここで、透明を「悟り」の色であると言いたいところですが、その透明とは、脳による識別がない、(白と黒と灰色を分けない)という意味で透明なのであって、透明なのが「悟り」を表す色であるとは断言できません。しかし、透明なものは全ての色をその色で透過して映し出す。その意味で、悟りの色を透明であるということもできるでしょう。色が無いということであり、「悟り」をダイヤモンド(金剛石)に例えることがあることもこのことからうかがえます。
自分と世界が一体であるとわかること、自分が世界そのものであることに気づくことも悟りです。先に述べたように、受精卵が多細胞生物である人間になっているのは、ごくわずかな物質がエネルギーの海の中でビックバンを起こして、複雑な系を為しているのと同じなのです。「全てを神にお任せします」というのは「全てを自然(自然法則:仏法)にお任せします」ということと同じ意味なのです。全てが原因と結果の関係(因果律)でできており、何が起きるのか、玉突きのように決まっているのですから、宇宙の始まりであるビックバンから宇宙の終末まで、全て決まっているのです。自由意志は存在しないわけです。しかし、できることは最善をつくし、できないことは悩まない(煩悩を捨てる)という人生態度への変換が、仏教の法へ帰依(自然法則にすなおに従うこと)をしようと覚悟することに他ならならず、本来、誰もができることなのです。四諦八正道(したいはっしょうどう)という修行方法がありますが、これが四苦八苦に対応した言葉であることは予想できます。この修行方法によって、仏教の法へ帰依(自然法則(:仏法)に素直に従い、より、もしくは最大限に効率的に快を得ること)ができるようになるということでしょう。
二人の人が大声を上げてののしりあわずに理屈の通った議論ができるでしょうか?わたしは頑固者なので、感情的になって議論がヒートアップしないないようにするのにとても苦労します。しかし、わたしはやり方を変えることで議論を思い通りに運ぶことができるようになりました。今ではわたしは普通に議論を友好的な雰囲気で続けることができるのです。
友好的な議論は普通なのでしょうか?いいえ、絶対にそんなことはありません。この投稿で行われた無神論と有神論の議論があまりにも友好的に行われたことに驚いてたくさんのコメントを読者の方からいただきました。一方、わたしが聞いたところの大半のオンラインでの議論は(そして多くのオフラインでの議論も)次のように進んでしまうものなのです。
スタートレックのエピソードをご紹介しましょう。データ(アンドロイド)が、宇宙人と戦略ゲームをします。(スタートレックファンでないあなたもしばらくわたしの比ゆ的な脱線にお付き合いください)データは最初のゲームで宇宙人に敗れます。ゲームの論理構造に関しては優れているはずのコンピュータの頭脳を持っているのにもかかわらず彼は負けたのです。
その後、データは相手に対戦を申し込み、なんとか彼を打ち負かすことに成功します。データが説明しているように、キーとなるのは彼がゲームをする前提条件を変えたということにあるのです。データは勝とうとする代わりに相手をステールメイト(身動きが取れず先に進めない状態)に誘うことを狙ったのです。この明らかな戦略の転換によって相手は困り果てついに負けを認めることになったのです。
教訓:勝てないのであれば、ゲームの前提を変えてしまおう。
議論が到達するはずのゴールを単に変えるだけで、あなたは全ての議論において勝つことができるのです。たいていの人たちは、議論を始めると、自分の言っていることが正しいと相手に思わせることを議論のゴールにしてしまいます。そういうひとたちは次のような戦略によって議論に勝利しようとします。
この戦略の問題点は、ひとつ明らかな欠陥を含んでいるということにあります。いつでも相手が「No」と言えるということです。
あなたがもし全てが論理的にくみ上げられた完璧な議論を用意したとしても、それでもなお、反対を受けて議論が終わってしまうのです。同意するか反対するかは相手次第なのです。あなたは一論者として相手を説得させる力を何一つ持っていないのです。相手は単に「No」と言うだけでいいのですから。
自分が正しいのだと相手を説得しようとする代わりに、ちがう前提を設けましょう。わたしは議論を始めるとき、有効な議論へと導いてくれるいくつかの前提条件に立つことにしています。
皮肉なことに、このような前提に立って議論をすると、相手を説得しやすくなるのです。データは勝とうとしないようにすることで勝ちをおさめました。相手が下心を持っていないと感じたとき、人はより効果的に説得されやすいものなのです。
議論に対して「禅」の態度を取ったとしても、議論は熱してしまうものです。他の人が違った観点について述べただけで叫びだしてしまう人もいます。こういうことは特に政治、宗教、菜食主義、同性愛の権利、妊娠中絶といったホットな話題の場合に頻繁に起こります。こういう場合には他の人たちをクールダウンさせるための道具が必要です。
火災を鎮火させるわたしの秘密兵器をいくつかご紹介しましょう。
相手に同意することを戦略的な方向性とすることからはじめましょう。議論において十分な同意を示すことができたなら、異なった意見を出すのが容易になります。相手が自分と同じ側に立っていると感じていたら、人は相手を攻撃しようとしません。
無神論について議論をする際、わたしなら、宗教や神に関して、現状、わたしが同意できる部分から話しを始めます。道徳の中核としての必要性や、哲学体系の質のための必要性や、科学の不足を補うための必要性といったことから話し始めていいわけです。これらの譲歩が弱さの兆候だと感じる人もいますが、実際には議論する際に大いに力になってくれます。
あなたとは反対の立場に立って議論を行いましょう。資本主義が社会主義よりも政治哲学として優れているのだと信じている理由について議論しているなら、資本主義に対する簡単な反論をいくつか示すことから始めます。環境における問題点や、企業が強大になりすぎる危険性や、下院の悲劇といったものはみなスタートの話題として適切です。
反対意見を助けることで二つのことが生じます。
自分自身の議論を弱めずに相手の側を助けるにはどうすればいいのでしょうか?わたしの答えはふたつの態度のうちのひとつを取ることです。第一の態度は、提起された反対意見がどのように克服されるのかを指し示すことです。環境に関する議論を和らげるひとつの方法として、市場原理にのっとった温室効果ガスの解決方法について話すといったことです。もうひとつの態度は、自分の立場が完全でないことを素直に受け入れ、反対する相手と、よりよい答えにたどり着けるように共同作業を行うというものです。
自分が用意した事実や他の人に抱いている感情を大声でわめくのではなく、他の人たちがどのように感じているのかを感じるように努めましょう。仮にもし相手の立場が間違っていると信じていたとしても、その議論についての相手の情熱は間違ってはいないのです。相手の立場に同意できないとしても、相手の情熱を取り込んでみるようにしましょう。
政治や宗教に関する議論はわたしたちが思う以上に関係性における議論と関わっています。結局、議論は事実や論理によって勝ちが決まるのではなく、どう感じるのかで勝ちが決まるのです。感情移入することなしに論理だけで勝った場合は常に、勝利は中身のないものになってしまいます。最終的には誰かを納得させるのではなく自分自身を納得させることになるのです。
以上は、
原文:「How to Win a Debate Without Starting a Flame War」Scott Young
からの翻訳です。
アレクサンドロスがエジプトとペルシアを占領し
カエサルがガリアを占領し
秦の政が中国を統一した
それでもやせこけた僧は言う
わたくしに必要な土地
いまのわたくしに必要な土地は、この両足がある所だけですと
必要最小限は貧しい
金持ちが天国に入るより、やせこけた僧が天国に入る方がいいのだろうか
仏教徒の僧はそれすら望まない
心が貧しい人は幸いだと言う
しかし、持っていない者は持っているものまで奪われると言う
イエスが
物は豊かで心が貧しい人はどうなるのだろうか
幸いではあるが針の穴を通れないラクダだということになるのだろうか
何も持たないのは自由だ 何も奪われない
しかし、さびしい
何もかも持っている人は何もかもを捨てることはできない
イエスもそれを知っている
それは嘘の喜びなのだろうか
所有の喜びは
釈迦はある金持ちの全財産を捨てさせた
その金持ちは前より豊かになったに違いない
釈迦はその金持ちの下心をよく知っていたのだから
わたしは大変まじめに娯楽と向き合っています。再放送することのできない人生は短すぎます。娯楽の時間を最大限に生かすことは一見、誰にでもできそうなことです。楽しいことをやるのが大変だなんてことはありえませんよね?
不幸なことに、レジャーに使う時間は無駄に過ごしてしまうことが一般的だという事例があります。ミハイ・チクセントミハイ(心理学者)は、彼の著書、『フロー理論』の中で、被験者にその日の合間合間に感じた幸福感を記録してもらっています。驚くべきことに、彼らが最悪の時間だと感じていたのはオフの時間でした。人は思っているほど楽しんでいるようで楽しんでいないのです。
たいていの人は娯楽に対して無意識的な姿勢で向き合っています。娯楽は世の中で生じる問題や挑戦から離れた休憩だと思われています。娯楽についてもっと考えてみる必要はないでしょうか?
自由な時間を退屈な時間にしてしまっているのが実はこういった娯楽に対する態度によるものなのです。娯楽を最大限に生かすことに対してもっと意識的なアプローチを取ってはどうでしょうか。問題をもっと注意深く眺め、自分が自由時間をどのように過ごしているのかを分析することで、より少ない時間でもっと楽しいことができるはずです。
一年間、ありとあらゆる娯楽を断(た)ってみましょう。できると思いますか?おそらくできないでしょうね。娯楽やレジャーに使う時間は、単なる時間の浪費ではないのです。しかし、娯楽があなたの人生の中でどういう役割を果たしているのかを知らないでいる限り、おそらく娯楽は空しく退屈なものとなってしまうのです。
わたしが短時間のブレーンストーミングで得た楽しみの働きについていくつか挙げてみましょう。
あなたにとっての娯楽の必要性もおそらく以上にリストアップしたものの中に含まれているでしょう。娯楽を最大限に生かすためには、これらそれぞれの観点からオフの時間を見つめ直す必要があります。この見方に立って楽しみを眺めてみると、どんなタイプの遊びが一日に価値あるものにしたり、あるいは反対に単なる悪い習慣なのかを、簡単に理解することができます。
「タイムログ」をつけましょう。タイムログとは簡単に言えば、あなたが始めそして終わったありとあらゆる活動の記録した詳細な日誌です。少なくとも一週間は、あなたが行った仕事、日常の決まりきったこと、遊びの大半をタイムログに取り込んでください。(タイムログについてもっと知りたい方はこちら(英語)をお読みください)
タイムログをつけ終わったら、レジャーに使った時間をカテゴリー分けしてください。こんなリストができるでしょう。
わたしはかつてこれと似たようなタイムログをいくつかつけたことがあり、結果はしばしば驚くべきものでした。通常、ひとつのことにどれだけの時間をかけたかということの頭の中の意識と、実際に費やした時間は、ぜんぜん違うのです。一生懸命に頑張ったと信じていても、タイムログは異なった事実を示してくれます。あなたはもっとも楽しいことを娯楽として行っていることを信じているにちがいありません。テレビ番組の再放送を見ていたことがリストの最上位に占めているのを自分の目で見るまでは…。
娯楽に対してスノッブな態度を取るのはやめましょう。娯楽におけるスノビズム(俗物根性)によれば、「Simpsons」を見るような娯楽のあり方よりもオペラを見に行くような娯楽のあり方のほうが優れていると信じることになります。娯楽のスノビズムに頼っていては、自分の頭でどうやったら楽しい時間を過ごせるかということを考えなくなってしまいます。レジャーに使う時間をどうやったら一番良く使えるかを自分自身で考えましょう。
娯楽で何が重要なのかを判断する基準の上位3番目までピックアップしてみましょう。わたしのはこうです。学習(目新しいものに触れる)、社交、リラクゼーション。あなたのリストアップしたものはこれとは異なるでしょうが、とりあえずこれらのものがわたしが楽しいと感じる3つの主要な理由なのです。
3つの基準を確認したら、先ほどリストアップした娯楽のカテゴリーをあなたの主観的な判断でランキングしてみてください。テレビは学習や社交という意味ではあまり意味をなしてはいないでしょうが、テニスをするよりもずっとリラックスした時間を過ごすことができているのです。それぞれの娯楽をランキングすることで、自分が何を本当にもっとも楽しいと思っているのかを見つけ出すことができるのです。
これらのプロセスを踏んだら、どれだけの時間があなたにとって楽しくないと思っているもののために使われているのかということを知って驚くでしょう。次のステップでは、高品質な娯楽により多くの時間をかけ、退屈なもののためにはより少ない時間しかかけないように、習慣を変えましょう。
単純に娯楽を低品質なものから高品質なものに変換することは避けるように提案します。これは大変難しいのです。なぜならたいていの高品質な娯楽というのは時間を多く割けるようなものではないからです。1ヶ月に1回、映画を見に行くのはよいでしょうが、1日に3回も見に行けば興奮するようなことではなくなってしまいます。
わたしが娯楽を向上させるために行っている戦略は2つのパートに分かれています。
自分自身にあった楽しみを作り出し、人生の時間を盗んでいくくだらないものを一掃しましょう。
以上は、
原文:「Upgrade Your Entertainment」Scott Young
からの翻訳です。
信仰とは、いわば根拠のないことを信じることである。科学は根拠のあることのみを扱う。以前、本能と知性について文章を書いたが、信仰と科学も知性の領域に属することである。本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。信仰は魔術(呪術)、宗教に分かれるが、後天的にその概念を手に入れる。科学は妄想を扱わないが、信仰は妄想を持つことができるといえる。
人間には妄想も必要なのであると考えられないだろうか。例えば、善いライオンと悪いライオンというのは、童話の中にしか存在せず、科学の世界にあるのは、強いライオンと弱いライオンでしかないことを考えると、人間に対して、善と悪のレッテルを貼ることは科学的ではない。善悪が社会的な概念であると仮定したとしても、社会性を持つアリやハチに善悪の観念があるかというと、実際にはないであろう。アリやハチは本能によって社会性を営んでいるからである。
いわば、善という「妄想」、悪という「妄想」を人間は持ちたがるのである。そのことに功利主義的な意味があるのかと言えば、あるだろう。プラトンは「神」を「善のイデア(概念)」と称したという。善悪の観念が実体のない妄想であると考えれば、当然、「神」も妄想である。しかし、人類はなぜ、「神」を信じようとするのか、そして、それは多くの場合、プラトン的な「善のイデア的な神」、例えば、キリスト教で言えば、「愛」であるように、信じようとするのか。それは多分に「あまえの構造」にあるのだと思う。「すがりたい」という欲求である。すがる対象は、個人、集団、そして、「精霊」「神」である。「精霊」「神」のみが、合理的な存在(存在を理性的に立証できる存在)でない。しかし、究極のすがる対象がやはり「神」なのである。さらにいえば、合理的な存在でないがゆえに、すがりの度合いが無限大になりえるのである。「一切を神におまかせします」ということである。
わたしたちのいう善悪の概念が、権威者から禁止されたことをしてしまったことを恥じ、隠すことから始まったことは旧約聖書のアダムとイブの善悪を知る木の実を食べる寓話から暗示されている。そもそも禁止なるものを設定する必要は、社会集団を維持させるために「決めたルール」であったことから始まる。すなわち知性によって「決まり(ルール)」ができたわけである。ルール(rule)とは英語では「統治する」という意味がある。そもそも社会を維持するためにそこに「決まり(ルール)」を作る存在が支配者であり、究極には「神」であることになっていると思われる。すわなわち、古代において「神」の代理人として、または現人神として、支配者がルールを設定していたのである。人間の能力の卑小さは、自然災害などを前にした、無力さから痛感させられ、そこから、ある社会集団の支配者であるといっても、それ以上の存在として、「神」を設定する必要があるのであろう。神を「悪」として考えた場合に、それは私的な欲望を満たす神であって、社会集団を維持する神は「善」であるはずである。自然を前にした人間の卑小さに対する「すがり」の対象として、「善のイデア」たる神の存在は、いわば人間の精神安定上必要な存在たらざるをえないのだと思われ、科学的には妄想である「信仰」「神」は、功利主義的な意味において、人間が全知全能の存在にならない限りは科学とともに併存し、存続し続けるだろうと思われる。
人生では、他人があなたのことをどう思っているかということが、チャンスに結びついていることがよくあります。もしもあなたが周囲の人たちから頭が良い人だと思われていたら、いろいろなプロジェクトに参加してくれるよう頼まれやすくなるでしょうし、もしもにぶい人だと思われていたら、あなたは話題にもされないでしょう。
実際に頭の良い人であれば、なにも取り繕ったりする必要はありません。ゴールはあなたが頭の良い人だと思われることです。人間というのは自分以外の人間を知性的な人かどうか判断するのがあまり得意ではありません。あなたが人に知性的だと思われやすくするための方法を6つ挙げましょう。
大半の人は自分の知っていることを話すことで頭を良く見せようとします。しかし、これは裏目に出ます。威張りくさった人だと思われやすくなるのです。それに加えて、どんな分野でもいつも専門家のように話をする人は、疑いの目で見られやすいものです。
自分がどれだけのことを知っているのかを見せようとするよりも、質問をすることのほうがずっと効果的にあなたの知性を引き立てます。これにはいくつか理由があります。第一の理由は、本当に知性的な人はとても勉強家だということです。彼らが知性的になったのはそこに理由があるのです。学ぼうとする姿勢のないまま、頭の良い人のように振舞おうとしても、うそが見抜かれるだけです。
質問をすることが効果的な第二の理由は、たいていの人は自分のことを頭がいい人間だと思っているからです。質問をすることで、相手に知識を披露させる機会(これはみんなが大好きなことです)を設けてやることができるのです。自分の専門分野だと思っていることについて質問されると、相手は自分のことを知性的だと思っているから、自分が重要だと思っていることに興味を持ってもらえたということで、あなたまでも知性的な人に違いないと考えてしまうものなのです。
もちろん、どうしようもなく馬鹿な質問をして論争になるようなことはあってはなりません。相手に話す余地を残しながらあなたが知っていることを示せばいいのです。たとえば暖房や空調に関する仕事をしている人に話しかけている次の質問について考えてみてください。
「地熱ポンプについて読んでみたんですが、どう思います?ほんとうに役に立つものなんでしょうかね?」
自分の知識を示せています。しかし、相手に専門家としての余地を残していますね。自分がどれだけのことを知っているかということを示そうとして単純にべらべら話すよりもこのほうがずっと頭が良く見えることがわかっていただけると思います。
あせって話そうとしてはいけません。議論が行われていたらまずは他の人にしゃべらせておきましょう。考えをより洗練されたものにするために余計に時間を取ることであなたに対する見方は大きく変わります。あなたが最後に言葉を発して、他の人たちが示した有効なポイントの数々を単純に要約してみせれば、あなたの発言は実際にそのアイデアを出した人以上に記憶されることでしょう。わたしは他の人のアイデアを横取りしなさいと言っているのではありません。非常にいいアイデア(他の人の賞賛を得るようアイデアであっても)をあなたが別の言葉で言い直すことであなたがより頭の良い人間に見えるということを言っているのです。
ばらばらな情報は怪しげに見えます。あなたが話す情報の出どころについて言及しておくことはあなたがどう受け取られるかということにおいて非常に価値のあることです。私の周囲に全てについて専門家のように話す人がいました。彼らはしばらくは何でも知っている人と思われていましたが、だんだん、そう見せかけているだけではないかと疑われるようになりました。
情報の出どころを明確にするというのは「…と書いてある新聞記事を読みました」や「新聞に書いてあることを正確に思い出して言うと、ある科学者がこんなことを書いていたんです」といった簡単なことでいいのです。情報の出どころを明確にすると、より信頼の置ける謙虚な人だと思われますし、もし間違っていた場合でも逃げ道を確保できます。
娯楽がもっぱら映画やテレビという文化環境にいたとしたら、バレエやオペラや博物館に足を運ぶことで、あなたは他の人から一歩距離を置くことができます。例えば、似たような評価の二人の同僚と話をしているとします。そのうちの一人に週末に何をやったか尋ねると「Simpsonの再放送を見たよ」と答え、もう一人に尋ねると「オペラを見に行ったよ」と答えたとします。どちらのほうを知性的だと思いますか?
もちろんオペラに行ったことを得意に話し続ける人はじきに鼻持ちならない人だと思われるようになります。しかし、文化的な体験の違いが知性と勘違いされることはよくあるのです。あなたが体験したことをひけらかさない限り、頭の良い人間だと思われやすくなります。
これは慎重に行わなければなりません。単純に周囲の全ての人と反対の意見を持っても意味がありません。しかし、他の人と異なっていてもよく理屈の通った立場であれば、独立した考えを持つ有能な人間だと思われることになります。ただし人を侮辱しないように気をつけなければなりません。存在する全ての関係に注意が行き届いているようなことはないということを頭においておかねばなりません。自分の会社の社長の娘に、社長が無能だという立場に立って話しかけても、あなたは知性のある人だとは思われないのです。
例を挙げましょう。
「わたしが個人的に感じていることなのですが、『クルミ割り人形』ほどこの国でバレエに害を及ぼしているものはないと思うんです。たいていの人のバレエとの接し方は、『クルミ割り人形』をクリスマスに見るということだと思っているでしょうが、『クルミ割り人形』の話の筋が信じられないほど退屈なので、アメリカ人全体がクラシックダンスというもののストーリーに不必要に低い評価を下すことになっていないでしょうか」
この意見はおそらく大半の人とは反対の観点だと思いますが、優れた会話のスタート地点を提供してくれています。(少なくともある程度はバレエについて知っている人に話しかけているという前提においてですが。)もしあなたがこの意見に賛同しないにしても、自分の考えを偉そうに誇示しない限り、わたしは平均的な人とは違った考えをしようとする人だと思われるに十分なチャンスを得ることができるのです。
実際にあなたが何かを読んでいることにこしたことないのですが、しかし、あなたが頭の良い人だという仮定に立って話を進めているわけですから、当然、あなたは「頭の良い」読み物を読んでいるに違いないと仮定していいわけです。あなたは「ハーバードビジネスレビュー」や「ウォールストリートジャーナル」のコピーを持ち歩いていていいはずです。情報の出どころを実際に持ち歩くことで、あなたと交際する人はあなたのことを確かに知性的な人だと考えることになるのです。
もうおわかりになりましたね。6つのことであなたは頭の良い人だと思われるようになるのです。あなたがもしどうしようもなく頭が悪いとすれば、これらの方法論は何の役にも立たないでしょう。もしあなたがある程度、頭が良い人であれば、知性がある人だと人から思われるのにこれらのことが役に立ってくれるでしょう。あなたが行動と会話でいかに人々に鋭い印象をもたらすことができたかということに気づくことできれば、これまでリストアップしてきたことが本当に意味をなしたと言えるわけです。
以上は、
原文:「6 Ways to Appear Smarter」Mark Shead
からの翻訳です。
アリやハチは人間と比較してもいいような社会生活を営んでいる。しかし、その機構は、本能によって定められたものである。人間の社会は知性によって成り立っている。これ「知性と本能」はベルクソンが提起した問題でもある。生物学的なアリやハチの社会構成と人間の社会構成の綿密な比較は、この際、できないのでやめておく。ベルクソンは知性を本能の上に立てて考えた。その理由は、人間は本能と知性の両方を持つが、ハチやアリは本能とわずかながらの知性しか持ち合わせていないと考えたからであろう。知性とは経験からの累積から生じた思考パターンと言えるだろう。
西洋の対置としての東洋、特に西洋哲学の対置としての仏教を考え、人間の幸福を人生の目的と考えた場合(本来、仏教は人間の幸福を考える思想である)、知性は本能に劣る可能性もある。知性は、妄想を生むというのが仏教の考えである。本能はある外部から、また内部からの刺激に対する反射的な運動である。したがって、無駄がほとんどなく、現象の原因と結果はほぼ一瞬で了解でき、解決する。一方、知性とは、過去の経験の回顧、および未来の予測である。それによって思考、行動を決定しようとする。ある状況において、(もし仮に生命体が「幸福(快)」になるために存在しているとすれば)、過去の経験の回顧、及び、それによってできた思考パターンから、誤った未来の予測をするとしたら、結果は「不幸(不快)」であり、エネルギーの無駄による疲労まで生じてしまう。誤った過去の経験の回顧と、それにともなう誤った未来の予測は妄想に他ならない。人間の知性が妄想へとおちいる(誤った過去の回顧と誤った未来の予測)理由は、現時点における自分自身のおかれた状況と、解決しようとする問題に大きな隔たりがあるからであるだろう。刺激に対する反射運動でしかない本能では不可能なこの事態を、知性は可能にしてしまうのである。
本能は先天的(アプリオリ)であるが、知性は後天的(アポステリオリ)である。したがって、本能による行動(反応)は、同種の生命体であればほぼ同じであるが、知性では、行動(反応)は、同種の生命体においても、過去の経験の違いに寄って別々になるはずである。知性が妄想にならないためには、過去の経験の回顧と、未来の推論を精緻にすることである。そこに一定の指標を設けるとすれば、その過去の経験の回顧とそこから演繹される未来の推論を第三者に言葉(もしくは数字)によって説明して納得してもらえるかどうかということである。確かな事実の累積(過去の経験の確かな累積)による、正確な未来の推測は、場合によっては、人類に莫大な利益をもたらす(例えば科学技術)が、それほどの恩恵をそもそも、個人がそこまで欲しないのではないかと考えるのが仏教であり、「知は力である」とフランシス・ベーコンが言った西洋文明と仏教の対峙がある。仏教的観点から見れば、知性は本能を説明することができるにすぎず、本能以上に知性が人間の幸せに貢献するとは限らないという見地から、知性と本能の価値を比較しないのである。
僕は将来、どんな形であれWeb(インターネット)に関わった仕事(会社に雇われるのではなく独立した状態・本業もしくは兼業で)をしていきたいと思っているので、Webからどのようにして収益を得るかということは重要です。僕の考えをまとめるためにこのエントリーを書くことにしました。まずはWebで収益を上げる方法を以下のように分類しました。
とりあえず現在のWebで考えられるのは以上のようではないかと思います。これだけでは具体的な想像がつきにくいので、それぞれの分野で成功している会社名もしくはサイト名を挙げてみましょう。
中には具体的な会社名(サイト名)でなく普通名詞も含めています。個々の説明は割愛します。次にそれぞれの分野で成功している会社(サイト)の特徴を挙げてみます。
僕は現在、Web制作の会社に勤めています。しかし、一番問題を感じているのは、前に一度やったことのある作業(特にプログラミング・HTMLコーディング)を別の会社のサイトということでもう一度やらなければならないということです。たしかにプロとして働く以上、当然かもしれません。しかし、前にやったことのあることをもう一度やるのは技術的な進歩があまり望めません。インターネットは技術の進歩のスピードが他の業界に比べて圧倒的に速いので、同じところで足踏みをするのは危険だし面白くないと僕は思うのです。同じ作業を繰り返す必要のない会社はないのでしょうか。
同じ作業を繰り返す必要がないという点ではWebサービスを行う会社が一番でしょう。一度サイト(サービス)構築をしたら、サイト(サービス)の改善をひたすら行うだけで、同じような機能のサイトを別のところで立ち上げることはないからです。改善を行う過程で常に新しい技術に挑戦することができます。しかし、Webサービスはレンタルサーバを除いて収益を上げるのがとても難しいです。まずは使ってみなければユーザーはついてこないので無料で使わせる必要があります。しかし、無料から有料に切り替えるにはユーザーがそのサービスをよっぽど気に入っていないとできないことです。ほかにも広告で収益を上げる方法がありますが、よほど人気のあるサービスでないと広告で十分な収益は望めません。
僕が将来考えているのは、Web制作とWebサービスを組み合わせた形態です。Web制作の基本路線は変わらないのですが、カタログ・ショッピングといったサイトの基本機能をプログラミングし、そのプログラムをクライアント(発注した顧客)ごとに改造することは一切せず、デザインはいくつかのテンプレートから選択させ、希望する独自ドメインつきで複数のクライアントに低価格で売ります。無料のお試しサイトも用意します。僕が行うのはそのプログラムのサーバーへのインストール作業(データベース構築・FTPでのファイルのアップロード・初期設定)です。毎年、サーバー費用とは別に管理費を徴収します。テンプレートにない個別のデザインを希望する場合は、比較的高い価格でデザイン作成を請け負います。プログラム部分は定期的にバージョンアップし、大きなバージョンアップがあった場合は、別の商品として再度プログラムを売ります。前のバージョンで独自のデザインを希望している場合は足りない部分のデザインをする必要があるので別途代金を請求しなければなりません。段階を見てデザイン部分の変更に関してはクライアント側で行えるようにしてもいいでしょう。その際、重要なのはデザイン変更の自由度を高めることだと思っています。また、これとは別に総Flashサイト(ページすべてがFlashでできているサイト)の受注を通常のWeb制作会社の運営方法で請け負うことも考えています。Flashはデザインとのからみが非常に大きいので同じ作業を繰り返すことが少ないと思われるからです。
以上のように自分勝手にまとめてみました。Webを志す人は一度は考えなければならないことなのですが、参考になりましたか?
バスフォーム マリン(サンタ・マリア・ノヴェッラ)6,480円
シャワーソープ バニラ(サンタ・マリア・ノヴェッラ) が無くなるので、代わりに買ってみました。
ざくろの香りらしいです。
レジストリ (Registry) は、Microsoft社製のオペレーティングシステム(OS)で用いられている設定情報のデータベースである。OSに関する基本情報やアプリケーションの設定、拡張情報などのほか、拡張子の関連付け、ユーザパスワードなども保存されている。Windows 95およびWindows NT以降で主流となった。これらのデータはハードディスク内に分散させたファイルとして記録されている。
以上はWikipediaからです。レジストリはレジストリエディタで編集できます。編集後は、マシンの再起動が必要なこともあります。
Boot CampでWindows7を使っているのですが、コマンドキーとコントロールキーを入れ替える処理をするのに、下記のサイトを見ました。
http://pilier.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
メモ帳などで
Windows Registry Editor Version 5.00
[HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\Keyboard Layout]
"Scancode Map"=hex:00,00,00,00,00,00,00,00,04,00,00,00,5b,e0,1d,00,1d,00,5b,e0,1d,e0,5c,e0,00,00,00,00
と打って保存。
拡張子を
.reg
に変更して、レジストリエディタで開けば勝手に書き換えてくれます。
マシンの再起動をせずに、試して、できないと嘆いていました。注意してください。というか専門家には当たり前のことですね。
こちらもどうぞ。
以上の記述はWindows10でも動作確認済みです。
GTD(Getting Things Done:物事を効率的に片付ける)のすべてのは方法論は次の3単語にに要約できます。「Do it Now(いまやりなさい)」です。物事を始めるのは明日ではなく今日のほうがいいし、計画をその日の後半に先延ばしするよりも今から一時間のうちに実行するほうがいいし、習慣を変えるのは来年の1月からよりも今月からのほうがよいのです。
これをもうひとつ別の言葉で要約すると、「初期の負担を大きくしよう(make your time top-heavy)」ということになります。物事を片付けるのがうまい人は初期の負担の多いスケジュールを立てます。慢性的な遅れの原因は後期の負担が大きいスケジュールにあるのです。
初期の負担の大きいスケジュールとはどんなものでしょうか?
初期の負担を大きくするとは、仕事の大半をスタート時点に行うということです。初期の負担の大きいスケジュールではスタートが重要であり、最後のほうに余裕を残すようにします。生産性向上のためにより初期の負担の大きくするためのポイントはわずかです。
後期の負担の大きいスケジュールはちょうど逆です。もっとも重要な仕事やもっとも困難な仕事を後回しにするということです。たいしたことのない事柄に手をとられているうちにどうしようもなくなってしまうような仕事の先延ばしの原因です。
どうやったら初期の負担を大きくすることができるでしょうか?
初期の負担の大きなスケジュールをどうすれば実行できるのか知りたい場合に、頭に置いておかないといけない指標が3つあります。
初期の負担を大きくすると生み出されることが2つあります。第一に、仕事が実際に成就することを保障してくれます。後期の負担の大きなスケジュールは時間の無駄遣いや期限に間に合わないといった事態を招きます。第二に、初期の負担の多い生活によって生活にゆとりが生まれます。仕事を早く終わらせることによって、スケジュールの後期には後ろめたい意識から解放され安らぎが得られます。だらだら始めて夜中にあわてて仕事をするよりも、早起きして仕事を2、3時間で終わらせてリラックスする時間を残すほうがよいのです。
スケジュールをバランスの取れたものにするための方法をいくつか挙げておきます。
以上は、
原文:「Make Your Time Top-Heavy」Scott H Young
からの翻訳です。
あなたは会議が好きですか?
会議の途中で居眠りをしたり、最後まで黙り込んだりしていませんか?このエントリーは役に立つ会議というものをテーマにしています。
僕が考える役に立つ会議は次の3つのポイントを満たしています。
僕がこれまで参加したことのある会議では、この3つのポイントが全くもしくはほとんど抜け落ちていました。それが理由でこのエントリーを書いているわけですが。
僕が思うのは多くの人が「話し合い」と「会議」を混同してしまっているのではないかということです。僕は両者を次のように区別していす。
話し合いの目的:話し合いに参加する人たちが最終的に意見や気持ちを一つにまとめること。
会議の目的:会議に参加する人たちが抱えている問題点をできるだけたくさん発見し、可能なら解決策まで見つけること。
「話し合い」と「会議」の決定的な違いは、人間の「感情」に対する考え方です。
「話し合い」では参加者の「感情」は最も重要な要素です。最終的に意見や気持ちをひとつにまとめることが話し合いの目的だからです。一方、会議では「感情」はひとまず脇に置いておくべき要素です。よく会議で自分の意見を否定されて怒り出す人がいますが、そのような状況は望ましくありません。参加者が感情的になることで、会議に提出される意見や問題点が見えにくくなり、参加者に対する好き嫌いで意見が判断されてしまいがちになるからです。
悪い会議の例として、第二次大戦の戦艦大和の海上特攻作戦を決定した会議が挙げられると思います。参加者の誰もが十分な航空機による援護のないこの作戦の無効性・不可能性に気づいていました。それにもかかわらず特攻作戦は決定されました。なぜなのでしょうか?その最も大きな理由は「会議の空気」でした。実はこの場合、会議が始まる前から、大和特攻は「当然のこと」として参加者の中で暗黙のうちの了解があったようです。そのようなななかで「その作戦は無意味だ」と主張することは、場違いなこととして慎まなければならなかったのです。つまり、この会議の目的は、大和特攻の可否を決めるための会議ではなく、作戦を断行するために参加者の「気持ちをひとつにする」という意味合いにおいて行われたのではないでしょうか。つまり「会議」ではなく「話し合い」だったのです。
現状の日本の学校や会社においても、この大和の特攻作戦の会議と同様に、「会議」の名前をした「話し合い」が往々にして行われています。実はこれは日本人の国民性と切り離しては考えることのできない問題なのです。日本人は理性と感情を区別して扱うことが苦手な国民です。もちろん僕も含めてですが。だからこそ、重大な問題を扱う「会議」を「話し合い」にしないために、意識的に「会議」がより「会議」らしくなるための自覚が必要だと思います。
僕は「話し合い」が役に立たないということを言っているのではありません。最近、仲が悪くなっている夫婦がふたたび仲良くなるために二人で「会議」をするのは間違いです。この場合は当然「話し合い」をしなければなりません。しかし逆に今後の会社の方針を決めるのに「話し合い」をするのは危険すぎます。
日本人の社会では大人は「空気を読むこと」を求められます。日本人は「空気を読むこと」によって人間関係をスムーズにし、不必要なエネルギーを使わなくてすんでいます。自分よりも他人に合わせる。他人が謝る前に自分が謝る。といったことは日本人の美徳でもあります。「話し合い」では「空気を読むこと」は重要です。しかし、これが「会議」の場においてはマイナスに働いてしまっています。「会議」において「空気を読む」と、みなが同じような意見を出すか、それ以外の意見の人は黙り込んでしまっていることになりかねません。これでは問題発見・問題解決ということがほとんど行われなくなってしまいます。
現実問題として、「会議」を「会議」らしくする、つまり、会議を有効なものにするためには会議の司会者の技量が非常に重要です。司会者という言葉が不適切なら議長でもいいのですが。最後に僕の考える良い司会者の特徴を記述しておきます。
確かに上記にリストしたポイントをすべておさえている司会者はなかなかいません。しかし会議の司会者が上記のポイントを意識しているだけで状況はだいぶ変わるはずです。
簡単に言えば、「日常、自分がやっている作業または生活の数々をいかに効率よく生産性良くやっていくか」というのがライフハック・GTDの考え方です。
僕が思うに、ライフハックの基本は、自分がやらなければならないこと、自分がやりたいと思っていること、人から頼まれた仕事、そういうものを頭の中で管理するのではなく、徹底的に可視化(目に見えるようにする)ことです。可視化の方法は、紙に書き出すでもいいし、前のエントリーで紹介したRemember The Milk(RTM)のようなコンピュータのツールに入力するのでも構いません。
僕のタスク管理のポイントを箇条書きにしてみます。
僕がやっているのはこれだけです。当たり前のことかもしれませんが、大量の作業を一度に依頼されて「本当に終わるのか?」と不安になるときに特に有効です。ポイントは簡単なものから片付けること。実は大量の作業(例えば50個)の大半(45個)はものの15分くらいで終わるものなのです。それを終わらせてしまえば、時間のかかる作業が5個くらいしか残らないものです。簡単な作業を全て終わらせて「完了」「済」マークがついていると、精神的にすごく楽になります。ゆっくりと時間のかかる作業に取り掛かれます。
以下のサイト「Lifehacking.jp」は僕が始めてライフハックというものを知ったサイトです。僕なんかよりずっとライフハックを専門に書いてありますので、興味を持った方はこちらをおすすめします。すでにたくさんの人がフィード購読しています。
Lifehacking.jp
http://lifehacking.jp/
Web2.0という言葉がたくさんの人に使われ、バズワードとして世に広まりました。Web2.0は日本では「もうかる」「ビジネス」という視点からさかんに注目を浴びましたが、僕なりの結論はWeb2.0は「もうからない」ということにつきます。Web2.0の代表的な会社としてAmazon、Google、Appleが挙げられます。Amazonは黒字に転換するまでかなりの資金投下を続けてようやくまともな利益が上がるようになりました。Googleは初期のまったく収益モデルのない状態から一転して広告ビジネスを軸にして今では巨万の富を得ています。Appleは、Windowsに押されて、過去の会社になろうとしていたところを、iPod、iTunesの成功で経営を良好にしました。Web2.0を実践するにはかなりの資金・体力・技術が必要です。中小企業がWeb2.0的なサービスを展開するのは至難の技です。
僕の考えるWeb2.0とは次のようなものです。
(技術的側面)
- 機械(プログラム)にできることは全部機械(プログラム)にやらせて、本当に人間が関わらなければならないことだけ人間が作業をする
- 増え続ける膨大なデータベース(ページ運営者とページ閲覧者・プログラムの三者がデータベースのデータを増やしていく)
- 人間(サイト運営者とユーザー)がほしい情報をデータベースから整理された形でアウトプットする(検索・リコメンド・SNS・ショッピング・アクセス解析・API)
(ユーザー的(サイト閲覧者的)側面)
- いつでもほしい情報(商品・仲間)がそのサイトにある
- そのサイトを使えば使うほど便利になる
- そのサイトに愛着を持つようになる
(ビジネス的(サイト運営者的)側面)
- 誰が何を欲してサイトに訪れているのかが自動的に記録されていく(データベースが企業資産となる)
- 知らせたい情報をいつでもユーザーに知らせることができる
- ユーザーと直接コミュニケーション(情報交換・売買)できる
Web2.0という言葉の定義の際によくいわれることですが、以上のことはインターネットが始まったころに、「ネットの特性を考えれば、こういうものが理想的」と言われてきたことです。Amazon、Google、Appleはかなりのエネルギーを使ってWeb2.0的なビジネスを成功させました。そして、それほどエネルギーのない中小企業は、この3つのIT大手からおこぼれ(API・サービス)を利用することで細々と利益を得てきました。
それほどエネルギーのない中小企業や個人ががわずかにWeb2.0的なサービスを展開するとすれば「ブログ」しかありませんでした。しかし、ヒントはこの「ブログ」にあると思います。Web2.0的なことを中小企業が行うためには、独自のシステムを独自の資金投下で実現するのではなく、すでにあるオープンソースのウェブアプリケーションまたは格安のウェブサービスを利用する必要があります。いわば「使いまわしされるウェブアプリケーション」が重要なキーになるのです。
明治三十一年七月十八日(旧五月三十六日夜)福岡県八女郡上廣川村千六百四十五番地ニ生ル
当時家族乃年齢
祖父 加来源平 六十三才
祖〇 ヒサ 六十才
父 源太 三十五才
母 マツ 二十七才
兄 源次郎 四才
祖先ハ建武年間以前京都山城五條防門ニ住シ刀剣鍛冶トシテ初代信國形部左エ門吉政ト名銘セリ我ハ是ヨリ十七代ノ孫ナリ我不幸ニシテ生後六ヶ月後に父ヲ失フ時父は三十六才我ハ二才ナリ其頃ヨリ鍛冶業を廃シ商業ヰ営ム次ニ母三十三ニテ又亡ス我六才ナリ時ハ明治二十六年旧十二月二十一日其ヨリ祖父母ノ愛育ヲ受七才ニテ村ノ小学校ニ入学其頃ヨリ祖父母ノ〇伝を成シ八才ノ頃ヨリハ朝夕ノ炊〇〇成シ則〇商業の〇〇ヲナス又祖父十六才ニテ亡ス我十三才ナリ時ハ明治三十三年旧十一月二十一日其時祖父ノ死去ノ報ニ依リ長崎県南松浦郡五嶋富江ニ嫁セシ祖父ノ娘コノ当時四十二才乃コノ娘オイヱ当時五才ナル者ヲ同伴シ来ル(コノハ我ノ叔母)(父ノ妹)其時我等幼〇又祖母老人ナル故我等ヲ見放難〇長崎ニ連行〇〇シ翌年(三十四年)二月十五日叔母ニ連ラレ一先キニ出立セリ当時叔母ノ云ウ将来ハ何カ職業以テ生活ノ道ヲ立ザレバト我オ時代的ノ洋服業ヲ修得セシメント思考シケレバ掛ル田舎ニテハ修得セシメ難ト長崎ニ連行シ由縁ナリ今思フニ叔母ノ先見有リシニ深ク感謝ノ意ヲ表セス愈々長崎市小曽根町二十一番地泉田ワカ商店ニ住込ム同家ハ叔母ノ極懇意ナル間柄ニテ〇〇易リ叔母と共ニ同居ヰ得タリ当家は洋服業オ外ニ洋服雑貨及洋酒其他種々ノ高価ヲ商ヱリ又外国船ニ売買商モナセリ其為メ洋服類ハ主トシテ既成品ヲ作レリ当時ノ同志ハ男四人女五人ナリ当家全休ノ人員ハ四十人余居タリ女主人トシテハ中々大〇ナル人ナリ同年四月ニ祖母(林義太氏)祖母ノ孫此ノ孫ハ父ノ姉ノ娘〇ヲトト云フノ主人に伴レ長崎二来ル故ニ叔母親子三人ニテ同市大浦町ニ転居セリ其レヨリ又六月ニハ兄長崎二来ル(兄ハ家ノ趾始末ノ為メ後レタリ)我ト共々当分泉田ニ手〇トシテ同居シタリ明治三十五年三月兄ハ三菱造船〇ニ採用サレシ故祖母等ト同居シ通勤セリ明治二十六年我眼病ニ懸リシ時泉田ヨリ我ヰ養子ニ〇望サレタリ然シテ養生一切ヲ引受ルト言シモ家族ノ者之ヲ謝絶シタリ明治三十七年不幸ニシテ泉田家没落シタリ理由ハ同店ハ主トシテ露国船ニ売買業目的トシタル為三十八年日露開戦ト成リシ為没落ノ原因ト也其為メ折リ角洋服業ノ志ヲ継グ為メ明治三十七年十二月二十二日同市出来鍛冶屋町十三番地鶴田洋服店ニテ住〇ム〇三十八年十一月十六日兄長崎ニ於テ死去ス当時家族ハ同市浪々平町ニ居住セリ時ニ兄ハ二十一才我ハ十八才遺骨ヲ浪々東ノ行動墓地機仮埋葬セリ発病ハ五月ヨリト思フ明治四十一年新〇〇鶴田家ニ於テ洋服見習ヲ修得セリ同時ニ脚気病ニ懸重患之為メ八女郡舟小屋鑛泉湯場ニ転地療養ノ為来ル其時丸五旅館ニ三週間滞在セリ其レヨリ故郷八女郡上廣川ノ樋口豊吉氏宅ニテ養生セリ(今ハ夫婦共故人トナル)同年十月六日樋口氏妻及娘ヲ同伴長崎ニ帰ル同年十二月二十八日祖母死亡セリ歳八十一才我二十一才其時叔母ハ病中ナリ其レヨリ十二月三十一日祖母ノ遺骨及兄ノ遺骨ヲ携エ久留米寺町本泰寺ニテ読経頼ミ当寺ニ一泊セリ(夜中兄ノ遺骨ヲ墓地ニ掘出シニ行シ時ハ随分気味悪カリシ)久留米ニ遺骨持来リシ時同市通町五丁目ニテ〇ノ却商成セル渡辺義作氏母(祖母ノ姉)及同通リ町二丁目古着新衣類商ヲ成セル三池〇〇氏妻(義作氏妹)二人同伴本泰寺ニ来リ弔詞ヲ延ベ哀ム時ニ祖母姉伯母八十三才翌明治四十二年一月元旦又遺骨携ヘ八女郡上廣川村樋口豊吉氏宅ニ着ク尤モ樋口氏モ祖母ノ死ノ電報二接シ直ニ長崎ニ来リ種々我ノ力トナレリ〇〇〇又渡辺義作氏ハ明治四十二年五月ニ死去セラル義作氏ニ一人息アリ義吉ト呼ベリ我ト同年明治四十三年五月義作氏ノ母死去ス(祖母ノ姉)時ニ歳八十五才義吉氏又大正七年岡山県笠岡ニテ死亡彼三人娘有名ヲハマ子ト呼ベリ生死不明若居レバ目下四十二才位義吉氏ノ妻は再縁セシ由斯シテ渡辺家ハ絶タリ明治四十二年一月八日長崎ニ帰ル叔母ト同居シ前ノ鶴田〇店ニ勤ム叔母同年二月五日死去ス其時電報ニ依リ直ニ五嶋ヨリ叔母ノ〇栄太郎氏及同氏従弟須賀何某二人ニテ長崎ニ来ル其節叔母ノ遺骨ニ付テ種々問題起リシガ結局五嶋ニ持チ行事ニ成リタリ其時叔母娘オイヱヲ伴イ栄太郎氏五嶋ニ帰ル我ハ久留米ニ帰ラント家ノ趾始末中五嶋ヨリ電報来リ遺骨持来セヨノ電文ニテ直々叔母ノ遺骨携ヘ五嶋ニ行キタリ其時波止場ニハ多数ノ出仰人有リタリ其レヨリ盛大ニ葬式ヲ挙行セラル一週間余リ滞在ノ後長崎ニ帰リ家ノ始末ヲ終リ荷物ノ都合ニテ舟便ニテ長崎ヨリ久留米ニ来ル直々寺町本泰寺ニ至ル(実ハ此時佛門ニ入ラント志タリ)其時ノ住職ハ吉塚通栄氏同氏ノ世話ニテ当分同市通リ町九丁目橋本洋服店ニ寺ヨリ通勤セリ其頃小笠原ヨリ客僧トシテ池快日憩ト言人本泰寺ニ来ラレタリ其後我ニ小笠原行ヲ勤メラレ我又行決心シタリ然ルニ旅費ノ都合ニテ出来不其時愈々佛門ニ入ル事ヲ断念シタリ其ヨリ洋服業ニ専念シ橋本家ニ同居シ勤メタリ然ルニ当時橋本家徒弟七人有リテ兎角面白カラズ故有ル夜中一時頃主人ヲ起シ暇ヲ願シ〇許サレズ七人ノ者共ハ己ガ徒弟ナルガ故ニ自分ノ養成行届ザル事ヲ我ニ謝罪サレシ故我又其志ニ感鳴シ止ル事ニ成リシモ相変ラズ蔭ニテ兎ヤ角申故密ニ長崎ニ行タリ然シテ長崎ヨリ委細ヲ手紙ニテ申送リシ〇折返電報ニテ帰米スル様申来リシ故己得不久留米ニ引替種々談合ノ結果漸ヤク長崎ニ居ル事ヲ許サレ又長崎ニ引替シタリ其後半年余リシテ再ビ久留米ヨリ帰店ノ報有リシ故長崎ノ師ニ暇ヲ得テ久留米ニ帰ル直ニ主人ノ命ニテ暫〃熊本ニ遊ベト其内店ノ都合ヲ付迎ニ来ルト此〇ハ橋本氏ノ東京ニテ徒弟兄弟ニテ熊本市ニ於ケル有名ナル洋服店泉増太郎氏此内ニ職長トシテ勤務サレル人ニテ増見辰次郎氏宅ニ住居シ時々泉氏ノ工場ニ見学スルヤウ他ニ遊ブ等シテ凡二ヶ月余リ遊ビタリ其レヨリ久留米ヨリ帰店ノ状来タリシ故直ニ帰米ス明治四十二年十二月我病ヲ得同市田町尾関病院ニ入院セリ其時ハ(ルイレイ)切開手術ヲ受タリ其時二丁目三池氏妻(五丁目前記伯母娘)病院ニ見舞シ時泣タリト云フ又院長ノ妹モ手〇ニ来リ泣レシ由後ニテ看護婦ヨリ〇タリ翌四十三年三月退院セリ明治四十三年三月主人ノ親ノ従弟ニテ僧呂有りタリ名ハ白旗海辨和尚ト云是ノ養女シナト云フ者ヲ伴ヒ橋本ニ見習トシテ来ル歳十六才実父ハ糟屋郡勢門村字と庄桜木竹吉氏ノ長女ナリ都合ニ依リ生後一ヶ年足ラズシテ前記白旗氏ニ養ワル当時白旗氏ハ糟屋郡勢門村尾仲ノ見性寺ノ住職タリ同氏ノ妻女ハ福岡市生田是孝氏ノ妹此人和裁ニ長ケ〇リノ子弟ニ師範シ内助ノ〇厚カリシ由寺塔ハ福岡市簀子町円應寺ニ有リ生田氏ノ住居ハ箱崎町ニ有リト〇シガ詳ナラズ我祖先ノ墓モ〇〇町安国寺ニ有リ之ハ〇カ六七代ノ人ト思フ明治四十三年五月白旗氏妻病危篤ノメシナ直ニ尾仲ニ帰ル此時養母死亡シタリ其後和尚ハ糸嶋郡北崎村唐泊ニ移住シタリ同時ニシナモ同伴セリ明治四十四年明治大帝行幸ノ大演習久留米ニ於テ挙行セラルニ当リ洋服業モ盛ナリ其為メ十月十日ヨリ十四日迄不眠不休ニテ大活躍シタリ此年主人四十二ノ厄晴ナリ我ハ二十四才明治四十五年二月再ビシナ橋本家ニ来ル明治四十五年八月一日大正ト改元セラレタリ大正二年五月橋本ノ進メニ依リシナト結婚ス当時我ハ二十六才シナハ二十歳也当時橋本ノ本家同市通リ町十丁目ニ橋本氏ノ両親ノ元ニ居住セリ大正三年六月同市寺町ニ於テ愈々新家庭ヲ作ル同時ニ和尚モ同居セリ大正四年十月長女智恵子出生ス大正五年一月橋本ニ暇ヲ願イ同年一月十五日ニ福岡市渡辺通リ五丁目青柳房吉氏宅ニ一時ノ住居ト定メ開業セリ大正五年福岡ニ於テ大演習挙行此時大正天皇行幸遊サル此頃ヨリ桜木ノ叔母ノ息糟屋郡志免村大字吉原丸山猪之助氏ノ助力を得タリ大正六年現在ノ〇〇タリ当時ハ清水米吉氏ノ貸家ナリ大正六年十一月長男義一出生ス大正七年福岡県立盲唖学校ニ洋服部ノ部長トシテ嘱託セラル手当三十円大正八年一月本職トシテ勤務スル事ニナリ手当金八十円同年五月退職ス理由ハ同校ノ主事ト意見ノ相違ヨリ五月ヨリ家業ニ励む此時福岡県立高等女学校ノ服装改良ニ当リ当時ノ教諭山田善三氏ノ指導ニテ研究シ漸ヤク完製シタリ大正九年三月時ノ皇后陛下清西下有セラレ福岡県立女学校ニモ行幸遊サレタリ其時全生徒ノ服装ノ一置セルニ御心ヲ留ラレ種々大森校長ニ御下向相成リシ由大森校長又種々ノ点々付御説明申上シ為非常ニ御褒ニ相成シ由此事早速各新聞ニ報導サレシ故県下県外ヨリ注文来ル遠キハ朝鮮北海道富山県ナドヨリ申来ル何分遠方故是ニハ見本ヲ送リタリ其頃ハ凡二十五校余リノ用達ヲ蒙リタリ大正八年九月二男羊二朗出生大正十年四月三男康三出生是ハ生後七十日余ニシテ死亡セリ十二年七月七日四男孝信出生大正十二年現在ノ厠ヲ清水米吉氏ニ相談シ譲受又横ノ空地ヲ(〇〇)渡辺興三郎氏ニ相談シ譲受此厠ニ楷健ヲ健筑シ是ニ二軒ニ分テ貸家トシタリ大正十二年夏服ヨリ女子ノ服装ヲセーラー型ニ改良セリ大正十五年七月二十五日二女日出子出生此年十二月二十六日昭和元年ト改元セラタリ昭和三年三女貞子出生昭和五年綾子出生昭和六年四月中等購買組合創立セラル此故県下中等学校制服ヲ此購買組合ニテ取扱フ事トナリタリ其時ノ県知事は松平学氏学務部長は猪股氏学務課長ハ廣瀬英二氏購買部主任ハ山田善三氏ナリ製産工場ハ我店ト下名嶋町大熊憲次郎氏ノ工場ト二ヶ所ナリ昭和六年十一月頃ヨリ妻シナ病気ニ掛リ大学病院ニ同月二十六日入院セリ病名は胃癌ト診断サレタリ十二月十日後藤外科ニテ手術ヲ受タリ其結果悪リ又十六日夜半(一時頃)医員看護婦等ヲ臨時招集シ再ビ切開手術ヲ受タリ其レニテモ結果悪キ為メ大阪ニ居ル妻ノ叔父(戸籍〇兄ナリ)桜木勇吉医学博士ニ打電セリ直ニ来福見舞タリ其折リ又後藤部長ト立会イ又々第三回ノ手術ヲ成ス事ト成リ又呼嗚本人苦如何程カ有ラント密ニ落涙セリ其結果叔父ノ云ウ全快ハ覚束無シト言レタリ若シ幸ニ全快セバ枯木ニ花ト言レタリ呼嗚何タル無常ゾ如何ニ大病ナリシカヲ思ヱリ然其後良好ニ向イタル故本人ハ非常ニ喜ビ居タリ其時主事医ハ高橋ト言タリ此者十二月ニ十八日休暇ニテ帰郷セリ其後ヲ古森某ト言ヘル人後ヲ引受タリ同氏ノ云ク全快ハ覚〃〇持ト断言シ又親切ニ手当ヲ施セル故本人ハ〇〇皆々再生ノ思キナセリ然ルニ前ノ主事医高橋昭和七年一月六日午後一時病院ニ帰リタリ然シテ自分の留守中ノ結果モ報告モ〇ズ診察シ大大変結果好キ故早速最後ノ手術ヲ成スト言ヘリ(〇四週日手術)午後ノ四時其為ノ輸血ヲナシタリ其レヨリ見ル見ル客体変リ遂ニ一月七日午前六時永眠シタリ当時日出子七才貞子五才綾子三才ニ成リシ事〇成リ同年三月智恵子筑紫高女ヲ卒ス同四月八日義一及羊二朗福岡商業学校ニ入学セリ孝信ハ小学三年生昭和七年西ベ利亜戦争始リ福岡聯隊ヨリモ出征シタリ皆ヲ慰メル心積ニテ肩ニ貞子ヲ負ヒ胸ニ綾子ヲ抱キ手ニ日出子ヲ引キ天神町ニ至リ見物セリ此時余リハ感慨無量ニテ哀シカリタリ昭和八年五月糟屋郡多々良村土井当時西戸崎住居因幡源作氏ノ勤メニ依リ同郡香椎町下原秦嘉七氏ノ三女チカト結婚シタリ昭和九年九月三日綾子死亡ス時五才昭和十年三月義一福商ヲ卒業直ニ三菱鉱業鯰田炭鉱ニ入社ス同年四月一日貞子警固小学校ニ入学昭和十一年八月二十五日貞子死亡セリ時九才昭和十二年三月羊二朗福商卒業直ニ神戸是則運送店ニ就職セリ昭和十二年七月七日日支事変起ル昭和十二年十月智恵子大阪吹田樋口正彦ト結婚セリ(後正彦ハ死亡)昭和十三年三月羊二朗急病ス其時幸ニ神戸〇影町ニ居レシ郡信二氏夫妻ニ助ケラレ手厚キ介抱ヲ受タリ其後帰宅ス(郡氏ハシナノ叔母ノ姪ナリ)昭和十三年五月義一應招サル福岡聯隊ニ入隊同年七月智恵子離縁トナル昭和十四年一月六日智恵子東京洋裁学院ニ行リチカ同伴ス我一月七日病気ニテ〇〇病院ニ入院セリ但約二週間後退院同年義一北支ニ出征セリ昭和十五年一月十日羊二郎現役ニテ朝鮮平城ニ入営此時門司迄見送ル(ページ右上部記載:十六年三月孝信福商卒業四月東京拓殖大学ニ入学)同年十月幹部候補生トシテ豊橋入隊セリ此節家伝ノ宝刀に持余シ豊橋ニテ渡セリ昭和十六年十一月義一帰還セリ同十七年三月中等学校制服有限会社設立社長山田善之氏同時ニ制服ノ裁断ヲ県共同ト我家ニテ行フ昭和十七年五月十日我大病ニ懸リ〇〇病院ニ入院セリ日々四十度以上ノ熱一週間余続リ病名ハ急性肺炎ナリ此時ハ愈参ルト思ヱリ同年七月十日退院同日下原ノ養父病危篤ノ報有リ其夜中自働車ニテチカ及姉妹三人下原ニ急行セリ我ハ病中ニテ行カズ父ハ遂ニ死亡セリ(十一日)同年九月義一三菱ヲ退社セリ昭和十八年四月義一大博被服有限会社設ス当時ノ社長森島菊太郎専務取締役義一幹事阿部豊次郎氏理事森本氏此ノ四人ニテ設立セリ昭和十八年孝信学徒隊ニテ久留米ニ入隊幹部候補ニ合格十八年七月羊二郎当時中尉中隊長トシテ愈々南支ニ出征セリ其時家伝ノ宝刀及ビ一切ノ私物態々当地在住ノ小松氏ニ託シ送リ戻タリ其頃京城ノ師團ニ在リタリ余程宝刀ニ付テハ考ヘシト思フ昭和十九年十一月三日義一朝倉郡上秋月村日向石谷口一郎氏二女栄ト結婚同八日再度應招久留米ニ入隊同年十二月三十日満州ニ出征セリ昭和二十年一月一日孝信東京参謀本部ニ行ク同年六月十九日福岡空襲サレタリ同年八月十五日休戦十七日智恵子日出子等八女郡上廣川野中弘幹氏宅ニ疎開セリ当時店員皆帰郷セリ家ニハ我トチカ二人ニテ守居タリ其後全ク案全ニナシリ故皆々帰店セリ昭和二十一年五月頃智恵子等八女郡ヨリ帰ル昭和二十一年七月十四日羊二朗ビルマニ於テ戦死セル公報入ル昭和二十一年九月二十八日義一満州ヨリ帰還セリ其時我及栄智恵子ト共南風崎ニ出迎ユ其時佐世保堺木ノ井上氏ノ宅ニ一泊シ翌日ハ井上氏モ種々ノ品取揃ヘ再ビ南風崎ニ至ル昭二十二年三月十四日羊二朗ノ遺骨来ル之ニ依葬式ヲ成セリ但シ遺骨ト云モ木札ノミ同年十一月再ビ羊二朗ノ遺骨トシテ原地ヨリ来ハ多分本物ナルヤトモ思フ何モ久留米本泰寺祖先ノ墓地ニ埋葬シタリ昭和二十二年四月下旬ヨリ(ページ左上部記載:昭和二十二年四月ヨリチカ病気)チカ病気ニ懸ル昭和二十二年八月ヨリ病気昭和二十三年六月二十二日チカ死亡此間未ダ喜怒哀楽種々ナルモ省略ス
昭和二十三年十月二十二日
佐賀県小城郡南山村古湯温泉
扇屋旅館一室ニテ書ス
六十一才
加来信太手記原稿画像ダウンロード(原稿中央の半分に切れた印字により「福岡県洋服商業組合中制服部」の原稿用紙に書かれたものと推測される)